第三話 アウトサイダー
「お母さん。リョーコお姉ちゃん、目が覚めたみたいよ!」
耳元で、小さな女の子の声が聞こえる。
その声にこたえるように、階段を上るばたばたという足音が聞こえ、やがで大きな音を立てて扉が開いた。
「リョーコ、大丈夫!?」
若い女性の声が響いてくる。
リョーコはうっすらと目を開けた。
いつもの、自室の天井。
寝台の横に引き寄せられた椅子に座っていた少女が、リョーコのほうに身を乗り出している。
ショートボブの、さらさらの金髪。
少女の青い瞳が、心配そうに彼女をのぞき込んでいた。
「あ、ポリーナちゃん。おはよう」
はあっと大きなため息をつくと、少女は頬を膨らませてリョーコを小突いた。
「おはようじゃないわよ、リョーコお姉ちゃん。ずっと起きなくて、心配したんだから」
ポリーナと呼ばれた少女は、小さな身体に毛布を巻き付け、足元には毛糸の靴下を履いている。
かたわらのサイドテーブルには、とっくに飲み終わって乾ききった紅茶のカップがおかれていた。
そうか。
私が起きるまで、ずっとそばに座っていてくれたんだ。
リョーコは、ベッドの上に起き上った。
下着姿だ。
扉から入ってきた若い女性も、リョーコの顔を心配そうに覗き込むと、ポリーナと同様に安堵の声を漏らした。
「……本当によかった、リョーコ。どこか、痛くない?」
ポリーナの母親、レイラ。
彼女は、リョーコが一年前から住み込んでいるここ、ベーカリー「トランジット」の女店主でもあった。
娘と同じ青い瞳の彼女は、セミロングのきれいな金髪を、今はポニーテールに束ねている。
水色のワンピースの上には、白いエプロンをつけたままだ。
店の階下から、慌てて上がってきたのだろう。
「ごめんなさい、レイラさん。私、どうしてここに?」
レイラはほっと溜息をつくと、腰に手を当ててリョーコを軽くにらんだ。
「覚えてないの? 自警団長のリカルドさんが、街路で気を失っていたあなたを、ここまで連れ帰ってくれたのよ。まったく、どうしてあんな真夜中に外に出たりしたの? 最近、小さな男の子や女の子が夜道で何者かに襲われてるって、噂になってたじゃない」
普段は優しいレイラも、さすがに厳しい表情だ。
リョーコは頭をかきながら、てへへと笑って誤魔化す。
「そうなんだ、今度リカルドさんに会ったら、お礼言っとかないと。でも昨日の夜は寒かったから、見つけてもらえなかったら凍死してたかも。ラッキーだね、私」
「何、お気楽なこと言ってるの。それがね、リカルドさんが言うには、自警団の詰め所にフードをかぶった人がふらりと訪ねてきたんだって」
「ふんふん。それで?」
「むこうの街路にあなた達が倒れてるから、助けてやってくれって言い残して、すぐに去っていったらしいのよね。なんだか、若い男の子だったみたい。それがまた、すごくきれいな声だったとかで」
それはきっと、あの美少年。
いや、本人は否定していたが。
あの吸血鬼に、違いない。
リョーコの頭の中の霧が、少しずつ晴れてくる。
「……ねえ、レイラさん。あなた達ってことは、だれかが私と一緒に倒れてたって事よね。私のそばに、女の子が一緒にいなかった? 銀髪の、ポリーナちゃんくらいの年齢の」
レイラは眉をひそめながらうなずいた。
「ええ。あなた、アンナちゃんって子といっしょに気を失っていたのよ。ポリーナと学校は違うけれど、同じ町内の。でも、彼女の髪の色は、銀じゃなくて栗色なんだけれど」
あれ。
私の見間違いだったかな?
あんなきれいな銀髪、そうそういないと思うんだけれど。
そしてリョーコの脳裏に、赤い瞳と二本の犬歯が鮮明に浮かび上がった。
あの少女は、確かに吸血鬼少年に咬まれたはずだ。
「レイラさん、そのアンナちゃんって子。……その、どうしてる?」
レイラは、きょとんとして首を傾げた。
「どう、って?」
「いや、言いにくいんだけれど。その、命に別状とか、魔物になってたりとか」
レイラはリョーコのかたわらにしゃがみこむと、彼女を安心させるように笑った。
「リョーコ、何か悪い夢でも見たの? アンナちゃん、別にどこにも異常はなかったそうよ。乱暴されたような形跡もなかったって。ただ、どうして夜に一人で外へ出たのか、外で何が起きたのかは、全然覚えていないらしいけれど」
「その女の子、首に傷とか……」
リョーコはそう言いかけて、自分の左腕の傷跡が完全に消えていることに気付いた。
確かに、あの半人半山羊の悪魔に、五本の爪痕をつけられたはずなのだが。
もちろん、何の痛みも感じない。
完全に治っているのか、それとも元から傷などなかったのか。
レイラさんの言う通り、あれは夢だったのかな?
