第一一九話 実らぬ恋も二人なら
「中間の韻を四分の三呼吸だけ短縮できれば、発動もコンマ四秒程度は速くなる、かな」
マホガニー製の机に向かって頬杖をついていたヒルダは、手元のノートにペンでがりがりと線を入れながら、傍らのコーヒーをすすった。
机の隅に置いてあるヒルダちゃん人形にふと目をやると、微笑みながらそれをつついてみる。
凝った首筋をもみほぐしていると、聞こえてきたのは控えめなノックの音。
「鍵はかかってませんよ、どうぞ」
開いたドアから顔をのぞかせたのは、彼女の先輩のメリッサだった。
ヒルダから借りたネグリジェ一枚の大胆ないでたちは、彼女の隻腕もあらわに見せていたが、いつものようにメリッサはそれを気にしている様子は全くない。
「ごめんなさい、ヒルダさん。勉強中だった?」
メリッサの想像に反して、ヒルダ自身は若干やぼったい、厚手の生地の茶色のパジャマを着ていることが、彼女にはやや驚きであった。
意外だけれど、似合うな。
ヒルダさんは、田舎育ちの自分とはまた違った意味でのイノセンス、ある種の無垢さがある。
ヒルダは短い黒髪をかき上げると、嬉しそうに笑った。
「とんでもない。グッドタイミングです、先輩。ちょうど呪文の改良について検討していたところだったんですよ。これ、ちょっと見てもらえますか?」
ヒルダは立ち上がって、メリッサに椅子を譲った。
先輩として遠慮されることを嫌ったのだろう、メリッサは立ったままでノートを覗き込む。
「うーん、どれどれ。……ふうむ、発動時間を気にしてるのか」
なみの魔導士では理解できないであろう、行間を飛ばして要点だけが記載されたノートを見ながら、メリッサは感心したようにうなずいた。
明日の戦いに備えて少しでも勝率を上げるために、彼女はできることはすべてやろうとしている。
ヒルダさん、異世界では学者さんだったらしいし。
彼女ってば、本当に魔導士向きの性格してるわよね。
ヒルダはヒルダで、改良点の肝要な部分を一目見て言い当てられたことに、メリッサの実力を改めて知らされる思いだった。
「弱点を補強するよりも長所を伸ばす、って考え方もあるんでしょうけれど、なんとなく不安で。先輩は直接ロザリンダと戦ったんでしょ。彼女の魔法、どうでしたか?」
メリッサは冷徹な魔導士の表情に戻ると、即答した。
「スピードは、私に及ばない。威力は、あなたに及ばない。これが彼女に対する私の評価」
彼女の先輩が控え目な言葉を使ったことに、ヒルダは心の中で苦笑した。
スピードは私以上、威力はメリッサ先輩以上、か。
それでもヒルダは、涼しい顔でうそぶく。
「へえ、中途半端ってわけですか。最強クラスの魔導士であっても、最強ではなさそうですね」
メリッサは、ヒルダの黒髪の頭をぐりぐりとかきまわしてやった。
わかっているくせに、まったく強気な後輩だ。
「彼女がただの魔導士だったらね。別の顔を持っているのが、実に厄介」
「……治癒魔法ですか」
「彼女、自分の肉体をブーストして格闘戦ができる。陛下も言っていたけれど、フリッツ君ってかなり強いんでしょ? 彼って、最初に死ぬ前に、治癒魔法を戦闘に応用する訓練を誰かに受けていたみたいね」
それはおそらく、付与魔導士だったという彼の姉だろう。
異世界転生者を倒すために身に着けた、治癒魔法を応用した戦闘技術。
ヒルダがフリッツの戦うさまを見たのは、アドラメレクとの戦いの一度きりではあったが。
「驚異的なパワーとスピード、耐久性でした。ロザリンダも、彼と同じことがができると?」
「そう思っていたほうがいいわね。私は悪魔の身体能力があったから、なんとか接近戦でもしのげたけれど。正直、一対一では厳しいと思う」
ヒルダは苦笑して肩をすくめた。
どだい、魔導士同士が魔法を打ち合うこと自体が、極めてまれなのだ。
彼女たちの本領は、遠距離からの狙撃、後方かく乱、味方の能力強化など、派手さのない任務でこそ発揮される。
私と先輩の魔法合戦などそれこそ例外で、はたから見れば噴飯もののこっけいさであっただろう。
