第一ニ四話 回光返照
他人の記憶で生きることが、果たして自分の人生といえるのだろうか。
何か行動しようと考えたときに、それにうまい具合に対応する他人の記憶を引っ張り出してきて、それを常に参照する。
いうなれば、対症療法だ。
それは結局、行動を自分で決定しているのではなく、入力に対する最適解を莫大なデータベースが吐き出しているだけなのではないのか。
こんな自分の考えも、実は自分のものではなくて、このいかれた男の言葉に反応して選び出された、あらかじめ用意された誰かの感想に過ぎないのかもしれない。
ガブリエルは、自我境界というものがあいまいになっているのを感じた。
そのあいまいさをただ自分が感じているだけで、現実には自分と他人との境界がはっきりしているのであれば、リョーコならば私に統合失調症という病名を提示したかもしれないが。
実際に境界がないとすると、それは病気とは呼べまい。
混乱している彼女に、グラム・ロックの男は淡々と事実を提示していく。
「あなたはいうなれば、プロトタイプ・リョーコとして造られた存在なのです。常時接続でアカシック・レコードとアクセスできるかどうかを確認するための、被験体。しかし、あなたが造られた当時の技術はまだ不完全で、個体識別用のあなたのパスワードRNAは傷つき機能していませんでした。だからあなたは自身固有の記憶を送受信することができず、他人の記憶がランダムに受信されることになったのです」
もう、やめて。
「そして、その後改良されたRNAは記憶の個体ラベリングを可能にし、かくして『記憶の不死』が生まれました。それがすなわち、ミス・リョーコというわけです」
リョーコ。
助けて。
ひどい頭痛に、ガブリエルは嘔吐した。
それを潮時に男は話を終えると、壁にもたれて彼女の反応を待つ。
うつむいたままのガブリエルは、肩で息をしながら、低い声をしぼり出した。
「……あなたが私を、そんな風に造り替えたの?」
男は大仰に手を振ってみせた。
「とんでもない、私はそれを弾劾する立場にいるのです。首謀者は別の次元で、私の同僚が目下調査中ではありますが。あなたには本当に、お気の毒としか言いようがありません」
ガブリエルはこらえきれずに、もう一度嘔吐した。
すべてを吐き出してしまいたかった。
空っぽの方が、どれだけましか。
「……そんな話を聞かせて、あなたは私に何をさせたいの? 絶望を味合わせて、ただ悦に入りたいだけ、ってわけじゃないんでしょう?」
男は、今度は彼女を茶化すようなことはなかった。
値踏みするようないつもの表情も、今はその影を潜めている。
「他でもありません。ミス・リョーコの記憶を、あなたの中へとダウンロードしていただきたいのです」
リョーコの記憶を、私の中にダウンロードする。
まあ、一人や二人の記憶が増えたところで、私にとっては誤差だという気はするが。
もちろんリョーコにとっては、迷惑きわまる話ではあろう。
不感症になりつつあるガブリエルに、男は説明を加えた。
「あなたの武器に少し細工をさせていただければ、それで彼女を斬ることによって、彼女の記憶をあなたの中にダウンロードすることが出来るようになります。幼少時にまでさかのぼる、ほぼすべての彼女の記憶を」
男は、彼女の胸を指さした。
彼女の中にある、ヘヴンズ・ヒロイニック・ブレードを。
「そんなことをして、それまでの彼女の記憶は?」
「もちろんデリートされます。同一記憶が複数存在することは、多次元世界のルールに反することですので。ダビングではなく、ムーブと考えてください」
こいつの目的がわかった。
「記憶の不死」についての情報を持つリョーコの記憶を、処分したいのだろう。
「まどろっこしいわね。彼女の変性遺伝子を破壊して、『記憶の不死』の連鎖を消滅させればいいじゃない」
グラム・ロックの男は、複雑な表情をした。
あり得ないことだが、この男は明らかに後悔しているようだった。
