第三五話 敵の敵は、味方
ジェレマイアと名乗った治癒師アカデミーの長が来訪した意図について、リョーコは思いを巡らせた。
自警団長のリカルドさんが言ってたっけ。
この国では、治癒師は例外なく、治癒師アカデミーに所属する義務があるのだと。
つまりは管理の必要があるほどに、王国が治癒魔法を重要視しているということだ。
それはあるいは、危険視といってよいのかもしれない。
それはそうよね。
色々すごいこと、できちゃうんだもの。
フリッツは、背を伸ばして座りなおした。
「それで。僕は、王国からどのような処分を受けることになるのでしょうか」
ジェレマイアは困ったように、大仰に手を振る。
「処分などと。私は、そのようなことのために君に会いに来たのではありません。今からでもまったく遅くはない、君に治癒師アカデミーの一員となっていただきたいのです」
やっぱりか、とリョーコは心の中でうなずいた。
話の流れから言えば、予想通り。
この理事長は、フリッツ君を勧誘するためにここに来ている。
数は、すなわちパワーだ。
集団を構成する人間は、一人でも多い方がいいに決まっている。
フリッツは、言葉を選びながら答えた。
「僕は、組織で働くことに向いていない人間です。規律や法を遵守することに慣れていない、といってもいい。きっと、あなた方の足を引っ張ることになります」
遠回しなフリッツの拒絶にも、ジェレマイアは気を悪くすることもなく説得を重ねる。
「君が今までアカデミーへの所属を拒んでいた理由については分かりませんし、無理に問おうとも思いません。ただし、アカデミーが治癒師の自由と尊厳を束縛する組織であると君が考えているならば、それは誤解だと言わせていただきます。我々治癒師は、ごく少数だ。ゆえに、団結してこの世界をより善いものにしたい。その理念に偽りはありません」
この理事長、なかなかひかない。
だがこれは、かなりの温情であるとも取れる。
アカデミーへの所属拒否は、国法に照らせばそれすなわち違法であり、即座に逮捕連行されてもおかしくはないのだから。
リョーコは横目でフリッツをちらりと見た。
彼、どうするか。
「……実を言えば、僕はこれまでに何度も記憶喪失を繰り返しているようなのです。その原因については、よくわかりませんが。だから、自分が治癒師の能力を持っていることも、最近思い出したばかりなんです」
ジェレマイアは、驚いたように顔を上げた。
フリッツはすっかり冷めた紅茶の入ったカップを手の中でもてあそびながら、ぽつりぽつりと話し続ける。
「もしこれが病気だとすれば、いつまた記憶を失うか知れたものじゃありません。だから、アカデミーに所属して学んだとしても、それはきっと無駄になってしまうと思うんです」
フリッツは憂鬱そうに、カップ越しの窓の外の景色を見ていた。
行き交う人々の流れは、絶えることがない。
「それでも、たとえ一時的だとしても、誰かの役に立つのなら治癒魔法を学ぶのも悪くない、と考えたこともありました。しかしそう思うたびに、むなしさが募るばかりなんです」
隣で聞いていたリョーコの胸の奥が、ちくりと傷んだ。
肝心なところを隠してはいるけれど。
フリッツ君は、ぎりぎりのところまで真実を語ったのだろう。
そして、彼の言うむなしさというのは、決してこの場限りの嘘ではない。
リョーコは、悪魔バフォメットに目を切られた少女、コレットを一緒に治療したときの、フリッツの言葉を思い出していた。
別にアカデミーへ行かなくても、リョーコさんが教えてくれるし。
いつ忘れるか分からないのは申し訳ないですけれど、この治療が終わったら、また色んなこと教えてください。
そんな風に、寂し気に。
フリッツ君は私に、また教えてください、と言ってくれた。
もちろん、何でも教えてあげる。
そして、絶対に忘れさせないわ。
ジェレマイアは両手をこすり合わせながら、無理やり自分を納得させるように、小さく数度うなずいた。
「……そうでしたか。それは、何とも悲劇的な事情です。これ以上記憶喪失なんて起きないかも知れませんよ、などと無責任な慰めを言う権利は、私にはありません」
「お役に立てず申し訳ありません、理事長」
深々と頭を下げるフリッツを、ジェレマイアは慌てて押しとどめた。
「待って下さい、フリッツ君。それではせめて、君を私の個人的な管轄下に置かせてもらう、という体裁だけは取らせていただけませんか?」
フリッツは、怪訝な表情で顔を上げた。
「それは、どういうことですか」
ジェレマイアは頭をかきながら、大きなため息をついた。
「嘆かわしいことですが、治癒師の中には、不必要な治療を行って営利をむさぼるものや、未熟な技術でもって不十分、あるいは不適切な治療を行う者もいるのです。そういった者を野放しにするなどけしからん、という国民の批判が存在していることについては、ご理解いただけるかと」
「わかります、理事長」
「ですから形だけでも、すべての治癒師はアカデミーが責任を持って管理しています、というアピールが必要なのです。そしてそのアピールは、国民にだけではなく、王国に向けても行っておかねばなりません。我々治癒師の権利を、王国から独立して守るために」
どうやらこの辺が妥協点のようね。
まあ、許容範囲ってところかな。
「政治って、難しいですわね。私、理事長さんに同情しちゃうわ」
