第一六話 家族の肖像
夜が明け、部屋の中に少しずつ色が戻ってきた朝。
リョーコはベッドの上で寝返りを打つと、薄く目を開けた。
ぼんやりした頭で、昨日のことを思い出そうとする。
そういえば、私。
フリッツ君と一緒に、一晩。
まあ男と女だもの、仕方ないわよね。
「フリッツ君、おはよー♪」
リョーコが抱き着いたベッドの先は、もぬけの殻で。
彼女はもんどりうって、見事に床へと転落した。
「くっ。まさか、夢オチ?」
頭をさすりながら起き上がったリョーコの耳に、階下から食器を用意する音が聞こえてきた。
いっけない。
今日の朝食当番、私だった。
がばっと跳ね起きたリョーコは慌てて階段を降りると、ダイニングの扉を恐る恐る開けた。
「あ。おはようございます、リョーコさん」
マジか。
夢では、なかったんだ。
最高にうれしいこの状況、もしも夢なら永遠に覚めないで欲しい。
フリッツはすでにきちんと着替えを済ませており、白いハイネックのセーターの上にエプロンをつけていた。
フライパンとフライ返しを持ったまま振り向くと、さわやかに笑う。
フリッツ君ってば、何を着てもさまになるわね。
ずるい。
こういうのを、チートっていうんじゃないの?
すでに食卓についていたレイラが腕を組んで、にやけているリョーコをにらんだ。
「……おはよう、リョーコ」
リョーコの顔が、慌てて素に戻る。
「お、おはようございます、レイラさん」
「フリッツ君と一緒に寝ちゃあいけないって言ったのに。初日から規則破っちゃって、どういうこと?」
ばれてる。
「いや、それは」
フリッツが見かねて、助け船を出した。
「ごめんなさい、レイラさん。あの女の子、コレットちゃんでしたっけ、が襲われた件について、ずっと話し込んでいたもんですから。その後リョーコさん、治療の疲れが出ちゃったみたいで」
ごめん、フリッツ君。
疲れていたのはむしろ、魔力を消費した君の方なのに。
フリッツのとりなしに、レイラはあっさりと溜飲を下げた。
「まあフリッツ君の話だと、リョーコが先に寝たみたいだし。フリッツ君が先に寝たのなら、リョーコがフリッツ君を襲う可能性があるけれど、逆なら大丈夫か。いいでしょう、今回は大目に見てあげるわ」
私って、そんなに男に飢えているように見えるのか。
確かに、彼氏いない歴イコール年齢だけど。
フリッツは苦笑しながら、リョーコのために椅子を引いた。
「まあ、とにかく座ってください。ありあわせの食材で作ったので、口に合うかどうか」
テーブルの上には、ベイクドエッグ、キノコとほうれん草のソテー、根菜の入ったコンソメスープなどが、所狭しと並べられていた。
目を輝かせて座っていたポリーナが、歓声を上げる。
「フリッツお兄ちゃん、すごいねー。こんなにおいしそうなごはん、魔法のようにぱぱっと作っちゃうんだもの」
フリッツは自分も食卓につくと、料理を手早くトレイに取り分けていく。
「僕、キャンプみたいなこともよくしてたからね。見た目はちょっとあれかもしれないけれど、どうぞ」
飲み物まで行きわたったところで、四人は一斉に唱和した。
「いただきまーす」
はぐ。
うーん、おいしい。
レイラも驚いた表情で、賛辞を贈る。
「フリッツ君、料理上手ねえ。やっぱりたまには、自分の味とは違うものを食べたくなっちゃうのよねえ」
「いえ、僕のおかずはおまけです。なんといっても、このクロワッサンがおいしくて」
フリッツが焼きたてのクロワッサンをほおばる。
ポリーナがにやりと笑って、リョーコを横目で見た。
「ポリーナ、このスープ好きだなあ。こりゃあ、リョーコお姉ちゃんも負けてらんないねえ」
まずい。
私の存在価値が、根底から揺らいでいる。
そこへさらにフリッツが、悪気のない追い打ちをかけた。
「ポリーナちゃん、そんなことないよ。僕もリョーコさんの手料理、楽しみにしてます」
くー。
