第一三話 個人授業
人通りのない暗い裏道をすり抜けて、リョーコとフリッツ、それに傷ついた少女の三人は、ベーカリー「トランジット」の勝手口にたどり着いた。
また夜歩きしちゃったなあ。
レイラさんに、男遊びしてるなんて思われてないかしら。
これも全て、あの悪魔ってやつの仕業なのよ。
リョーコは人差し指を唇に当てて、フリッツに音を立てないようにと合図をした。
神妙な顔でうなずくフリッツ。
リョーコは、ゆっくりと勝手口の扉を押し開け。
そこに、腕を組んで仁王立ちしているレイラの姿を見た。
「わあっ!」
あまりの驚きに、リョーコは情けなくも、しりもちをついてしまう。
レイラのいつもと変わらない笑顔が、今はただ恐ろしかった。
「おかえり、リョーコ。そろそろ帰ってくる頃だと思って」
「ど、どうしてわかったの?」
「あれ、言ってなかったっけ? 私、結婚する前は、王国軍の官舎の寮母をしていたのよ。門限破りを待ち構えるのなんて、朝飯前よ」
すまして答えるレイラ。
鬼の寮監か、これはまずい。
リョーコはもみ手をすると、卑屈に愛想笑いをした。
「するってえと、旦那さんのレオニートさんとも、そこで出会ったんでげすね。それはまことに、めでたいこって」
レイラは、そんなリョーコを冷ややかな目で見下ろした。
「リョーコ、キャラ崩壊してるわよ。この前あんな目にあったばかりなのに、性懲りもなくいったいどこで……ん?」
レイラは、リョーコの後ろに隠れるようにして立っているフリッツに気付いた。
「あ、君は。この前、うちの店に来てくれた」
レイラの顔が一瞬ぼうっとなる。
美少年は、丁寧にお辞儀をした。
「フリッツです。夜分遅くに申し訳ありません。実は、火急の要件で」
彼は、腕に抱きかかえている少女を目で指し示した。
気絶している彼女の目に刻まれている深い傷を見て、レイラが思わず口を覆う。
「……何てこと」
「この子が夜道に倒れているところを、たまたま通りがかった僕ら二人が見つけて。とりあえず、近くのこちらに運ばせてもらおうということになって」
レイラは少女の顔に灯りを近づけると、驚きの表情を浮かべた。
「この子、ポリーナの同級生のコレットちゃんだわ。……でもコレットちゃんは、確か金髪だったと思うんだけれど。どうして、こんな銀髪に」
リョーコは、慌てて言いつくろった。
悪魔の鈴の音で髪の色を変えられたなんて、とても信じてもらえそうにない。
「負傷したショックで、色が変わっているのかもよ。ほら、凄く怖い思いをしたときに、髪が真っ白になったって話、聞くじゃない?」
レイラは腑に落ちない表情をしていたが、それ以上深くは考えずにうなずいた。
髪の色などを心配している場合ではない、と判断したのだろう。
「そう、そうかもしれないわね。それで、命に別状は?」
フリッツが素早く答える。
「ありません。しかし目の傷は、今すぐに治療が必要です」
「治療。でも、こんな深い傷……」
フリッツは微笑しながら、リョーコを指し示した。
「僕、実は治癒師なんです。一人では厳しいですが、リョーコさんが手伝ってくれれば、何とかなるかもしれません」
「え、リョーコが?」
「はい。僕の治療には、リョーコさんの助けが必要なんです」
フリッツ君、その台詞、実におしいぞ。
「僕には、リョーコさんが必要なんです」
てな感じに、短縮変更してくれないかなあ。
くだらない妄想をしていたリョーコは、はっと我に返った。
いかんいかん。
一刻を争うのに。
レイラは、内心の不安を隠しきれなかった。
フリッツ君、っていったっけ。
彼の事を疑うつもりはないけれど。
治癒師って、擦り傷を治すとか、ちょっと熱を下げるとか。痛み止めをするとか。
そのくらいが限度だというのが、一般的な評価じゃなかったかしら。
現存する人数が極端に少ないから、実際に見たことはないけれど。
あんなにひどい怪我、本当に治せるの?
