第一三八話 セカンドキス
雲一つない、どこまでも続く青。
丘の上を渡る風は、若い草の香りを運んで、もうじき夏が来ることを予感させた。
約束の丘の頂上で、リョーコは正座して目を閉じていた。
目の前に「破瑠那」を横置きにし、両手を膝の上にそろえて、心持ち顎を挙げて。
わずかに苦みのある、土のにおい。
低くうなりを上げて耳元を通り過ぎる、虫の羽音。
肌に当たって柔らかく皮膚を刺激する、陽光の暖かさ。
リョーコは一心に五感を傾けて、自分の周囲にある全てを逃すまいと背筋を伸ばした。
記憶に頼りすぎることのはかなさ、切なさを、私はようやく学んだ。
もうすぐフリッツ君がここに来てくれる。
それだけで、いいではないか。
彼と私が同じ世界にさえ存在していれば、これからも無限の可能性があるのだから。
最初は気のせいかと思ったその足音は徐々にその大きさを増し、ついに彼女の前でその響きを止めた。
「本当に一人で来たんですか。正直、呆れました」
初めて聞いた時と変わらない、何度でも繰り返して聞きたくなる声。
リョーコは静かに目を開いた。
黒衣の美少年が、彼女からやや離れた場所にたたずんでいる。
やや困惑した彼の表情が、リョーコには懐かしく映った。
彼女は正座したまま、朗らかに笑った。
「やだな、君。こんないい天気なのに、そんな黒いショートコートなんか着て来て。暑いでしょ、脱いだらどう?」
フリッツは素直にコートを脱ぐと、傍らの草むらに放った。
白いハイネックのセーターに、黒い細身のスラックス。
これでエプロンを着けたら、もうそこは「トランジット」の店内だ。
自分の話に耳を傾けてくれたことに少し驚いた様子のリョーコに、フリッツが静かに言った。
「確かに、あなたの言う通りです。僕も、今日は少し暑いと思っていましたからね」
その髪と同じく漆黒の瞳のままで、彼は彼女を見ている。
あの憎しみを宿した暗い赤は、今はなかった。
「一晩で、何か思うところがあったのかしらね。今日はあんまり怖くない、なんていうのは、私の思い過ごしかな」
「変な期待はしないでください。今からここで、異世界転生者であるあなたとは決着をつける」
そう言い切るフリッツの言葉にも、昨日のようなとげとげしさは含まれていないように、リョーコには思えた。
彼女に対する彼の拒絶の意志は、変わらず固いにしても。
リョーコは別段、そのことに落胆はしなかった。
もし彼の雰囲気が本当に変化しているとするならば、それはもちろん、彼が私と和解してくれるなどというご都合主義の産物であるはずがない。
ただ、彼はどうやら、私に対する個人的な憎悪は取り下げてくれたらしい、とリョーコは感じた。
あなたは悪くない、あなたが生まれた世界が悪いんです、という奴か。
それはそれで、取り付く島もない話ではあるが。
「……うん、わかってる。私も、そのつもりでここに来ているから」
「あなたは、生き返る前の僕を良く知っているらしい。だが、僕はそれを聞きたくはありません。聞けば、きっと僕の決意は鈍る。僕とあなたは、きっとそんな関係だったのでしょう?」
そうよ、と思わずのどまで出かかった言葉を、リョーコは懸命に飲み込んだ。
彼だけじゃない。
これ以上話せば、私の決意も鈍ってしまう。
リョーコは短く笑うと、軽い口調で答えた。
「君の言う通りね。今までの私たちの関係なんて、気にする必要ないわ。なにしろ、これから私たち、斬り合うんだから」
そう言ってリョーコは目の前の「破瑠那」をつかむと、その黒い鞘をさっと払った。
真昼の陽光が降り注いでいるにもかかわらず、刀身から拡がる青い粒子が、目にも鮮やかに輝いて見える。
「言葉で分かり合えることなんて、そんなに多くないらしいわよ。これ、受け売りなんだけれどね」
フリッツも、銀の鞘からゆっくりと「スプリッツェ」を引き抜いた。
刀の表面に浮かぶ紋様が光を乱反射させ、プリズムのように虹をきらめかせる。
「いい覚悟です。正直、僕はあなたが嫌いにはなれない。だが同時に、あなたは僕と同じ世界にいてはいけない。理不尽だと思われるかもしれませんが、それがお互いのためだと思っています」
リョーコはうなずいた。
フリッツ君の言葉には、今の彼が最大限持ち得るだけの真心が、確かにこもっている。
