第一〇三話 サルベーション
薄暗い森の中では、ところどころから射しこむ木漏れ日が、オーロラのような光のカーテンを形作っている。
目の前に立つ黒衣の美少年は、銀色に光るブロードソードの切っ先を、私の顔にぴたりと突き付けた。
その刀身に刻まれた複雑な文様までが、はっきりと読み取れる。
憎悪に燃える彼の赤い瞳が、私と、私の後ろで座り込んでいる男の子の両方へと向けられている。
「ティナさん、そこをどいてください。どうして僕の邪魔をするんですか」
結んでいたリボンは、すでに彼に切られていた。
長いサーモンピンクの髪が目にかかり、今のこの局面では、単なる邪魔になってしまっている。
「フリッツ君、君は間違っている。この子は自分が異世界から転生したなんてこと、知らない。向こうにいた記憶も、きっとない」
私の言葉に、彼は耳を貸そうともしない。
「どうしてそんなことが、ティナさんにわかるんですか。異世界転生者は狡猾だ、その子がただ単に隠しているだけかもしれない。それに、その子が異世界転生者である事実は、間違いないんだ。僕のディテクト・フォーリン・ジェネに反応したのだから」
赤毛だった男の子の髪は、今ではまっさらな銀髪へと変貌していた。
「スプリッツェ」に付与された、いにしえの魔法「ディテクト・フォーリン・ジェネ」。
彼曰くそれは、異世界転生者に特有の遺伝子の断片を、確実に識別するための魔法なのだと。
彼の姉が、残した魔法なのだと。
「異世界転生者だから、どうだというの。この子を殺して、いったい何になるというの?」
フリッツ君は、唇をきつく引き結んでいる。
きっと、私に裏切られた、と感じているに違いない。
「ティナさん。あなたが信頼できる人だと思ったから、僕は自分の素性のすべてを打ち明けたんです。それなのに、いまさら僕を止めようというんですか。二度と、姉さんのような犠牲者を出すわけにはいかない。異世界転生者は、排除する」
フリッツ君は脱兎のごとく駆けだすと、私の胸めがけて鋭い突きを繰り出した。
私が避ければ、後ろの男の子が的になる。
一直線。
「フリッツ君!」
私の小太刀が、自分の意志とは関係なく動いた。
フリッツ君の手首の腱を切断する感触が、刀のつかを通して、私の手にぶつぶつと伝わる。
彼の「スプリッツェ」が宙高く飛んで、草むらに落ちた。
フリッツ君が、鮮血を吹き出している右の手首と私を交互に見ながら、呆然とつぶやく。
「どうして、ティナさん」
私は、後ろで震えている銀髪の男の子に叫んだ。
「君、逃げて!」
ざっと立ち上り、木立の間を抜けて駆けていく足音。
それはやがて、暗い森の奥へと消えていった。
私、いったいどんな顔をしているんだろう。
彼には、私がどう見えているんだろう。
「フリッツ君。私、身も心も許して、君に全てを語ってもらった。そして、君が人を殺しているのを知ってしまった。君の殺人には、理由がある。だけど、理由があるからといって、人を殺していいはずがない。君には、そんな権利もない」
「権利? ティナさんに許してもらおうとは思いません。いや、許されるはずがないのは、僕自身が一番わかっています。しかしティナさんにも、僕を止める権利はないはずだ」
やめてよ。
そんなよそ行きの言葉、君の口から聞きたくない。
「止めるわ。私の命に代えても」
フリッツ君は、首を大きく横に振った。
何度も、激しく。
「どうして、そこまで。ティナさんには、もともと何の関係もない話なんですよ。転生のことは忘れてください、そうすれば、僕たちは戦わずに済む」
「関係あるわよ。だって」
君の笑顔。体温。吐息。
そして、涙。
いくつもの夜を越えて、君が私に見せてくれた、すべて。
「私、君のことが好きだから」
フリッツ君は、天に向かって吠えた。
苦痛に満ちた、慟哭。
「そうやって、あなたは僕を惑わせる。僕はあなたが憎い。こんな僕を好きだなんて言う、あなたが」
フリッツ君が、猛然と突進してくる。
今度は、小太刀を振るう余裕もなく。
彼の骨化した鋭い右の手刀が、私の腹部を貫通した。
そのまま彼は、残った左腕で私をかき寄せる。
唇が触れそうなほどに近い、しかし絶望的に隔絶してしまった、彼との距離。
