第一〇一話 嵐を見つめるもの
いつの間にか、陽が傾きつつある。
王城の広大な中庭は緑色の芝生で一面覆われ、死地を脱したばかりとは思えない牧歌的な気分すら感じさせた。
冷たさを含んだ風が頬の横を通り過ぎ、こびりついた汗と血を乾かしていく。
城の窓から飛び出した三人は、メリッサがカレンの背に、エリアスがカレンの手をつかんだままで、飛翔を続けていた。
体力を温存するためだろう、メリッサは時々翼を休めて滑空しながら、できるだけ遠くへと距離を稼いでいるようだ。
徐々に高度が下がるにつれて、地表の鮮明さが増してくる。
「メリッサさん。落ちて、いますね」
背にメリッサの翼の羽ばたきを感じながら、カレンが何気なくつぶやく。
当たり前でしょう、とメリッサはすこし腹立たしい気分になった。
「簡単に言わないで、カレンさん。か弱い女の子が、大の大人を二人も抱えて飛んでるんですから。あなたが筋肉の付き過ぎで重いのでは? もう少し柔らかい方が、殿方には好まれるのではないでしょうかね」
ぴくり、とカレンのこめかみに青筋が立つ。
彼女は振り向くと、引きつった笑いを浮かべた。
「女の、子。メリッサさんって、確かヒルダさんの二級上だから、二十六歳ですよね。女の子って自称は、ちょっと無理があるんじゃないですか」
お返しとばかりに、カレンにあおられるメリッサ。
めったなことでは動揺しない女魔導士の顔が、さっと青ざめる。
こんのやろー。
こちとら、二年前までアカデミーの女学生だったんだ。
それを年増のように言いやがって。
カレンさんには、制服なんて間違っても似合わないじゃない。
「ほう。そういうカレンさんは、おいくつになられたのでしょうかね」
「あなたと、同じ年齢です」
しれっと言うカレンに、メリッサは憎々し気な視線を送った。
なによ、同い年じゃない。
年齢なんか気にしてるのは、そっちのほうだっつーの。
「おっと、偶然。カレンさんがあまりに大人すぎて、てっきりかなり年上なのかと。私なんか、いまだに学生にみられてしまうことが多くて。若く見られるって、いやー困りますわね」
徐々にヒートアップしてきた女同士のつばぜり合いに、エリアスの早口が割って入った。
「おい、メリッサ。くだらないこと言ってないで、早いとこ地表へ降りようぜ」
もう。
誰のために、こんなくだらない戦いを展開していると思ってるのよ。
この鈍感男。
「言われなくても、もう体力が持ちませんって。まったく、できるだけ敵から遠ざかろうと頑張ってるのに」
ぼやくメリッサに、カレンがこっそりと耳打ちした。
「殿下、昔から高いところが苦手なんです。きっと内心、ガクブルですよ」
メリッサが、ぷっと噴出した。
飛行の姿勢がわずかに崩れ、エリアスの顔が青ざめる。
「へええ、可愛いところあるじゃない。ところで、カレンさん。今更なんだけれど、エリアスはいくつなの?」
「私たちより、二つ下です。二十四」
さらに乱れたバランスに、エリアスが今度は思わず声を上げた。
「うっそお。年下君だったのか。エリアスって世間体を気にするタイプじゃないと思うけれど、年上の彼女って、どうなのかなあ」
「年上がどうとかより、彼女が魔導士、っていうほうが、世間体としてどうかと思いますけれど」
「あー、職業差別。カレンさんこそ、昨今は職場恋愛なんて流行りませんわよ」
カレンとメリッサは視線をぶつけて火花を飛ばしあうと、どちらからともなく声を上げて笑った。
カレンは、ロザリンダとの記憶を頭の中から振り払った。
どんな過去さえも、この三人なら、乗り越えていける。
小細工で飾り付けられた残酷な現実を、笑い飛ばしてやれる。
だから大丈夫ですよ、殿下。
私たち二人が、忘れさせてあげます。
なぜだか仲がよさそうな女性二人を、エリアスは下から恨めしそうに見上げた。
「なに、笑ってやがる。どうでもいいから、早くおろせってんだ!」
「柏葉門も、やはり天使たちで固められていますね」
「カレンさん、柏葉門って?」
「正門は南にありますが、あの柏葉門は西門に当たります。大陸への征討軍が王城から出陣する際には、あの門を通って港へと向かうことが多いんです」
滑空しながら高い城壁を超えることはかなわず、やむなく中庭に降り立った一行は、丘の影から城門を探った。
鉄製の大きな両開きの門は、今はもちろん固く閉ざされている。
