第二話 ファーストキス
吸血鬼。
二十四のいい歳した女が想像するには、あまりに滑稽な代物である。
しかし目の前にいる美少年のたたずまいには、圧倒的な説得力があった。
私、絶対って言葉、好きじゃないけれど。
彼は、絶対に間違いない。
リョーコは、吸血鬼についての乏しい知識を頭の中でまさぐった。
いわく、人間の生き血を吸って生きている。
いや、不死の怪物だから、生きてはいないのか。
血を吸われた人間は……、吸血鬼になるのかな。それは、ゾンビだったっけ。
それに確か、処女の生き血を好むとかなんとか。
うーん。
さっきは勢いで、命なんて惜しくないなんて思っちゃったけれど。
吸血鬼になったら、きちんと死ぬこともできないんじゃないかしら。
それは、できれば避けたいかなあ。
「……あの。私、処女じゃないんで。私の血って、あまり美味しくないと思うんだけれど」
美少年にかけた第一声としては、最低なセリフだった。
しかも、血を吸われたくない一心でついた、真っ赤な嘘だった。
少年は困ったような表情を浮かべると、それきりリョーコを無視して、座り込んだままの銀髪の少女のほうへと歩み去っていった。
しまった。
最悪な第一印象を与えてしまった。
初対面の相手に見栄を張ったのも、彼女の自己嫌悪に拍車をかけていた。
いっその事、血を吸われた方が良かったとさえ、後悔するリョーコだった。
それにしても、さっきの魔物はどうなったのか。
振り返ったリョーコは、溶けて崩れかかっている魔物の残骸をそこに認めた。
マジか。
あの子、素手であの悪魔を倒しちゃったよ。
ワンパン、ってやつ?
しかしリョーコは同時に、やや奇妙な事実にも気付いていた。
打撃で倒したのなら、普通はちぎれたり、ばらばらになったりなんかするわよね。
それが、溶けるって。
しかも崩れかけた悪魔の形はといえば、それはなんとなく、人間に似ているような。
リョーコは肩をすくめた。
まあ、悪魔と吸血鬼が一度に現れたんだもの。
これ以上何が起きても、おかしくはないわね。
道端に座り込んだままの銀髪の少女は、もはや震えることもなく、近づいてくる少年にただ見とれていた。
さもありなん。
あの美貌には、対象年齢なんか関係なさそうだ。
少年は、少女をゆっくりと抱き起した。
少女はぼうっとしたままで、されるがままに任せている。
と、少年は黙ってその首筋に唇を寄せた。
二本の犬歯が、街灯の光を反射してきらりと光る。
おいおい。
自分で言うのもなんだけれど、今の私の容姿ってば、ちょっとしたものだと思う。
この点、再び私は、この身体の元の持ち主さんに感謝しなければならない。
その私を差し置いて、あんな小さな女の子に手を出すなんて。
「ちょっと待ちなさいよ、このロリコン!」
少年が少女に手を出すことをロリコンと呼ぶのかどうかは、この際問題ではなかった。
あわてて立ち上がったリョーコに構わず、少年は少女の細い首に牙を立てる。
少女の顔に一瞬喜悦の表情が浮かぶと、彼女はそのままがっくりと少年の腕の中に崩れ折れた。
やっぱり、血を吸うんだ。
吸血鬼確定ね。
少年は眠ったように動かない少女をゆっくりと街路に横たえると、どこからか取り出した毛布で、その身体をやさしく覆った。
そしてリョーコの方に向き直ると、きちんと手入れのされた革靴をこつこつと響かせながら、彼女の方に近づいてくる。
リョーコは臆することなく、少年をにらみつけた。
「……やってくれたわね。未来のある小さな女の子を、不死の道に引きずり込むなんて。責任、取ってあげれるの!?」
美少年は、リョーコの放った「不死」という言葉に、わずかに反応した。
気持ち顔をしかめたようだったが、その表情すらも彫像のように冷たく美しい。
「ルックスに恵まれている奴って、何でも思い通りになると思ってるから、本当にたちが悪いわ。みんながみんな、あなたに血を吸われて喜ぶなんて思わないことね」
リョーコは少年に向けて猛然と駆け出すと、その左頬に向けて、無事なほうの右腕で拳を放った。
悪魔を一発でノックダウンするような相手に、我ながら無謀だ、とは思わなかった。
人間、馬鹿にしないでよね。
リョーコの放ったパンチは、自分で想像していたよりもはるかに鋭かった。
少年もそうだが、何より彼女自身が驚いていた。
少年は顔面にあたる寸前でリョーコの拳をつかむと彼女の腕を引き寄せ、再び困ったような表情でリョーコを見る。
リョーコの予想に反して、彼の手は暖かかった。
二人の距離が近づく。
うわー、顔きれい。
思わず顔面にパンチを放っちゃったけれど、こんな顔に傷をつけたら、私一生後悔しそう。
腹パンにすればよかったかなあ。
まあ、当たらないんだけれどね。
美少年の顔のアップにたじろぎながらも、リョーコが強気にまくしたてる。
「ちょっと、君。さっきから黙っているけれど、何とか言ったらどうなの?」
返答のない少年にもどかしさを感じたリョーコは、さらに言葉を継いだ。
「君、吸血鬼なんでしょ? どうして、あの悪魔から私を助けてくれたの? 女の子っていう獲物を横取りされたくなかったからかしら?」
少年はリョーコの手を離すと、初めて口を開いた。
「……別に。ただ、助けたかった。それだけです」
きゃっ。
しゃべった。
その少年の声は、容姿にたがわぬ美声である。
中性的ですらある。
うーん、いいわあ。
この声で、「僕と付き合ってください」とでも、言ってくれないかなあ。
この世界に録音機器があれば、無限リピートするんだけれど。
それにしても。
私を助けたかったって、あの悪魔から?
