第一二〇話 涙の理由
リカルドはブーツの靴紐をきつく結ぶと、静かに扉を開けて屋外へと出た。
初春の森の中はしんと冷えているが、こういう夜が彼は嫌いではなかった。
きっとヒルダちゃんには、魔法のアラームか何かで気付かれてるとは思うが。
まあ、野暮用で出ていくってのは、わかってくれるだろう。
「こんな夜中に散歩? それにしてはたいそうな荷物ね、リカルド」
今の彼にとっては一番聞きたくなかった声が、背後から聞こえてきた。
リカルドはやれやれとため息をつくと、振り向かずに答える。
「偶然起きてきた、ってわけじゃなさそうだな。さすが、鬼の寮監からは逃げられねえな」
やはりヒルダから借りたのだろう、白いワンピースに身を包んだレイラは、距離を少しおいた入り口の階段から、彼のことをじっと見下ろしている。
森の闇に浮かぶ彼女の服のわずかな白ささえ、リカルドにはまぶしく痛かった。
「今夜のあなた、やけに口数が少なかったから。きっと、街に戻るんでしょう? 陛下から復隊を請われたこと、不満だったのかな」
はっ、とリカルドは笑った。
「そんなわけないさ。実力を認めてくださるのもうれしかったし、この世界を良くしたいという陛下のお考えにも感動した。ロザリンダさえ何とかすれば、この国の将来はきっと明るいぜ」
「それじゃあ、なぜ」
リカルドは、ベストの胸にある双頭の蛇の紋章を指さして見せた。
「なんだかんだ言って、自警団の水が合ってるのさ。俺はミルダリア生まれのミルダリア育ち、下町っ子だからな。身近な奴らのそばが落ち着くんだよ」
レイラの表情は、明らかに納得していないそれである。
「実力のある者には相応にふさわしい仕事がある、とは考えないのね。リカルドなら、立派に指揮官としてやっていけると思うけれど」
それまで背を向けていたリカルドが、ようやく振り向いた。
彼、なんだか怒っているみたい、とレイラは感じた。
長い付き合いなのだ、その印象は大きくは外れていないだろう。
「じゃあ、一つ訊こうか。レイラさんは、この戦いが終わったらどうするんだい?」
レイラは一瞬口ごもった。
レオニートが戻ってきて、リョーコとフリッツ君も帰ってきて。
それでも、まだ大切な戦いが残っているのだ。
その先のことなど、正直考えたこともなかった。
「……私は」
「レイラさんが軍をやめたのは、レオニートがいなくなったからだろう? 奴が戻ってきた今なら、レイラさんこそ軍に復帰したっておかしくない。先の天使たちとの戦いでも、かつてのウィンドミルの腕は落ちていなかったように見えたぜ?」
しばらくの間レイラはうつむいていたが、やがて顔を上げるとはっきりと答えた。
「きっと私は、またベーカリーを立ち上げると思う。大切な家族の帰る場所を作っておかなくちゃ。リョーコとフリッツ君が、安心して帰ってこれる場所を」
リカルドは、改めてレイラのことを見直した。
彼女が二人の名前を口にするには、相当の覚悟が必要だったはずだ。
なぜなら、彼女も恐らく知っているはずだから。
リョーコちゃんが、フリッツと別れる覚悟でいるということを。
そうしなければ、奴を不死から救うことができないということを。
「なあ、レイラさん。あいつら」
レイラはリカルドのそばに寄ってくると、言葉を続けかけたリカルドの口を人差し指で封じる。
彼女の瞳がわずかに揺れているのが、リカルドの夜目にもはっきりとわかった。
「それは、私たちがどうこう言っちゃいけない。ほかの誰も触れてはいけない、あの二人だけの問題よ。私は、私がしたいこと、できることをやるだけ」
軽率だったな、とリカルドは後悔した。
やはり俺は昔から、人の心の機微というものには、とんと鈍いらしい。
「そうか。そうだったな、レイラさんは昔から」
レイラはにっこりと笑ってうなずいた。
「ところでな。ヒルダちゃんに一つ、頼んでおいたことがある」
突然変えられた話題に、レイラはきょとんとした。