今の私には、それだけで十分だ。
「オーケー、君の気持ちは分かったわ。それじゃ、始めましょうか」
リョーコは正座を解くと、ゆっくりと立ち上がった。
ポニーテールを揺らしながら、右手で「破瑠那」を掲げて見せる。
「フリッツ君、試みに問うけれど。私のこの刀で君を斬れば、君は『不死』ではなくなる、と言ったらどうする?」
フリッツは一瞬沈黙した後、凛として答えた。
「論外だ。異世界転生者を永遠に駆逐し続けるために、僕は『不死』を受け入れた。確かに僕は『不死』を憎んではいるが、同時にそれは僕の復讐を正当化してくれてもいる。仮にあなたの言うことが本当だとしても、僕は『不死』を治してほしいとは思わない」
リョーコは大きく息を吸い込んだ。
そうはいかないわ。
あの夕暮れの中で交わした君との契約は、まだ生きている。
「なるほど、これは治療のし甲斐があるわね。君が『不死』じゃなくなったら、かなりの部分が解決しそうだわ」
フリッツは、前髪の隙間からリョーコを刺すように見た。
文字通りまたたく間に、彼の瞳が暗く赤い炎を宿す。
「大した自信ですね。僕を斬れる、という宣言ですか」
「手術にはちょっと自信があるわよ。何のことか、今の君にはわからないでしょうけれど」
フリッツは左の親指の腹を、「スプリッツェ」の刃に押し付けた。
少しずつ、しかし確実に、彼の魔剣の赤い輝きが増していく。
「出会わなければよかったとは思いますが、これも奇妙な縁だったのでしょう。そしてそれは、ここで断ち切らせてもらいます」
「奇妙な縁、てのは同意するわ。もっとも私は、君と出会えてよかったと思ってるけれどね」
息をひそめたように、丘の上の風は動かなかった。
リョーコは身体を少し開くと、青く輝く長刀を頭の右横に水平に構えた。
両腕を交差させた、あの上段の霞の構え。
フリッツは眉をひそめた。
あの構えは基本的に、防御の型のはず。
上半身への打ち込みを受け、あるいは流すと同時に、斬撃や突きを入れる。
いわば、カウンター狙いだ。
僕を斬る、と先ほどまで息巻いていた彼女が、どうして霞の構えなのか。
先に一手を入れたいのであれば、上段か中段がセオリーではないのか。
僕にどうしても斬られたくない理由が、何かあるのか。
フリッツは素早く踏み込むと、袈裟懸けに大きく切り込んだ。
リョーコは微細な動きで大太刀の先端をわずかにずらすと、「スプリッツェ」の刀身をからめるようにすり上げて、真横にはじき返す。
予想よりはるかに速く重いリョーコの太刀さばきに、再び距離をとったフリッツは思わず下唇をなめた。
今の打ち込みは、治癒魔法を利用した、全力の一撃だった。
どこに、あんな力が。
フリッツのわずかな動揺を感じたのだろう、リョーコは涼しい顔で笑った。
「昨日言ったよね、私は君には負けないって。今日の私には、もう迷いはないわよ。あきらめて降参してくれたら、私的には最高なんだけれど」
フリッツは歯噛みした。
まるで僕に迷いがあるような物言いをする。
姉さん、僕に力を。
「僕にだって、迷いはない! 異世界転生者は、この世界にいてはいけないんだ!」
フリッツは冷静さをかなぐり捨てると、猛烈な連撃を繰り出した。
その全てを受けては流していくリョーコの額に、無数の汗の珠が浮かぶ。
リョーコもまた、自分の身体の元の所有者に祈っていた。
ティナさん、私に力を貸して。
今度こそ、一緒に彼を救おう。
きっとこれが、最後のチャンスだから。
ようやく見つけた攻撃の隙を狙って繰り出した「破瑠那」の剣先から、フリッツの姿が消えた。
動物的な勘で前方の地面に突っ伏したリョーコは、首筋に風を感じて、そのまま転がり身をかわす。
素早く立ち上がったリョーコの目に、悔しそうなフリッツの顔が映った。
リョーコは思わず自分の首をなでた。
危なかった。
「スプリッツェ」に斬られて記憶を失うどころか、首が胴から離れるところだった。
彼女が休む暇も与えることなく、フリッツは再び猛攻を加えてくる。
リョーコの霞はすでにその型を失い、彼女の方から反撃することなど及びもつかないほどに、ひたすら押しまくられていた。
ぎいん、とつばぜりあった二人は、額が触れそうなほどの距離でにらみ合う。
「どうしました? 守ってばかりじゃ、僕を斬ることなんか出来ませんよ!」
