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第三一話 堕ちていく魔導士

 鉛のように重い空間の中で、今また一柱の悪魔が生まれようとしていた。

 頭から足先までを白い法衣ですっぽりと(まと)ったその人物は、石台の上に横たえられた若い女性の額に手を当てると、最後の意識を集中する。

 何の前触れもなく、女の目が静かに開いた。


 法衣の中からつぶやき漏れた男性の声が、周囲の岩壁に深く反響する。


「ようやく目が覚めましたか、ヴォラク。あなたは、一年以上も前から眠っていたのですよ」


 女は低い石室の天井を見上げながら、深く息を吐いた。

 彼女の乾いた声帯の周囲で、一年ぶりに空気が振動する。


「……ヴォラクって、私の事? 私の名前は、メリッサ」


「その名は、人間であった自分と共に捨てたはずです。あなた自身で選んだのですよ、私との契約で」


「契約……」


 私が人間をやめた、一年前のあの悪夢。

 いまや悪魔ヴォラクとして息を吹き返したその女性は、濁った意識の中で記憶の断片をまさぐり始めた。






「イアニス、何してるの?」


 栗色の長髪も美しいその若い女性は、慣れ親しんだ背中に声をかけた。

 いきなり後ろから話しかけられた青年が、びくっとして振り返る。


「なんだ、メリッサか。勝手に人の部屋に入るなって、いつも言ってるじゃないか」


 メリッサと呼ばれたその女性は、ぶーと唇を尖らせる。


「何よ、いまさら。小さいころから、お互いの家を行き来して遊んできた仲じゃない」


 イアニスは黒い巻き毛をかき回しながら、やれやれと首を振った。


「いくら幼馴染でも、お互いのプライベートは尊重するべきだろう? それに俺たち、もうお互いに二十四なんだぜ」


「だから、何」


「その、何だ。お互いに、少しは大人にだな」


 メリッサはさもおかしそうに笑った。

 形の良い唇の間からのぞく、白い八重歯が眩しい。


「やあだ、イアニスったら。もしかして、私を意識してんの?」


 いまだ。

 頑張れ、私。


 メリッサはイアニスのそばにしゃがみ込むと、目を細めて微笑した。


「私ね。今まで、イアニス以外の男の子とはなるべく遊ばないようにしてたんだよ。どうしてだか、分かる?」


 イアニスが、喉をごくりと鳴らす。

 メリッサは、イアニスの指に自分の指を絡めた。


「イアニスだって私の事、嫌いじゃないよね? 私、今年で魔導士アカデミーを卒業だよ。そうなれば、宮廷魔導士への道が開ける」


 イアニスは、黒い瞳でメリッサを見つめた。

 その表情に、憧憬と羨望が入り混じる。


「そうだよな。お前は、昔からずばぬけて優秀だった。俺達の、いや、この村全体の誇りだよ」


 メリッサは、目をそらすことなく畳みかけた。


「そんなこと言わないで。わたしが頑張ってきたのは、全部イアニスのためだよ。王宮に仕えることができれば、今の二人の暮らしもうんと楽になるわ。そしたら」


「そしたら?」


 じれったい。

 もう、後には引けない。


「イアニスったら、意地悪ね。これ以上、女性を待たせるつもり?」


 イアニスはしばらくうつむいていたが、やがて決心したように顔を上げた。


「……そうだな。俺だって、君が卒業するのを首を長くして待っていたさ。どうやら、頃合いらしい」


 待ち望んでいた瞬間が、やってきたのか。

 メリッサは、自分の鼓動が頭の中でがんがんと響くのを感じた。


「え! じゃあ、オーケーなの? その、私と、結……」


 イアニスはふいに立ち上がると机の引き出しを開け、何かを取り出した。


 もしかして、指輪?

 イアニスったら、鈍いふりしてそんな準備まで……


 しかし振り向いたイアニスの右手に握られていたものは、メリッサの期待していたものには程遠かった。

 彼は、ククリと呼ばれる弯曲した大型のナイフを、ゆっくりとメリッサの顔面に向けた。






 メリッサは引きつった笑いを浮かべた。

 そうするより他になかった。


「ちょっと、イアニス。何の冗談?」


「冗談? 俺は本気さ。さっきの君の言葉が、本気だったのと同様にね」


「いったいどうしちゃったのよ。あなた、本物のイアニスなの?」


 これは何かの間違いだ。

 魔物がイアニスに化けている、という方が、はるかに納得がいく。

 というか、お願い。

 そうであって。

 

