小安
小安孝之四十三才、現在失業中である。家賃の滞納が続いて、いよいよ強制退去が迫ってきたので、家の中のめぼしいものをリサイクルショップで売ったが、一万円にも満たなかった。その金を手にホームレス状態になったが、いよいよ小銭だけになって追いつめられてきた。
雨が降り始めたので、国道を横断する地下道に入って座っている。財布の中を確認するが何度見ても増えるはずもなく、三百円ほどしかない。
(金のないホームレスはどうやって生きているのだろうか、ここを通るたびホームレスを横目で見て蔑んでいたのに、自分がこうなるなんて)
孝之は、大学を卒業後、都内の大手IT企業へ就職した。二十九才で結婚し二人の子供をもうけた。三十五才の時社内ベンチャー企画に応募し、新規事業を立ち上げたが、収益が出るようになると、さっさと会社を辞めて独立した。
会社設立当初は順調で得意の絶頂にあり、連日飲み歩き女を何人も作った。やがて、家にも帰らなくなって離婚となったが、己を顧みることなく、欲望のまま溺れて行った。
しかし、得意になっているうちに、大手が参入して収益が急激に悪化し、あっという間に会社は倒産してしまった。
自己破産し債務は無くなったが、離婚した妻の元へ養育費を支払なければならないので、懸命に働いたが、非正規や、アルバイトを掛け持ちしてもいくらも残らなかった。
そして、肉体労働で腰を悪くしたのをきっかけに職を失い現在に至っている。
(さあ、どうするか、選択肢は限られる。ホームレスとなって生き抜くか、生活保護に頼るか、それともいっそ終わりにするか)
外は雨が激しくなって、水しぶきがかかるようになったので、さらに奥へ移動するが、奥には先客のホームレスが段ボールの中で寝ている。
(あーだめだ、俺のつまらんプライドがどうしても許さん、決めた、死のう)
雨の音に混じって、電車の音が聞こえてきた。孝之は立ち上がると雨の中駅に向かった。入場券を買ってホームに出ると、時間も遅く電車の到着を待つ人もまばらだ。
孝之は、時刻表を眺めると、一二分後に急行が通過する。これに決めた。ベンチに腰をおろし電車を待つ。
ドキドキしながら電車を待つ、時間がなかなか経たない、30秒おきに時計を確認する。1分前になって立ち上がるが前の方に行く勇気がなくて立ち止まる。その瞬間急行が通過した。
再び時刻表を確認すると、27分後に急行が通過する。再びベンチに座って待ったが、どうしても飛び込めなかった。
結局駅を出て当てもなく歩く、雨はいつの間にか上がっている。
電車は無理だ、近くに海はあるが海も無理だ、子供のころからなぜか怖くて近づくのさえいやだ。
それならば、ビルを見上げて、
(飛び降りるしかないな)
しかし高いビルほどセキュリティがしっかりしており、飛び降りるどころか、入ることさえ困難だ。
さまよううちにオフィスビル街から、住宅地になって、4階建ての古い雑居ビルを見つけた。中に入って階段を上り、屋上へのドアを見つけたが、かぎが掛かっており外に出られなかった。
諦めて、二階まで下りてきたところで、着物を着た女性と目があった。
(怪しいと思われたか、早く逃げよう)
そう思った時、
「待って」
女がそういうと、孝之は動けなくなった。
「こちらへどうぞ」
女がそう言うと、孝之は逆らえなくなり、女について部屋に入った。
部屋の中央にある机に、向かい合わせで座ると、女が口を開く。
「私は、結火といいます。あなた死のうと思っていますね、きっと後悔しますからやめなさい」
「え、なぜそんなことが分かるんですか」
結火はそのことには答えず、
「本来一万円ですが、特別無料で見てあげます」
そういうと、結火は孝之の手を握った。
徳右衛門は、貞享二年(1685年)江戸の炭問屋の跡取りとして生まれた。
幼い時から父の商売を見て育ち、二十五才となった今では商売のやり方を一通り覚え、蔵の前で帳簿を片手に指示を出している。
