第一〇八話 あふれて、見えない
まぶたの隙間から流れ込む雨と汗が、目にしみる。
打ち続ける剣戟の金属的な音が耳の中で反響して、頭痛がひどい。
肺は常に酸素を求めてあえぎ続け、両脚は伸びきったゴムのようにその収縮力を失っていく。
「この通りを向こうへ抜けると、街の外門に出られます。そこさえ突破できれば、森の方へと逃げられるはずです」
リョーコの隣に並んだニールが、その短髪から水滴を散らしながら、眼前の天使の顔面に三節棍を叩き込む。
彼の精悍な顔は返り血ですっかり赤く染まり、まるで手負いの狼のようだ。
「それは、わかっているんだけれどね」
その通りの向こう側が、いまだ見えない。
霧雨で、景色が煙っているせいではない。
壁、壁、壁。
分厚い方陣を組んだ天使たちの群れが、幅広いはずの街路をびっしりと埋め尽くしていた。
がいん。
「破瑠那」の刀身越しに、天使の一体が振るったメイスの衝撃が伝わる。
リョーコは相手の胸に左ひじを叩き込んで後方へ通し戻すと、横なぎの一閃で首を両断した。
じゅうという音を立てて溶解していく仲間の上を乗り越えて、後方から別の天使が突進してくる。
とっさに地面すれすれに這いつくばったリョーコは、その背中にバトルアックスが通り過ぎる風圧を感じた。
体をひねって起き上がりざまに刀を跳ね上げ、腹部から顎まで一気に斬り上げる。
ぶるんと「破瑠那」を振るって水滴と血糊を払ったリョーコは、後方をちらりと振り返った。
「レイラさん、後ろは大丈夫⁉」
「こっちは心配しないで、リョーコ。とにかく、少しずつでも前に進んで!」
リョーコとニールの後ろでしんがりを務めているレイラの声音は、普段と少しも変わらないように思えた。
彼女のハルバード、バルヴァスタジーレは、その一振りごとに数体の天使を両断している。
霧雨に交じって、赤い血煙が曇天に舞う。
街路の後方から挟み撃ちにしようと押し寄せてきていた天使たちの別動隊は、彼女の猛烈な闘技の前に、完全にせき止められていた。
レイラ・ザ・ウィンドミル。風車のレイラ。
かつての大陸撤退作戦の救世主。
大陸の魔族たちにとっては、さぞかし脅威であったに違いない。
そして彼女とリョーコの間で、まばたきもせずに前方を見つめている幼い少女。
ボブカットにした母親譲りの美しい金髪の先端から、時おり雨だれが滴る。
「ポリーナちゃん、どこも怪我してない?」
「平気。そんなことより、リョーコお姉ちゃん、前!」
リョーコの右の首筋が、浅く切れた。
鉄兜をかぶった下級天使のロングスピアが、そのままリョーコの首を切断しようと横に払われる。
彼女は前に踏み出して、木製の柄の部分をそのまま首で受けた。
斬られるよりも、打撲の方がまだましだという判断である。
リョーコは歯を食いしばって頸部に加えられた衝撃に耐えながら、目の前の天使を蹴倒した。
仰向けに倒れたその胸に、「破瑠那」を深々と突き通す。
かなりの、怪我をしていた。
逃げるための足を最優先にかばってきたため、背中や二の腕などに、すでにいくつかの浅手を負ってしまっている。
奴ら、私を殺しにきている。
きっと、「できれば」生きたままで捕らえろ、というのが「ミストレス」の命令なのだろう。
それは、できなければ殺していい、ということだ。
疲労で思わずよろけたリョーコに、フルアーマーの天使が二刀流を振るって迫ってくる。
同時に振り下ろされた左右のロングソードを、横からニールの三節棍がかろうじて受け止めた。
三本の棍を器用に操って両方の剣をからめとると、一気にその手から得物を奪い取って中空に弾き飛ばす。
無防備になった天使を、体勢を立て直したリョーコが袈裟懸けに叩き切った。
