第一一八話 この主君にしてこの従者あり
バックラーを身体に引き付けながら、その陰からロングソードで斬り上げる。
勢いを殺すことなく身体を反転させると、背後の木の幹に、裏拳の要領で小盾による打撃をうち込んだ。
めきっと大きくへこんだ大木の上から、木の葉が彼女の周囲にはらはらと舞い落ちてくる。
夜が更けても騎士の正装を解いていないカレンは、息を吐いてゆっくりと剣を下ろすと、前を向いたままで後ろの木立へと声をかけた。
「レオニート殿。お騒がせして、申し訳ありません」
暗がりの奥から、巨漢の戦士が足音を立てることなく姿を現した。
こちらもやはり、その漆黒の重装備を装着したままである。
「トリッキーで複雑なコンビネーションだ。初見で受けきれる者は、そうはいないだろうな」
カレンはレオニートへ向き直ると、軽く頭を下げた。
「独学ゆえ、まだまだ洗練されておりません。ご指摘があれば、何なりと」
レオニートはわずかに目を見張った。
誰にも師事していないが故に、型にはまらない戦闘が可能なのか。
なるほど、噂通りの天才だな。
「謙遜だな。カレン殿はとっくに、誰かから学ぶ段階は過ぎ去っている。先頭を走る者の前には、誰もいない。そこにあるのは、ただ自分の背中のみだ」
王国軍でも頂点に位置する、あるいは位置していた二人には、その会話はただの確認作業でしかなかった。
そして二人の目的とするゴールも、今では同じであるはずだった。
ふいにカレンは小さくため息をつくと、暗い地面に目を落とした。
「……レオニート殿。私はなぜ、陛下に置いて行かれるのでしょうか」
「それは、陛下自らが語られたはずだが。万が一の場合に備えて、我らには後詰めとして待機を命じられた。全滅というリスクを避けるご判断、間違っておられるとは俺には思えないが?」
「万が一。そのような可能性を考えただけで、私は気が狂いそうになる。私は、陛下のおそばを離れたくない。そのためだけに、こうして修練を続けてきたのに」
最強騎士の一人とは思えない、少女のような不安げな表情。
彼女の焦りが、レオニートには痛いほど感じられた。
「カレン殿は、陛下を愛されているのだな?」
カレンは黙ってうなずいた。
彼女に対するレオニートの口調には、揶揄するような響きは全くない。
「俺はカレン殿のその気持ちを、公私混同などと笑うつもりはない。もとより、私自身もそうだからだ。私がこのような悪魔になってまで陛下と行動を共にしてきたのも、国家や国民の為などではなく、ただ陛下と理想を共にしたかったからに過ぎない。そうでなければ、何を好き好んで子供たちを殺したりするものか」
カレンの瞳が、悲し気に揺れた。
「陛下は、そのことを私に話してくださいました。そして一度は、私を罷免されようとしました。俺は騎士の忠誠を受けるに値しない、と言って」
「……そうだな。だがそれは、陛下なりのけじめだったのだろう。俺が、一度は家族を捨てたように」
「でもレオニート殿は、レイラ殿たちのところへ戻られた」
レオニートは一瞬言いよどんだが、やがて顔を上げるとはっきりと言った。
「恥がないと言えば、嘘になる。だが、何かを捨てなければ何かを得られないというのは、捨てる側の理屈だ。そしてそれは、神という立場を手に入れるためにリョーコとフリッツを犠牲にしようという、ロザリンダの言い分でもある」
カレンは、なおも食い下がった。
「レオニート殿の理屈であれば、私を捨てようとした陛下は間違っていることになります。なのに貴殿は、陛下を擁護される」
レオニートはカレンをなだめるように言った。
「大切なものを、汚したくはなかったのだろう。きっと陛下は、カレン殿といる時だけは、異世界のことを忘れることが出来ていたのだと思う。その一事だけでも、俺はカレン殿が陛下のそばにいてくれたことに感謝している」
だから陛下は、自分が異世界転生者であることを、かたくなにカレン殿に隠していたのだろう。
そうしてぎりぎりのところで、心の均衡を保っていたに違いない。
レオニートの言葉で、カレンはようやく理解した。