「彼女は自分が『記憶の不死』から解放されることを拒否し、そして私はそれを認めてしまいました。フリッツが『肉体の不死』でなくなれば、それで『完全なる不死』の誕生は阻止できると考えたので」
そこまで言って、男は首を振った。
誤算だった、と言わんばかりに。
「ですが私の上層部は、彼女の記憶は将来の憂いになると判断しました。板挟みになった私は困り果てた挙句に、こうしてあなたに頼みこんでいるというわけです」
なるほど。
この男はきっと、リョーコの記憶を奪わないことを保証してしまったのだろう。
話の内容からすると、多次元間を活動している観察者か監視者なのだろうが。
自分の甘さが、その仕事に支障をきたしているということか。
「とんだ嘘つきね、フリッツ君との記憶を奪わないってリョーコに言っておきながら。自ら手を下さずに私にやらせるなんて、卑怯過ぎない?」
男は、さも悲しそうな表情を作った。
「あなたはどう思われますか? ミス・リョーコがたとえ『記憶の不死』のままでいるとしても、フリッツ殿の記憶を持ったままでは未来永劫苦しみ続けるとは思いませんか? せめてリセットしてあげれば、少しでも彼女の悩みを減らせるのではと思いませんか?」
ガブリエルは笑った。
心の中だけではなく、実際に声に出して。
文字通り血も涙もなく多元世界を操作している存在が、まさか人情に訴えてくるとは。
男は前かがみになると、スーツのスラックスに着いたほこりを神経質そうに払った。
「いずれにせよ、私はこの世界に直接干渉することはできません。私の希望としては彼女の記憶を消してしまいたいとは思っていますが、そこはあなたに委ねます。ずるいと思われるかもしれませんが、この世界にもある程度の自己決定権は残しておきたいのです」
そう言って男は、目に痛いほどに赤い唇をわずかに曲げて、薄く笑った。
「まあどうなろうと、責任は私がとりますのでご心配なく。これでも、仕事にはささやかなプライドを持っていますので」
誰がお前の心配などするか。
むしろお前の話でずたずたになった、私のことを心配しろ。
「でもリョーコの記憶が危険だとして、それを私が引き継ぐのも、あなたにとっては都合が悪いんじゃないの?」
「あなたは天使です、いずれ崩壊します。そして天使と悪魔は崩壊するときに、その遺伝子情報もすべて消滅します。勝手に遺伝子をいじった代償としてね。結果、普通の人間ならばどこかに転生するところを、あなた方はすべての次元から、ただいなくなるのみです。まあ、自分が転生したことなど認識できない方々がほぼ全てですので、そこのところはあまり悲しまなくてもよいかと」
そうか。
いずれ遺伝子情報ごと消滅する私に、都合の悪い記憶を押し付けるという算段か。
「ふん、私はデータを確実に処分できるごみ箱ってわけね。上等じゃない。だけどどうせ私の主は、リョーコとフリッツ君を『不死』の情報ごと消してしまうつもりよ。ミストレス様に任せてしまえば? 我が主がリョーコを消してしまえば、あなたがリョーコとの約束を破ったことにはならないじゃない」
男は初めて、その表情に嫌悪感を見せた。
「仮にも『不死』を僭称しようという人物を、我々が容認できると思いますか? あなたの主ロザリンダが彼らに滅ぼされればそれでよし、万が一にも彼女が『完全なる不死』となったときには、必ず我々の干渉でもって、彼女を排除させていただきます。あくまでルールに従おうとしないあなたの主には、未来はありません」
何がルールよ、勝手にそんなもの決めないで。
実際に不死が存在してるんだ、チートではなくて仕様でしょうが。
そのルールを作った造物主とやらのミスだ、別にミストレス様が不正をしているわけじゃない。
「そうか、あなたは明確な我々の敵か。そんな奴の言うことに、私が黙って従うと思っているの? 見損なわないでよ」
「勘違いしないでください。これは、あなたとあなたの主との間の話ではありません。あなたと、ミス・リョーコとの問題なのです。だから、あなたにお任せしますと言っているのですよ」