リョーコの横やりに、ジェレマイアは救われたようにほほ笑んだ。
「まったく。理事長など引き受けるものではないですよ、お嬢さん」
そう言って、フリッツの方へと向き直る。
「フリッツ君、君は今までの通りで構いません。これからの君の治癒活動は、私に公認されたものとして処理させていただきます。そして私のことは、単なる仕事上の個人的なアドバイザーと認識していただいて構いません。現在のところ私としては、君の個人的な事情と状況が分かっただけで十分ですから」
ジェレマイアは立ち上がると、右手を差し出した。
「何か困ったことがあれば、遠慮なく連絡してください。この世界をより善きものにしたい。この認識が共有されている限り、私は君の味方です」
フリッツも立ち上がると、ジェレマイアと握手を交わした。
「ご高配、感謝いたします」
話がひと段落したところで、ジェレマイアはベーカリーの店内をきょろきょろと見まわした。
「ところで、これから朝食をとってからアカデミーに登庁しようと思うのですが。こちらのおすすめのパンを、教えていただけませんか?」
「ええ、喜んで」
リョーコは笑って立ち上がると、エプロンを取りにカウンターへと駆けて行った。
その日の昼休み。
フリッツはテーブルを拭いていた手を止めて、リョーコを振り返った。
「リョーコさん。ジェレマイア理事長のこと、どう思いましたか?」
バンダナを外しながら、リョーコは今朝の一連の会話を思い出してみる。
「うーん、難しいわね。取り立てて話に裏もなさそうだし、君に対する処置も寛大だったわ。これ以上はないっていうくらい」
フリッツ君を仲間に引き入れたいというのは、まず間違いなさそうだった。
なぜか、私との会話はあえて避けていたような気がするが。
「そう、なんですけれど」
顎に手を当てて考え込むフリッツ。
「何か、引っかかるの?」
フリッツは顔を上げてリョーコを見た。
「あの人、僕の事を『味方』っていいましたよね」
リョーコはもちろん覚えている。
「うん。この世界を善いものにするという理念が共有されている限り味方だ、みたいなこと言ってたけれど。それがどうかしたの?」
「『味方』という言葉を使う人は、当然『敵』を想定しています」
「あ。そうか」
確かに。
味方が必要ということは、協力して対抗しなければならない敵がいるということだ。
「でも、理事長さんの『敵』って、いったい誰よ。だいたい、治癒師アカデミーって攻撃的な組織じゃないし、営利組織でもないんでしょ。敵を作るようには思えないけれど」
リョーコは自分になぞらえて考えてみる。
しかし、治癒師を敵をみなす立場の組織って、ちょっと想像できない。
私の元の世界で言えば、ドクターと戦うようなもんでしょ。
メリット、皆無じゃないのかしら。
「アカデミーではなく、理事長自身の個人的な敵なのかも知れませんね。いずれにしても、彼が誰かと対立しているのは、間違いありません」
それが誰なのかは見当もつきませんけれど、とフリッツは付け足した。
そうして彼は、エプロンを外してふうっと息をつく。
「というわけで、リョーコさん。今のところは、ジェレマイア理事長とは少し距離を置くのが賢明だと思いますが」
「うん。フリッツ君の言う通りだね」
にこにこと笑うリョーコ。
その笑いに何か含むものを感じたフリッツは、うっと苦い顔をする。
「その怪しい笑顔。リョーコさん、僕の事を、誰とでも距離を置いているくせにって思ってますよね?」
リョーコはご名答というように人差し指を立てた。
「あら、意外に自分を客観的に認識できているじゃない。まあ、私も人のこと言えないけれどねー」
「不器用なのは、お互いさまって訳ですか」
リョーコが、ずずっとフリッツに近づく。
「私的には、君との距離を詰めるのにやぶさかじゃないわよ」
フリッツは、またかというように呆れた顔をして肩をすくめた。
「リョーコさん、言うことが大胆な割には、行動につながらないんですよね。一度経験してみないと成長しないんじゃないですか?」
顔が赤くなるのを止められない自分を、リョーコは我ながら情けなく思った。
ここはお姉さんとして、反撃しなきゃ。
「前から聞きたかったんだけれど、そういうフリッツ君はどうなのよ。そりゃあ七百年も生きているんだから、女の子と付き合ったことくらいあるのかもしれないけれど。でも、一年前より以前の記憶ないんでしょ?」
フリッツは腕を組むと、リョーコの顔を挑発的にのぞき込んだ。
「十七歳までの記憶はありますからね。それまでに僕があれやこれやと経験済みだったとしたら、どうですか?」
リョーコが息をのむ。
「え、嘘。そんなバラ色の少年時代を送っていたの。このリア充、もう死んでも悔いはないわよね」
「だからもう何度も死んでいるんですってば。まあ僕の経験なんて、ご想像にお任せしますということで」
面倒くさそうにあしらうフリッツに、激高したリョーコが抗議する。
「今までずっと私が正直に話してきたっていうのに、君だけ秘密なんて納得いかない!」
「話してない話してない。第一リョーコさん、話すような恋愛経験なんか持っていないじゃないですか」
カウンターの奥から、レイラのあきれたような声が飛んできた。
「ほら、二人とも。明日のパン生地の仕込み、始めるわよ」
「はーい」
「分かりました」
かくして、ベーカリー「トランジット」の午後は過ぎていく。