裏の縁側では、父の善兵衛が近所の権蔵と碁を打っている。庭には鯉が泳いでおり、庭の梅の花も散ってだんだん温かくなってきた。表の方からは、徳右衛門の声や、甲高い丁稚の元気のいい声が聞こえてくる。
権蔵が善兵衛に話しかける。
「善兵衛さんもそろそろ隠居かな」
善兵衛は、碁盤を見たまま
「商売は、銭勘定だけでは無いのでな、お上の相手などは任せられん」
善兵衛は、煙管を咥えると二度ばかり吸って、煙を吐き出す。
「それと、毎晩飲み歩いてばかりで、少しは落ち着いてもらわんと」
善兵衛はそう言って、石を置く。
「やはり、早く嫁を貰うのが一番かのう、この間話した酒屋はどうだ。年も二十二で家柄もいいと思うがな」
善兵衛は顔を上げて、ちらっと権蔵の方を見たが何も言わない。
頬白が梅の枝先にとまって、春の到来を告げるように軽やかに鳴いて飛んで行った。
徳右衛門は、友達の清二郎とめし屋で酒を飲んでいる。清二郎の家は手広く仲買を行っている大店だが、後継ぎではないので気楽に遊んでいる。
清二郎は、目刺をかじりながら酒を飲んで、徳右衛門に話しかける。
「徳さん、酒屋の娘との縁談はどうなった」
「きっぱりと断った」
「そうなのか、やっぱり・・・」
徳右衛門は酒をグイっと飲みほしてから、
「清さんいくぞ」
そう言って店を後にした。清二郎は、先を歩く徳右衛門に追いついてから、
「お前さんは、跡取りじゃないか、そろそろ現実を見た方が・・・」
二人は、たくさんの提灯で昼間のように明るくなった花街へ入って行った。声をかけてくる者たちを無視してすたすた歩き、目的の家に入ると徳右衛門は清二郎と別れて、そのまま何も言わずに二階に上がり突き当りの部屋へ入った。
「あ、徳さん」
鏡に向かっていた女は、すぐに立ち上がり徳右衛門に抱きついた。徳右衛門は笑顔になって、
「おまつ、会いたかった」
そう言って、まつの細い腰を強く抱きしめると、襟足から立ち上る白粉と混ざったまつの匂いが、徳右衛門の気持ちを高める。
女中が、酒と肴を運んできて、まつの酌で酒を飲む。
徳右衛門は、ここに通ってもう一年になる。まつを身請けして妻にしようとずっと考えていたが、父善兵衛に話せば、反対されるにきまっているので、言い出せずにいた。
徳右衛門は、布団の中で天井を見ていた。まつは、徳右衛門の右の肩辺りにすがって眼を閉じている。かわいい寝顔がたまらなく愛おしい。
「おまつ、起きているか」
まつは、目を閉じたまま小さく頷く。
「俺、お父っつあんに、身請けの話をするよ」
まつは目を開けると、着物の襟を右手で押さえながら体を起して、
「徳さん、やめて、そんなことをしたら会えなくなってしまう。このままでいいの、お願いやめて」
まつは、自分が受け入れられるはずがないと涙目になって訴えるが、徳右衛門は天井の方を見たまま動かない。
善兵衛は、縁側に座って煙管を吸っている。
徳右衛門は、善兵衛を見つけると声をかけた。
「お父っつあん、ちょっといいかい」
善兵衛は、ちらっと徳右衛門の方を見たが、無言のままだ。
徳右衛門は、善兵衛の傍に正座し、勇気を振り絞って、おまつの身請けについて話した。
善兵衛は、庭の方を向いたまま黙っている。
しばらく沈黙が続いた後、善兵衛が口を開く。
「分かった、この家は、喜三郎に譲ることにする」
喜三郎は番頭で、徳右衛門の二つ上の姉と結婚しており、いずれは暖簾分けを考えていた。
徳右衛門は慌てて、
「お父っつあん、待ってくれ、そりゃあんまりだ」
善兵衛は、聞く耳を持たずさっさとその場を立ち去った。
徳右衛門は、ここまでの事になるとは思ってもいなかった。ここから出て行くことになれば、今の裕福な生活を捨てなければならないだろう。そう考えると、とたんに恐ろしくなって、まつの事が吹っ飛んだ。
(よし、酒屋の娘と結婚はしよう。その上でおまつと会えばいいか)
徳右衛門は、すぐに切り替えて、善兵衛を追いかけ、土下座をして頼み込んだ。
「お父っつあん、私が間違ってました。おまつの事はきっぱり忘れて結婚します。ですから、なにとぞお許しください」
善兵衛は、黙って見下ろしている。
