第一話 出会いは鈴の音に乗って
リン。
リリン。
嘘でしょ、また急患なの?
今日はこれで、救急車何台目かな。
まったく、ついてない。
ベッドの中でまどろんでいたリョーコは、どこからともなく聞こえてくるその音で跳ね起きた。
暗闇の中で半身を起こすと、部屋の中を見回しながら、音の出所を探す。
よかった。
当直室の院内電話の音じゃなかった。
意識がはっきりしてくるにつれて、リョーコは苦笑を浮かべた。
馬鹿ねえ、あたし。
当直室なんか、この世界にはどこにもないっていうのに。
職業病ってやつか。
リョーコは改めて耳を澄ました。
そのかすかな物音は、どうやら屋外から聞こえてくるらしい。
鈴、かな。
何よ、こんな真夜中に。
二度寝しようと寝床に潜りかけたリョーコは、なぜか胸騒ぎを覚えた。
呼んでいる。
私を?
彼女は寝台から起き上がると、暗い部屋の中ですばやく衣服を身に着けた。
腰まであるストレートのサーモンピンクの髪を、手早く束ねてアップにまとめる。
彼女の澄んだ緑の瞳が、部屋の小さな窓から差し込んでいる月の光を反射して、猫のようにきらりと光った。
レイラさんとポリーナちゃんを、起こさないようにしないと。
リョーコは部屋の扉をそっと開けると、忍び足でゆっくりと階段を降り、勝手口から滑るように外へ出た。
いつもはまだ昼の熱を残している初秋の深夜も、今夜に限ってはどこか肌寒かった。
街灯の設置されていない裏道は真っ暗で、人どころか猫の子一匹の気配すらない。
リョーコは上着のえり元をかき合わせると、再び耳を澄ました。
リン。
リリン。
鈴のようなその音は、大通りの方角から聞こえてくるようだ。
リョーコは誘蛾灯に誘われる蛾のようにふわふわと暗い裏道を歩いていくと、建物の角から顔だけを出して、表をうかがった。
「永続の光」の魔法がかけられた街灯が、レンガ敷きの街路を青白く照らしている。
鈴の音はすでにやんでおり、表通りは墓場のようにしいんと静まり返っていた。
リョーコは目を凝らした。
通りを渡って離れた道の端に、白いナイトガウンを着た少女が座っている。
遠目にはっきりとは分からないが、おおよそ十歳くらいか。
ポリーナちゃんと同じ年ごろの、きゃしゃな感じの女の子。
ただ目立つのは、その少女の髪が、不自然なほど銀色であることだった。
無機質で硬質な、人工の銀。
そしてその少女の前には、長い黒髪の女性が一人たたずんでおり、目の前の少女の顔をじっとのぞき込んでいた。
紫色のローブに身を包んだその女は、左半身をリョーコの方に向けている。
もっとよく見ようとわずかに身を乗り出したリョーコは、思わず総毛だった。
違う。
女、は恐らく正しいのだろう。
しかし、人、というのは間違っていた。
なぜなら。
彼女の背中から生えている、てかてか光る黒い革でできた傘のようなものは、翼じゃないか。
そう、まるで蝙蝠のような。
ローブの女は黙って少女を見つめていたが、やがて右手をゆっくりと彼女に伸ばした。
その右手。
左半身をこちらに向けているのでわからなかったが、その女が伸ばした右腕はその全長にわたって、黒い体毛でびっしりとおおわれていた。
その爪は、一本一本が鋭利なメスのようだ。
それも曲刀ではなく、先のとがった尖刃刀。
表面を切るのではなく、深く、刺すための形状。
リョーコは頭を振って、その考えを追い払った。
馬鹿。
なんでこんな時に、昔のことを思い出してるんだ。
私にはもう、メスなんか必要ないのに。
街灯に照らされて鈍く光るその爪が、ゆっくりと少女の胸に迫る。
少女は恐怖の為なのか、声一つあげずに、ただがたがたと震えていた。
どうする。
もちろん、答えは一択。
逃げよう。
どうせここは、私の世界じゃないんだ。
違う世界の人のことなんか、私には関係ない。
それにここで出しゃばって、私が転生者だってことが誰かにばれでもしたら、きっと厄介事に巻き込まれるに決まっている。
そう考えたリョーコの足は、しかし自分の意思に反して、じりじりと前に踏み出していた。
私ってば、何考えてるの。
あんな化け物、一人でどうしようっていうのよ。
リョーコは裏道に転がっていた手近な棒をつかむと、広い街路へと進み出た。
「グッドイブニング、化け物さん。その子から今すぐ離れて」
ローブの女がその動作をぴたりと止めた。
ゆっくりと、リョーコの方に向き直る。
「!」
女の顔の右半分は、黒い山羊のそれであった。
その眼には瞳がなく、ただ白い球体のまま、眼窩の中でぐるぐると動いている。
人間と山羊との全く異なる口が、何らかの冒涜的な方法で、無理やり一つに接合されていた。
そして例の黒い右腕は、よくよく見れば、同じ肩のつけねから二本も生えている。
黒山羊。翼。その異形。
ひょっとして、これが悪魔ってやつ?
