第一九話 守護なる殺戮に祝福あれかし
「ジュディ先生、マシューとジムを連れて中へ。早く!」
ジュディと、倒れたまま微動だにしない二人の子供たちをかばうように、フリッツが前に出た。
二人の侵入者は、彼から少し離れたところで歩みを止める。
背中にクジャクの羽を生やしたラバの異形が、隣のローブの人影に声をかけた。
「やはり、フリッツだったではありませんか。彼がここにいるとは、なんたる偶然。一見したところ、彼は相変わらずのようですね」
ローブ姿の男が、フリッツを観察しながら声を返す。
「彼の今の表情を見るに、やはり記憶が失われているようです。学習しないうちに無力化しておくのが得策かと」
「無力化、か。げに、不死とは厄介なもの」
フリッツは二人を見すえると、軽く身を沈めて戦う構えをとった。
その彼に、悪魔が美しい声で呼びかける。
「こんにちは、フリッツ。今のあなたにとっては、初めましてかしらね。私は、アドラメレクといいます。我々がここに来たのは、そこにいる銀髪の子供二人を殺すためです」
簡潔な自己紹介。
与えられた仕事を淡々とこなす者に特有の、冷淡さである。
「なぜ、子供たちを殺す」
フリッツの問いは短かった。
あるいは、話しても大した意味などない、と考えているのかもしれない。
アドラメレクと名乗った悪魔は、妖艶に笑った。
「もちろん、大人を殺すこともあるのですけれどね。大人よりも子供を殺す方がたやすいし、我々にとって将来的な不利益が生じにくい、というのがその理由です」
またしても、簡潔な返答。
内容自体は不可解なものであるにしても。
「それに、このような子供たちが集まっている施設は、我々が標的を探すのに誠に都合が良い」
きわめて事務的なアドラメレクに相対するフリッツの表情は、氷のように冷たかった。
「どうやら、僕の質問の仕方が間違っていたようだな。殺す目的を話せ」
アドラメレクは辛抱強く、内心の腹立たしさを抑えた。
この悪魔殺しが。
我々とやっていることは同じなのに、その憎悪むき出しの目つきはなんだ。
「いずれ忘れてしまうあなたには、話しても仕方のないこと。もっとも、我々に協力してくれるというのなら、話は別ですが」
案の定、フリッツの返事は愛想というものとは程遠い。
「交渉などしない。話さないというのなら、お前には何の価値はない。この場で消滅しろ」
それまで黙って聞いていたローブの人影から、ふっと笑い声がこぼれた。
フリッツが、その注意をわずかに男に移す。
「これはすまない。一年前と、全く同じことを言うなあと思ってね。君のそのぶれない態度には、まったく敬意を表するよ」
人影はフードを払い、茶色のローブを脱ぎ捨てた。
顔を半分ほども覆っている、大きなゴーグル。
その表面は黒くスモーク処理されており、その視線をうかがうことはできない。
赤い髪を後ろに撫でつけているさまは、向かい風に棚引く炎のようである。
細長い顎を持った、精悍な男であった。
身に着けているのは、黒いボディスーツに鋼鉄製の手甲、すねに鉄の前当てがついた脚絆のみ。
全身を覆っている薄手の生地は、その鍛え上げられた肉体をあらわに見せていた。
軽い口調とは裏腹に、男の声には明らかな敵意が含まれている。
「俺から言わせりゃ、確かにお前さんは同情に値するとは思うがね。かといってそれは、俺たちの邪魔をする理由にはならな……」
言いかけた男の視界いっぱいに広がる、暗く光る赤い瞳と二本の牙。
舌打ちする間もなかった。
速い。
こいつ、一瞬で脚の強化を。
フリッツは右の肘を前方に掲げると、男の顔面に突き込んだ。
男はとっさに両腕の手甲を眼前に上げて、高速の肘鉄砲をブロックする。
フリッツはその場で左足を軸に一回転すると、がら空きになった腹部に回し蹴りを放った。
「ぐうっ!」
男はかろうじて後方に宙返りをして衝撃をそらすと、そのまま着地して飛びずさった。
蹴りの衝撃が残っているのであろう、思わず片膝をつく。
フリッツはふんと鼻を鳴らすと、腕を横に払って男に人差し指を突きつけた。
「人が話をしているときに、横から入るな。黙っていろ」
ゴーグルの男ランディは、小さく舌打ちした。
まったく、この小僧ときたら。
大した考えもなく戦っているくせに、無駄に強いぜ。
二人の会敵を眺めていた悪魔アドラメレクは、さもおかしそうに笑った。
「さすがですね、フリッツ。でも、あなたはいったい何がしたいのでしょう? 目の前の人々を守る。それも結構ですが、あなたご自身も、そこそこ人を殺していますよ。覚えてはいなくても、何となくそうかな、というのは分かりますよね?」
フリッツの顔に、明らかな動揺が走った。
彼の頭の中に、残されていた過去の記憶が反響する。
侵略者を、この世界から消して。
「……おそらくは、お前の言う通りだろう」
僕たちを、このような身体に改変した者。
この世界を利用し、破壊する者たち。
到底、許せるはずがない。
「そうですよ。要は、きれいごとは言うな、ということです。理由があれば殺すというのは、お互い様なのですから」
アドラメレクの瞳には、慈悲の輝きすら宿っていた。