「男が一度口にしたことを軽々しく撤回するな。わしも撤回はしない」
善兵衛は、徳右衛門を残したまま行ってしまった。
(しまった、このままではまずい、何とかしなくては)
座り込んだまま、徳右衛門は考えをめぐらすが動揺していて良い考えが浮かばない。
とにかくだれかれ構わず、助けを求めて、二日後ようやく母のとりなしで話を聞いてくれることになった。
徳右衛門は、ひたすら謝って許しを乞いた。そして、ようやく善兵衛が、
「分かった、わしの言ったことは撤回しよう、ただし二度目はないぞ、肝に銘じよ」
裏の縁側で、父の善兵衛が権蔵と碁を打っている。庭では桃の花が咲き始めており、花の蜜を吸いにメジロがやってきて戯れていた。
下女が運んできた茶をすすりながら、権蔵が聞く。
「縁談を納得させるのに、だいぶもめたようだな」
善兵衛は、少し苦笑いをして
「あいつは軽すぎる、当分身代は任せられないな」
「お前も若いころはあんなもんじゃろ」
善兵衛は、権蔵の方をちらりと見て、
「そうかもしれんな」とつぶやいた。
それから、二カ月ほどして、酒屋の娘、はると、徳右衛門は結婚した。
はるの縹緻は並みだが、明るい性格ですぐに家族と打ち解けた。
はるが嫁に来て2カ月が経過し、初めての夏を迎えていた。はると姑のうめは、中庭に向かった障子を明け放ち話をしている。中庭はうめの趣味で季節の草木を植えており、手水の傍にある大きな鉢に入ったハスの花も、朝には立派な花を咲かせていたが、今は強い日差しを避けるようにつぼみに戻っている。
「この家は暑いですね」
「あんたのところは、酒蔵があるので、涼しいんだろうね」
二人が団扇であおいでいると、下男の茂作が甕を大事そうに運んでくる。
うめが、甕の蓋を取ると甘い香りがする。
「甘酒だね」
茂作が柄杓で甘酒をすくい、湯呑に入れてうめに渡す。
「あー冷たくておいしい」
うめは、はるの方を向いて、
「あんたが作ったのかい」
「裏のおたえさんに作り方を聞いて、酒屋に帰って麹をたくさんもらってきました」
うめは、もう一度甕を覗いて、
「それにしても沢山作ったねえ」
「みんな暑い中頑張っているので、みんなにも飲んでもらおうと思って、次はお義父さんに飲んでもらいましょう、茂作さんお願いします」
「へい」
はるは、茂作を連れて裏の縁側に向かう。
うめは、甘酒を一口飲んで、
「後は後継ぎだけだなあ」
にこにこしながらそう呟いた。
善兵衛は、いつものように権蔵と碁を打っている。そこへ、はるが茂作を連れて入ってくる。
「お義父様、勝ってますか」
善兵衛は、はるの真っすぐな物言いに少し苦笑しながら、
「囲碁は、勝ち負けのためにするのではない」
権蔵が聞き返す。
「そうなのか、負け惜しみにしか聞こえんがな、ハハハハ」
はるは、甕から甘酒をすくって湯呑に入れ二人に渡すと、二人はすぐ口にした。
「どうです」
はるは、善兵衛の様子をうかがっていたが、先に権蔵が、
「こりゃうまい、おはるさんが作ったのか」
「よかったー」
はるは、権蔵の方を見て無邪気に笑った。
善兵衛も、はるの笑顔を見て自然に頬が緩んだ。
「次は旦那様。茂作さんお願いします」
「へい」
はると茂作は、すぐに出て行った。
権蔵が善兵衛に話しかける。
「この家もずいぶん明るくなったなあ」
善兵衛は何も言わないが、いい嫁が来てくれたと内心喜んでいた。
はるは、店の方でも甘酒を配っている。徳右衛門だけでなく、手代や、丁稚にも。
番頭の喜三郎が、はるに言う。
「御新造がこしらえたのですか、こりゃ、天秤棒よりもずいぶんうまい、表で売ったらどうです」
はるは、嬉しそうに笑いながら
「まあ、べんちゃらでもうれしいわ」
やり取りを見ていた、徳右衛門も思わず笑顔になる。
(名前の通り、この家にも春がやってきたな)
二年後に待望の跡取りが生まれた。徳右衛門は相変わらず、まつの所に内緒で通い続けていたが、子供が出来てその回数も減り、今では月一、二回程度になっている。
久しぶりに、徳右衛門と清二郎は、外で酒を飲んでいる。