そして門のこちら側には、大型盾と槍を連ねた装甲兵たちによる方陣が組まれていた。
「重装歩兵のファランクスで構成された中に、騎馬が五騎。馬鎧が青で統一されているのは、オラシオ第一王子殿下の直属軍の証ですね」
カレンが手をかざしながら、エリアスに報告する。
彼女は視力においても、王国軍の中で群を抜いて優れていた。
「どうするの、エリアス?」
メリッサが、かがんだままでエリアスにささやいた。
その肉が露出していた両足の傷は、すでにふさがりつつある。
「騎馬がいる、ってのは好都合だな。馬を奪えれば、脱出が容易になる。問題は、あのファランクスだが。あのまま門の前で動かなければ、手の出しようがない」
「挑発してみますか?」
「無駄だろう。奴らの任務は、あくまで封鎖だからな。時間を稼いで援軍を待ってから、俺たちをゆっくりと料理すればいいわけだ」
その時何を思ったか、ぴくり、とメリッサが眉を上げた。
彼女はいきなり立ち上がると、隠れていた丘の影からその身を完全にさらす。
すぐにメリッサに気づいた下級天使たちの群れが、槍の穂先を一斉に向けてくるのが、遠目にも見えた。
奥に控えていた五騎も、こちらへ飛び出してくる。
「メリッサ、何やってる!」
メリッサの服のすそをつかんで、エリアスが彼女を引き戻そうとする。
「其、直拡杯訪晶」
短く呪文を唱えた彼女は、前を向いたままで小さくつぶやいた。
「勝ったわ。エリアスは、騎馬だけを狙って」
「何を言って」
「遠見」を唱えたメリッサは、彼らに迫ってくる騎馬の背後に、その変化をはっきりと見ていた。
鉄の城門の表面に、ごく小さな赤熱した円が浮かんだ。
そして一部が静かに溶け落ちて、そこにぽっかりと丸い穴が開いたことに、彼女に気を取られている下級天使たちは気付かない。
そしてその暗闇の奥から、まるで幽鬼のように、細い女性の手がすっとこちら側に伸びてきた。
メリッサは右手を腰に当てたまま、泰然として動かない。
細めたその目を、風にあおられた栗色の髪が隠す。
その口元に、わずかな微笑が浮かんだ。
「ふふ。嵐を見つめるもの、か。刮目せよ、天使ども」
分厚い鉄扉の裏側からもはっきりと感じとれる、急激な魔力の収斂。
それは澄んだ女性の声とともに、形となって現われた。
「君。核を解きて、螺旋の理を断て!」
白熱。
光の球が急激に膨張し、城門ごと下級天使たちを包み込んだ。
五騎の騎馬のうち四騎が、逃げ遅れて飲み込まれ、見えなくなる。
エリアスも、あまりのまぶしさに目を覆った。
そして再び目を上げた時には、崩れ落ちた天使の残骸の山と、残された大量の武具、そして暴れる軍馬を必死に押さえつける下級天使ただ一騎が残されているのみであった。
メリッサが、ひゅうと口笛を吹いた。
単体攻撃魔法のままなのに、威力が有り余りすぎて、全体攻撃魔法みたいになってるじゃない。
完全に、オーバーキル。
破壊された門の奥から、ローブ姿の人影を乗せた一頭の馬がゆっくりと進み出てきた。
ローブも、馬も、白い。
人影は、けだるそうにフードを後ろに払った。
白い背景に浮かび上がる、対照的な黒いショートヘアー。
深淵を映し出す、黒い瞳。
天使を全滅させたその魔導士は、眼前の有り様など一顧だにもせず、エリアスへと視線を向けた。
「一騎だけ残しました。そちらはお任せします、陛下」
聞こえるはずのない距離で、エリアスは女性の声を確かに聞いた。
天使を乗せた軍馬が恐慌に陥ったとみえて、狂ったように彼に突っ込んでくる。
「オールアーマメント・オープン」
エリアスのすねあてが緑色の光を放ち始めると同時に、眼前に迫った馬が棹立ちになった。
前足のひづめで顔面が踏み砕かれる直前、エリアスが右の拳で地面を強く殴打する。
反動で真上に跳躍したエリアスは、自分がいままで居た地面を、軍馬の重量のある足が踏み抜く様を見た。
宙を見上げた下級天使の瞳のない顔面を、エリアスの蹴りが砕いた。
天使は馬上から空中へと投げ出されながら、白煙を上げて崩壊していく。
着地したエリアスの背後では、主を失った馬がようやく停止していた。
騎乗した純白の魔導士が、エリアス達三人の方へゆっくりと近づいてくる。
メリッサが破顔しながら、右手を大きく振りあげた。
「ヒルダさあん。やっぱり、あなたのダンスは最高だわ」