第二二話 出会いはいつだって必然
額を割られたアドラメレクは、ラバの腕をだらりと下ろして、ただ立ち尽くしている。
創縁から全身へと崩壊が拡がっていく短い間に、悪魔は最期の言葉を紡いだ。
「この世界を、このようにしてしまった者たちの始末。後はあなたに任せますよ、フリッツ。私は正直、もう飽き飽きしていましたから。また、どこかで会えるといいですね……」
アドラメレクの四肢は普通の女性のそれへと変化し、クジャクの羽も全て消失していた。
そのままゆっくりと液状に溶解していくと、やがて大地に吸われて、その痕跡も判別できなくなる。
フリッツは「スプリッツェ」を下ろすと、わずかに染みが残されただけの地面を、ただ黙って見つめ続けていた。
赤く染まったわき腹を押さえたリョーコは、フリッツに歩み寄ると、心配げに顔をのぞき込む。
「大丈夫、フリッツ君? 奴に何か言われたの?」
うつむいたフリッツの目は、前髪に隠れて見えない。
「……ええ。僕が、卑怯な偽善者だと」
リョーコは、言うべき言葉に詰まった。
努めて、声を明るく装ってみる。
「何よそれ、悪魔特有の詭弁ってやつでしょ。スルーしちゃえばいいじゃない」
「いえ。奴の言ったことは、すべて本当の事でした」
フリッツは疲れたように、「スプリッツェ」を鞘に納めた。
守るために、殺すのか。
殺すために、守るのか。
目的と手段が区別できなくなってしまったのは、いつの頃からだったろうか。
誰でもいい。
いい加減に、終わらせてくれ。
フリッツは顔を上げて、一瞬すがるようにリョーコを見た。
その瞳はいつもにも増して、闇よりも深い黒。
そしてそのはかない表情は、ほんの一瞬で消えた。
「それよりも、早くリョーコさんとヒルダさんの傷を治さないと。人体の構造、また教えてもらってもいいですか? リョーコさんが僕にお姉さん風を吹かせられるチャンスは、この時くらいですよ」
そう言って、フリッツはいつもの笑顔をリョーコに向ける。
彼女は、途方に暮れるばかりの自分を情けなく思った。
何もできないけれど。
打ち明けて、欲しい。
「……うん、わかった」
今の彼女にできるのは、ただうなずくことだけだった。
悪魔が崩壊するのを目の当たりにしたゴーグルの男ランディは、大きく舌打ちをした。
悪魔を破壊できる存在が、少なくとも三人はいることになる。
もはやこの世界において、悪魔は絶対的な存在ではなくなったという事か。
だったら、俺も身の振り方を少し考え直さないとな。
あのお方は、この事態をどう思われるかねえ。
ランディは気の抜けたように拳を下げると、肩をすくめてみせた。
「ここまでにしようか、自警団のお二人さん。雇い主がやられたんじゃあ、もう俺の仕事はなくなっちまったんでな。しょせんはただの見届け人、下っ端ってのはつらいよな」
リカルドは鼻で笑うと、ランディを鋭くにらみつけた。
「お前の仕事はなくなっても、俺たちの仕事は残ってるぜ。お前を叩きのめすって仕事がな」
「ふむ。しかしお二人さんも、今後の仕事が無くなっちゃあ困るだろう? 親父さんも、明日できることを今日やらなきゃ気が済まない、ってタイプでもなさそうだし」
「確かにものぐさなのは認めるがね。ことが犯罪がらみなら、話は別さ」
ランディがひゅうと口笛を吹く。
「犯罪、か。まあ、いいことしてるつもりはないがね。そもそも、罪っていったい何だろうな?」
「ふざけるのはここまでだ。殺人未遂の容疑で、連行させてもらう」
リカルドが巨大な手甲を眼前に構えた。
ニールも三節棍を両手に握り、ずいっと前に出る。
「問答無用か、仕方がねえな。古典的な方法で逃げさせてもらうぜ」
ランディは抜く手も見せずに手甲の裏から黒い玉を取り出すと、リカルドの足元にひょいと投げつけた。
大音響と黒煙。
リカルドとニールがごほごほとせき込みながら、目を覆う。
「マジか、煙幕って。ご丁寧に、目にしみるやつだぜ」
もうもうと立ち込める煙の向こうから、ランディの笑い声が聞こえた。
「動かない方がいいぜ。煙玉とマキビシって、セットで使うものだからなあ」
軽やかな足音が、やがて戦場から消えた。
ジュディは、いまだ気を失っている二人の子供に寄り添っていた。
彼らの髪の色は、今ではすっかり元の色に戻っている。
大の字で地面に横たわっていたヒルダが、笑いながら二人に手を振った。
「ありがとう、リョーコ。それに彼氏君も、グッジョブ」
「だから、彼氏じゃないんだってばあ」
口を尖らせて抗議するリョーコ。
同居している男の子に、変な意識させないでよね。
それに何より、私のほうが意識しちゃうじゃない。
「はいはい。それにしても、よくここが襲われてるってわかったわね? 私だってたまたま遭遇しただけで、何の前情報も持っていなかったのに」
うーん。
話せば長くなるし、どこまで信じてもらえるか。
「えっと、変な男の人が、ここが襲われているかもって、私にほのめかして」
特に事実に相違はないとは思うが、聞いている方からすれば、さっぱりわからないに違いない。
案の定、ヒルダは胡散臭そうに眉をひそめた。
「何よそれ。そんなことが事前にわかるなんて、めちゃくちゃ怪しいじゃない。そいつ、あの悪魔たちの一味じゃないの?」
怪しいのは、それはもう間違いないが。
グラム・ロックの男は、おそらく奴らの仲間じゃない。
「それより、ヒルダ。その傷、早く治さないと」
ヒルダの両脚を打ち抜いたクジャクの羽は本体の溶解とともに消失しており、後には貫通した傷跡だけが残されていた。
きょとんとしたヒルダが、リョーコとフリッツを交互に見ながらたずねる。
「へ? 治すって、どうやって」
「そうか、言ってなかったっけ。フリッツ君、治癒師なんだよ」
治癒師。
魔導士と双璧をなす、この世界のアドバンテージ。
ヒルダはフリッツの顔をまじまじと見つめた。
「うっそ、珍しいわねー。私、治癒師さんに会うのは初めてよ」
ヒルダのセリフがやや棒読み気味だったことには、二人は気付かない。
どやあ、とリョーコに改めて紹介されたフリッツは、困ったように頭をかいた。
「いえ。治癒師といっても、ほんの初歩的なことしかできないんですけれど」
困惑しているフリッツの背中を、リョーコがどんと叩いた。
「またまた、謙遜しちゃって。私と組めば凄腕よ、それこそヒルダと同じくらい」
それを聞いたフリッツが、思い出したようにヒルダにたずねた。
心なしか、探るような目つきである。
「凄腕。そういえばヒルダさん、あの悪魔に魔法でダメージを与えていましたよね。あれは、あなたのオリジナル・スペルですか?」
おっと。
この美少年君、勘付いちゃってるかな?