「はい、おまちどうさま」
若い女が、酒と、ぬか漬けを運んできた。
淡緑の着物をたすき掛けにしているため、皿を置くときに白く美しいひじから先が目に入った。
徳右衛門は、はっとして思わず女の横顔を眺める。色白で細い首に整った鼻筋、口元にまだ幼さが残るがうなじには色気が漂っている。
視線に気づいて、女が徳右衛門の方を見る。目があったので、徳右衛門は思わず目をそらした。女は、微笑みながら会釈して戻って行った。
「清さん、今の女は初めて見るが」
「ああ、久しぶりだったから知らないんだな、もう二,三か月前からかな、しずっていうんだよ」
徳右衛門は、しずの去った方を見ながら、
「清さん、これは運命の出会いかもしれない」
清二郎は、口に含んだ酒を思わず噴き出しそうになった。
「おい、おい、待て、冗談はやめろ」
「俺は本気だよ」
「お前、まだ懲りないのか、あんないい嫁もらって、子供も生まれて、これくらいないほどの理想的な家だぞ。それを自分で壊すつもりか」
はるの事は好きだ、理想的な妻だと思っている。でもしずは違う、運命の力には逆らえない。
徳右衛門は、二ヶ月をかけてようやくしずを連れ出すことに成功した。隅田川の桜見物のため屋形船に乗っている。
「徳さん見て見て、桜が舞ってるよ」
しずはまだ二十一才、桜を見て無邪気にはしゃいでいる。徳右衛門はしずの笑顔をつまみに酒を飲んでいる。
「しずさん、酒はどうだい」
徳右衛門は酒を勧めるが、
「私、酒は嫌い」
そう言って、アナゴのてんぷらをむしゃむしゃと食べている。
「あ、大きな橋が」
「ああ、永代橋だね」
船はゆっくりと下って橋をくぐる。
「へー、下から見るとこんなんだ」
しずは、身を乗り出しながら興味深そうに橋を見上げている。しずは、職人の家で生まれ貧しく育ったため、舟遊びはおろか花見などしたことがなかった。そのため、すべての事が興味深く興奮していた。
徳右衛門は、なんとかしずの気を引くため、櫛や、簪などの贈り物をしたり、珍しい食べ物を食べさせたりと努力を惜しまなかった。
「しずさんは、芝居を見たことがあるかい」
しずは少し悲しそうな顔をして
「一度もないの」
「今度見に行くかい」
徳右衛門がそう言うと、しずの顔がぱっと輝いた。
「本当!、いいの、嬉しい」
しずは、最初徳右衛門の事は、何とも思っていなかったが、二人で何度か芝居を見るうちに情がわいてきて好きになってしまった。
そして、半年ほどが過ぎたころ、二人の噂が善兵衛の耳にも届いた。
座敷の、書の掛け軸を背に、徳右衛門を前にして善兵衛が座っている。
「徳右衛門、小娘にうつつを抜かしているのは本当か」
徳右衛門は、俯いて答えない。
沈黙がしばらく続く、日が沈みかけ障子の上部が茜色に照らされて、部屋は薄暗くなり、遠くで飛び去るカラスの鳴き声が聞こえてくる。
「はるの事はどう考えているのだ」
徳右衛門は顔を上げる。
「はるの事は好きだ、でも・・・」
「あんないい嫁はおらんぞ、それに引き換えお前ときたら、お前は、はるにはふさわしくない。はるはこの家の宝として大事にするから、お前はどこへでも行け、二度と顔を見せるな」
徳右衛門は反論しようとして、善兵衛の方を見たが、威厳に満ちた姿に気押されて言葉が出ず、そのまま家を出て行った。
家を出て、しずの所へ向かった。
急な来訪に、
「徳さんどうしたの」
徳右衛門は黙っている。
(家を出てしまえば、何も出来ないただの男だ。この先どうすればいいんだろう。それだけではない、世間ではいい笑い者だ)
「ねえ、徳さんどうしたの」
しつこく聞いてくるしずに向かって、徳右衛門は、呟くように話した。
「家を捨ててここへ来た」
「え、」
徳右衛門は聞かれるまま、ここに至った経緯を答える。
話を聞きながら、しずは、この間徳右衛門と観た芝居、曽根崎心中を思い出していた。
「一緒に死のう、死んであの世で一緒になろう」
将来に絶望する徳右衛門の様子を見ながら、しずは、今の状況に酔っていた。
