第一ニ二話 王城へ
木の葉の間を縫ってところどころ差し込んでくる陽光が、下生えの花を朝露に輝かせていた。
春の暖かさを含んだ風が、森の外からリョーコを誘うように流れてくる。
彼女は笑いながら、小さく片手を上げた。
「それじゃあ、行ってくるね。みんな」
リョーコとフリッツがそれぞれ持つ「記憶の不死」と「肉体の不死」を手に入れんとするロザリンダを止めるために、王城へと乗り込む。
一行が決めていることといえば、単純にそこまでだった。
どうやって止めるのか。
説得が通じるような相手であるのか。
殺すしかないのか。
わからない。答えられない。
でも何もせず、ただここにいるわけにはいかない。
もう逃げないって、君に出会った時に決めたから。
リョーコは、隣に立つフリッツの横顔を見つめた。
レイラが一同をかきわけて進み出てくると、リョーコとフリッツを両手で抱きしめた。
王国内でも屈指の膂力を誇る彼女の腕が、二人を強く包む。
「リョーコ、絶対に帰ってくるのよ。そしてまた、街の人たちに美味しいパンを食べてもらおうね」
レイラの胸の中で、リョーコがうなずいた。
家族と言ってくれた人の暖かさを、しっかりと心に焼き付けておきたい、とリョーコは思う。
忘れることなどないはずなのに、それがあまりに儚く思えて、彼女は小さく震えた。
「了解、レイラさん。新しいメニュー、考えとくから」
レイラはリョーコの背をさすってやると、フリッツの方へと目を向けた。
「フリッツ、あなたもよ。無事に戻ってきたら、リョーコと一緒の部屋で寝ること、特別に許可してあげる」
「本当ですか、鬼の寮長さんの言葉とも思えませんね。わかりました、最善を尽くします」
「まあレオニートが帰ってきたから、どのみち部屋は一つしか余ってないんだけれどね」
レイラの冗談に小さく笑うフリッツは、あるいは初めて感じる温もりにとまどっているのかもしれなかった。
この幸福な一瞬も、やがて僕は忘れてしまうのだろうか。
不死の輪廻から抜け出すことと引き換えに。
そして、リョーコさんのことまでも。
もう一度、もう一度だけだ。
それですべてが終わる。
そう思っても、それはフリッツには到底飲み込めるものではなかった。
今この瞬間は、この体験は、一度しかないのだから。
限りなくループしてきた僕なのに、こんなにも時が止まってほしいと思うなんて。
レイラが泣き笑いの表情で、もう一度二人を強く抱きしめた。
リョーコとフリッツの未来が案じられて、言葉にできない。
私は、異世界のことなんて全く分からない。
これからこの二人がどうなるかなんて、予想もつかない。
でも、これだけは言える。
この子たちは、もういい加減に幸せになってもいいはず。
そうでしょ?
レオニートが、レイラの肩を優しく叩く。
彼女はリョーコとフリッツからゆっくりと離れると、厳しい母親の表情に戻った。
「それでは、二人とも。ちゃっちゃと話をつけたらすぐに戻ってきて、お店の手伝いをすること!」
「はい!」
「では、出発するとするか」
エリアスはヒルダの愛馬であるところの、堂々たる体躯の白馬にまたがった。
カレンが両手を組んで、馬上の彼を見上げる。
「陛下、お気をつけて。無事のお帰りをお待ちしております」
カレンは自分の気持ちがうれしかった。
陛下が異世界転生者だと知っても、何も変わらなかった。
いや、もっと恋しくなった。
それのどこが悪いのか、と開き直った今の彼女の心は、実に晴れ晴れとしていた。
私の愛情が陛下の足かせになるというのならば、私はそれをどこまでも秘めることが出来る。
友情でも信頼でもただの成り行きでも、何でもいい。
私はただ、陛下のそばにいたい。
だから、どうしても不安な顔を見せてしまう。
側近として、私は失格だ。
エリアスは馬上から、そんなカレンの栗色の髪をそっと触った。
直立していた彼女が、ぴくりと震える。
「心配するなと言ったところで、カレン。君のことだ、心配するに決まっているな。気休めは言わん、ロザリンザは手ごわい」
「陛下」
「だが、俺一人が倒れたらつぶれてしまうような国家は、しょせん砂上の楼閣だ。メリッサとよく相談して、新しい国の礎を創っておいてくれ。任せてもいいな?」
カレンはうなずくしかなかった。
王の命令は、絶対だ。
エリアス様の言葉は、私の命だ。
「……エリアス様。死んでは、いやですよ」
カレンは昔からそうしていたように、自分の主君を名前で呼んだ。
エリアスはにやりと笑って、彼女の髪をくしゃくしゃとかきまわす。
「馬鹿だな、そいつは俺も同じさ。それよりも、帰ってきたら忙しくなるぜ。俺も心を入れ替えて仕事をするから、その時は君が俺に紅茶を淹れてくれよ。ほかの奴らが淹れたやつは、不味くて飲めたもんじゃないからな」
カレンはぼさぼさになった髪のまま、最高の笑顔を送ろうと努めた。
「はい。私の紅茶だけを、お飲みになってください。これからも、ずっと」
「ヒルダさん。陛下たちのこと、頼んだわよ」