レイラは、リョーコとフリッツを交互に見た。
ひたむきな、まっすぐな瞳。
大丈夫だ。
この二人なら、きっとやってくれる。
レイラは大きくうなずいた。
「わかったわ。リョーコにフリッツ君、コレットちゃんのことは任せたわよ。私は、彼女のご両親に連絡してくるから」
レイラはエプロンを外すと、クローゼットの扉を開けて外出用のコートをつかみ出した。
「お願いします、お姉さん。じゃあリョーコさん、お部屋にお邪魔してもいいですか?」
フリッツ君が、私の部屋に。
リョーコは、ばつが悪そうにレイラの顔色をうかがった。
「二人きりじゃないし、男の人を部屋に上げちゃっても、いいよね。寮母さ……もとい、レイラさん」
レイラがあきれたように言った。
「別に二人きりでも、構わないけれど。しょーもないこと言ってないで、早く行きなさい」
リョーコが、にっこりと笑ってうなずいた。
知り合ったばかりのフリッツをレイラが信頼してくれていることが、彼女にはうれしかった。
「ありがとう、レイラさん」
そう言うが早いか、二人は階段を急いで上がって行った。
フリッツはコレットと呼ばれた銀髪の少女を、リョーコの寝台にそっと横たえた。
少女はよほどのショックを受けたのだろう、多少ゆすったくらいでは、目を覚ましそうにもない。
「じゃあ、急いで始めましょ。まず道具を準備して、と」
リョーコはいったん部屋から姿を消すと、やがて様々なものを抱えて戻ってきた。
水のたっぷり入った洗面器。裁縫に使う片目の拡大鏡。
それに、ノートと万年筆。
「フリッツ君。眼球についての知識、記憶にある?」
「いえ、全然です」
眼球、どころか。
ここ七百年ほどの記憶が、欠落している。
「了解。ちょっと紙に書いてみるから、イメージしてみて」
そう言ってリョーコは、眼球の構造をノートに書き込みながら図解していった。
「まぶたが、まずあるよね。その下におさまっている眼球には、一番表面に、角膜っていう膜がある。で、その奥に、虹彩と水晶体。水晶体って、カメラのレンズなんだけど……ここ、カメラってあったっけ?」
「ここって、この国にってことですか? かめら……聞いたことないですが。でもレンズなら、その拡大鏡にもついている奴ですよね?」
「そう、そうね。そして、その下の眼球の大部分には、硝子体っていうゼリーみたいなものが詰まっているの。そして眼球の裏面には、網膜っていう膜が張り付いていて、根元のここ、視神経っていうところにつながっている」
リョーコはさらさらと書き込みながら、フリッツの反応を確かめていく。
ごめんね、フリッツ君。
本当は、ゆっくり教えてあげたいんだけれど。
フリッツはノートを見つめ、時々うなずいたり復唱したりしながら知識を吸収していく。
「うん……うん。機能はともかく、構造については分かってきた気がします。治癒魔法は、目標となる組織がイメージできれば、それと同じ組織を新しく再生できますから。どこに何があるかがおおよそ分かっていれば、何とかなると思います」
「そうなんだ……。あらゆる細胞を複製して拒絶反応なく生着させるって、ノーベル賞級だわ」
「のーべる……何です?」
「ううん、何でもない。じゃあ後は、実際に進めていきましょ」
コレットちゃん。
もう少しだけ待っていて。
「フリッツ君。確か治癒魔法には、『鎮痛』のほかにも『鎮静』があったわね」
フリッツは驚きの連続だった。
彼女が一度覚えたことを忘れることができないというのは、どうやら事実らしい。
「本当に詳しいなあ。その通りです、リョーコさん」
「動いちゃうと危ないから、まず『鎮静』、次に『鎮痛』の順番でお願い」
「わかりました」
フリッツはコレットの胸に手を当てて「鎮静」、次に眼に手をかざして「鎮痛」の魔法を施した。
「終わりました。これで、当分は大丈夫なはずです」
「ありがと。じゃあ、次は『浄化』で。コレットちゃんの傷ももちろんなんだけれど、私と君の手指、それに洗面器の水も一緒にお願い」
「……なるほど。手指や水が汚れていると、傷を悪くする可能性があるんですね」
さっすがあ。
彼、見た目も頭の中も実にスマートだわ。
「フリッツ君、優秀すぎるわね。治癒師アカデミー、行けばよかったのに。きっと首席よ」
もう一人、魔導士アカデミーにもとんでもない首席がいるけれど。
フリッツは「浄化」を行いながら、苦笑いで答えた。
「それは無理だなあ。僕、習ったこと、きっと忘れちゃいますから。僕ほど治癒師が不向きな奴なんて、いないですよ」
リョーコは、自分の軽はずみな発言を後悔した。
一年前より以前の記憶がないんです。
フリッツ君はあの時、そう言った。
それはきっと、私が過去の出来事を忘れられないのと同じように、とても苦しいことに違いない。
私って、無神経だな。
リョーコの沈黙の意味を察したのか、フリッツは努めて明るく笑った。
「別にアカデミーへ行かなくても、こうしてリョーコさんが教えてくれるし。いつ忘れるか分からないのは申し訳ないですけれど、この治療が終わったら、また色んなこと教えてください」
フリッツ君は、いつもそうだ。
自分の気持ちを内側に隠して。
私、別に彼の何でもないけれど。
ちょっと、寂しいじゃない。
そんなリョーコの横顔をを見つめていたフリッツが、冗談交じりに言った。
「あ、教えてくれるのは、勉強だけで結構ですよ。何やら最近お姉さんぶってますけれど、リョーコさんの人生経験って、かなり偏っている気がするんですよね。正直、こう、ポンコツ感が隠し切れないというか」
初めて出会った時の、処女じゃないって偽証発言が、やはり尾を引いているのか。
返す返すも、あの発言は軽率だったと言わざるを得ない。
リョーコは顔を赤くしながら、精一杯の抗議を行った。
「もう。いずれ、汚名返上してあげるんだから。それより『浄化』が終わったんなら、さっそく治療、始めるわよ」