後編
「見ろ。今宵も懲りずに地獄の釜が開いたぞ」
湯船で鼻歌なんぞ歌っていた魔王が立ち上がった。視線は夜の星空を映す、大浴場の窓ガラスに固定されている。
季節はほんの少し巡って、夏も盛り。
本日も黒い車に乗せられて、やって参りました温泉地。
私はTシャツにゴム長靴姿でアルバイト中です。
ここは冬ならば背丈を超す雪に覆われるという、豪雪地帯の温泉。
今はまだ山の木々が青々と茂っているけれど、紅葉の季節ならばとても見事なはず。
「その言い方、やめてください。魔王様が言うとシャレにならないんですけど」
大浴場の端でデッキブラシと共にスタンバイ中だった私は、急いで外の露天風呂へと繋がるガラス戸を開けた。
そこを、爛々と輝く爬虫類の眼で外を見つめる魔王が、すたすたとくぐり抜ける。
因みに今、彼はマッパです。
もう一度言います、うら若き乙女(一応)の前だというのに、マッパです。
もうやだ、この人。いや違う、このドラゴン。
でも最初の頃は大浴場の中でドラゴン形態になって、窓ガラスをぶち抜きまくってたので、そこは成長したと認めましょう。
ただし今でも私が先回りしてガラス戸開けないと、そのまま人型で突き破るけれども。
先ほどまで雲一つ無かった夜空は、薄雲に覆われていた。
空にはぼんやりと赤い紋様が浮かんでいる。
しっかりガラス戸を閉め、魔王の隣に並び空を見上げる。下は見ない。絶対にだ。
円と解読不能な文字を組み合わせた紋様は徐々に赤みを増し、脈動を刻むように暗く明滅し始める。
徐々に濃く面積を広げる円と線。禍々しく輝くそれは、表面が海のように波打っていた。
コップの端から水が溢れるみたい。
溶けた紋様が、どろりと下に落ちてきた。
「うわあっ」
「もっと離れていろ。捕まるぞ」
粘性のあるそれは、濁った赤黒い血のよう。
血の滴りの雨を浴びることも厭わず、魔王がひとりその真下に立つ。
私は少し離れた場所で彼に背を向け、膝を抱えるようにしゃがみ込むと、両手で両耳を覆った。
鼓膜に圧をかけないように、口を僅かに開く。身体の中に逃げ道を作るためだ。
ややもせず、びりびりとした衝撃。
私では感じ取れない音域が、空気を震えさせた。周囲の山をねぐらにしている野鳥が、一斉に飛び立つ羽音。ついで、身体が浮くような風圧。表面積を小さくして、私はそれらをやり過ごした。
第一波が納まり振り向けば、空中には赤い紋様に絡みつかれるドラゴン。けれど鋭い爪と牙、強靱な脚と翼は全てを跳ね返し、壊していく。
細い飴細工を砕くように。
それでいて、生き物を引き裂くように。
勇者と魔王の決戦をCGみたいと評した私だけれど、これを見るとそんな暢気な感想は浮かんでこない。あの赤いものに対する嫌悪感が、勝ってしまうから。
勝敗はいつもあっけなく決する。
散り散りに引き裂かれた赤い紋様は、うねうねとそれでも魔王に絡みつこうとしたあげく、徐々に動かなくなり、乾いて粉のように空に散っていくのだ。
赤黒い円と紋様。
これを私が初めて目にしたのは十八歳の日。自分のアパートの天井。
ガイスホールに召喚された時。
「懲りませんねぇ」
溜息交じりに呟く。
「それで何千年と回してきたのだ。今更変えられんのだろう」
魔王が、喉の奥でくつくつと笑う。
魔王(とついでに役立たずな失敗召喚の私)を世界から追い出して、ガイスホールには平和が戻った筈なのに。こっちの世界に戻ってきて一年くらいした頃から、召喚の紋様が魔王だけを追いかけてくる。「首がなければ安心できんのだろうよ」と、呆れたように言ったのは魔王だ。
私を異世界に誘拐したのも、魔王を追い出したのも彼らなのに。徹頭徹尾、自分たちの都合を押し付けてくる。――ばっかみたい。
ガイスホールの神様? それとも現地の人々? とにかく彼らに振り回されてるって意味では、私と魔王は同じ被害者の会、正規会員だ。
「それじゃあ、大浴場の方で落とします」
「ああ、頼むぞ」
あの赤い紋様が自ら発する力のお蔭で、大浴場のガラスにも、建物にも被害は無い。さわさわと吹く夜風にも、温泉の硫黄以外の匂いは感じられない。
