青い夢
「本当に見られるのかな、素敵な夢なんて……」
少女は、病室のベッドの上で手にした本を見つめ、半信半疑な様子で呟きました。その本は、仲良くなった青年からの贈り物でした。
病院の中庭で出会った青年は、円眼鏡に和装という不思議な格好をしていました。少女が時々気分転換に散歩していると、どこからともなくやってきて車椅子を押してくれる優しい人でした。
そんな彼に、少女は世間話ついでに長い入院生活にうんざりしていると打ち明けました。
すると、
「君に幸せな夢を見せるおまじないをあげよう」
青年から恋文めいた言葉と一緒に一冊の本を貰いました。
少女には正直良く分かりませんでしたが、眠る時に枕元に置いておくだけで良いらしいので、さっそく試してみることにしました。
夜。柔らかなベッドの中に潜り込み、素敵な夢を見られますようにと願いつつ、少女は眠りにつきました。
ふわふわしたまどろみの中、周囲がいきなり明るくなったような気がして少女はぼんやりと瞼を開き、そしてあまりの光景に息を飲みました。
眼前に広がるのは圧倒的なまでの青。遥か彼方まで続く空の青。高く高く澄み渡り、遠くへいくほど白へグラデーションしていきます。
鮮やかな色合いが足元の水面に映り、反射してきらきら輝いています。少女は、美しい青の世界に包まれていました。
「すごい……」
しばし放心して景色に目を奪われていた少女。いつの間にか真っ白なワンピースを着ていました。足には何もつけず裸足で砂の上に立ち、足首の辺りまで水に浸っています。
以前写真で見た遠浅の海辺のことを思い浮かべていた少女は、ここでようやく自分の足で立てていることに気がつき、そして驚きました。
透明な水に足を浸している心地良さ。水底の砂のさらさらとした感触。それらは長い間忘れていた感覚でした。
「うそ、どうして……」
少女は、信じられない気持ちで試しに片足を上げたり下げたりしてみます。軽くジャンプもしてみます。そうしているうちに、緊張で固くなった顔が徐々に綻んでいきました。
心の底から喜びを声に出して叫びたい、という衝動が湧き上がり、瞬く間に胸いっぱいに満ちていくのが分かりました。
少女は、ゆっくりと足を前に踏み出してみて、水しぶきが大きく上がるようわざと水面に足を叩き付けます。何度も繰り返すうちに堪らなくなって、力いっぱい駆け出しました。
狂おしいほどの感情の波が、高鳴る鼓動に合わせて押し寄せてくるのです。
彼女が通ったあとには、波紋が連なり重なっていくつもの円が水面に広がっていきました。
少女が立てる水の音。空を飛び交ううみねこの鳴き声。そこに楽しげな少女の笑い声が合わさって、まるでひとつの音楽のよう。
軽やかに音を紡ぎながら、少女は青の世界をどこまでも駆けて行きました。
どれくらい時間が経ったのでしょう。少女は、もうずっと長い間青の世界にいたような気がします。いつまでもここにいたいと心から願っていました。
世界の終わりは突然やってきました。
遠く、水平線の向こうが靄のような白い光に包まれ始め、あっという間に少女の視界を覆いつくしていきました。青い世界は白い光の中へ溶けるように消え、少女は覚醒という現実に落ちていきました。
朝。目を覚ました少女が最初に見たのは、見慣れてしまった白い天井でした。どこまでも無機質で重く、少女の心を苛みます。圧迫感に耐えられず視線を逸らして窓を向くと、秋晴れの澄んだ空が目に映りました。
しかし、あの素晴らしい景色に魅了された少女にとっては、とうてい心動かされるものではありません。まるで、この現実全てが地下室に閉じ込められてしまったようだと思うのでした。
「失礼するよ。やあ、おはよう」
そのとき、少女の病室を円眼鏡の青年が訪ねました。優しげな笑みを浮かべて、少女の近くへ歩み寄ります。
「どうかな? 良い夢は見られたかい?」
「夢……。あの素晴らしい世界も光景も、やっぱりただの夢なのですね。私の足が動くようになったことも、全部……」
少女は、枕元に置いた本を手に取ります。
美しい風景画を収めたその本の、最後に載せられている一枚の絵。そこには果てしなく続く青い空と青い海、それから白いワンピースを着た女の子が小さく描かれています。両手を大きく広げた後ろ姿は、まるで青く広がる世界の素晴らしさを全身で感じているかのよう。
少女が一目で心を奪われ、恋い焦がれた景色の絵でした。
「そう。君の願いを映し出す美しくて儚い夢の世界。けれど、余計辛くさせてしまったかもしれないね……」
「そうかもしれません。こうしてベッドの上にいるのは、ひどく惨めです。……でも、良い夢でした。本当に素敵な夢。あなたのおかげです、ありがとう」
「そうか。それは良かった。さて、気分転換に散歩に行こうか。付き合ってくれるかな」
「はい。お願いします」
青年は、病室の壁際からベッドのすぐ脇へ車椅子を移動させます。少女は、慣れた様子で車椅子に座りました。
「あの、どうやって私にあんな夢を見させたのですか?」
「簡単なおまじないのひとつさ。聞いたことはないかい? 本や絵を枕元に置いておくと、それを夢に見ることができるって」
「じゃあ、もう一度あの素敵な夢を見ることができますね。……もう一度見せてくれますか?」
青年はほほえみ、優しい声で少女に答えてあげました。
「君がそう願うのなら、またいつか。そうだな、リハビリがうまくいったらまたプレゼントするよ」
「本当? じゃあ、約束。楽しみにしています」
青年に押してもらって、少女の乗る車椅子はゆっくりと進み始めました。
完