第一一話 夜に吠える
夜の街路は所々が魔法の街灯で照らされているだけで、いたるところに暗闇が息をひそめていた。
例の連続殺人事件の影響もあるのか、人影はほとんどない。
「この後、どうしよっか」
背中に長刀を背負いながら、リョーコが小さくたずねる。
「もちろん、お店まで送りますよ」
リョーコは、横目でちらりとフリッツの表情をうかがった。
「フリッツ君はどうするの。泊るところ、ないんでしょ?」
フリッツは大きく伸びをしながら、明るく笑った。
「ありがとうございます、僕なら大丈夫です。悪魔は夜間に活動しますから、僕も夜に巡回しているんですよ。奴ら、特に夜行性というわけではなさそうですが、人目に付く日中は行動を控えているみたいですし」
彼は、思い出したように付け足した。
「あ。別に僕、夜間しか行動できないとか、日光を浴びるとパワーが半減するとか、そんなことないですよ。本当、吸血鬼伝説なんていい加減なものです」
そんなフリッツに、リョーコは後ろ手を組んだままさらっと言った。
「これから……どこかに一緒に泊まったりなんか、する?」
フリッツは、思わず転びそうになった。
「ちょっと、リョーコさん。もし僕がそんなこと言ったら、どうするんですか」
リョーコは、前を向いたままで答えた。
「別に。断る理由は、ないかな」
フリッツ君が一緒なら。
常夜灯がなくても、眠れるような気がして。
リョーコは笑いに紛らわしながら、どぎまぎしているフリッツの背中をどんと叩いた。
「あはは。冗談よ、冗談。お店すぐそこだから、ここまでで大丈夫よ。これもあるし」
リョーコは白い布でくるんだ棒状のものを、ぽんと叩いた。
中身は、例の長刀だ。
あのグラム・ロックの男の言葉を信じたわけではないが、用心に越したことはない。
分かれ道の角で立ち止まると、少し背の高いフリッツを見上げる。
「今晩の情報交換会、凄くためになったわ。……ありがとう」
フリッツは笑って答えた。
「こちらこそです、リョーコさん。でも出来ることなら、もう僕とは会わない方がいい。最初に出会ったときはあんなこと言いましたけれど、リョーコさんはすでに僕が守る対象に入っています。……どうか、気を付けて」
「……うん。おやすみなさい」
リョーコはフリッツに背を向けると、家路についた。
レイラの店の近くまで来たリョーコは、心残りの理由に気付いた。
私、左腕の傷を治してもらったお礼、言ってなかったな。
フリッツ君、まだ遠くへ行っていないかも。
来た道を戻ろうとしたリョーコは、苦笑しながら立ち止まる。
私ったら、なんだかんだと理由をつけて。
やれやれと首を振って帰ろうとしたリョーコの耳に、あの忌まわしい音が聞こえてきた。
リン。
リリン。
フリッツが去っていた方角とは、逆方向の街路。
リョーコの脳裏に、サミーと呼ばれていた男の子の顔が浮かんだ。
私は、もう。
見ないふりはしない。
リョーコは長刀を覆っていた布を外すと、黒いミニスカートをひるがえして街路の角を曲がった。
いた。
小さな少女の上に覆いかぶさってのぞき込むようにしている、紫のローブ姿。
「そこまでよ、悪魔さん」
人影は動きを止めると、ゆっくりと振り返り全身の覆いをとった。
やはり、半人半山羊の顔面。
大きく曲がった三本の角。
黒いカラスの翼。
あらわになった白い大きな乳房。
この前の奴よりも、はるかにでかい。
それに、比べようもない威圧感。
こいつ、何かの本で見たことがある。
確か、バフォメットってやつ。
リョーコは悪魔の身体越しに少女を見やって、息をのんだ。
両目が、横一文字に切られている。
傷から流れる血が、まるで赤い涙のようだ。
傷ついた少女は身じろぎもしない。
痛みと恐怖のあまり、気絶しているのだろう。
同時にリョーコは、倒れている少女の髪が、鮮やかな銀髪であることにも気づいていた。
黙ってにらみつけている彼女の前で、悪魔がくぐもった声を発した。
「女。我らが鈴の音が、聞こえたのか」
こいつ、人間の言葉が話せるのか。
しかも、人間よりも流暢に。
しかし悪魔を前にしたリョーコの心の中は、自分でも驚くほど静かだった。
大丈夫よ、フリッツ君。
恐怖も不安も、感じない。
弱虫で泣き虫な私だけど。
あなたが教えてくれた通り、できることを、やりたいことを、やるわ。
明らかにいらだっている様子の悪魔が、口の端からよだれを垂らしながらリョーコを指さした。
「黙っているということは、鈴の音が聞こえたと解釈させてもらおう。そうであれば、貴様はこの世界ではイレギュラーということになるが」
おっと。
思わぬところで、手掛かりをひとつゲットしたわね。
こいつの言う事を信じるならば、あの鈴は、この世界でイレギュラーな存在にだけ聞こえるということになる。
そうすると、銀髪に変えられた子供たちは、一体何なのか。
異世界転生者の私がイレギュラーなのは当然として、フリッツ君もイレギュラーなのか。
そもそも、何をもってこの世界のイレギュラーだと定義しているのか。
しかし、一つ言えることは。
子供たちを殺す奴が、正しいはずがない。
「ふうん。イレギュラー、いいじゃない。さっさとあなたを倒して、その子を返してもらうわ」
悪魔は、人の顔と山羊の顔とで蔑みの表情を浮かべた。
「そうはいかぬな。争いの芽は出来るだけ早く摘んでおく。最小の労力で最大効率を得る、道理であろう?」
リョーコは長刀を静かに抜いて、黒い鞘を地面に置いた。
刀身から、無数の青い微粒子が珠のように散る。
右手を柄の前に、左手を柄の後ろに運び、リョーコは長刀を頭の右横に水平に構えた。
両腕を交差させた、上段の霞の構え。
「言いたいことはそれだけ? この前会ったばかりのロック歌手さんいわく、言葉でわかることなんて、そんなに多くないらしいわよ。 アー・ユー・オーケイ?」
バフォメットの額の五芒星が、緑色に鈍く輝く。
「次元のことわりを理解せぬ、愚か者が!」
ごおっという轟音とともに、悪魔の黒い剛毛に覆われた右腕が、リョーコの顔面を襲う。
リョーコは両ひざを折ると、地を這うようにかがんだ。
その頭上を、死の旋風が通過する。
リョーコの髪を束ねていたリボンが風圧で切れ、サーモンピンクの長い髪が渦を描いた。
空振りした右腕越しに見えるバフォメットの山羊の瞳が、憎悪に黄色く燃えている。
通常の攻撃はほとんど効かないって、フリッツ君は言ってたけれど。
そんなの、関係ない!