プレッシャー、かけてくれるじゃない。
朝食が終わって一息ついたところで、ポリーナがフリッツの方へと身を乗り出した。
「ねえ、フリッツお兄ちゃん。ずっとこのうちで、いっしょに暮らしてくれるの?」
「レイラさんは、そう言ってくれてるんだけれど。ご迷惑じゃないかなあ」
「ううん、大歓迎。人間って、助け合って生きていくもんでしょ。多い方がいいに決まってるじゃない」
ポリーナちゃんって時々、深いことをさらっというのよね。
レイラも、うんうんとうなずく。
「フリッツ君、ポリーナの言う通りよ。それに近頃物騒だし、男の子がいてくれるとなにかと心強いわ。だけど、ご両親とかはどうされてるの?」
フリッツは困ったように頭をかいた。
「えっと。僕、一年前より以前の記憶がなくて。でも誰からも、何の連絡もないし。きっと昔から、独りだったんだと思います」
レイラは驚いて、フリッツとリョーコの顔を交互に見た。
「え、フリッツ君も記憶喪失なの? それも一年前からって。それじゃあ、リョーコとまるっきり同じじゃない」
「そうですね。僕も昨日リョーコさんからその話を聞いて、驚いていたところなんです」
フリッツは、本当は記憶喪失ではないことをリョーコが黙っている件について、あえてレイラに話すつもりはなかった。
彼女が過去のことをレイラさんに話していないのは、何か理由があるはずだから。
「本当に偶然ねえ、二人とも。でも何か思い出したことがあったら、いつでも話してね。もちろん、リョーコもよ」
偶然、なのだろうか。
一年前にこの世界に転生してきたリョーコ。
一年前に記憶をなくしたフリッツ。
リョーコもフリッツも何か心に引っかかるものを感じたが、うまく説明はできなかった。
やがて、レイラが立ち上がった。
「さて、もうすぐ開店ね。パンも焼きあがったし、お店に並べるとしましょう」
フリッツも再びエプロンを着けると腕まくりをして、テーブルの上の食器をまとめ始めた。
「じゃあ僕、後片付けしてから、ちょっと出かけてきます」
「え、どこに?」
「仕事ですけれど」
意外な言葉に、リョーコが思わずきき返す。
「フリッツ君、仕事してるの?」
「やだなあ、リョーコさん。僕、定住こそしていないですけれど、きちんと働いてますよ。お金がないと、食べていけないじゃないですか」
フリッツは、いかにも心外だという表情だ。
そりゃ、そうか。
仕事もしてないのにレストランで外食なんて、できるわけないし。
あの時、おごってもらっちゃったんだよなー。
年上だから、私が出すって言ったんだけど。
彼女でも何でもないんだから、せめて割り勘じゃないといけないよねえ。
「で、仕事って何を?」
リョーコの問いに、食器を手早く洗いながら、フリッツが肩越しに答えた。
「街の治療院の手伝いをしたり、ご老人や子供たちが住んでいる施設の往診をしたり、そんな感じです。大きな病気の治療なんかはやっぱり無理ですけれど、これでも結構、需要があるんですよ」
「ふーん。感心ねえ」
うなずいたリョーコを、レイラがポリーナの着替えを手伝いながらたしなめる。
「リョーコ。感心ばかりしてないで、お店開ける準備をお願い。私は、ポリーナを学校まで送ってくるから」
そうそう。
私は、私の仕事をしなきゃ。
「了解。レイラさん、ポリーナちゃん、気を付けてね」
「それじゃあ、あと頼むわね」
レイラとポリーナは、ばたばたと慌ただしく出かけて行った。
残されたリョーコは焼きあがったパンをトレイに乗せると、店の陳列棚へと並べていく。
からん、と店の扉が開いた。
「おっはよー、リョーコ」
店に飛び込んできたのは、黒いショートヘアのボーイッシュな女性。
初秋に雰囲気ぴったりの、ブラウンのトレンチコート。
黒いインナーに青いデニムパンツ、白いスニーカー。
これはまた、なんというイケメン。
ヒルダときたら相変わらず、格好いい。
というか、惚れる。
ん?
