第一八話 破瑠那とスプリッツェ
「リョーコ。もうすぐお昼のパン、焼き上がるわよー」
「了解、レイラさん。窯から出してくれたら並べちゃうから、教えて」
からん。
店の扉が開く音に、リョーコは振り返った。
「いらっしゃいま……」
水色のスーツに、トリコロールのネクタイ。
「ハロー。ミス・リョーコ」
紅を差した赤い唇から、歌うような声が漏れる。
見間違えようもない、あのグラム・ロックスタイルの男だった。
男は滑るようにカウンターに歩み寄ってくると、細長い指をひらひらと振った。
「お久し振りです。私が差し上げた道具の調子、その後いかがですか?」
リョーコは腕を組むと、招かれざる来訪者をにらみつけた。
「……こんな白昼に、しかも店の中に現れるなんて。大した度胸ね」
「大丈夫です、今この空間は完全に保護されていますから。むろん、悪魔からもね」
重たげなアイシャドウの下のターコイズブルーの瞳は、瞬きもせずにリョーコを見つめている。
この男はどうやら、先日の悪魔との戦いのいきさつまでも知っているらしい。
本当に、見透かしたようなことを言う。
「まあ、あの刀のおかげで助かったことには違いないわ。でも、お礼を言う必要はあるかしらね? 私を助けるためにくれたものじゃあ、なさそうだし」
男は金色の短髪を指で少し整えると、薄く笑った。
「お礼などと、結構ですよ。この前も言いましたが、別に目的があってお渡ししたわけではありませんから。あなたがあれをどのように使おうとも、私にとって損はない。ただ、それだけのことです」
「そう。じゃあ、今日は何をしに来たの?」
「パン屋を訪れる理由はただ一つ、パンをいただくためですよ。クロワッサンが大変おいしいと、こちらの彼が言ってましたよね?」
彼。
この店で彼と呼ばれるのは、一人しかいない。
「あなた。フリッツ君を知っているの?」
「私にとっては古い知人です。もっとも、彼のほうでは覚えてはいないでしょうがね」
「……」
一年前より以前の記憶、ないんです。
フリッツ君は、そう言っていつも笑うけれど。
笑える状況じゃないはずなのに、フリッツ君の馬鹿。
そんなリョーコの憂いを無視して、グラム・ロックの男はふわふわと話を続ける。
「ところで申し訳ありませんが、私はこの世界の通貨を持ち合わせておりません。よって誠に厚かましいのですが、物々交換でいかがでしょう?」
物々交換。
この男の力なら、パンを手に入れることなど造作もないはずなのに、白々しいことを。
もっと言えば、パンなるものが必要かどうかすらも怪しい。
「極上の焼きたてクロワッサンなんだけど、何と交換してくれるのかしら? もしかして、また刀とか?」
冗談のつもりでリョーコが放った言葉に、男ははじかれたように手を叩いて喝さいを送った。
「素晴らしい! あなたは記憶保持能力のみならず、予知能力も備えているのですか? だとしたら、あなたを改変した者はまさしく全能者だ。まあ正確には、刀ではなく剣ですがね」
男は銀色の鞘に納められた一振りのブロードソードを取り出すと、リョーコの目の前で抜いて見せた。
確かに上質な素材で作られてはいるようだが、一見すると何の変哲もない片刃の剣である。
だがよくよく見れば、わずかに反った刀身の表面に無数の細かい溝が彫られていることに、リョーコは気付いた。
刀身に、溝?
強度的には、もちろん有利であるはずがない。
なにこれ、儀礼用かな?