もしそうなら、ちょっとは感謝しなきゃ失礼かしら。
「あ、そうだったんだ。ありがとう」
リョーコは礼を言って、にっこりとほほ笑んで見せる。
少年は、少し驚いた表情で答えた。
「いえ。助けたかったのは、お姉さんではなく。あっちの女の子の方です」
ふーん。
やっぱり君、ロリコンなんだ。
いやいや、そうじゃなくて。
「何だ、私を助けてくれたんじゃなかったんだ。お礼言って損しちゃった」
「誤解されるのは、お姉さんの勝手ですが」
おっと。
皮肉、言ってくれるじゃない。
「君は何者なの? デーモン・ハンター?」
「うーん、似たようなものかもしれません。まあ、結果的にハンティングしているだけなんですけれど」
吸血鬼って、悪魔の親戚みたいなものじゃないのかしら。
あまりに、容姿が違いすぎるけれど。
美少年は、毛布にくるまって横たわっている銀髪の少女を振り返った。
「あと、僕の事を吸血鬼って呼びましたけれど。お姉さんがどんなイメージでそう呼んだのかは分かりませんが、少なくともあの子に有害なことは起こりませんから、安心してください。もちろん、吸血鬼になったりなんかしませんよ」
思わず、無条件で信じちゃいそうになる。
美少年ゆえか。
それとも吸血鬼に備わるという、魅了の能力なのか。
「ありがとう。色々教えてくれるのね、お姉さんうれしいわ。ところで、これだけ話してくれるってことは、私を生かして返すつもりはないってことで、オーケー?」
少年は、意外そうな顔で言った。
「まさか。お姉さん、死にたいんですか?」
根源的な質問、きたな。
哲学、というべきか。
死にたいのかとのその問いには、悩むところだけれど。
「とりあえず、殺されたくはないわね」
「そうですか。それは、そうですよね」
少年の声の中にわずかに含まれる憂鬱さに、リョーコは気付いた。
え、何?
この子、死にたいの?
でも吸血鬼って、不死じゃないの?
でも。
死にたいのに死ねないってのは、結構きついかも。
忘れたいのに忘れることができない、私のように。
少年は無表情に戻ると、その暗く光る赤い瞳で、リョーコを探るように見た。
「あの。ここで起きたこと、すべて忘れてもらえませんか?」
何言ってるのよ。
こんな美少年、どうやって記憶から消去できるのよ。
まあ美少年じゃなくても、私、忘れることができないんだけれどね。
「無理な注文ね。私って、思い出だけで生きているから」
少年はまたしても、困惑した表情を浮かべた。
「そうですか。じゃあ、仕方ないなあ」
少年は大きくためいきをつくと、リョーコに身体を寄せてきた。
わ、大胆。
これってひょっとして、しょーもない私の命の代償としては、悪くないんじゃない?
でも、吸血鬼にはなりたくない。
さっき彼は、咬まれても害はない、みたいなこと言ってたけれど。
理屈じゃない、私の中の本能的な何か。
リョーコは、思わず両手で自分の首筋を覆い隠す。
少年はそれに構わず、リョーコの肩を両腕で抱いた。
そして、わずかに犬歯がのぞく唇を寄せると。
リョーコの唇に、優しく重ねた。
「……!」
唇に、ちかりとわずかな痛みを感じ。
リョーコの意識は、フェード・アウトした。