エリアスの後から馬に乗ろうと歩きかけたヒルダに、メリッサが声をかけた。
くるりと振り返るヒルダの動きがいちいち恰好良過ぎると、彼女は小憎らしくなる。
あなたはやっぱり、最高のダンサーね。
ヒルダはメリッサに、おどけたように敬礼を返した。
「了解です、先輩。それよりも、私がお渡しした資料、ちゃんと読んでおいてくださいよ?」
「政治体制についての分類と定義は、おおざっぱだけど理解したわ。まずは憲法と法律を、これから勉強しとく。それにしてもヒルダさん、あんなに多くの条文、よく覚えてたわねえ」
ヒルダは、意外なことを言われたといったように笑い出した。
「あはは、まさかあ。私は遺伝子工学の研究者、ばりばりの理系頭ですよ。あんなの分かるわけないじゃないですか」
「え。それじゃ」
ヒルダは笑いを収めると、自分のことのように得意げに言った。
「以前リョーコがですね、王になっちゃえって、陛下にそそのかしたことがあったらしくて。その後で、陛下の役に立つようにと、自分が覚えていたものをちまちまと書き記していたらしいんですね。彼女、意外と気が利くところがあるんですよ」
メリッサは、リョーコの抜け目のなさに驚いた。
エリアスが王になった後のことまで、本気で考えていたのか。
口先だけじゃない、大した実行力だ。
それは、誠実さと言い換えてもいい。
「なるほど。一度覚えたら忘れられない能力か、そりゃあ凄いわね。でも、それにしても」
メリッサが、ぷっと吹き出した。
ヒルダもつられて笑いだす。
「ですよねー。医師のくせして、暇つぶしにあちこちの国の憲法やら、政治体制の変遷やら、読んでたって言うんですから。そのほかにも、経済論や哲学書、新聞に三文雑誌のゴシップ記事まで。他人に会わずに、どんだけ引きこもっていたかって話ですよ」
ヒルダの言葉に、メリッサは真顔に戻った。
「でもね、ヒルダさん。普通、それだけ大量の記憶に押しつぶされそうになったら、できるだけ情報を遠ざけようとするものじゃない? それなのに彼女、何を好き好んで、そんなに知識を吸収し続けていたのかな」
ヒルダはレイラたちに囲まれているリョーコを、まぶしそうに眺めた。
「きっといつか誰かの役に立つ時が来る、って思ったんでしょう。彼女、優しいから。そして実際に、彼女の知識がこの国の復興の力になろうとしている」
メリッサが、感心したように首を振った。
「まったく、いい子ねえ。ヒルダさんが好きなのもわかる気がするわ」
ヒルダがしいっと唇に指を当てる。
「ちょっと先輩、声が大きい。思ったことが頭より先に口から出る癖、なんとかならないんですか」
「おっと、ごめんごめん。でも、本当に気を付けてね。ほかの三人ももちろんだけれど、私、あなたのことを心配してる」
ヒルダは嬉しそうに、ぱちんと指を鳴らした。
「ザッツ・イット。ようやく、私の魅力にお気づきになられましたか。戻ってきたら、もっとたくさん異世界のお話をしてあげますから。もちろん、ピロートークで」
「あんたの方こそ、声が大きいってば」
ヒルダは笑いながらメリッサとハイタッチを交わすと、さっそうと踵を返す。
そしてエリアスに手を貸してもらうと、彼女は馬上の人となった。
二頭の馬にそれぞれ分かれて騎乗した四人は、森の出口へと続く小道を透かすように見た。
普通に駆けさせても、昼過ぎには王城に到着するだろう。
頭に上げていた例のゴーグルを目に装着しようとしたエリアスは、幼い声に呼び止められた。
青いリボンのついた白いブラウスに、フリルの付いたストライプスカート。
これで日傘でもさしていれば英国少女そのものだな、と彼は眼下のポリーナを見た。
彼女は腰に手を当てて、むしろエリアスを自信たっぷりに睥睨している。
「エリオット君、無茶はだめよ。危ないと思ったら、すぐに戻ってきて。数年待ってくれたら、わたしがリベンジしてあげるから」
俺はどうやら女性の尻に敷かれる定めらしい、とエリアスは観念した。
「問題ないよ、ポリーナ。君の手を煩わせるまでもないさ。姉弟の因縁、ここで決着をつけさせてもらう」
ポリーナはエリアスの言葉に大きくうなずいた。
「それでこそ、わたしの彼氏。胸を張って行ってらっしゃい」
そばで聞いていたカレンが、微笑ましそうな目でポリーナを見た。
「あら、ポリーナ様。エリアス様のことが大好きですのね、かわいらしいカップルですこと」
「うん。わたし、エリオット君のことが大好き」
エリアスがポリーナのことを、ちゃん付けではなく名前だけで呼んだことに、カレンはわずかな違和感を持ったが、ついにそれ以上深く追求しようとはしなかった。
抜かりのない彼女としては、一生の不覚であったろう。
まだ戦ってもいないのに、こんなところで命拾いをするとは。
エリアスが内心胸をなでおろしたことは、言うまでもない。
かくして一行は、ロザリンダの待つ王城へと続く道を踏み出した。
それぞれの胸中に、様々な想いを抱えながら。