立ち上がりざまに横なぎに振り切った長刀が、青い弧の残像を残して、バフォメットの右腕を肩の根本から見事に断ち切った。
刀の攻撃など眼中になかったバフォメットは、思いがけない激痛に、驚愕の怒号を上げる。
「馬鹿な! 我が肉体を破壊するとは!」
一瞬遅れて、宙を舞った悪魔の醜悪な右腕が、鈍い音とともに路上に転がった。
バフォメットは苦痛をこらえながら左手で手刀を形作ると、右肩の切断面をさらにえぐるようにもぎ取る。
泡だっていた傷口の崩壊が、ようやく止まった。
「……貴様。その刀は、何だ?」
リョーコは、長刀を正眼に構えなおした。
ちょっと、びっくり。
私の攻撃、効いてるじゃない。
「知らないわ。ただのプレゼントよ」
バフォメットは、ひづめを踏み鳴らしながら咆哮した。
黒い翼が大きくはためく。
「貴様、もはや容赦はせぬ。両手両足をもぎ取って、三日三晩路上にさらしてくれる!」
「おっと。極悪人のきめ台詞、頂きましたあ。もうあなた、負け確定でしょ」
「調子に乗るなよ、下等生物が!」
単純な突進。
リョーコは悪魔の左腕をすれすれでかわし、横へと転がり避けた。
立ち上がろうとしたリョーコの左脚が、くたっと崩れる。
わずかに遅れてやってきた、激痛。
ちらりと見やったリョーコは、左すねの筋肉が皮膚ごとごっそり削り取られ、折れて曲がった白い骨が露出していることに気付いた。
そうか、しっぽが蛇なんだっけ。
絵で見たこと、あったんだけどなあ。
リョーコの左脚を半ば咬み切った悪魔の蛇の尾は、肉片をぷっと噴き出すと、けたけたと乾いた笑い声をあげた。
バフォメットは慣性を無視したような動きで旋回すると、再びリョーコに肉薄する。
まずい。
立てない。
せめて、方向だけでも。
うずくまったままのリョーコの顔面に、振り上げられたひづめが迫る。
ようやく身をひねった彼女の左わき腹に、バフォメットの蹴りが喰い込んだ。
「ぐうっ!」
リョーコは宙を飛ぶと、レンガ造りの民家の壁に激突し、ずるずると地面に落ちた。
喉の奥から血がこみ上げ、せき込む。
そのたびに、左側胸部に走る激痛。
左肋骨骨折が複数。
左肺損傷、恐らく血気胸。
加えて、左脛腓骨の開放粉砕骨折。
しかしリョーコの右手は長刀をしっかりとつかんで、離すことをしない。
そして彼女が蹴り飛ばされて落ちた地面は、黒光りした刀の鞘をあらかじめ置いていた位置だった。
リョーコは歯を食いしばって鞘を手に取ると、刀を納める。
バフォメットが、ゆらりとリョーコに歩み寄ってきた。
「貴様の私への嫌悪感も、それはそれで悪くはない。両手両足をもぐのは変わらぬが、その後で、我の子を産む栄誉を与えてやろう」
リョーコはうつむいたままでつぶやいた。
「……キスなら経験済みだけれど、そこから先は、まだとっておきなんだから。……あなたには、あげられないわね」
残った右だけで、片膝を立てて起き上がる。
血に含まれた鉄分が、苦い。
バフォメットは鼻息も荒く走り出すと、左腕の鋭利な爪を無造作に突き出してきた。
リョーコは、首をわずかにひねった。
右の頬がすぱりと切れる。
リョーコは痛みに無反応のまま、体を大きく左に捻ると、動かせる右脚だけで地を蹴った。
「いええええっ!」
鞘走りで速度を倍加させた長刀が、夜の空に青い珠を飛び散らせながら、悪魔の左腕を斬り上げ。
返す刀で、悪魔の頭部を斬り下げた。
居合による抜き付けからの、二連撃。
じわりと脳漿がこぼれ落ちると、悪魔は声もなく前のめりに沈んだ。