第二五話 契約、命尽きるまで
落ち葉が舞う街道の真ん中で、フリッツは不意に立ち止まった。
両手を、ショートコートのポケットにつっこんだままで。
赤く焼けた空を見上げながら、世間話でもするようにさらっと言う。
「そういうわけです、リョーコさん。僕が何度死んだのかは自分でも分かりませんが、一年前に死んだくらいです、いずれまた戦いで死ぬに決まっています。そうなれば僕の記憶はリセットされて、せっかく教えてもらった治療の知識も、全て無駄になってしまいます」
リョーコも立ち止まると、小さな声で続きを促した。
「それで?」
フリッツの黒い前髪が、夕暮れの風に吹き流される。
どうせ、いつか忘れてしまうのなら。
思い出なんて、最初からないほうがいい。
フリッツは、冷ややかな調子で続けた。
「そういうのって、時間の無駄じゃないですか? 僕は一人で、悪魔を倒すことに集中したい。リョーコさんだって、なにも危険な戦いに首を突っ込まなくても、僕じゃない誰か普通の治癒師に知識を伝えたほうが、より多くの人々の役に立ちます。そうした方が、お互いにとってはるかに有意義な……」
リョーコはふうっと息を吐くと、フリッツに背を向けた。
サーモンピンクの長い髪が、風にあおられ渦を巻く。
思わず目を細めたフリッツに、リョーコの静かな声が聞こえた。
「時間の無駄には、ならないわ」
「え?」
「君は、もう記憶を失うことはないから」
フリッツには、リョーコの言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「私が君を、死なせない」
リョーコは「破瑠那」を背から外すと、左手で強く握った。
「そして、君が不死から救われる治療法を探し出す」
振り向いたリョーコは、満面の笑顔だった。
「私、あなたの主治医だもの。必ず見つけ出してみせるわ、私の命が尽きる前に」
フリッツは呆然とした。
「そんな。どんな操作を受けたか、どんな原理が働いているのか、自分自身にも皆目見当がつかないんですよ。病因も分からないのに、治療なんてできるはずがない」
「自分から治ろうとしない患者は、どんなに優れた治癒師でも治すことはできないわよ。これからも、一緒に頑張りましょ」
リョーコは笑顔のまま、フリッツにピースサインを送った。
馬鹿だ、この人。
大馬鹿だ。
「……どうして、僕にそこまでしてくれるんですか。リョーコさんは、僕の事を誤解している」
憎しみ。復讐。
それこそが、僕が永遠に生き続けるただ一つの理由なのに。
「僕、子供たちを助けてなんかいますけれど、それはあのアドラメレクが言っていたように、ただの偽善なんです。僕は恐らく、これまでに数多くの人間を殺しています」
悪魔と僕に、何の違いもない。
いや、むしろ。
悪魔の殺人に合理的な理由があるならば、僕の方こそが理不尽なバーサーカーだ。
「僕は、僕を改変した奴らを、奴らの同類を、殺したい。そいつらを殺したところで、僕が『不死』から解放されないのは分かっています。だけど、僕は奴らを許せない。やつらは、僕の大切な……」
常の彼とは別人のようにまくしたてるフリッツを、リョーコは両の腕で抱きしめた。
「破瑠那」が、音を立てて地面に落ちる。
リョーコはフリッツの頭を自分の胸に強く押し付け、彼の言葉をさえぎった。
「人を治す力のある君が、人を殺す。ショックじゃないって言ったら嘘になるけれど、きっと昔の君に何かひどいことがあったのよね」
リョーコの腕の中でフリッツは、血がにじむほど唇をかみ締めていた。
「リョーコさん、僕は……」
「理由があれば人を殺していい、とは私は思わない。けれどそんな言葉では、きっと君の魂は救われない。だから」
リョーコはフリッツの顔を両手で引き上げて見つめると、彼の頬に静かにキスをした。