ここから海を渡ってはるか離れた「大陸」には様々な魔族がいる、という噂はきいたことがあるけれど。
遠く離れたこの王国の、しかも王都に、こんな奴が存在しているなんて。
もはや女とも言えないその魔物は、わずかに口をゆがめた。
確かに笑った。
こいつ、知能があるの?
しかしリョーコには、それ以上何かを考える余裕はなかった。
魔物は黒い翼を大きくはばたかせると、街路を低く滑空しながらリョーコへと突っ込んでくる。
ちょっと待って。
私、ただのドクターよ。
こんな攻撃、かわせるわけ……
リョーコは体をひねると右半身を魔物に向けて投影面積を最小限にし、突き出された爪を紙一重で避けた。
すれ違いざまに、手にした棒を魔物の顔の左側、人面の方へと突き立てる。
いやあああ。
魔物の口からほとばしるその声が、普通の女性の叫び声であったのが、リョーコに一層の嫌悪感を抱かせた。
魔物はレンガ道の上にどちゃりと落ちたが、すぐに起き上がると体勢を整えた。
その瞳のない白い眼球で、リョーコをにらみつける。
リョーコも乱れた息を整えると、木の棒を正眼に構えなおした。
私の身体、動いてくれた。
やっぱり、この身体の元の持ち主さん、けっこうな体育会系だったのね。
感謝しなきゃ。
しかし相手はその醜悪な叫びに反して、大したダメージを受けているようには見えない。
怪物は再びその黒い翼をはためかせると、二本ある右腕を前方に差し出す。
それぞれの爪がまたたく間に、サーベルのよう長大に伸びた。
そして再び地面を蹴ると、恐ろしいスピードでその爪をふるう。
リョーコの左腕に五条の爪痕が刻まれ、数瞬遅れて、それぞれの傷から血が噴き出した。
その激痛に、彼女はたまらずに街路に膝をつく。
「つっ……」
あちゃー。
少し、調子に乗っちゃったかな。
手首が動くから、腱と神経は生きてるみたいだけれど。
その魔物はゆっくりと振り向くと、首をかたかたと回しながら、とどめを刺そうと近寄ってくる。
異世界って、こんな魔物がいるのか。
怖いところね。
リョーコは小さくため息をついた。
まあ、一度は死んだわけだし。
この世界って、私にとってはただのボーナスステージだもの。
命なんて、別にいまさら惜しくはないわ。
ふと、まだ動けないでいる銀髪の少女がちらりと視界に入った。
でもせめて、あの子だけは助けてあげたかったわね。
あの子にとってはここだけが、唯一かけがえのない世界であるはずだから。
リョーコの顔面に、勝手知ったるメスのような魔物の爪が迫った。
ごめんね。
転生しても、弱いままの私で。
さすがに固く目を閉じたリョーコの耳に、ごきゅんと何かがつぶれたような音が響いてきた。
きいやああ。
先ほどよりも悲痛さを増した魔物の叫び声が、夜の街路全体にとどろく。
「え?」
思わず開いたリョーコの目に映ったのは、背を向けた黒い人影。
その乱入者は、赤い体液が付着した右のこぶしをぶるんと振るうと、リョーコの方へと向き直った。
……。
あー。
これは、美少年だわー。
美少女って思っちゃうくらいの、美少年。
軽くカールした柔らかそうな黒髪を真ん中で分け、額を大きく見せている。
細いがしっかりした黒い眉に、ややたれた優しそうな目、黒い瞳。
一見したところ、十七、八歳くらいか。
私より五つか六つほど年下の、可愛い男の子。
しかしリョーコはなぜか、自分の推測に自信を持つことができなかった。
古木よりも、はるかに老齢であるような。
かと思えば、生まれたばかりの赤子のような。
しかし、こんな状況でいきなり現れたのだ。
ただの人間であるはずはなかった。
その少年の瞳は暗く赤い光を放ち、わずかに開いた唇からは、二本の尖った犬歯がちらりとのぞいていた。
これって。
もしかして。
息をのんだリョーコの脳裏に、ある単語が浮かんだ。
吸血鬼。
少年が羽織っている黒いショートコートのすそが、夜鳥のように大きくはためいた。