そう無理やり自分を納得させようとしたリョーコは、唇にちくりとした痛みを感じた。
触れてみる。
わずかな傷跡。
ううん。
夢なんかじゃない。
リョーコの心に、ふつふつと怒りが沸き上がった。
あんのやろー。
人の唇、勝手に奪いやがって。
顔を赤らめたリョーコを不思議そうに眺めながら、レイラが尋ねた。
「リョーコ。アンナちゃんがそばにいたことを覚えているのなら、他のことはどう? 夕べ、あの場所で何があったの?」
悪魔。
美少年吸血鬼。
自分でもどこまでが現実か、よくわからないけれど。
とにかく、目の前の二人には心配させたくない。
「あははー。実は私も、ほとんど覚えてなくて。鈴の音が聞こえてふらふらと外に出てみたら、女の子がいるのがちらりと見えて。それですぐに、なんだかくらくらとしちゃって」
しどろもどろに適当な説明をするリョーコ。
話を聞きながら考え込んでいたレイラは首をかしげると、娘の方を振り返った。
「え、鈴の音? ポリーナ、あなた聞こえた?」
ポリーナは金髪を揺らしながら、ぶんぶんと首を左右に振った。
「ううん、何にも。私って寝つき悪い方だから、そんなの聞こえたら、すぐ起きちゃうんだけれどなあ。リョーコお姉ちゃん、やっぱり夢でも見たんじゃない?」
「そうなんだ。二人とも、聞こえなかったんだ……」
私だけに聞こえていた、鈴の音。
あれは確かに、誰かを誘い出すためのものだった。
私じゃなければ、あの女の子を?
レイラはベッドのそばにかがむと、カップに入ったコーンスープをリョーコに手渡した。
「とにかくこれ飲んで。身体、あったまるから」
そして彼女は、わずかにため息をつきながら続けた。
「……私、リョーコがもう帰ってこないんじゃないかって。あなた、一年前に私が森の中で見つけた時も、何も覚えてないって言ってたわよね。あれからずっと記憶が戻ってないし、また記憶を失ってどこかに行ったんじゃないかと」
そうだった。
そういう設定だった。
心配、かけちゃったなあ。
「そうですね。私、記憶喪失の上に夢遊病なんですかねー。自分でも困っちゃうなあ」
あははとリョーコは笑いながら、心の中でレイラに謝っていた。
今度のことも、元の世界のことも。
きちんと、記憶はある。
というより、忘れることができない。
リョーコの長いサーモンピンクの髪を指で優しく整えながら、レイラがつぶやいた。
「リョーコ。昔のことが思い出せないのなら、それはそれでいいわ。だけど、黙ってここからいなくなったりしないで。あなたって、あなただけのものじゃないのよ」
レイラは、リョーコの手をやさしく包んだ。
「私たちの、家族なんだから」
ポリーナも涙目で、黙ってうなずいている。
「……ありがとうございます。病気だったら、いつどうなるか分かりませんけれど、努力してみます」
私は、部外者。
アウトサイダー。
だから、そんなに。
優しくしてくれなくても、いいのに。
ふと窓から外を見たリョーコは、赤く染まりつつある空に驚いた。
「あの、レイラさん。今、もしかして夕方? お店、手伝わなきゃ」
レイラは立ち上がると、にっこりと笑った。
「リョーコがずっと寝てたおかげで、それはそれは忙しかったわよ。大丈夫、夕方からはお得意さんとカフェのお客さんくらいだから。落ち着いたら、ご飯食べに降りてきて。おなか、すいてるでしょ?」
飲み終わったスープのカップを受け取ると、レイラは階下に降りて行った。
残ったポリーナはすぐに去ることもなく、リョーコをただ寂し気に見ていた。
リョーコは寝台から降りると、かがんでポリーナを抱きしめる。
「ごめんね、ポリーナちゃん。大丈夫、私はここにいるから」
彼女の腕の中で、ポリーナはこくんとうなずいた。
もう、戻る場所なんてない。
だけど、前に進む強さも持てない。
そんな自分が、悔しい。