「いかがですか? 実はこの剣のかつての持ち主は、彼だったのですよ」
またしても、彼。
「フリッツ君が、この剣の元の所有者……」
グラム・ロックの男は刀身を陽の光にかざしながら、昔を懐かしむように言った。
「いかにも。彼が記憶をなくしたときに紛失していたものを、私がたまたま手に入れましてね」
リョーコの顔色が、さっと変わった。
「たまたま? あなたもしかして、フリッツ君の記憶が無くなった理由に関係しているんじゃないでしょうね? 返答次第では、この場で斬るわ」
リョーコは傍らに置いていた長刀をつかむと、体にひきつける。
彼女のあまりの剣幕に、男は降参したように両手を上げた。
「落ち着いてください、ミス・リョーコ。あなたも気付いていると思いますが、私は観察者なのですよ。言ったでしょう、私はこの世界の人間に直接干渉することはできないと。彼の記憶喪失の原因も、私ではありません」
「そうだとしても、あなたその原因を知っているのね? お願い、教えて!」
男は乱れたネクタイを直すと、値踏みするようにリョーコを眺めた。
「その情報は、クロワッサンと交換するには少々高すぎますね。だから今回は、この剣一振りとの交換でお願いします。彼の愛剣『スプリッツェ』とね」
スプリッツェ。
「そうそう、あなたにプレゼントさせていただいた道具にも、実は名前があるんですよ。この前はお伝えし忘れていて、大変失礼しました。あの道具は、『破瑠那』といいます」
はるな。
女の子かよ。
「あなた、この刀の事をずっと『道具』と呼ぶわね。それに何か意味はあるの?」
男はほうというように、その整った細い眉を吊り上げた。
「あなたの想像通りですよ。あれは本来、刀として作られたものではありませんからね。使い方としては、刀と同じですが」
「よくわからないわね。斬ることには変わりないでしょう?」
「あなたには、手術道具と言った方が理解しやすいかと。メスで人を斬る、とは言わないですよね。切る。つながりを、切断する。そういう事です」
私の前世が医師であることも知っているのか。
個人情報って概念、無いのかしら。
「言葉遊びをしている暇はないわ。私、忙しいの」
男は妙に真剣な顔をしてうなずいた。
「そうでしょうとも。でも私に言わせてもらえば、もっと忙しくなるかもしれませんよ」
「そう。あなたが、お客さんをたくさん呼びこんでくれるのかしら」
「緑竜寮」
男の口から出た単語は、リョーコに衝撃を与えるのに十分な威力があった。
「ちょっと。いきなり、何言ってるのよ」
「彼、時々あそこへ子供たちの往診に通っているそうですよ。優しい少年ですね。ところで最近、子供たちが襲われているという噂を耳にしましてね。何事も起きなければ良いのですが」
こいつ。
とぼけるにも限度がある。
「どうして、それを早く言わないのよ!」
「先に、剣の話をしておいた方が良いと思いましたから。彼にはきっと、それが必要になります」
男は剣を銀色の鞘に戻すと、カウンターの上にごとりと置いた。
「それでは、クロワッサンを頂いていきますよ。ごきげんよう、ミス・リョーコ」
男は棚からクロワッサンを一つ手に取るとポケットに押し込み、からんという音を残して店を去って行った。
フリッツ君が、襲われている。
リョーコはエプロンを投げ捨てると、奥にいるレイラに声をかけた。
「レイラさん、ごめんなさい! 私、ちょっと行ってくる!」
「はい。出来ましたよ、団長」
シャギーの金髪に青い瞳の精悍な若者が、両手にミトンをはめて、湯気の立った鍋を運んできた。
「おう。昼から鴨鍋とは、これまた豪勢だな」
無精ひげを生やした彫りの深い中年男が、椅子に座ってもみ手をする。
「何言ってるんですか。団長が鴨鍋じゃなきゃいやだって、駄々をこねたんでしょうに」
「わっはっは、そうだった。いつもすまんな、ニール」
ニールと呼ばれた若者は、大仰にため息をついた。
「すまないと思うなら、鴨鍋なんていう材料の調達すら思いっきり手間がかかるものを、しかも昼食に頼まないでくださいよ」
「まあ、そう言うな。人生、食事する回数は決まっているんだ。だったら、まずいものを食って無駄に回数を減らすのは、もったいないとは思わんか」
「そういうものですかね」
ニールも椅子に座ると、二人分の皿に鴨肉を取り分け始める。
と、詰め所の扉が勢いよく開いた。
無精ひげの中年、自警団長のリカルドが、肉を口に運ぼうとした手を止める。
「おう、リョーコちゃんじゃねえか。ちょうどよかった、一緒に鴨鍋でもつつくかい?」
リョーコは汗でぬれたピンクの前髪を額に張り付かせたまま、詰め所の中を見回した。
「ごめんなさい、急ぎなの。今ここにいる自警団の団員さんは、リカルドさんたち二人だけ?」
リカルドは、リョーコが長大な刀との銀の長剣の二本を携えているのを見て、眉をひそめた。
「ああ、他の連中は巡回に行ってるが。どうかしたのか」
「詳しく話してる時間はないんだけれど。とにかく一緒に、緑竜寮に行ってくれない?」
リカルドは、すぐにその名を思い出した。
「緑竜寮。この前ヒルダちゃんが話してた、子供たちのグループホームの事か?」
「うん。思い過ごしだったらいいけど、もしかしたら襲われてるかも」
あの男の言ったことを真に受けるのは、しゃくだけれど。
嘘を言う理由もまた、あの男にはない。
リカルドとニールは、何も言わずに立ち上がった。
壁に掛けてあった革製のベストを羽織ると、それぞれの武具を装着し始める。
こまごました理由を聞かれると覚悟していたリョーコは、肩透かしを食らった。
「あの……」
「急ぎなんだろ、話は向こうについてからでいいさ。ニール、準備はいいか」
「いつでも」
リカルドはリョーコの肩を軽くたたくと、湯気の立った鴨鍋もそのままに、ニールと共に屋外へと飛び出していった。
リカルドさん、戦い慣れしてるなあ。
渋くて、ちょっと格好いいじゃない。
リョーコも長刀を背負いなおすと、彼らの後を追って緑竜寮へと駆け出していった。