「ん、何? 私に関係あること?」
「おおありさ。レイラさん、レオニートの奴から聞いていないのか?」
「だから、何を」
まったく、あの馬鹿。
言ってねえのかよ。
「悪魔ってのは、戦うために人間を作り変えた存在だろ。その驚異的な修復力には、代償が必要なんだそうだ」
勘のいいレイラは、リカルドの短い言葉だけで、おおよそ察したようだった。
「もしかして、それって」
「新陳代謝が十倍の速度で進行するんだと。つまりは、十倍速く年を取るってことさ。それは、あのメリッサって姉ちゃんも同じだ」
リカルドの表情に、苦渋の色が混じった。
「レオニートの奴、見た目はあの通りの頑健な肉体だが、崩壊する時は一気に来るらしい。奴が悪魔になったのが五年前だから、本当の肉体年齢はすでに七十を超えているはずだ」
「……じゃあ、あと二、三年で寿命ってことね」
レイラの声は、存外に冷静だった。
そして、続く言葉もまた。
「レオニートは、それを承知で陛下に悪魔にしてもらうように頼んだんでしょ。自分で決めたことだもの、それは仕方ないわね」
リカルドは地団駄を踏む思いだった。
どうして、そんなに平然としていられるのか。
「馬鹿。わかってるのか、レイラさん。ポリーナちゃんだって何年も父親がいなくて、君だってそうで。それが、ようやくまた一緒に暮らせるようになったんじゃねえか。それがあと数年で終わるなんて、俺はそんなの絶対に認められねえ。だからさ、ヒルダちゃんに訊いたんだ。何とかならねえかって」
「あなたこそ、馬鹿ね。何ともなるわけないじゃない」
リカルドは思わず、レイラの肩をつかんでいた。
「今はな。けれど、ヒルダちゃんは天才だ。何とかします、と俺に約束してくれた。命を懸けて元に戻す方法を探しますってな。俺は、彼女のその言葉を信じる」
レイラは、怒ったようにリカルドの手をほどいた。
むきになったように、大声で怒鳴り返す。
「ちょっと待ってよ、リカルド。第一どうして、あなたが私たち家族のことを心配するのよ。あなたには、関係のないことじゃない」
関係なくはないさ、という言葉を、リカルドは飲み込んだ。
彼女の言う通りだ。
「……そうだな。確かに、余計なおせっかいだった」
リカルドはうつむいて両の手を見つめていたが、やがて首を横に振った。
「悪かったな。でも、もうヒルダちゃんには相談しちまったんだ、そいつは受け入れてやってくれ。あのメリッサって子のこともあるし……」
そこまで言ってリカルドは、レイラの頬に涙が流れていることに気付いた。
強く握られた彼女の両手は、小さく震えている。
「そうよ。あなたには全っ然、関係ないんだから。だからもう、これ以上私に優しくしないで。本当に、迷、惑」
リカルドの胸の中に崩れ折れたレイラの背中を、彼は最後まで抱きしめることはできなかった。
どのくらい、そうしていただろう。
レイラに最初に会ってから今日までの全ての時間よりも、ずっと長いような気が、リカルドにはしていた。
やがて彼はレイラをゆっくりと押し戻すと、再び彼女に背を向けた。
「それじゃあ、俺もう行くわ。皆によろしくな」
レイラは少女のように涙をぬぐいながら、鼻声でリカルドに問いかけた。
「ちょっと待ってよ、リカルド。私の質問に、まだ完全に答えてくれていないわ。どうして、こんな夜中に出て行っちゃうのよ」
リカルドは黙って荷物袋を背負いなおすと、森の小道へと消えていく。
「もしかして……私のせい?」
リカルドは背中越しに片手を上げた。
「何言ってんだ、意味が分からねえな。それじゃあ、おやすみ。レイラ」
レイラは思い切り背を伸ばしてみたが、彼の声はそれきり聞こえてはこなかった。
彼女の目から、再び涙が溢れた。
彼。
私のこと、やっとレイラって呼んでくれた。
三人で過ごした、あの小隊の頃みたいに。
「ごめんね、リカルド」
あの時私は、何に対して謝ったのだろうか。
レイラは今でも、それをはっきりと説明することが出来ないでいる。