きっとロザリンダもそんなことは先刻承知で、自分が治癒師でなければ、おいそれとは表には出てこなかったに違いない。
「でしょうね。まあ、私たち魔導士は本来タイマンで戦う職業じゃありませんし。やっぱり、リョーコとフリッツ君頼みかあ」
格闘職と相対してしまえば、魔導士は圧倒的に不利である。
呪文を紡ぎ始めた途端に、相手の剣で真っ二つにされるのが関の山だ。
アドラメレクとの戦いでヒルダがそれを補えたのは、踊り子としての抜群の身体能力が備わっていたからに他ならない。
メリッサは、ヒルダがあえて一人の名前を外したのを聞き逃さなかった。
「あら、陛下は頼りないっていうのかしら? 彼も、あれで結構強いとおもうんだけれどね」
ヒルダは、ちらりとメリッサを見た。
「言わせないでください、先輩。やっぱり、姉弟同士を戦わせるのって良くない」
「……ええ、そうね」
メリッサは素直にうなずいた。
私やヒルダさん、リョーコさんやフリッツ君。
それぞれが何らかの理由で、肉親というものには疎遠だ。
だからこそ、エリアスとロザリンダの弟姉や、レオニート一家の親子関係というものが、まぶしく映る。
自分はそのような家族の情というものを持つことはついにできなかったが、それを大切に思っている者の気持ちも、またわかるようになった。
ヒルダさんもやはり、私と同じ気持ちであるのだろう。
そんな二人の気分を変えるように、ヒルダが大きく伸びをした。
「それにもう一人、ガブリエルって大天使もいるらしいですから。そっちも何とかしなければいけないでしょうしね」
そうだった、とメリッサはその存在を思い出した。
リョーコさんはその天使のことを、いい奴だとか何とか言っていたけれど。
しょせん志が違うのだ、ビジネスライクに考えないとやってられないだろうに。
「はあ、厳しいわねえ。リョーコさんも、なんで四人だけなんて条件をのんできたのよ」
恨み言を言うメリッサを、ヒルダがなだめた。
「きっと、変な責任を感じちゃってるんじゃないですかねえ。もとはと言えば、異世界の方から仕掛けてきた喧嘩ですから。この世界の人たちを巻き込みたくないんでしょう、先輩やレオニートさんたちも含めて」
「まあ。リョーコさんって、結構真面目ねえ。でも、それって余計なお世話だわ。それに、自分だけ好きな人の横で戦えるなんて、ずるいじゃない」
私もエリアスについていきたかったな、と頬を膨らませるメリッサを、ヒルダは複雑な思いで見つめた。
確かに、ただ待つということは、一緒に戦うよりもはるかに困難なことだ。
だが。
「まあ、そう言わないでくださいよ。先輩」
ヒルダの声色が変わったことに顔を上げたメリッサは、彼女の瞳が何も映していないことに気づいた。
「自分を振った人の横で戦うのも、それはそれでつらいとは思いませんか?」
ヒルダは突然メリッサにすがりつくと、彼女の胸に顔を埋めた。
「先輩。私、リョーコに振られてしまいました。決定的に」
うつむいたヒルダの肩を、メリッサはその右手で、ただ抱くことしかできない。
思えば彼女は、そのリョーコさんについてだけは、私にもあまり話をしたことがなかった。
明朗快活であけっぴろげなヒルダさんが。
それだけ、本気だったということか。
「でもあなた、フリッツ君が戻ってくる手助けをしてたじゃない。やろうと思えば、彼がいない間にリョーコさんにアタックすることもできたのに」
ヒルダは顔を上げた。
ほほ笑んだその瞳は、大きな波のように揺れている。
「ふふ、先輩は変わりましたね。優等生から、したたかな策士さんに」
彼女は、白くなるほどに唇をかんだ。
「私がいてもいなくても、あの二人は呼びあい惹かれあう、そういう縁なんです。私はただ、そばで見ているしかなかった」
メリッサは戸惑った。
こんなに自信のない彼女を見るのは、初めてだった。
「見ているだけ、って。あなたは、欲しいものを手に入れるためにはとことん戦う人だって、私は勝手に思っていたのだけれど」
ヒルダはかぶりを振った。
先輩は、私を買いかぶりすぎだ。
私はそんなに強くない。
リョーコの前では、強くなれない。
