第一三二話 フォーリング・ダウン
彼の口からじかに聞いていたはずなのに、いざそれを目の当たりにすると、脅威以外の何ものでもない。
フリッツ君は、本当に不死だったんだ。
リョーコは、自分の気持ちがわからなくなっていた。
彼に再び会えて嬉しいはずなのに、怖い。
私を知らないフリッツ君に、どう接していいのか。
そもそも異世界転生者の私が、今の彼に接してよいものなのか。
初めてフリッツ君と出会った時とは、お互いの認識も状況も、まるで異なっている。
しかしフリッツは、彼女に考える時間を与えてはくれなかった。
「そこのお姉さん、失礼しました。まだ、あなたが異世界転生者と決まったわけでもないのにね。少しお伺いしたいのですが、今もカナン王はご健在ですか?」
フリッツは黒い前髪の隙間からリョーコを上目づかいに観察しながら、薄く笑った。
彼女の腹の底が冷えた。
言葉遣いこそ丁寧だが、彼はこの場にいる誰一人として信用していない。
それに、いま彼が口にした、カナン王なる人物。
娘であるロザリンダに粛清されたばかりの先王ゴダールから逆算して、七百年も前の王だったはずだ。
やはりフリッツ君の記憶は、彼が最初に死んだ時にまで巻き戻っている。
恐れていたことが、最悪の形で起きた。
ロザリンダに切断されたはずの彼の両腕は、いつの間にか完全に再生しており、心臓まで達していたはずの胸の傷も、すでに閉じて跡形もない。
これが「肉体の不死」、自己転生なのか。
混乱のあまり彼の質問にとっさに答えることもできないリョーコをそのままに、フリッツは周囲を注意深く見まわした。
「この場所、見覚えがある。確か、王城内の謁見の塔。それならば、今ここには王がいるはずだな」
彼のつぶやきに応じて、満身創痍のエリアスが片膝をついて起き上った。
俺には、奴に答える義務がある。
かつての王国は、「不死」の実験を陰ながら援助し推進していたはずだ。
奴の悲劇に対する責任の一端は、我が王室にもあるのだから。
「おい、フリッツ。カナン王なんて爺さんは、七百年の昔にとっくに骨になって、今は霊廟の中だぜ。お前が王の血筋のことを言ってるんなら、俺と、そこに寝ている姉貴がそうだ」
王族であるというエリアスの名乗りを聞いても、フリッツの表情に変化はない。
エリアスの背に冷たい汗が流れた。
やはり奴は、王室に対しても恨みを募らせている。
すべての事情を、姉から、あるいはアンブローズという太古の科学者から、すでに聞かされて知っているのだろう。
「……七百年、そうですか。どうやら僕は、本当に不死だったようですね。そしてここがあなたの言う通り、僕が死んでから遥か未来だとすると」
フリッツは、ぎりりと奥歯を噛みしめた。
「姉さんは、もう影も形も存在していないってことだな」
彼の瞳の中の赤い輝きが、急にその強さを増した。
フリッツは復讐する相手を探すように、他の四人に射るような視線を送った。
「それで、あなたたちは悪魔と、ここで何をしていたんですか? 悪魔と戦っていたというならば、味方だという可能性もわずかにあるかもしれませんが。あいにく僕は、それほど楽観主義者じゃない」
前に踏み出そうとしたフリッツのコートのすそを、後ろから誰かがつかんだ。
胴を袈裟斬りに割られたガブリエルが、それでも崩壊の進行に耐えながら、フリッツを責めるような目でにらむ。
「待ってよ、フリッツ君。君、本当にリョーコの事を忘れちゃったの?」
フリッツは、煩わしそうに彼女の手を振り払った。
「驚いたな。お前、まだ耐えられるのか。一般の雑魚悪魔と違って、どうやらかなり強化されているらしいな。まあ、それも時間の問題だが」
フリッツが右手の魔剣を一閃させた。
残されたガブリエルの右腕が、肘から斬り飛ばされる。
両腕を失った彼女は、わずかに眉をしかめるのみで、痛みに耐えて話し続けた。
「私のことを、天使ではなく悪魔と呼ぶのか。どうやら、本当に記憶を失ったみたいね」
フリッツはガブリエルを嘲笑し、同時に自嘲した。
「お前、天使を自称しているのか。どのみちアンブローズのような悪魔と同じく、遺伝子改変が生み出した化け物だろう。この僕と同じにな」
徐々に崩壊が拡大していくのを感じながら、ガブリエルはフリッツに感謝すらしていた。
怪我の巧妙、という奴か。
彼の血液が私の変性遺伝子を破壊していくその過程が、ミストレス様の記憶による精神の浸食をも鈍化させている。
私はどうやら、私らしく死ぬことができるらしい。
「ふふ、ご名答。せっかくだから化け物同士、和解なんてできないかな? あなたは覚えていないでしょうけれど、私たち、結構うまくやっていけると思うんだけれど」
「おしゃべりな奴だ。僕が関心があるのは異世界転生者だけだ、部外者は消えろ」
