新しい日々①
「……!」
何も言葉を発せられなかった。ハッハッと短く発せられる呼吸の合間、上下の歯がカチカチと音を立てる。
「何やってんだ!早く逃げろ!!」
前方から大声で怒鳴られる。無茶だ。後ろ手になり、地面に尻をついた今の体勢。足どころか、指先や紙の先に至るまで震えが走っており、目は最大に見開かれて瞳孔が縮んでいる。せめて、後ずさりだけでも出来たらよかったのに、それも叶いそうにない。
(な、なんなんだよ。コレは!!)
今宵は満月。光が強いために地面が仄明るく、木の影さえも映って見える。その月が映すもの。
――異形。人でも、何かの生き物でもない。ただとてつもなく大きく、紫と黒を入り交ぜたような汚い色。所々ボコボコして適当に固まっているようだが、それが動くとボコボコがずれたりして僅かに形が変わる。その体からボタボタとまた液体のようなものが地面に滴る。地面が濡れると、シューと音を立てて煙のようなものが出た。
(おれは、一体どうしたらいいんだ!)
どうしてこんなことになってしまったのだろう。二十時を回ったくらいだが、仲良く三人で近くのスーパーまでアイスクリームを買いに行くだけのはずだった。
呼吸すら苦しくて、目が熱くなる。異形と自分の間に立つ二つの影が、揺らめいた。
時は半日ほど前に遡る――。
*
賑やかな声がそこかしこから聞こえる。それとは別に、チラチラとこちらを見る視線も。
「ホントに大丈夫かぁ?」
頭上右上から声がかかる。口を真一文字に結び、背中にある鞄を背負い直すような仕草をした。
桔梗 翔。歳は十一。身長は百四十二センチ。髪も目も真っ黒。胸ポケットのついた紫色のTシャツに黒い短パン、くるぶし丈の白い靴下に黒字に白の模様が少し入ったスニーカー。本日からこの目の前にある八重桜小学校へ転入する。
カケルのすぐ側に立つ二人の青年。右に立つのは宵闇 朝陽。歳は十四。明るい茶色の短髪がピンピン跳ねている。瞳の色は濃い青。鞄を肩に担ぎ、わしわしとカケルの頭を雑に撫でている。
反対側にいるのは宵闇 夜。サラサラストレートな金髪が柔和な笑みによく似合う。瞳の色や年齢は朝陽と同じ。つまり、金髪碧眼というわけだ。
夜と朝陽は名字が同じだが、従兄弟同士である。二人揃って、薄い青が基調のブレザーを着ている。胸元には金の刺繍。八重桜小学校から徒歩十分くらいの距離にある、私立星ノ丘学園の中等部二年。カケルもそこの初等部に通っていたのだが。
――仕方がなかった。少子化による経営不振で、初等部と附属の幼稚園は運営停止になったのだ。
幼稚園は、市が引き取ってその場所で「附属」という文言を取って名前はそのまま続くらしい。成程、近年は待機児童問題もあるし、幼稚園がないのはそれはそれで困るのだろう。
初等部の児童たちは、別の私立小学校に編入するか、あるいは校区の公立小学校に転入するかの二択となった。それで、カケルは月の変わった今月から、二人と違う公立小学校に行くのだ。遠く離れた私立小学校に行くなら、星ノ丘学園に近い今の学校がマシだという理由から選んだ。
いつも二人と一緒に車で送り迎えしてもらっていたが、今日は転校初日ということで夜と朝陽と一緒に歩いて登校してきた。校門前で緊張した面持ちのカケルを見て、二人は心配している。
「朝陽の気持ちもわかりますが、僕らの歳では保護者として見てもらえないでしょうし」
眉をハの字に下げて夜が言った。
「ついていきたいのは山々なんですけど」
「だよなー」
朝陽はため息をついた後、カケルの前に回って鞄を地面に置き、しゃがんだ。カケルと視線を合わせて両腕を大きな手で掴む。
「カケル!」
「また呼び捨てにして……」
夜はボソッと言ったが、それ以上は言わなかった。
「いいか。嫌だと思ったら、いつでも!すぐに!おれ達のところに来ていいからな!な!」