肩で大きく息をしながら立ち尽くすリョーコの背に、レイラの背が当たった。
足元には、リョーコを心配そうに見上げるポリーナの顔。
街の外門は、まだなのか。
あとどれだけ斬れば、見えてくるのか。
背後のレイラの呼吸も、もはやその荒さを隠しようもなかった。
彼女の自慢のロングスカートも、己自身の血と相手の返り血で、真っ赤に染まっている。
「リョーコ。後ろの敵を防ぐのは、もう限界みたい。私とニール君が前を開けるから、あなたはポリーナを抱えて突っ切って」
前を向いたまま耳を傾けていたニールも、無言でうなずく。
進退窮まったときに、どのような決断を下すか。
それはリョーコも戦いながらずっと考えていたことだったが、ついに結論は出せずじまいだった。
だが、レイラさんのその選択は、ノーだ。
「絶対、だめ。四人いっしょじゃなきゃ」
その言葉を聞くや否や、レイラはいままで見たことのないほどの険しい顔で、リョーコの胸ぐらをつかんだ。
「リョーコ、私の命令がきけないの? これでも私は、戦場ではいつも、一番勝率の高い戦術を選んできたわ。だから、ここまで生き残ってこれた。リョーコさえ無事なら、『完全なる不死』の完成は阻止できる。おまけにポリーナまで助かるってんなら、こんなにおいしい話はないわ」
「レイラさん。あなたの命令でも、それだけはきけない」
「リョーコ!」
言い合う二人の服の裾を、小さな手が引っ張った。
「私たち、家族じゃない。一緒に、いよう」
彼女を除いたほかの三人が、一様に絶句する。
ポリーナは自信満々の笑顔でニールを見上げると、小さな拳で自分の胸をどんと叩いた。
「ニールさん。ポリーナとその愉快な家族たちが、ここは引き受けます。あなたは急いで脱出して、私たちのことを、街の外のお仲間さんに伝えてください」
「な……」
何か言おうとしたニールを押しとどめて、ポリーナは両の手のひらを彼に差し出した。
「大丈夫です、ご心配なく。私はお父さんに会うまで、死ぬつもりはありません。その代わり、お願いが一つ。あなたのそのグニャグニャ曲がった武器を、私に貸してください」
天使たちの攻囲の輪がじりじりと狭まっているにもかかわらず、つかの間呆けていたニールは、やがてくっくと笑いだした。
「わかりました、ポリーナお嬢さん。そういうことなら、俺も家族に加えてもらいましょう。とはいえ、いきなりそれでは図々しいでしょうね。とりあえずは、住み込みの使用人ってところで。私の主人は、もちろんお嬢さんですよ」
ポリーナは、ぱっと顔を輝かせた。
彼女はもう二度と、知っている人が自分の前からいなくなることに、我慢がならなかったのだろう。
ポリーナは慌てて一つ咳ばらいをすると、両腕を組んで鷹揚にうなずいた。
「そこまで言うなら仕方がないわね、あなたを雇いましょう。それではニールさん、私たち家族と一緒に、この天使たちの掃除を手伝ってくれますか?」
「喜んで。自警団の退団届は、落ち着いてから団長に出しますよ」
ポリーナは、ちょっとばつが悪そうな顔をした。
「あ、そうか。私、あなたからお仕事を奪っちゃうことになるのか。ごめんなさい、ニールさん」
「なんの。イッツ・マイ・プレジャー」
仕事どころか、命を奪われるかもしれませんがね。
それはそれで、悪くない。
ニールは満足そうに笑うと、天使たちへと向き直った。
そして腹の底から雄たけびを上げると、目にも止まらぬ速さで三節棍を回しながら、目の前の敵を二体三体となぎ倒していく。
「お母さん、リョーコお姉ちゃん。何してるの、ニールさんを殺させちゃいけない!」
ポリーナは前方を指さして、リョーコとレイラを叱咤した。