徳右衛門ははっとして、顔を上げる。
(それしかないかもしれない)
混乱する徳右衛門は、正常な判断力を欠いており、これしかないと思った。
「分かった一緒に死のう」
二人は、死に場所を求めて海に向かった。
外は既に暗闇になっており、足元には波の音が気こえる。黒々とした海は、月明かりに照らされてキラキラと光を反射している。徳右衛門は自分の左足首と、しずの右足首を帯で結んで岬の先端に立った。潮の香りが風に乗って漂ってくる。
「一,二の、三」
徳右衛門がしずの肩を抱いて海に飛び込む。一気に海中に沈みこむと冷たさに圧倒され、徳右衛門は、本能的に海面に向かおうとしてもがくが、しずが重しになって浮かび上がれない。苦しくなって息を吸い込むと空気の代わりに海水で肺が満たされ、激痛で身悶えた。
徳右衛門が気付くと、暗闇にいた。濡れているはずの着物も乾いている。
「しず、しず」呼んでみるが答えはない。
しばらくして目が慣れてくると、周りが少しずつ見えてきた。土の地面に石ころが転がっているだけで何もない。まったくの無音の世界であたりに人はいないようだ。
「これは死んだということか、しずはどこだろうか、ここはどこだろうか」
徳右衛門は、当てもなく歩き始める。
しばらくすると突然、心中をした岬にいることに気付いた。しずの肩を抱いて海に飛び込むと、溺れ苦しみもがきながら死んでいく。
次の瞬間元の場所に戻っていた。
再び歩き始めるが、何もなく、誰もいないし、時間の経過すら分からない。あてもなく歩いていると大きな石がある。石を背に座ると少し落ち着いた。やはり、周りすべてがどこまでも続く暗闇だと不安になる。
お腹も空かないし、眠くもならないので時間経過が分からない。試しに数を数えてみる。七十数万まで数えたところで、心中の場面が再現された。もし、秒だとすると、八日ほど経過したことになる。何もすることがないので、また数字を数える。今度は八十万ほどかかった。その数字を地面に書き込む。
心中の再現は、千回を超えた。最初は、苦しくて苦痛であったが、何もない世界で唯一のイベントなので、何もない状態よりましだ。もし十日に一回とすると、一万日、二十七年が経過したことになる。
徳右衛門は何度も同じことをぐるぐると考える。
(ここはきっと地獄だな、心中の再現があるということは、そのことの罰に違いない。果たしてここから出られるのだろうか)
何もない世界で、寝ることもできず三十年も過ごすと、何も考えられなく、何も感じなくなってしまった。
そして、五十年が経過しようとしていた時、呼びかける声が頭の中で聞こえた。
「徳右衛門、徳右衛門・・・」
遠くに聞こえるその声は、だんだんと大きくなり、目覚まし時計のように響いて徳右衛門の意識がはっきりした。気付くと、白服の男が立っている。
「あ、あなたは」
「私は、お前の守護霊である。お前は自殺した罪で、本来の寿命となるまで罰を受けていたのだが、それがようやく終わった。非常に良い環境で暮らしていたのに人生を無駄に過ごした、本当に情けない奴だ。」
(ああ、そうだ、良い両親と、良い妻がいて順調だったのに、しずと出会っておかしくなってしまった。でも、しずは忘れられない、あれこそ運命の人だ。)
「しず、しずはどこでしょう」
「あの女と会うことはもう無い、早く忘れて次に進むのだ」
ああそうだ、そうすべきだと思うが、あの白く細い指先、あの笑顔を思い出すと、頭がいっぱいになる。
「徳右衛門しっかりしろ、しずの事を考えるんじゃない」
その瞬間、守護霊の前から、徳右衛門が消えてしまった。
「やれやれ、これはちと時間がかかるかもしれんな」
守護霊はそうつぶやいた。
徳右衛門は、また暗闇に一人となった。しかし、遠くに明かりが見え、人の声もする。近づいてみると、花街のようだ。しかし、全体に薄汚れていて汚い。破れかけた提灯や、格子は所々折れたり無くなったりしていて、格子の向こうに座っている遊女たちの着物も破れたりしている。
「お兄さん、遊んで行きなさいよ」
