林檎嫌いの白雪姫
北の国の深い森の奥に、小さな家が建っていました。人が来ないだろうと思われるほどの、木々に囲まれた家は小さくとも立派です。その家には元々の住人であった7人の小人と、最近住み始めた姫がいました。姫の名前は白雪姫、この国の姫です。
なぜ彼女がこのようなところにいるのかという謎は、王妃に城から追い出されてしまったからでした。その理由は白雪姫の美しさにありました。王妃は自分が国一番の美しさを持つと信じていました。王妃が持つ真実しか述べない鏡に、毎日飽きもせずに問うくらいには王妃は誰もが認める美しい人でした。尤も、白雪姫が現れる前までの話ですが。
白雪姫は黒檀の髪を持ち、血の如き唇を持ち、雪の如き肌を持つ、真実しか述べない鏡が伝えるほど、美しい姫です。勿論、そのような不思議な鏡を所有する人が、ただの王妃の筈はありません。王妃は魔女だったのです。
魔女は狩人に白雪姫を殺めるように命じました。白雪姫がいなくなれば、自分が最も美しい人になれると思ったからです。しかし、狩人は魔女の命令に従いませんでした。白雪姫の美しさに見惚れ、哀れに思ったからです。狩人は白雪姫を逃がしてあげました。そして、動物の部位を持ち帰り、白雪姫だと偽って報告しました。魔女は満足しましたが、真実しか述べない鏡は変わらず白雪姫が1番美しいと伝えるのです。魔女は騙されたことに怒り、白雪姫が生きていることに怒りました。
魔女は今度は自分で殺めようと決めました。事実、白雪姫の元を訪れて殺めようとしていましたが、2回とも防がれてしまったのです。白雪姫を大切に思う7人の小人たちの手によって邪魔をされていました。
そこで魔女は果物に毒を仕込み、殺めようと考えました。白雪姫の好物は果物でしたし、中でも林檎が1番好きだと思っていました。それは、魔女が白雪姫に勧められる果物はいつも林檎だったからです。
魔女は老婆に姿を変えて、白雪姫の元を訪れました。深い森の上を、箒に乗ってビューンと飛んで行きます。森の中を傷つきながら進むなど、たとえ老婆の姿であっても魔女は許せません。
老婆はトントントンと軽くドアを叩きました。ドアがゆっくりと開かれ、白雪姫がぱっちりと目を見開いて老婆を見つめています。
「美しいお嬢さん、林檎を1つどうだね?」
するりと、老婆は瑞々しく真っ赤に色づいた林檎を1つ手に取って、白雪姫へと差し出します。それは毒が入っているともわからないほど、美味しそうな林檎でした。
白雪姫は口元に手を当てて、にっこりと微笑んで告げます。老婆はきっと、ぜひ食べたいという言葉だと思っていました。
「わたくし、この世で1番林檎が嫌いですの。それを食べるくらいなら、死を選びますわ」
白雪姫は変わらず微笑んでいました。しかし、その笑みには優しさがありません。冷たく微笑み、冷たい言葉で、老婆を拒絶したのです。
老婆は先ほどの白雪姫のように、ぱっちりと目を見開きました。そして、石のように固まってしまいました。何と言ったのか、意味がわからなかったからです。
白雪姫は老婆の様子を気にせず、ドアを開けたときよりも素早く閉めました。ぱたり、と乾いた音だけが聞こえます。
その音に、老婆はようやく足を動かします。あまりにも慌てていたので、箒を取り出すことも忘れて、去って行きました。いつ小人たちが帰って来るのか、わからなかったからです。
老婆は城へ帰り、魔女へと姿を戻しました。美しいドレスと美しいアクセサリーで身を飾れば、美しい王妃になります。
王妃は白雪姫の母ではありません。白雪姫の継母です。白雪姫の母は、白雪姫が小さい頃に亡くなっていました。そして、美しいと評判だった王妃を王が連れてきたのです。白雪姫を城から追い出したのも、白雪姫を殺めようとしたのも、王妃は自分が最も美しく在りたかったからなのです。
王妃は白雪姫に差し出した、瑞々しく真っ赤に色づいた美味しそうな林檎を見つめます。それはあれほど林檎を嫌う姫に、絶対に食べさせてやろうと決めたからでした。