こうしていると、貸し切りにした露天風呂も、晴れた夜空も、何も揺るがない在り来たりの日常に思える。
まあ、そこに佇む私はゴム長靴で、魔王様はドラゴンですけど。
「あ! タイムッ。人間になってからドア潜ってください」
「おお、忘れていた。お前も随分手慣れてきたな」
「そりゃ、毎回毎回ガラス壊されたら慣れます。ガラスサッシ手配ばかりさせられて、すっかり日本各地に得意のガラス屋さんを持つ、魔王様の秘書さんのことも考えてあげてください」
からからと笑う魔王が人型になったことを確認して、私は放り出していたモップを持ち上げた。
さあ、ここからが魔王様の鱗磨き係のアルバイトです。
ラスボスバトルに巻き込まれ、次元の狭間から吐き出されたあの日。
私は景色を見て、看板の文字を見て、自分がアスファルトの上に立っている事を知って、嬉しさの余り泣いた。
だって、何の因果か日頃の行いの良さか、とんでもない異世界召喚に巻き込まれたっていうのに、元の世界に帰って来られたのだから。
自分の暮らしていた日本に。
でもここからが本当の試練ってやつでした。
他の帰還者の皆さんに、いらっしゃるなら是非お聞ききしたい。
「帰った後、どうやって生活を立て直したんですか?」――と。
まず、召喚された日から二年近い月日が経っていた。
そのこと自体に違和感は無い。あちらで過ごした月日がそんなもんだったし。千年後~みたいな、浦島太郎状態じゃなくて良かったとか、思ってしまったくらいで。
でもこの微妙な長さの失踪のせいで、私は全てを失っていた。
まず、入社して四ヶ月だった会社は当然解雇。しかも突然無断欠勤して失踪した最低の新人。事実ですから何も言えません。
アパートは解約されてて、私物はとっくの昔に処分をされていた。両親共に私が学生時代に他界し、叔母夫婦に土下座して保証人になってもらっていた私は、帰ってきてそりゃあもう彼らに責められた。
滞納した分の家賃と光熱費に、部屋のクリーニング代の立て替え。
事件性ありとして、警察へ提出していた失踪人届けの件。
そりゃ責めますよね。
失踪だから保険金も下りない。しかも二年で帰って来ちゃったしね。ちょっとそこを残念がられている雰囲気なのも、地味にボディーブローとして効きましたわ。
保険金、狙ってたのね……。
更に、就職する時新しい携帯電話を月賦で購入してたので、支払い滞納でクレジットのブラックリスト入りしてました。
知ってる? あの機種の購入代金も、正式なローン契約になるんだって。はは……私、知りませんでしたよ。
やっと社会人になって、特筆するものは無くても、真っ当に誠実にコツコツ生きていくことが、私の目標だったのに。
厚生年金も社会保険料も税金も、もちろん滞納。未払い。
異世界から戻ったら、人生全部が盛大に躓いちゃってた。
もう何から手を付けて、どうやって立てば良いのか、わからなかった。
はい。飽きてますよね。暗いしね。
ごめんなさいね。
もうちょい! もうちょいで涙の回想終わるんで。
そんな八方塞がりな私に手を差し延べたのが、魔王というんだからもう、笑うしか無い。
自己破産するか、返済猶予のある魔王からの借金か。
「どちらか選べ」と、あのどう見ても堅気じゃ無い人間形態――魔王だからそもそも堅気のわけが無い――から言われて、私は迷わず魔王ローンを申請しました。
不思議なことに、魔王は最初から周りに馴染む容姿をしていて、これは異世界を越えるお約束なのかもだけど、日本語にも不自由せず、お金と戸籍をすぐさま手に入れていたのだ。
私が半泣きで窮地に陥ってる間に。
そして魔王は会社を立ち上げ事業を拡大し、大邸宅に住むようになった。
その間ずっと、私は魔王家の居候でした。扶養状態です。いえ、他人なので扶養者控除はききませんけど。
当初彼は概ね親切な大家だった。
私の借金を清算してくれて、クレジットの信用情報までリセットしてくれたり。ちなみにどうやったのかは、怖くて聞いていません。知らない方がいいことも世の中にはあるよねー。
但し全て、超高額利子付きのローン扱いでしたが!