自分が異世界について無知なままであったことが、エリアスの役に立っていたことに。
カレンはばつの悪さを感じたのか、わざとすねた調子で言った。
「そんなの、勝手過ぎます。まさしく、都合のいい女だわ」
レオニートは顎を撫でながら笑った。
「そう厳しく言ってやるな。大きなものを背負っている方には、どこか逃げ場所が必要なのさ」
「でも」
「俺もやはり置いて行かれる身だから、あえて言うが。忠誠、この場合は愛情と言い換えてもいいが、それと依存とは全く違うものだ。俺は陛下が誤った道を選んでいたときに、それに疑問を持つことが出来なかった。盲目だったのさ。そいつは結局、陛下のためにも、自分の為にもならなかった」
「……依存。私が、陛下に」
「陛下がこれから、何をされるのか。国民が、来るべき異世界をどう受け入れるのか。俺たちも自分の考えを持っていないと、本当の意味で陛下のお役に立つことはできない。俺は、そんな気がする」
レオニートの言葉は、重みをもってカレンの心に沁みた。
私の経験不足は、どうやら剣技だけではなかったようだ。
カレンは照れたように笑った。
「なるほど、私は少し調子に乗っていたようです。陛下のおそばにいるのが長かったので、環境に甘えていたのでしょう。レオニート殿には、まだ私はとてもかないそうにない」
「そうではない。過ちを犯したからこそ、このように考えることが出来たにしても、間違えずに済めばそれに越したことはないのだ。反面教師にしてほしいとは思っているが、同じ経験をしてほしいとはとても思わん」
まっすぐで明るいカレン殿は、陛下の光の部分を支えてくれるだろう。
影の面は、俺が持ち去っていけばいい。
そうこうしているうちに、俺の寿命も尽きるはずだからな。
微笑むカレンを、レオニートはまぶしそうな目で見ていた。
ひとしきり考えてうなずいた後、カレンは直立してレオニートに頭を下げた。
「レオニート殿。ご助言、感謝いたします。貴殿のお言葉通り、ここで陛下を待つことが、私の最初の試練であると考えることにしましょう。しかしそれには、陛下に無事に帰ってきていただかないと」
レオニートの顔に、わずかに憂いが走った。
「まさしくそうだな。そこは、リョーコ殿とフリッツ君、ヒルダ殿を信じるしかない」
「たったの四人で。明らかに罠です」
「まあ、ロザリンダ的には、リョーコ殿とフリッツ君は始末したいんだろうがな。ただ、話を聞く限り彼女は、誰かを支配したりすることには、まったく興味がなさそうなんだな。神になるというのもただの自己満足で、王国なんかはおまけに過ぎないんだろう。陛下の言う通り、戦争はすでに終わっているのさ」
レオニートのその分析は、恐らくは正しいのだろう。
それゆえになおさら、カレンには彼ら四人の行動が理解できなかった。
「だったら、わざわざ会いに行く必要なんてないのに。陛下もリョーコ殿も、彼女に会ったとして、いったい何をしたいのでしょう?」
レオニートは肩をすくめた。
「きっとみんな、ノープランなんだろうなあ。とにかく、何らかの決着をつけないとおさまらないんだろう。理屈じゃなくてな。異世界転生者ってのは、どうやらおせっかい焼きが多いらしいな」
カレンはあきれながら聞いていたが、やかてぷっと噴き出した。
「本当にそうですね。転生したことをひたすら隠し通して、ひっそりと生きるという選択肢もあったでしょうに。私の前に現れたりして、おせっかいな陛下」
レオニートもつられて笑った。
「だが、こんな出会いもあるんだ。転生ってのも、捨てたもんじゃないな」
「はい」
夜の森に、春の暖かさを含んだ風が流れてくる。
レオニートは、背に抱えたハルバードを指で指し示した。
「どうせ、今夜は眠れそうにないんだろう? どうだ、カレン殿。俺でよければ、手合わせさせてもらっても構わないが」
カレンは満面の笑顔で、左腕のバックラーを天空高くかかげた。
「ええ、お願いいたします。私たちは、もっと強くならなければなりませんからね」
金属同士が打ち合う剣戟の音が、暗い森の中でいつまでも響いていた。