第一〇四話 常時接続
ティナ、さん。
フリッツ君の、元カノさん。
その彼女が、フリッツ君の復讐を一時でも止めるために、彼と相討ちになった。
そして彼女の身体の中に、今の私がいる。
ティナの最期の記憶がリョーコの脳内に鮮明にフラッシュバックし、リョーコは思わず自分の身体をかき抱いた。
壁を見つめたままで小さく震えながら、つぶやくように男にたずねる。
「フリッツ君が記憶をなくした時に、落ちていた『スプリッツェ』を回収したって、あなた言ってたわよね。もしかして、あの場にいたの?」
男は当然であるかのようにうなずいた。
彼のルージュを引いた赤い唇が、なめらかに動く。
「あなたにもとっくにお分かりのことだと思いますが、私の仕事は、多元世界のルールに反する『不死』を処分することですからね。フリッツ殿は、常に私の監視の対象でした。無論あなたもです、ミス・リョーコ。あなたの言うところの私ののぞき見は、決して趣味などではなく、れっきとした上からの命令なのですよ」
リョーコは、フリッツの手刀に貫かれた時の痛みを、はっきりと思い出すことができた。
不快な記憶に、思わず自分の腹部をなでる。
「でも、私がこの世界で目覚めた時には、おなかに傷なんて無かったけど」
グラム・ロックの男は、ちっちっと指を振った。
「あそこにいたのは、私だけではありません。フリッツ殿は、すでに悪魔たちにもマークされていました。ランディなる異世界転生者と、ルシファーと名乗る悪魔も、あなたたちの戦いを陰から見ていたのですよ。そしてすべてが終わった後、ルシファーがあなたの腹部の傷を魔法で治した。どうやらあの悪魔は、治癒師でもあったようですね」
「ジェレマイアさんが、私を治してくれたの? なぜ」
「正確にはあなたではなく、ティナ嬢を治したかったのでしょう。フリッツ殿を倒したほどのその剣の腕を、味方として利用したかったのかもしれませんね。だが、腹部の傷を治しても、ティナ嬢の意識は戻らなかった。彼女はすでに死んでいたのですよ。正確には、脳死状態ですが」
「そして彼らが去った後で、私は彼女の身体に転生した……」
「ええ。あなたとフリッツ殿は、肉体的にはすでに出会っていたのですよ。お互いに相手の記憶がないのは、まったくの皮肉ですがね」
皮肉というよりも悲劇だ、とリョーコは思った。
そして悲劇とは、繰り返されるもの。
彼女の内心の動揺に頓着することなく、男は話し続ける。
「正直、私は驚きました。こちらの世界の『不死』を倒した人物に、異世界からの『不死』の魂が宿るとは、何たる偶然かと。そして私は悩みました。そう、これでも悩み深いのですよ、私は」
男は、くっくと例の含み笑いを漏らした。
「二人が近ければ、まとめて始末するには好都合です。一方で、何かしらの企みによって『完全なる不死』が生まれてしまうリスクもあった。熟慮の結果、私は間接的に介入することにしました。その『破瑠那』でね」
部屋の片隅に立てかけてある長刀は、暗い部屋の片隅で、再び抜かれるのを待っているかのように力をためている。
やはりこの刀は、「不死」の原因となっている変性遺伝子を破壊するための装置だったのか。
目の前の男は、私がこの「破瑠那」を使って、フリッツ君を斬るか、あるいは私が自害するかを望んでいる。
そして私は、前者を実行に移そうとしていた。
フリッツ君の「不死」を治療するために。
リョーコはシーツから抜け出すと、ナイトガウンを羽織った。
長い髪をアップにまとめながら、先ほど見た夢を思い出す。
「でもどうして、ティナさんの記憶が私の夢の中に出てきたの? 異世界転生者には、前の身体の持ち主さんの記憶も、ある程度残っているものなの?」
男は、あきれたように肩をすくめた。
「まさか、通常はあり得ません。複数人の記憶が同時に存在するなど、想像するだに恐ろしいでしょう?」
それはそうだ。
記憶の分裂。
解離性同一症、かつては多重人格障害と呼ばれていた神経症が存在するが、それは、幼いころの激しいトラウマに対する防御反応ともいわれている。
それぞれの人格は独立した記憶を持つが、そうであっても、それらはもちろん自分自身が実際に体験したものに限られる。
決してその記憶は、無から想像されたものではない。
ティナさんの人格が私の別人格、という線はないのか。
そう疑ってはみたものの、リョーコは頭を横に振ってその考えを捨てた。
なにしろ、目撃者がいるのだ。
エリオット君に訊けば、ティナなる人物がリョーコという別人格を持っていたのかどうか、わかるはずだ。
きっと彼は、フリッツ君と同様に、彼と行動を共にしていた彼女についても、監視を怠らなかったはずだから。
そして、エリオット君が今まで全くそんな話をしなかったことから考えると、ティナさんが別人格を持っていたなどというのは考えにくい。
やはり、転生で入れ替わったと考える方が妥当だった。
リョーコは、ベッドの端にぺたんと腰を下ろした。
混乱していた。
本当の自分とは、いったい何なのだろう。
「異世界転生者の記憶が、やはりただ一つだとして。だったらどうして私の中に、ティナさんの記憶が入り込んでくるのよ」
男は自分の爪の先を満月の光にかざしながら、彼女の質問に答える。
「通常はあり得ない、と言いましたでしょう? あなたは、通常じゃない」
リョーコは頬を膨らませた。
「そんなこと、今更言われなくてもわかってるけれど。あなたに改めて指摘されると、かちんとくるわね。じゃあ一体どうなってるのよ、私の記憶って」
男は腕を組むとリョーコに視線を戻し、噛んで含めるように説明した。