ようやく独り立ちして魔王家を出て、少しずつでもお金を返していきますと、笑顔で頭を下げた鼻先に、突き付けられた多額の請求書。
分かっていたこととはいえ、それにしても多過ぎません?
毎日の朝食に勝手に出してきた、私の嫌いな納豆さえ請求カウントされていた。こんなことなら手を付けなかったのに!
「いい加減覚悟を決めてしまえ。ハケンなどせずに、私の鱗を洗っている方が、時給はいいぞ」
但し、いつでも鱗を洗えるように大邸宅常駐が条件なのです。
それ、自立じゃないじゃん。しかも常に経費請求で相殺するつもりでしょ? 一生お金も返せないし、肩身が狭すぎる。
そりゃあ無理な取り立てなんて一度もされてないけれど。増えていくゼロを眺めるのは、心臓に悪い。
「それは分かってます。でもこの紋様の襲撃? が終わったら、お役御免じゃないですか。しかも、何一つこの先履歴書に書けない職種ですっ」
「鱗洗いも立派な仕事だ」
「もちろんですとも。でも! ドラゴンの鱗洗いって、応用の利く一般職とは言いがたいかなって」
歳を重ねれば、経験者でないとお仕事にありつくのは中々大変だ。例えば仕事の面接に行って、どんな職種の経験が? なんて聞かれても、私のエモノはモップ一択。『鱗の順目と逆鱗の位置に詳しいです』とか、どんな自己アピールだ。
「相変わらずの頑固者め」
「知ってます。この性格のせいで損してるのも分かってはいるんですけどね。……はーい、左翼ちょっと開いてください」
「こうか」
「いい感じです! そのままキープで」
四枚ある翼のうち、上の左翼の付け根を磨きながら答える。こびりついた血のようなどろどろの残滓。放っておくのはどう見ても良くない。
人間で浴びた分は、人型の時に自分で落とせば良いけれど、ドラゴン形態はこれも一種の召喚のようなものらしく、この姿で落とさないと意味が無いとのこと。
それでまあ、私は襲撃がある度に、このアルバイトをしているわけで。
「職に就かない空白期間があると、就職には不利なのです。私は今度こそ真っ当に、つましく暮らしていきたいだけなんです」
タラララッタ~タタ~♪
答えたそばから脳内で軽快なファンファーレが聞こえてきた。
レベルアップの音楽ですよ。
ねえ、おかしくない? 勇者失格ってガイスホールで烙印押されたし、私自身もそう思うのに。魔王の背中を磨く度にレベルアップの音楽が流れるの、ナニコレ。つまりデッキブラシでラスボスに攻撃入れてる判定でもされてるらしい。もう何十回と聞いてるんですけど。
いやいやいや、日本に帰って来たのにさ。意味が分からないよ。
「ああもうまたレベルアップしたー!」
「おめでとう。着実に人外の道を歩んでいるな」
「ううう。私の味方は新作アイス、もっちりおはぎミント味だけ……」
「なあ。その氷菓メーカーは、本当に人類が営んでいるのか……?」
仕事のあとに食べようと、自宅の冷凍庫に確保してある新作アイスに思いを馳せながら、私は今日も鱗を磨く。
聞こえるのは若干引き気味な魔王様の声と、レベルアップ音。
私の不運はまだまだ続きそうです。
目指せっ!! 借金完済!!!