女が現れて袖をひく、元は美人だったかもしれないが、陰険さが目つきに現れているので、邪険に追っ払う。
次々に女がやってくるが、どれも性格の悪さが顔に現れており、うんざりする。
(どいつも、こいつも、夜鷹にさえなれないような奴らばかりだ、一体ここはどこだろう)
「ハハハハ、難儀しているようだな、こっちへ来い」
脇差を指している、中間風の男が声をかけてきた。男は、徳右衛門をつれて宿屋のような家に入り階段を上がって、通りに面した部屋に連れて行った。
男は窓の近くに腰を下ろすと、徳右衛門に声をかける。
「あんた、ここに来たばかりか、見かけは商人という感じだが」
「はい、ついさっき。私は、徳右衛門といいます、炭問屋をやってました。あなたは御侍ですか」
「わしは、侍に仕えていた中間だよ、誠之助という名前であった」
徳右衛門は、誠之助に聞く。
「一体ここはどこでしょう」
誠之助は、ニヤニヤしながら答える。
「ここはな、愛欲の地獄だ。性愛に溺れた魂が集まってくる」
徳右衛門は、窓から身を乗り出して通りを眺める。遊郭のような建物がずっとと続いているのが見える。通りには、遊女や客のような男女がたくさんいる。
「私は、こんなところに来ることを望んでいません」
「そうだろう、そうだろう、こんなところに来るのは恥だからな、みんなそう言うが、己の魂は誤魔化せん、魂が欲しているんだよ、ヒヒヒヒ」
誠之助は、馬鹿にして笑う。
もう一度、通りの方をよく見ると女の数が圧倒的に多い。八割方女ではないだろうか。
徳右衛門は、振り返って誠之助に聞く。
「女ばかりのようですが」
「ヒヒヒ、気づいたか、お前ここに来て女を抱きたいと思ったか?」
「いえ、さっぱり」
「そうだろう、男は犬、猫と一緒だ。本能で女を求める。死んで肉体がなくなれば、もう女なんてどうでもよくなる。だが、女は情で抱かれる。ここにいるのは情に我を失った女ばかりだ、恐ろしいところだろ」
「これは確かに地獄かも」
徳右衛門は、通りの方を見ながらそうつぶやいた。
誠之助は、徳右衛門に聞く。
「お前、ここに来ることを望んでないと言ったが、良く考えてみろ本当にそうか」
徳右衛門は、誠之助の言った情について考えてみた。
「しずを探しに来たのかもしれません」
と言ってから、しずの事について誠之助に話した。
「なるほど、そいつは、うーん・・・で、どうする」
「しずを探します」
「分かっていると思うが、順調な人生から落ちぶれてこんな所に来ることになったのも、その女と出会ったからだ、もし見つけたとしてもますます不幸の穴に落ちて行くだけだぞ」
「しかし、あの耳、手、笑顔、どうしても頭から離れないのです」
「こりゃよっぽどの悪鬼だな、完全に魂を奪っている。まあ何をするのも自由だ。好きにするがいいさ」
誠之助はそう言って、手枕で横になった。
徳右衛門は、通りに出てしずを探し始めたが、一向に見つからない。ここでは時間の経過は分からないが、地上の時間で半年ほどが経過しても全く消息不明のため、諦めて、誠之助の所に帰ってきた。
部屋に入ると、横になった誠之助の周りに三人の女が座っていた。誠之助は、徳右衛門に気付くと、
「おう、帰ってきたな、見つかったか」
「いいえ、ここは途方もなく広いし、人も多く、さっぱりです」
一人の女が聞く、
「何を探してらしたの」
誠之助が答える。
「この男は、ある女に魂を奪われたので、それを取り返しに行ったのさ」
女は、徳右衛門に向かって、
「それは面白そうな話ね、ぜひ聞かせて」
徳右衛門は、最初渋っていたが仕方なく話すと、
「へー、面白い話ね、しかし心中するとそんなことになるなんて知らなかったわー」
誠之助がそれに答えて、
「ひょっとしたら、会えないのは心中したことの罰かもしれんな」
徳右衛門は、守護霊に言われたことを思い出していた。
(そういえば守護霊様も、もう会うことはないと言っておられたな)
「もう忘れて、今を楽しめ」
誠之助はそう言うと、傍らの女の方を見て、