「……そんなこと、わかってる!」
わかってるけれど。
その剣がかすりでもしたら、君のことを忘れちゃうのよ。
リョーコは刀で押し合ったまま、膝蹴りをフリッツの胸板に叩き込む。
不意を突かれた彼は、警戒して距離をとると、再び「スプリッツェ」を構えた。
斬りこむタイミングを計るフリッツと、大きく肩で息をするリョーコ。
彼我の差は、もはや明らかであるように思われた。
リョーコは、ちらりと天を仰いだ。
あー。
やっぱりフリッツ君、強いや。
彼の攻撃を受けずに密着する、なんて、そんなにうまくいくはずもないか。
けれど、ね。
彼女は目を閉じると、満足そうに微笑んだ。
私は、みんなに約束したんだ。
彼を必ず連れて帰るって。
そして私は、彼自身にも約束したんだ。
君を治してあげるって。
医師は、治療の成功を必ずしも保証するわけではない。
保証など、できるはずもない。
必ず治します、などと口にする医師は、不誠実で嘘つきだ。
だからこそ医師は、目の前の患者に全力を尽くすのだ。
決して後悔のないように。
リョーコは、大太刀を上段に構えた。
正面から見据えたフリッツは、一瞬、間合いを失いそうになる。
彼女、覚悟を決めたか。
「……リョーコさん、といいましたね。次で終わりです、ごめんなさい」
「はは、やっと名前で呼んでくれたか。ありがとう、フリッツ君」
次の瞬間、二人は同時に飛び込んだ。
頭を狙ってくる、と予想していたフリッツは、完全に虚を突かれた。
リョーコは「破瑠那」を振り下ろさなかった。
彼女は自分の太刀の攻撃範囲を無視して、ひたすら彼へと突進する。
一瞬初動が遅れた「スプリッツェ」は、リョーコの胸を狙ったフリッツの思惑とは異なり、彼女の左脇を大きく切り裂いた。
ついに斬られた。
フリッツ君の血液をまとった、彼の魔剣に。
しかしリョーコは、それを気にすることはなかった。
これで、彼の懐に飛び込めた。
「ごめんね、フリッツ君。少しちかっとするけれど、すぐに終わるから」
リョーコは「破瑠那」をくるりと回転させて逆手で持つと、彼の右胸を薄く切った。
それで十分だった。
フリッツは、わずかに血がにじみ出す自分の傷から、昨日始まったばかりの真新しい記憶が流れ出していくのを感じた。
視界がぼやけ、胸の鼓動に合わせて頭の中が拍動するように痛みだす。
動きを止めて呆然としているフリッツを見て、リョーコは確信した。
この「破瑠那」は、ついにその本来の役割を果たした。
見た目で成功かどうかを判断することは出来ないが、あのグラム・ロックの男は、きっと嘘は言うまい。
彼はこの瞬間のために、この道具を私に譲渡したのだから。
「あっけないけれど、治療終了よ。君の記憶は、再びリセットされた。君の中にあった『肉体の不死』を制御する変性遺伝子も、そして、他人の変性遺伝子を破壊するためのキラー遺伝子も、すべて消滅した。もう君は、普通の人間よ」
そしてフリッツ君に斬られた私も、じきに普通の人間に戻ることになる。
まあ、記憶喪失者は、決して普通とは呼べないかもしれないけれど。
いずれにしても、彼の血液が私の全身に回る前に、急がねば。
リョーコは、混乱しているフリッツの首に左腕を巻き付けると、自分の唇を強く噛み切った。
彼女の口の端から、赤い血が糸を引いて流れる。
「ごめん、フリッツ君。本当は、君が治った今の時点で、さよならをするべきなんだけれど。私のわがまま、一つだけ聞いてくれるかな」
私との思い出を押し付けるようで、心苦しいけれど。
きっと君も、許してくれるよね。
そんなに悪いものじゃ、なかったと思うから。
「何を」
「あのファーストキスは、事故だったとしても。セカンドキスってのは、言い訳できないよね」
リョーコは照れたように笑うと、彼の目をやさしく覗き込んだ。
「好きだよ、フリッツ君」
リョーコはフリッツに顔を寄せると、優しく唇を重ねた。
「……!」
フリッツは、リョーコが自分の唇を噛む痛みを感じた。
彼の傷と彼女の血液が、口移しに触れ合う。
途端に。
メガバイト、ギガバイト、テラバイト。
ペタバイト、エクサバイト、ゼタバイト。
際限ない情報量の洪水。
失われたはずのフリッツの記憶が、彼の中へと流れ込み始めた。