つまり、リョーコを殺さないために、彼女の記憶を奪えと言っているのか。
もちろんミストレス様にやられてしまえばそれまでだが、それはそれで、わが主とリョーコとの問題だ。
リョーコが生き残ったとして、その時点で彼女の記憶を奪っておけば、その後リョーコはこいつらから狙われることはないってわけだ。
リョーコには死んでほしくない。
でも、フリッツ君についての記憶を奪うなんて言ったら、彼女は烈火のごとく怒るだろう。
私を決して許さないだろう。
リョーコ。
あたし、あなたに何ができるのよ。
ミストレス様とあなたが相いれないのに、仮定の話ばかり考えたって、どうしようもないじゃない。
いっそのこと、ここに来ないでくれれば、私は救われるのに。
「……あなたの依頼を受け入れるとして、私のメリットは?」
「ありません。あなたのミス・リョーコへの友情に、ただ期待するのみです」
灯りが一度、大きく揺れた。
ろうが燃え尽き、溶け切ろうとしている。
ろうそくの炎は燃え尽きる瞬間に一番強く輝く、とガブリエルはどこかで聞いたことがあった。
この知識でさえ、どこの誰のものかはわからないけれど。
この瞬間に思い出したということは、今の私には必要なものなのだろう。
「あなた、意外と要領悪いわね。総合して考えてみれば、別に私のところに来なくったって良かったんじゃないの? ミストレス様が勝とうが、リョーコが勝とうが、いずれにしたってリョーコの記憶はなくなっちゃうんでしょ?」
男の表情は動かない。
「先ほども言いましたが、私たちはこの世界に干渉することはできません。私たちが直接彼女の記憶を奪うことはできないのですよ。私はあなたがその役目にふさわしい、と考えただけです。少なくとも、あのロザリンダよりはね」
意外だ。
この男は、その存在意義すら危うい私のことを、どうやら買ってくれているようだ。
まったく、嫌な奴。
ガブリエルは、どうすればいいのかわからなかった。
だから、わからないまま答えた。
「とりあえずあなたの言うその力、もらっておいてもいいかしら? 持っておくだけならば、私に損はなさそうだし」
「結構です、私にも損はありませんからね。あなたがどうするかは不確定要素ですが、いずれにしても可能性が一つ増えたわけですから」
「なんだか癪な話ね。ただし、一つ条件があるわ」
「何でしょう?」
ガブリエルは、男を冷たくにらんだ。
「私の主を呼び捨てにするな。……実体のない私のことなどは、なんと呼ぼうとかまわないから」
男は腕を組むと、ガブリエルをじっと見た。
奇妙なことに、その瞳に常にあった冷たさは、今はもうない。
「一つ言っておきましょう。私があなたに真実を話したのは、人が勝手に真実をゆがめることがどれだけ醜い結果を引き起こすか、そのことを伝えたかったからです」
この男は、私が人ではなく人造の天使であるからこそ、こんな話を私にするのだろうか。
私なんかに伝えたところで、何かが変わると思っているのだろうか。
そのようなガブリエルの心を知ってか知らずか、男は続けた。
「私にもそれなりの思惑はありますから、あなたには残酷な話をあえてしましたが。あなたにはあなたにしかできない役割があるのだと、私自身は思っています。あなたがご自身のことを、どう思っておられるにしても」
まったくこの男は、いちいち私の意表を突いてくる。
「何よそれ。私をいじめたことへの、お詫びのつもり?」
「解釈はいかようにも。おっと、かなり長居をしてしまいましたね。突然の非礼はお詫びいたします、それでは私はこれにて」
男は腰を折って芝居じみた挨拶をすると、現れた時と同じように忽然と消えた。
ガブリエルは、自分の胸が熱を帯びているのを感じた。
あの男が話していた力が、私の剣に宿ったのだろう。
不意に、部屋の中がひときわ明るく輝いた。
きれい。
そう思った直後、周囲は深い暗闇に包まれた。
ついにろうそくが、全て燃え尽きたのだった。