第一五話 スリーピング・ビヨンド・ザ・パスト
レイラはポリーナを寝かしつけると、リョーコとフリッツをダイニングルームに誘った。
「あ、レイラさん。私、紅茶を用意しますね」
リョーコが戸棚から、ティーカップを三つ取り出す。
「いいわよ。疲れてるでしょう?」
「任せてください。私、紅茶の入れ方が最近うまくなったんですよ」
やがて紅茶をそれぞれの前に並べると、リョーコも席に着いた。
紅茶を飲みながらの、しばらくの沈黙。
落ち着いたところを見計らって口を開いたのは、やはりレイラだった。
「さて、二人して、こんな夜中に帰ってきたわけだけれど。もちろん、ただのデートじゃなかったんでしょう?」
リョーコは、レストラン「ティッキング」での会話を思い返した。
うーん。
ただのデート、だったのかも。
悪魔とのバトルは、偶然だったわけだし。
フリッツのほうはといえば、視線を泳がせながら、ただ困ったような表情を浮かべている。
レイラは、そんな二人の顔を交互に見た。
「この前も今回も、子供たちが襲われている。あなた達がそれにどう関係しているのかは、わからないけれど」
フリッツは観念した。
ここが潮時だ。
これ以上、リョーコさんたちを巻き込むわけにはいかない。
「お姉さん、実は」
話し出そうとしたフリッツを、レイラは手を上げてやんわりと制した。
「何か、話したくない事情があるんでしょう? フリッツ君だけじゃなくて、どうやらリョーコも、私に隠し事があるようだし」
リョーコは、小さくなってうつむいた。
まったく、レイラさんにはかなわないなあ。
「別に、無理に話さなくてもいいのよ。あなたたちが間違ったことをしていないというのは、さっきのコレットちゃんの一件だけでもよく分かったから。……ただ、危険なことに首を突っ込んでいるのに違いないっていうのが、心配なだけ」
「……お姉さんのおっしゃる通りです。だから、僕はなるべく誰とも関わりたくない」
フリッツは低い声でそう言うと、リョーコの方へと向き直った。
「リョーコさん。僕が路上生活をしているのも、そのためなんです。僕と一緒にいると、きっと危険な目にあうことになる。だから……戦うのは、僕だけでいい」
フリッツは、疲れたように首を振った。
今までもずっとそうしてきて、そのたびに記憶をなくして。
永遠の牢獄。
黙って聞いていたリョーコは、テーブルをぱんと叩いて立ち上がると、フリッツに歩み寄った。
「何言ってるのよ。フリッツ君って、まだ半人前じゃない。頼れる年上がいなきゃ、命がいくつあっても足りないわよ」
フリッツはリョーコを見上げた。
彼女の瞳が、静かに揺れている。
「……ありがとうございます、リョーコさん。頼れる年上ってのは、少し引っ掛かりますけれど」
「もう、意地悪なんだから」
そんな二人を見て、レイラはうなずいた。
「そうそう。私に言わせてもらえば、二人とも半人前よ。二人合わせて、一人前。だから、二人一緒なら、きっとうまくいくと私は思うの」
「ん?」
「え?」
リョーコとフリッツは、レイラの言葉の意味を図りかねた。
「フリッツ君、路上生活してるって言ったわね。あなた、今日からこの家で生活するといいわ。あ、リョーコと一緒の部屋はだめよ。そこまでは私、許しませんから。私の夫の部屋があるから、そこを使ってね」
一つ屋根の、下。
リョーコは、恐る恐るフリッツを見た。
フリッツは彫像のように固まったまま、微動だにしない。
レイラはにっこりと笑った。
「そうそう、フリッツ君。これからは家族なんだし。お姉さん、じゃなくて、レイラさん、でいいわよ」
さすがレイラさん。
予想の斜め上を、はるかに越えてきた。
「あはは。大変なことになっちゃったねー」
リョーコはパジャマに着替えると、自分のベッドの上に大の字に寝ころんだ。
左胸の負傷は、その後のフリッツの回復魔法でほぼ完全に治癒している。
部屋の戸口に立っているフリッツは、レイラの夫レオニートの寝間着を着ていた。
「これ、お姉さ……レイラさんの、旦那さんの服なんですよね。すごく大きいなあ」
「レオニートさんって、王国軍の中でも相当に有名な突撃兵だったみたい。その服の大きさから想像するに、バトルハンマーでも軽々と扱えるような人だったんでしょうね」
「彼女の旦那さん、今は何を?」
リョーコは天井を向いたまま、額に手を当てた。
「レオニートさんね、五年前から行方不明なの」
「行方不明……」
「うん。レイラさんはあの通りの人だから気丈に振舞っているけれど、やっぱりつらいと思うんだよね。何か手掛かりはないかなあって、いつも気にしてはいるんだけど」
軍人さんならば任務がらみであるようにも思うけれど、レイラさんにも心当たりはないとのことだし。
まさか、今回の悪魔の件とは関係ないにしてもね。