「先輩、知ってます? フリッツ君を不死から救うためには、彼の記憶を奪わなくてはならないことを。リョーコはそれを承知で、それでも彼と付き合うことを決めたんです。私はそんなリョーコの気持ちを、邪魔したくない。そんな馬鹿みたいに一途な彼女が、私は大好きなんです」
そこまで言ったヒルダの顔が、堰を切ったように崩れた。
かつてリョーコの前では流れなかった涙が、ついに彼女の目からこぼれた。
「欲しくないと言えば、嘘になります。大嘘です。悔しいです。寂しいです。私からリョーコを奪って、フリッツ君の馬鹿!」
ヒルダは嗚咽しながら、メリッサの胸を拳でたたいた。
「結局、本当の気持ちを伝えられなかった。冗談に紛らわせて、ごまかしてばかりで。どうしても、あの二人を壊すことが出来なかった。だって私の気持ちなんて、私の我がままでしかないんだから」
泣きじゃくるヒルダの涙の熱さを肌で感じながら、メリッサは白い天井を見上げた。
人を好きになるって、つらいわね。
はっきりと、痛みとして刻まれるんだから。
裏切り者の元カレとの最悪の思い出さえ、そうなのに。
ヒルダの髪を手ですいてやりながら、メリッサがぽつりとつぶやく。
「ヒルダさん。あなたの気持ち、今の私にはわかる。慰めなんかじゃなくてね」
彼女の沈んだ声に、ヒルダの動きが止まる。
「え?」
「私もどうやら、振られそうなのよね。エリアスに」
ヒルダは赤くなった目でメリッサを見上げた。
「それって、カレンさんに負けたってことですか?」
「ううん。私もカレンさんも、エリアスは女としては見てくれてはいないんじゃないかな」
「どうして」
「それはきっと、私たちがエリアスを頼りすぎているからだと思うの。私について言えば、ほら、彼って私を悪魔の道から救ってくれた人でしょ。だから、もし私と付き合うことになったら、私が恩義と愛情を同一視しているように思えて、かえって引け目を感じてしまうんじゃないかな」
ヒルダは頭を冷やしながら、そのことについて考えてみた。
それは例えば、教師が学生と、医師が患者と付き合うようなものなのかな。
私は別にいいんじゃないかと思ってしまうが、引いてしまう人の気持ちも十分に理解できる。
「でもそれって、先輩の想像ですよね?」
「うん。でも、多分当たってる。エリアスって、そういう奴だもの。不器用だよね、まったく」
でも、それがエリアスのいいところなのだ。
そんな彼だからこそ、放っておけないのだ。
ヒルダは涙をぬぐうと、いつもの笑顔を作って見せた。
「陛下はリョーコと違ってヘタレですもの、がばーっと押し倒してやっちゃえばいいんですよ。なんなら、カレンさんと二人で」
はは、とメリッサが笑い声を上げた。
少しは、彼女の慰めになったのだろうか。
それとも、自分の方が慰められているのだろうか。
「せっかくだけど、そいつはやめとこうかな。まあ、性欲だけならなんとでも満たせるからね。でも……つらいね、お互いに」
ヒルダは、メリッサの気遣いがうれしかった。
片思いだって、恋なんだから。
リョーコを好きになった自分を、私は誇りに思おう。
ヒルダはぐすんと鼻をすすると、うるんだ目でメリッサの右手を握った。
「あの、先輩。ここまでお互いに打ち明けたんですから、今夜はこの部屋に泊まっていきますよね? 私、着替えてきますから」
メリッサは一瞬驚いた表情をしたが、にっこりと笑ってうなずいた。
ふむ、これが彼女流の立ち直り方か。
まあ、お互いに時間はかかるだろうが、いずれきっと笑い話にできる時が来るだろう。
「まったく、世話の焼ける後輩だこと。仕方ないわね、振られた者同士で傷の舐め合いと行きますか。もちろん、文字通りにね」
ヒルダは目を輝かせると、自分のパジャマのボタンを外し始める。
「ううん、話の早い先輩で助かります。明日の朝は早いので、短く濃く、ですね」
メリッサはやや顔を赤くしながら、困ったように目をそらす。
「私、田舎育ちだから実は詳しくないんだなあ。まあ後輩に教えてもらうってのも、これはこれで興奮するかな」
「やった、嬉しい! よーし、明日は気を取り直して頑張ります!」