その目に涙が溢れているのを、私は美しいと思った。
「……フリッツ君。そんなに私のことが憎いなら、忘れさせてあげる。あなたを殺して、ね」
この期に及んで強がるな、私の馬鹿。
フリッツ君にだけは、忘れられたくない。
でも。
今だけでも、彼を止めなきゃ。
彼が人を殺すのを、やめさせなきゃ。
「いつか、きっとね。君の中から、その復讐の炎を消し去ってくれる人が現れるよ。それが私じゃなかったのは残念だけれど、それは、私の、わがまま」
私は渾身の力を振り絞って、小太刀を彼の左胸に突き入れた。
私の言葉に動揺していたのか、彼は、治癒魔法で皮膚を硬化させることも忘れていたようだった。
細い刀身が肋骨の間をすり抜け、彼の心臓を貫通する。
「! ティナさん……」
大きく見開いたフリッツ君の瞳から、少しずつ光が薄れる。
よろめいてあお向けに倒れた彼は、背後の斜面から身を滑らせると、そのまま奈落へと落ちていった。
その場にうつぶせに崩れ折れた私は、這いつくばりながら森の縁へたどり着くと、ようやくのことで下をのぞいた。
斜面の底は真っ暗で、何も見えない。
いや、底だけでなく。
森も、空も、一面が底知れぬ暗黒だった。
自分の腹部だけが、焼けるように熱い。
「私、君の記憶から永遠に消えるのかな。忘れ去られるってことが、本当に死ぬ、ってことなんだよね」
寒い。
暗い。
私、いつまでも、彼の中で生き続けていたかった。
誰でもいいから、お願い。
彼に、私に、救済を。
リョーコは叫びながら、ベッドから跳ね起きた。
荒い息をつきながら、暗い部屋に白く浮かび上がるシーツを握りしめる。
サーモンピンクの彼女の髪は、汗で額にべっとりと張り付いていた。
今まさに見た、夢の中と同じように。
なに、今の。
あれは、確かにフリッツ君だった。
それに、ティナ、さん?
何気なく頬に手を当てたリョーコは、そこが濡れていることに初めて気づいた。
私、泣いてる。
突然デジャブを感じたリョーコは、壁の隅の暗がりに目を凝らした。
やはり、いた。
「グッドイブニング、ミス・リョーコ。大変ご無沙汰しています」
水色のスーツに、トリコロールのネクタイ。
常夜灯を消したままの暗い室内でも、彼のターコイズブルーの瞳が彼女を見つめているのが、リョーコには何故かはっきりとわかった。
口紅を塗った赤い唇が、歌うように動く。
「今宵は格別、ご気分がすぐれないようですね。お水でも、お飲みになればどうかと」
リョーコは大きく息をついた。
今の夢は、こいつの仕業ではないような気がした。
むしろ、私の夢が、こいつを呼び寄せたような。
「ちょうどよかったわ、次元管理官。前から、あなたに会いたいと思っていたのよ」
グラム・ロックの男は、青いアイシャドウを施したまぶたを、ぱちぱちとまたたかせた。
「これはまた、妙な肩書で呼んでいただけるのですね。まあ、当たらずも遠からずですが。管理ではなく監視でしょうか、今のあなたの夢については」
相変わらず、見透かしたようなことを言う。
「やっぱり見てたんだ。あなたって、本当にのぞき見が好きね。私の頭の中に勝手に入ったんだから、住居侵入罪よ。今回だけは穏便に済ましてあげるから、今の私の夢について説明して」
男は針金のような細い腕を組むと、けだるそうに寝室の壁にもたれた。
「やれやれ、久しぶりにお会いしたというのに。旧交を温め合う暇もありません」
「時間がないのは私も同じよ。どうやら私の旅も、大詰めを迎えてるみたいだし」
男の透き通った青い瞳が、面白そうにきらめいた。
「それはよい心がけです。私の仕事も、もうすぐ終わりというわけですか」
「早く話せ!」
男は肩をすくめると、短い金髪の先を細い指で直しながら、窓の外を見た。
ちょうど中天には、満月が浮かんでいる。
彼は天気の話でもするように、さりげなく言葉を紡いだ。
「お察しの通りですよ。あれは、あなたの記憶です」
「持って回った言い方をしないで! 私が転生する前の、以前の身体の持ち主さんのでしょ!」
男は、窓の外からリョーコへと視線を戻した。
「イエス。ティナ嬢、この世界における最強剣士の一人でした。そして今あなたが見たとおり、彼、フリッツ殿の、前世の恋人でもありました」