「一般的な肉体間の記憶の継承は、記憶継承用パスワードRNAによって行われます。この銀河のどこかにある記録媒体、ああ、アカシックレコードとでも呼びましょうか。そこから、脳へとダウンロードされるのです。その際に個体を識別するカギの役目となるのが、くだんのRNAなのです」
「記録媒体。そんなものが、宇宙に存在するの」
アカシック・レコード。
生物の記憶の全てを記録しているという、データベース。
確かに、記録することができるならば、そこから引き出すこともあるいは不可能ではなさそうだが。
「通常は、ダウンロードは一回きり。降りてきた記憶が脳細胞に焼き付けられ、定着する。その後は、サーバーとの間の通信は完全に断たれ、独立した個体として生存し続けていく。だから異世界転生者は、記憶を一度だけしか継承できません」
「それで、私は」
「大部分が定着しない。あなたの脳は記録媒体としての機能は著しく退化しており、単なる受像機に近い状態なのです。記憶をサーバーから取り出し、また元に送る。常に、アカシックレコードと記憶のやり取りを繰り返している。これが、貴方が何度転生しても記憶が残り続けるからくりなのです」
「じゃあ、さっき私が見たのは」
「アカシックレコードからダウンロードされたティナ嬢の記憶を、見たのですよ。彼女本来のDNAが、たまたま共振したのでしょうね。数えきれないほどのダウンロードを繰り返しているあなただからこそ、そのようなエラーも起きる」
そうだったのか。
私は、記憶しているのではなくて。
常時接続。
常に、アクセスし続けている状態だったのか。
前世で暗記問題が満点だったのも、ある意味カンニングよね。
辞書を引いているようなもんだったんだから。
そこまで考えて、リョーコはぎくりとした。
と、いうことは。
接続が絶たれたら、どうなるのか。
「もう一つだけ聞かせて。私がフリッツ君から斬られたら、彼の体液が私の中に入ったら、いったいどうなるの」
グラム・ロックの男は、うれしそうに両手をこすり合わせた。
すべては、彼の期待通りの展開なのだろう。
「『スプリッツェ』でも『破瑠那』でも同じ結果にはなりますが。あなたは、アカシック・レコードとやりとりすることが出来なくなります。それに伴って、今後どこに転生しようとも、金輪際記憶を継承することはありません。あなたはようやく、記憶という永遠の監獄から解放されるのです。それが私の与えられた任務でもありますし、あなたも恐らくそれを望んでいると推察いたしますが?」
今後転生しても、記憶を継承できなくなる。
そんなことは、どうだっていい。
「今の私の記憶は、どうなるの」
「今までのあなたの記憶はすべてサーバーに送られており、脳の中からは逐次消去されています。当然ですね、あなたの脳の記憶容量には限りがあるのですから。幼少時の記憶が断片的に残る可能性はありますが、どこまで退行するかは私にもわかりません。運が良ければ学生の頃くらいまでの記憶は残るかもしれませんが、下手をしたら赤子の状態になるかもしれませんね」
「気安く言ってくれるじゃない。フリッツ君が逆幼児プレイが好きとは、とても思えないんだけれど。いや、意外と好きだったりして……」
男はあきれたように言った。
「フリッツ殿がそれを好きでも、あなたのほうはきっと彼のことを識別できませんよ。この世界に来てからの記憶は、すべて失われると考えてください」
リョーコは、目を閉じた。
「……やっぱり。私自身が治るためには、フリッツ君を忘れなければならないのか」
何かを得るためには、何かを捨てなければ。
私自身は、不死のままだっていい。
でも、私はドクターだ。
フリッツ君を治すって、約束したんだ。
私のことを、忘れさせてでも。
ティナさんが懸けた命を、無駄にしないためにも。
決意を秘めたリョーコの瞳を、男は不思議そうに見つめた。
「ミス・リョーコ。今まであなたは、『破瑠那』での自害を選ばなかった。あなた自身は治るつもりがないのですか? 永遠の監獄の中で、未来永劫苦しみ続けるつもりですか?」
リョーコは、挑むように男を見返した。
この条件だけは、彼にのませる必要がある。
「あなたの目的は、『完全なる不死』が誕生することを阻止することでしょう? だったら、フリッツ君を元に戻すだけでも、その目的は達せられるんじゃない?」
グラム・ロックの男は、意外にもあっさりとうなずいた。
「それは、五十点の結果ですね。本来ならば、あなたとフリッツ殿の両者を消したいところですが。まあ、妥協は可能ですよ、レディ」
リョーコは驚いた。
およそ人間的な感情など持っていないと思っていたこの男の口から、妥協という言葉を引き出せたのだ。
フリッツ君は、もう十分に苦しんだ。
もうこのあたりで、平穏な毎日が訪れてもいいはず。
そう、まだ希望はある。
「よかった。それを聞いて、安心したわ」
男は天井を見上げながら、リョーコの気分に水を差す。
「そう、うまくいきますかね。まあ私は、最低限の目的が果たせれば、それで良しとしますが。長いお付き合いです、最後まで見届けさせていただきますよ」
「最期まで、のつもりでしょ。縁起でもない」
男はネクタイの位置を直しながら、横目でリョーコを見た。
「まったく、あなたはタフな人ですね。自分で、気付いていますか?」
「あら、失礼ね。フリッツ君は私のことを、か弱いって言ってくれたわよ」
グラム・ロックの男は両手で顔を覆って笑いをこらえると、現れた時と同じく、かき消すように姿を消した。