ヒルダは、何食わぬで顔でフリッツに微笑を返す。
「そういう君の剣も、あの悪魔に特効あったみたいじゃない。でも、リョーコも悪魔を倒せる刀を持ったりなんかしてるんだし。私の魔法が、たまたま奴らに効果があったとしても、別に不思議はないんじゃない?」
「たまたま、ですか。なるほど、そういうこともあり得ますかね」
視線をかわす二人。
そこへリョーコがぱんぱんと手を叩いて、二人の会話をさえぎった。
「ほらほら、積もる話はあとにして。ヒルダ、治療始めるからうつ伏せになって」
話を打ち切られたヒルダには、心なしか安堵の表情が浮かんでいた。
「そうでした。じゃあ、お願いするわね。治癒魔法か、楽しみだなあ。お姉さん初めてだから、優しくしてね、フリッツ君」
顔を赤らめたフリッツを見て、リョーコは大きなため息をついた。
「じゃあフリッツ君、始めましょ。例の要領で、『鎮痛』『浄化』の順にね」
「了解です、リョーコさん。じゃあヒルダさん、『鎮痛』からいきます」
数瞬して、ヒルダの両のふくらはぎから痛みが消えていく。
今度のヒルダの驚きは、本物だった。
「わーお、アメイジング。これって戦闘中に使用できれば、ダメージを受けても痛くはないんだから、そのまましばらく戦えるんじゃない?」
フリッツが続けて「浄化」をかけながら、ヒルダに説明した。
「痛みって大事ですよ。痛みがないままダメージが蓄積すれば、気付かないうちに致命的な損傷に進行して、手遅れってことにもなりかねません。警告って、破滅を避けるためにありますからね」
腹ばいのヒルダが、前を向いたままつぶやく。
「……そうね。痛みに気付かないと、突然壊れちゃうかもしれないか。身体も、心もね。お互い、気を付けよっか」
フリッツの手がわずかに止まった。
「ん、ヒルダさん。ひょっとしてなんか深い話、してます?」
ヒルダはうつむいたまま、ふふっと笑った。
「フリッツ君って私の事、おもしろお姉さんかなんかだと思ってるでしょ。こう見えても私、魔導士アカデミーの首席よ。しゅ、せ、き」
リョーコがヒルダの頭をぺんとはたく。
「こら、ヒルダ。動いたら治療しにくいでしょ。じっとしてなさいよ」
「おっと、ごめんリョーコ」
ヒルダはぺろりと舌を出した。
「『浄化』、終わったわね。じゃあフリッツ君、損傷部位を確認しよっか。重要なのは、前脛骨動静脈と深腓骨神経、後脛骨動静脈と脛骨神経、それに腓骨動静脈と浅腓骨神経の三セットなんだけど。フリッツ君、それぞれ探れる?」
フリッツは目を閉じると、「浄化」した自分の指で、創部を中心に触りながら確認していく。
「動脈と静脈って、それぞれ血液が流れている管ですよね? それと隣接して上下に連続している細長い繊維、これが恐らく神経……血管と神経の組み合わせが、三セット……」
しばらくして、フリッツは目を開くとうなずいた。
「リョーコさん、今回もラッキーみたいです。左右の足のどちらとも、血管と神経の全て大丈夫かと」
リョーコは嬉しそうに、指をぱちんと鳴らした。
「おっと、ヒルダったら強運ね。骨と筋と皮膚だけでよさそう、か。じゃあフリッツ君、各層修復をお願い」
「了解です、リョーコさん」
ヒルダはうつぶせになって治療を受けながら、二人の会話を聞いていた。
その驚愕の表情は、二人には見えない。
動静脈。神経。
剣士ってことでさえ、ちょっとした驚きだったけれど。
そっか、リョーコって。
ドクターの、平野涼子だったのか。
彼女とは運命的な出会いだった、ってことかしら。
まあ、好きな人が目の前に現れたら、誰だってそうも思いたくなるものだけれど。
ヒルダは目を閉じると、わずかに首を振った。
まあ、いいか。
私は、今の関係が気に入ってるんだから。