「本物、か。本物の俺は、元の世界に置いてきたようなもんかな。だがな、ユークロニアに対する俺の忠誠心は、まぎれもなく本物だよ」


 メリッサは恐慌に陥った。

 彼が何を言っているのか、分からないけれど。

 取り合えず、拘束して話を聞かなければ。


 メリッサは数歩下がると、左手の指で素早く印を結んだ。


れ、樹縛の森をまといて……」


 メリッサの詠唱は、そこで途切れた。

 彼女の両手首が、鮮血を吹く。

 イアニスのククリが一動作のみで彼女の手首の腱を切断し、詠唱動作を中断させていた。


「あ……」


 メリッサは信じられなかった。


 それこそ物心ついた時から、一緒に遊んできて。

 住んでいる家も隣で、お互いの両親同士も仲が良くて。

 いつかは一緒になるものだと、自他ともに疑わなかった。

 

 そのイアニスが、私を切った。


 痛い。

 ただ、痛い。


「この距離なら、魔法よりナイフの方が絶対的に早い。アカデミーで戦闘訓練、あっただろう? 魔導士が戦士に勝利する最大のポイントは、相手に魔導士だと悟らせないことさ」


 メリッサが、地面に両ひざをつく。


「な、んで」


「俺には任務がある。俺の元いた世界、ユークロニアが勝利を得るための、重大な任務がな。この世界が俺たちの世界より優位に立っている条件、すなわち魔法を持ち帰る。俺はそのためだけに、この世界に転生してきたんだからな」


 何なの、これ。

 私の知らないところで、何が起きているの。


「転……生。何を言ってるの。イアニス、あなた正気?」


「大マジさ、メリッサ。お前に俺たちの世界に転生するための遺伝子を埋め込んで、その魔法の能力をユークロニアに持ち帰らせてもらう」


 いでんし。

 その聞いたこともない言葉をイアニスが使いこなしていることこそが、彼の言葉が真実である悲しい証拠となっていた。


「転生してきた、って。あなた、小さなころから私と暮らしてきたじゃない。忘れてしまったの?」


 イアニスは、やれやれというように首を振った。


「メリッサ。お前、アカデミーでも飛び切り優秀なのに、予想外の事態には勘が鈍くなるんだな。アドリブに弱いというか。俺はな、赤ん坊に転生した時から、すでに前世の記憶があるんだよ。この世界の親父とお袋には、もちろんひた隠しに隠してきたがな。子供の演技をするのは、それはそれは大変だったよ」


 すべてが、演技。


「嘘」


「お前に魔導士の素質があることを知ったから、俺はお前に近づいた。同い年の、幼馴染としてな。そして、アカデミーでお前が魔法を習得し終わるこの時を、辛抱強く待っていたというわけさ」


「嘘よ!」


 イアニスは立ち上がれないでいるメリッサにゆっくりと近づくと、優しく笑いかけた。

 日常の笑顔から、非日常の言葉が吐き出される。


「お前を俺たちの世界に転生させるのに、別に五体満足である必要はないんだ。究極、脳と心臓さえあればいい。だけどな、メリッサ。せっかく美人に成長するまで俺も我慢したんだ、それなりの任務の報酬っていうやつがあってもいいよな?」


 イアニスの黒い瞳が、凶暴に光る。

 彼はメリッサに近づくと、血に濡れたブラウスの上からその豊満な胸をわしづかみにした。


「やだあっ! やめて、イアニス!」


「なんだよ、さっきはすっかりその気だったのにさ。これ以上待たせるつもり、って言葉、そっくり返させてもらうぜ」


 イアニスはメリッサに覆いかぶさると、彼女の衣服を強引にはぎ取った。

 両手首を切られたメリッサは、抵抗することもままならない。

 イアニスは自分の唇をメリッサに重ねると、舌を口腔にこじ入れる。


 メリッサの頭の中で、何かがはじけた。


 顎をかみ締めたメリッサは、咬みちぎった肉片を地面に吐き出す。

 舌の先端を切断されたイアニスは、絶叫しながら飛びすさった。

 傍らに置いていたククリを右手でつかむと、一跳びでメリッサの眼前に迫る。


 どん。


 メリッサの左腕が肩から切断され、宙に跳ぶ。

 自分の左肩の切断面から噴水のようにまき散らされる赤い鮮血を、メリッサは呆けたように見つめていた。


 転生、だと。

 私の人生を破壊したそれを。

 呪ってやる。

 たたってやる。


 黒い巻毛を振り乱したイアニスは、血走った目でメリッサをにらみつけた。

 血塊を吐き出しながら、ククリを構えなおす。


「メリッサ、お前を殺せないのは残念だがな。幼馴染のよしみだ、他の手足は切断せずにつれて行ってやるぜ」


 もはや顔を上げることもできないメリッサの栗色の髪を乱雑につかんだイアニスは、突然に射るような誰かの視線を感じ、思わず総毛だった。


「お前がイアニスか。異世界転生者だな?」


 背後からかけられた場違いな美しい声に、イアニスは恐る恐る振り向く。


 部屋のドアの向こうには、黒いショートコートを着た美少年が長剣を片手にたたずんでいた。

 その両眼を、炎のように赤く燃やして。

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