フリッツは、今度はガブリエルの左の羽を、付け根から切断する。
さすがの彼女もたまらずのけぞると、声にならない声を上げた。
いてもたってもいられず、リョーコは二人へと駆けた。
もう耐えられない。
こんなフリッツ君、見ていられない。
血相を変えたリョーコを敵と認識したフリッツは、「スプリッツェ」を素早く引き上げた。
かつて彼女と訓練を交わしていたときの彼とは、別人のように速い。
異世界転生者に復讐することだけを考えている今のフリッツには、迷いというものが全くなかった。
リョーコの身体に、フリッツの血液で赤く輝く刀身が迫る。
まずい。
あれに斬られたら、私まで記憶を失ってしまう。
お互いの記憶を失ってしまえば、フリッツ君とは全くの他人になってしまう。
ロザリンダとの戦いで消耗していなければ、あるいはリョーコの剣技はフリッツにも引けを取らないかもしれなかった。
だが今の状態では、彼女の動きは治癒魔法で強化された彼に遠く及ばない。
「スプリッツェ」をなんとか受け止めようと、リョーコの「破瑠那」がようやく剣先を上げかけた瞬間。
ガブリエルが両脚だけで立ち上がると、無理やり二人の間の割り込んだ。
だめだよ、フリッツ君。
リョーコと君をつないでいる記憶という糸を、自分から切っちゃいけない。
ガブリエルの背中に、「スプリッツェ」の刀身が強く食い込む。
リョーコと、彼女ををかばったガブリエルの顔が、お互いに触れそうなほどに近づいた。
「リョーコ、大丈夫? あれ、かすっただけでもやばいからね」
汗と血にまみれたガブリエルは、陽気にリョーコに笑ってみせた。
彼女の身体から薄く立ち上る崩壊の白煙が、少しずつその濃さを増していく。
リョーコはガブリエルを支えると、彼女の肩越しにフリッツに叫んだ。
「もうやめて、フリッツ君! 私の友達を傷つけないで!」
フリッツはリョーコに軽蔑の視線を送った。
「悪魔と友達、ですか。あなたもどうやら、ただの傍観者じゃないらしい」
リョーコの目に涙がにじんだ。
今まで二人で幾多の艱難辛苦を乗り越えて、ようやくつかんだお互いの信頼と愛情は、一体何だったのか。
あれだけ心を通わせ、肌を合わせても、もう何も残っていないのか。
人が死に別れるということは、こういうことだったのか。
その人の記憶に残らなくなった時が本当の死だとすると、フリッツ君の中の私は、もう死んでいるのか。
私はここにいるよ、フリッツ君。
生きてるんだよ。
リョーコは両手を強く握りしめると、ありったけの声で叫んだ。
「フリッツ君の馬鹿ぁ! 前にも言ったじゃない、私はリョーコよ。あなたとか、そんな風に呼ばないで!」
フリッツは動きを止めた。
何か逆らい難いものを、彼女の内に感じたからであった。
もし彼女が異世界転生者だとすれば、僕と彼女の間には、何らの理解も存在するはずがないのに。
それなのになぜ彼女は、自分を傷つけようとする僕に、あんなに哀しそうな目を向けるのだろう。
戸惑うフリッツを涙目でにらみつけると、リョーコはガブリエルに視線を戻した。
両腕を失っている彼女を、リョーコはそっと抱きしめる。
強く抱きしめたりすれば、ガブリエルは文字通り粉々になってしまいそうだった。
「ひょっとしたら頭いいんじゃないか、なんて思い違いをしてたけれど。あんたは馬鹿よ、ガブリエル。友達じゃないなんてひどいことを言った、私をかばって」
「あはは。馬鹿から馬鹿って言われるのは、しゃくにさわるわねえ。でも、リョーコがフリッツ君の思い出を失うなんてこと、あってはならないわ。あんたから恋心を取ったら、何が残るっていうのよ」
ガブリエルの身体は、すでに所々が崩れ落ちている。
とても創縁の切除なんかでごまかせるレベルじゃない。
立っているのが、話しているのが、不思議なくらいだ。
ガブリエルはようやくの事で振り向くと、動けないでいるフリッツにウィンクを放った。
「でも一応、君にも感謝しとかなくちゃね。君が斬ってくれたおかげで、最期にちょっとだけまともでいられた。あとはリョーコが、きっとあなたを治してくれる」
ガブリエルの足元が大きくふらつく。
彼女はリョーコの耳に口を近づけると、小さくささやいた。
「ダウンロードだよ、リョーコ。忘れないでね」
そしてガブリエルは彼女から体を離すと、大きく開いた広間の窓の方へと、足を引きずりながら近づいていった。
彼女の肉体の破片が間断なく床へ落ちては、白煙を上げて消滅していく。
「待って、ガブリエル! どこへ」
「リョーコ、私だって女の子なんだから。自分の顔が崩れるところなんて、誰にも見られたくないよ」
そう言ってガブリエルは、眠っているロザリンダをちらりと見る。
彼女の口が、さよならの形に動いた。
ミストレス様、お健やかに。
そして大天使は塔から身を投げると、天から地上へと落ちていった。