二人は我に返ると、はじかれたように突進を始める。
誰一人、もう何も考えなかった。
大切な人と、一秒でも長く、生きてやる。
二十五体。
二十、六体。
リョーコは、斬り倒した天使の数をただ数えながら、じりじりと足を前に運び続ける。
幼いころ、帰り道の途中にある長い石段を上る時にはいつも、ひたすら自分の足元だけを見つめて、クリアした階段の数を数えていた。
そうやって子供の足にはつらい登りに堪えたことも、もちろんリョーコは鮮明に覚えている。
そう、あの時と同じ。
どん。
左わきに鈍い衝撃を感じて、リョーコは我に返った。
めり込んだ棍棒を他人事のように見ながら、彼女は「破瑠那」を反射的に横に振るう。
二十、七体。
遅れて、リョーコは胃液を少し吐いた。
隣を見ると、ニールの三節棍はその一枝を失い、いまでは二棍となっていた。
なくなったのは、先端の方なのか、それとも後ろの方なのか。
それとも、そんな区別などはないのか。
リョーコは、そんなどうでもいいことを考えた。
反対側を振り向くと、左腕でポリーナを抱えたレイラが、長い金髪を雨中に振り乱しながら、天使たちを薙ぎ払い続けている。
なるほど、ハルバードだけでなく、髪の流れも風車なのか。
しかしその風車に吸い込まれる天使の群れは、無限の大気のように果てることもなく続いている。
不意に、視界がぶれた。
両ひざをついたリョーコは、右のこめかみに鈍痛を感じて慌てる。
いけない、足に力が入らない。
立たなきゃ、進めないじゃない。
しかし、いくら頭で命令しても、彼女の両足はぶるぶると震えるばかりである。
押し包まれた四人は小さく固まって、決定的な瞬間が訪れるのを待った。
空気が、止まった。
雨も、いつの間にかやんでいた。
天使たちの全てが、何かを感じて後ろを振り向いている。
リョーコも感じた。
確かに、声が聞こえた。
彼女の名前を呼ぶ声を。
リョーコは立ち上がると、背を向けている天使たちを大振りに斬り払った。
「どけぇ、邪魔で見えないじゃない!」
眼前の天使たちが、左右に割れた。
街の外門への道が開けても、リョーコにはやはり何も見えなかった。
ただ、彼女の元へ駆けてくる足音。
そして彼女が予想した以上の、強い抱擁。
リョーコの身体が、懐かしい暖かさに包まれる。
息もできないくらいに苦しいのは、それほど強く抱きしめられているからなのか、それとも。
「おそ、かったね」
「ごめんなさい。あれ、また泣いてるんですか。僕の顔、見えます?」
「ぜんぜん見えない」
細い指が、彼女の頬の涙を優しくぬぐうのを感じた。
あの、すべてが赤く染まっていた黄昏時と同じように。
そして、ようやく見えた。
やだ。
どアップじゃない。
「おお、おでこ広いな。こんなに近くで見たの、初めてかも」
「なんですか、その感想。それに、最初にキスした時は、今よりもっと近かったでしょう?」
「あの時は、こんな余裕なかったから」
「余裕、ですか。それは、この場を切り抜けてから言ってほしいなあ」
「もう、絶対大丈夫」
「はは、そうですね」
リョーコは相手の腕をゆっくりとほどくと、しっかりとした足取りで天使たちへと向き直った。
まるで治癒魔法をかけられたかのように、彼女の四肢に力が戻ってくる。
リョーコは彼の頬に小さく口づけをすると、そっと耳元にささやいた。
「フリッツ君。愛してる」
「僕も愛してます。リョーコさん」
そうだよ。
元から、両思いだったんだから。
私たちが離れたままでいる理由なんて、何にもなかったんだから。
彼の返事に笑顔で答えながら、リョーコは今度は自分の指で、もう一度だけ涙をぬぐった。