「こいつをお前にやろう、こんな場所でも多少まともなのを探してきた」
女が誠之助に向かって、
「誠さんひどいわ、人を物のように扱って」
女は、徳右衛門の方を見て、
「でも、いいわ、こちらの方の方が、こんな場所でも多少まともそうなので」
徳右衛門は、女の言い方が面白くて笑った。
(まあ、確かに多少はまともか)
「私は、あきと申します。よろしくね」
「私は徳右衛門だ」
二人は隣の部屋に入って抱きあったが、徳右衛門は驚いて女から離れた。
「あははは、ここに来て女を抱いたの初めてね」
肉体が無いので、触れ合った時の温かさや、弾力性は感じられない。かさかさして、まるで紙で出来ているようだ。まして、性欲など無いのでどうしたらよいか分からず戸惑った。
「ここではね、形だけ愛し合うのよ」
(まあ、話相手がいる分だけ、一人で暗闇にいるより随分ましだ)
月日が経つうちに、徳右衛門の部屋には、常時四、五人の女が居るようになった。しかし、女たちは、悪口や、不平不満ばかりで楽しくない。だがそれも、だんだん慣れてきて、今では気にならない。
徳右衛門は、ここでの生活に馴染んでいくうちに、少しずつしずの事を忘れていった。
ここで最初に出会ったあきが徳右衛門に話しかける。
「私は、裏切った旦那を追ってここに来たけれど、徳さんのおかげで癒されたわ」
あきは、そう言うと部屋を出て行って、二度と帰ってこなかった。
(私もそろそろかな)
徳右衛門も、しずの事を少しずつ忘れていくことで、ここは居場所ではないと感じ始めていた。
それからしばらくして、徳右衛門も愛欲の地獄から出ることができた。守護霊の案内で地獄から出て霊界に入ると、そこは地上と変わらないような場所だが、見たこともないような大きな建物がたくさん建っている。平らに整備された道路の上を、見たこともない乗り物に乗った人たちが通り過ぎる。徳右衛門は、ぽかんとして、その様子を眺めている。
守護霊が、徳右衛門に話しかける。
「おまえは、地獄に二百年ほどいたのだ、ゆえに時代は大きく変わっている。今は大正元年だ」
「私は随分道草をしたようですね、これからどうすればいいのでしょう」
「人生をもう一度やり直した方がよいが、お前は軽薄過ぎてこのままだと、また同じような失敗を繰り返すだろう。よって、少し精神を鍛えてからの方がよい。ついてこい」
守護霊はそう言うと、徳右衛門を山の中に連れて行った。その場所は山頂に近く、遠くの山までよく見えるが、周りに家など見当たらない。わずか、二十畳ほどの平たんな場所があるだけだ。
「ここで、精神統一を行え。ある程度のレベルに達したら、迎えに来る」
それだけ言うと、守護霊は消えてしまった。
徳右衛門は、周りを確認してみるが小道すらなく、どこにも行けないことが分かる。しばらく横になって不貞腐れていたが、いくら時間が過ぎても何も変わらないので、仕方なく精神統一してみることにした。
座って目を閉じていると、今まで気が付かなかった事が分かってくる。風に乗ってくる、木や、花の香り、鳥や虫の鳴き声。そして、自分勝手に生きてきた事。
そして、地上の時間で六十年程が経過した頃、守護霊がやってきた。
「よし、そろそろいいだろ、もう一度地上に生まれて修行とするか」
「はい、今度は失敗しません」
結火が手を離すと、孝之は眼をあけた。一気に蘇った膨大な記憶に戸惑った。
「これは、本当ですよね」
孝之は思わずそう聞いたが、自分の記憶なので間違いがないことははっきりしている。
しばらく無言が続いたが、
「自殺はあきらめようと思うでしょ」
結火がそう聞くと、
「あれは最悪でした、暗闇で何十年も過ごすくらいなら、何でもできます」
そう言うと、礼を言って孝之は出て行った。
孝之は、再び地下道に戻ると、寝ているホームレスの傍に座った。ホームレスの男が、気付いて目を開ける。
孝之は正座をするとホームレスに向かって、
「弟子にしてください」と言った。
「なんだあ」
ホームレスの男はそれだけ言うと再び目を閉じて眠りについた。