彼女からすれば、フリッツは無駄に悩み苦しんでいるようにしか思えない。
確固たる意志こそが、この世界を守ることが出来る。
「ふふ。わかりますよ、あなたの闘志が衰えていくのが。別に悪いことではないでしょう。憎いから殺す。それで、いいではありませんか」
アドラメレクの右手の中に、銀色の長剣が具現化した。
「ただ、我々も黙って滅びるわけにはいきませんからね。とりあえず、また死んでくださいな」
フリッツの前に進み出ようとした悪魔を、ようやく立ち上がったゴーグルの男ランディがさえぎった。
「アドラメレク様、フリッツの相手は私が。あなたは、奴に滅ぼされるリスクがあります」
半獣の女悪魔は、じろりと横目でランディを見た。
「あなたに彼が殺せるかしら? でもまあ、あなたの言う可能性もゼロではないわけだし、ここはお言葉に甘えてお任せするとしましょうか。足止めさえしていただければ、それで十分です」
アドラメレクは自らのクジャクの羽を一枚抜き取ると、目の前に放った。
舞い落ちる羽はたちまちにして、一体の異形に変化していく。
ラバの顔に人間の裸体、そして背中にはクジャクの羽。
アドラメレクとは獣と人の比率が入れ替わった、彼女の使い魔。
「それでは、私は本来の任務を果たさせていただくとしましょう」
アドラメレクに召喚された使い魔が、ずるずるとジュディと銀髪の子供たちに歩み寄っていく。
フリッツは我に返ると、使い魔の方へと駆け出そうとした。
その彼の前に、ランディが手刀を構えて立ちふさがる。
「人に蹴りを入れておいて無視とは、頂けないねえ。礼儀を忘れた坊やには、再教育が必要だな!」
ランディは薄く笑うと、猛烈な攻撃を繰り出してきた。
ローキックから起き上がりざまのハイキック、踏みこんでの左右のワンツーパンチ。
そのコンビネーションの速さに、さすがのフリッツも受け流すことしかできない。
「どうした、フリッツ。まあ俺は、お前の戦いぶりを昔に見ているから、こうしてまともに戦えているんだがな。吸血鬼相手だ、このぐらいのハンデは許容してもらおうか」
フリッツの耳に、子供たちを守ろうとするジュディの悲鳴が聞こえた。
わずかに気を取られた隙に、ランディの右のハイキックが、すねの鉄板ごとフリッツの左側頭部に食い込んだ。
「っ!」
ぐらつき、膝を折るフリッツ。
勝利を確信したランディはしかし、驚嘆の声を上げた。
「嘘だろ、今の右ハイで死んでない!? こいつ、インパクトの瞬間に頭蓋骨を硬化させたのか……」
治癒師。不死。
チートめ。
やはりお前は、存在しちゃあいけないんだよ。
「だが、脳震盪までは防げていないようだな。お前を殺すには、脳を破壊するか、全身の細胞を一気に焼き尽くすか。まあ壊れないのなら、焼くしかないか?」
フリッツは頭を振ると、子供たちの方へと顔を向けた。
立ち上がろうとするたびに、両脚ががくがくと震える。
彼の頭の中に、炎の中で焼かれながらも彼に呼びかける少女の記憶が蘇った。
またか。
僕は、また守れないのか。
ジュディは二人の銀髪の子供たちを守るように、両手を広げて使い魔の前に立ちふさがっていた。
彼女の長い黒髪が、眼鏡と頬に張り付いている。
その顔は幽鬼のように真っ青で、気を失っていないのが不思議な程であった。
アドラメレクは三人を黙ってながめると、唇を震わせているジュディに声をかけた。
「そこな女の方、あなたには用はありません。我々は、無関係な者を殺したくはないのです。速やかに、ここから立ち去ってはくれませんか」
悪魔の言葉には、意外なことに真心がこもっていた。
そのことがかえってジュディを正気付かせ、また怒らせてもいた。
「親を奪われ、行き場を奪われた子供たちから、更に命まで奪おうとする。そんな理不尽、私は認めないわ!」
アドラメレクはため息をついた。
心底、悲しそうに。
「あなたがそう答えるであろう事は、分かっていました。お互いに守りたいものがあるのですもの、仕方がありませんね」
使い魔の両手の爪が、サーベル状に伸びる。
「守るためには、力が必要。私は守りたいものがあるゆえに、悪魔となってまで力を手に入れました。あなたには、そこまでの覚悟がありますか?」
ジュディは、息をのんだ。
アドラメレクの覚悟に、のまれた。
今まさに、悪魔の爪が三人をとらえようとする瞬間。
「ふーん。覚悟、か。今のお前に必要なのは、死ぬ覚悟よ」
施設の壁を乗り越えて一人の影が前方に宙返りすると、三人をかばうように使い魔の前に着地した。
鳥のようにひるがえる、ブラウンのトレンチコート。
黒いショートヘアに、猫のように鋭く光る黒い瞳。
影はそのまま使い魔に突進しながら、右手を横に大きく広げた。
澄んだ女性の声が、呪文を紡ぎ出す。
「君、五条の焔灯し眼前を穿て!」
女性の指の一本一本から白熱した炎が剣のように噴出し、高速で悪魔のラバの顔面にたたきつけられた。
じゅおっ。
白煙とともに悪魔の身体は六枚に縦断され、焼けた肉体がそのまま地面に崩れ折れた。
「ジュディ先生、ご無沙汰してます。マシューとジム、いい子にしてた?」
にっこりと笑ったヒルダの細い指先は、いまだ陽炎を立ちのぼらせたままであった。