「そうですか、確かに気になりますね。僕も、それとなく探ってみます」
「うん、ありがと」
フリッツは部屋の外に立ったままで、別の疑問を口にした。
「それよりも僕。リョーコさんのこと、レイラさんの親戚か何かだと思ってました。一緒に住んで働いていたりするから」
「ううん。私、一年前に森の中で倒れているところを、レイラさんに助けてもらったの。私行くところないって言ったら、じゃあ一緒に暮らそうって言ってくれて。本当に、感謝してる」
「倒れていた、って。でもリョーコさん、その前の記憶もずっとあるんでしょう? たしか、忘れることができないって言ってましたよね」
リョーコは仰向けのまま、遠い目をした。
「うん。レイラさんには嘘ついちゃってるんだけれど、本当は記憶、全部あるんだ。でも、行くところがなかったってのは、本当」
元の世界に帰ることなんて、できなかったし。
そもそも元の世界にも、帰るべき場所なんてなかったし。
リョーコの憂い顔を見て、フリッツはそれ以上深く聞くことをためらった。
沈黙。
「そ、それじゃ、リョーコさん。今日は本当にお疲れ様でした。とりあえず、しばらく一緒にお願いします」
扉を閉めようとするフリッツを、リョーコが引き留めた。
「フリッツ君。隣に来ない?」
え、と振り向くフリッツ。
「でも。レイラさんに、怒られますよ」
「大丈夫、一緒に寝ようって訳じゃないから。ただ……もう少し、おしゃべりしたくて」
そんなはずはないけれど、リョーコさんと僕は、どこか似ているところがあるのかもしれない。
いつ忘れるか分からないような、僕でいいのなら。
フリッツはうなずくと、後ろ手に扉を閉めた。
「そうですね。実は僕も、何となくそんな気分だったんです」
魔法の常夜灯が放つ淡いオレンジ色の光が、部屋の中を幻燈のように照らしている。
リョーコはベッドの上に起き上がると、壁に背をもたれて座った。
「よかったらここ、どうぞ」
勧められるままにフリッツはリョーコの隣に座って、同じように壁にもたれる。
リョーコは部屋の隅の暗がりをしばらく見つめていたが、やがてふうっと息をついた。
「今日は、本当にいろいろあったね。一緒に食事して、悪魔と戦って、女の子を助けて」
「リョーコさんが悪魔を倒したってのは、ちょっと驚きましたけれど。でも、怖かったでしょう? もうこれに懲りたら……」
リョーコが、フリッツの顔を下からのぞき込んだ。
ピンクの長い髪がさあっと揺れる。
「それがね、フリッツ君。私、怖くなかったの。君が一人で戦ってるって思ったら、私も負けてられないなあって」
「そんな。勝ち負けの問題じゃありません」
「そうだね。でも、私が戦えたのは君のおかげよ。……ありがとう」
そうじゃない。
僕は、ただのきっかけに過ぎないわけであって。
リョーコさんはきっと、この時が来るのを、自分で待ち望んでいたんだ。
「リョーコさん、これからも戦うんですか?」
「フリッツ君は、今のこの街の状況を放っておける?」
「もちろん、放ってはおけません」
「じゃあとりあえず私たち、子供たちを襲う悪魔を倒すために協力して戦う、って認識でいいのかな?」
リョーコは人差し指で、自分とフリッツを交互に指さした。
「……協力。会ったばかりで、しかも吸血鬼で記憶喪失の僕を、そんなに簡単に信じていいんですか?」
「それを言うなら私は、つまらないことをいつまでも覚えている、言い訳ばかりのさえない女だわ」
リョーコは、ふふっと笑った。
しかしその笑いには、もう自虐の響きはなかった。
「私、君を信じる」
フリッツの肩が、わずかに震えた。
「フリッツ君のこと、私まだよく知らない。でもそんなの、これからどうにでもなるわ」
リョーコは何がおかしいのか、けたけたと笑った。
「私、今ね。生まれて初めて、生きてるって感じなんだわー」
彼女は両手をいっぱいに伸ばして、大きなあくびをした。
そして毛布を手繰り寄せると、フリッツと一緒に羽織り、彼の肩に頭を預ける。
フリッツには、特に拒む様子もない。
「実はね、フリッツ君。私、灯りをつけていないと眠れないの。いい年して、おかしいよね」
「全然、おかしくありません」
フリッツは即答した。
デリケートであることは、弱さとは違う。
フリッツがそう答えてくれるのが分かっていたかのように、リョーコは眼を閉じた。
いままでは、そうだった。
でも、今夜は。
「……灯り、消してもいいかな?」
「ええ」
魔法の常夜灯が、リョーコの手の一振りですっと消える。
部屋の中に優しい闇と、静かな時間が訪れた。
やがてリョーコは、フリッツにもたれたまま寝入ってしまったようだった。
その寝顔は限りなく安らかで。
微笑みさえも浮かべて。
僕も彼女のことは、まだ全然知らないけれど。
きれいだな、リョーコさん。
フリッツは壁にもたれたまま、窓から見える月をいつまでも眺めていた。