「本当の君を、聞かせて。またいつか、話したくなった時でいいから」
フリッツは思った。
僕は、いつか必ず罰を受けるだろう。
でもどうせ受けるなら、僕は彼女から受けたい。
それがたとえ、最も厳しく残酷な罰だとしても。
「……はい。いつか、必ず。ありがとうございます、リョーコさん」
リョーコはフリッツを抱きしめたまま、目を閉じた。
「気にしないで。私、フリッツ君のためにやってるんじゃないのよ。ぜーんぜん、自分のため。実は私って、自己中なんだよなあ。こんなお姉さんでごめんね」
患者のためになどというのは、医師の傲慢だ。
私は自分のために、フリッツ君を救ってみせる。
フリッツ君を救って、自分の生き方を証明する。
私は弱いけれど、もう逃げたりはしない。
それを教えてくれたのは君だよ、フリッツ君。
秋空を吹く風も、今はその冷たさを減じていた。
リョーコはフリッツからゆっくりと腕をほどくと、「破瑠那」を背負いなおした。
顔がやけに赤いのは、はたして夕焼けのせいなのか。
「手、つないで帰ろ」
リョーコは右手でフリッツの左手をつかむと、指を絡めた。
フリッツは反射的に手を引っ込めようとしたが、リョーコは強くつかんで離さない。
僕は、誰かと共に生きる資格があるのか。
「……離してください」
「だめよ」
間髪入れず返ってきたリョーコの強い返事に、フリッツは観念した。
この主治医に、自分を委ねてみよう。
僕の「不死」を。
僕の「憎しみ」を。
治療すると言ってくれた、この女の先生に。
「あ。そういえば晩御飯のメニュー、決めてるの? レイラさんとポリーナちゃん、お腹すかせてるだろうなー」
「帰りがけに市場に寄りましょうか。この時間なら、まだぎりぎり開いているんじゃないですか?」
「そうね、お肉と野菜でも買って、手早く炒め物なんかどうかな」
不意に、フリッツがくっくっと忍び笑いをした。
「どうしたの、フリッツ君。急に頭がおかしくなったのかな?」
フリッツは、意味ありげにリョーコの瞳を覗き見た。
「いえ。こうして手をつないで買い物してるところなんか、ヒルダさんが見たら何て言うかなーって」
「……まあ、何も言わずにファイアーボールが飛んでくるでしょうね」
フリッツが、リョーコにぐっと顔を寄せた。
彼のアップ、破壊的だ。
優しげな顔をしているくせに、こやつは。
「そうですよね。でもどうせそう思われるのなら、今夜も一緒に寝ちゃっても構わないんじゃないですか?」
え。
さっきの一件で、二人の距離が一気に縮まっちゃった?
「な、あの。でも、フリッツ君が、どうしてもって言うのなら。言っとくけれど私、処女じゃないわよ。本当、なんだから」
一瞬黙ったフリッツは、腹を抱えて大笑いし始めた。
「冗談ですよ、リョーコさん。二晩続けて一緒に寝たりなんかしたら、レイラさんに殺されますって。レイラさん、多分戦闘の心得がありますよ。気付いてました?」
そう言って再び笑い転げるフリッツ。
リョーコは真っ赤になって、ぶるぶるとこぶしを震わせた。
「君、いつもいつも年上をからかって。最初に会った時も言ったけど、美少年だから何やっても許されると思ったら大間違いよ!」
「何言ってるんですか。僕、七百歳なんですよ。いつまで年上ぶってるかなあ、この自称頼りになるお姉さんは」
「フリッツ君ってば、記憶、十八年分しかないんでしょう? 私、二十四歳なんだから。人生においても恋愛においても、私の方に六年分のアドバンテージがあるんだからね」
「こと恋愛においては、リョーコさんにアドバンテージがあるとは思えませんがね」
「こいつ、大人をなめやがって。今夜夜這いして、大人の怖さをその身に分からせてやる!」
懐かしい街の外門が近づいてくる。
一つに溶け合った二人が、夕暮れの街道に長い影をひいて。