「あれ、ヒルダ。試験明けで、今日はアカデミー休みじゃなかったっけ?」
「うん、学校はないんだけどね。久しぶりに、『緑竜寮』に顔出そうかなと思って」
緑竜寮。
何らかの理由で一人で暮らさなければならなくなった子供たちを、保護し養育するためのグループホーム。
ヒルダは、そこの出身である。
「そっか。子供たちみんな、ヒルダが来るのを楽しみにしてるわけだ」
「へへ。それで、ちょっと差し入れでもしようかなと思って」
ヒルダにとっては、弟や妹だもんね。
優しいお姉ちゃんしてるね、ヒルダ。
「そういうことなら。焼きたてパン、特別にサービスしちゃうわよ」
ヒルダはにっと笑うと、膨らんだコートのポケットをぽんと叩いた。
「ありがとう、リョーコ。でも、定価で大丈夫よ。バイトでふところは十分に潤ってますから」
あのクラブのバイトかー。
でも子供たちのパンになるのなら、ヒルダ推しのおじ様たちのお布施も、きっと報われることだろう。
めぐりめぐっていいことしてるわよ、おじ様たち。
「ヒルダは、ここで少し食べていく?」
「そうね、朝食まだだし。いつものホットドッグ、もらおうかな」
「了解」
その時。
店の奥から、黒いショートコートを羽織ったフリッツが姿を現した。
なぜ、このタイミングで。
リョーコの顔がさっと青ざめる。
「リョーコさん。それじゃあ、行ってきます」
思ってもみなかったフリッツの登場に、ヒルダはあ然として言葉も出ない。
彼女に気付いたフリッツはにっこりと笑うと、丁寧にあいさつをした。
「おはようございます。お姉さん、この前ここでちらっとお会いしましたよね? 僕、フリッツといいます」
「おはよう、ございます。私、ヒルダ、です」
すごい。
あのヒルダが、完全に気圧されている。
これが噂の、吸血鬼の魅了の能力では。
ないよね、やっぱり。
フリッツは、ぺこりとヒルダにお辞儀をした。
「少し急いでいるので、申し訳ありません。ごゆっくりしていってくださいね」
そしてリョーコの方を振り向いて、笑いながら小さく手を振った。
やめて、フリッツ君。
そのしぐさ、更に状況を悪化させてるよ。
「お昼までには帰ってきますから。昼食も僕が準備しますって、レイラさんに伝えておいてください」
フリッツはだめ押しにそう言うと、扉を開けて外へと消えた。
「……お待たせしました。ホットドッグでございます」
「ちょっと待って、リョーコ」
「はい、何でございましょう? フルーツジュースも、お付けいたしましょうか?」
ヒルダのこぶしが、ぶるぶると震えている。
「行ってきます、とか。お昼までには帰ってきます、とか。これって、そういうことよね?」
「あはは。どういうことかなー」
「しらばっくれるんじゃないわよ、リョーコ! あんたたち、いつから同棲してるのよ!」
「どうせい。何言ってるのよ、人聞きの悪い。ただの同居よ」
ヒルダの堪忍袋の緒は、ついに切れた。
「この前はキスがどうたらこうたら言ってたと思ったら、もう同棲。リョーコ、私というものがありながらー!」
「ちょっと待って、ヒルダ。誤解よ、誤解」
「問答無用! 二度と私のことが忘れられないように、その身体にたっぷりと刻みこんでやる!」
「落ち着いて、ヒルダ。ちょっと、服が破れる! ぎゃー!」
ベーカリー兼カフェ「トランジット」の朝は、まだ始まったばかりだった。