白雪姫に先ほどの老婆のことを考えながら、小人たちへ食事を作っていました。最初は全くできなかったのですが、今ではすっかり慣れたものです。働くことを知らずにいた美しい手は、水仕事で赤切れだらけになってしまいました。しかし、白雪姫は気にしていません。なぜなら、城で何もせずに過ごすより、家で働いて生活する方が生きていると思えたからです。寧ろ、白雪姫の手が荒れていくことを気にしたのは小人たちです。彼らは白雪姫のために薬草を使って、治そうとしていました。白雪姫は自分の手を気にしていないのですが、彼らが白雪姫を大切に思ってくれていることは、とても嬉しいことでした。
白雪姫は老婆が魔女であることを知っていました。小人たちの話から、白雪姫が来るまで、森に人が来ることはなかったそうです。白雪姫が来てからというもの、来客が訪れるようになったのです。
小人たちと暮らすようになってから白雪姫は何度も死にかけていますが、王妃の仕業に違いないと考えています。それは狩人に助けてもらったとき、王妃が白雪姫の命を狙っていることを教えてくれたからです。何より、王妃から城で生活するように言われていましたから、外に行くことのなかった白雪姫です。そんな白雪姫を、殺めたいと願うような人は王妃くらいしか知らないのです。
白雪姫の耳に、バタバタと忙しない足音が聞こえてきました。鉱山へ行っていた小人たちが帰ってきたのでしょう。白雪姫は急いで料理をお皿に盛り付けていきました。
城では魔女が深く考え込んでいました。どうすればあれほどまでに林檎を嫌う白雪姫が林檎を食べてくれるのだろう、と思っていたのです。新しく違う食べ物に毒を仕込めばいいのですが、そう簡単に作れるものではありません。毒林檎を作るのにかかった時間を考えると、新しく作るよりも林檎を食べてもらう方が早いと考えたのです。
早速料理長を呼び、たくさんの料理人を呼び出して林檎を使った料理を作れと命じました。白雪姫が何を好んでいるのかを聞き出し、林檎を食べさせるように仕向けようと考えたのです。魔女自身も料理人からレシピを聞いたり、図書館へ行き調べたりしました。
驚いたのは料理人たちです。なぜなら、白雪姫が好き嫌いをしているとは思ってもみなかったからです。白雪姫は出された食事は何であろうと食べてきました。それが一国の姫に相応しくないと料理人たちは知っていましたが、白雪姫は文句を言わずに食べていました。だからこそ、白雪姫が好き嫌いをしているとは信じられませんでした。
料理人たちは白雪姫が特に甘いものを好んでいることを知っていましたから、スイーツを作ることを魔女に伝えました。
魔女は手を叩いて喜び、林檎を使ったスイーツをたくさん作れと命じました。魔女はスイーツ作りをずっと見ていたかったのですが、取り止めました。それは王から呼び出しを受けたからです。
魔女は王の元へ行きました。どうして呼び出されたのか、と魔女は考え込みました。しかし、すぐに止めてしまいます。そのようなことより、白雪姫が食べる林檎を使ったスイーツの方がとても大切だったからです。
魔女は王の姿を見て、惚れ惚れしました。繰り返しますが、魔女は美しい自分を愛しています。そして、美しい魔女に見合う容姿である王のことも愛しているのです。
王は魔女へ白雪姫の居場所を尋ねました。
「白雪姫を知らないか?」
魔女はびっくりして、大きく目と口を開いてしまいました。しかし、そんな自分は醜いと気づき、急いで微笑みました。そして、何も知らないと答え、どうしてそのようなことを尋ねるのか、と逆に問いました。
魔女は、王にとって白雪姫がどうでもいい存在だと思っていたのです。白雪姫を塔の一角に閉じ込めたり、白雪姫を城から追い出したりすることができたのは、白雪姫のお世話が全て魔女に任せられていたからです。お世話どころか、白雪姫に関する全てが魔女に任せきりになっていました。それは王が白雪姫を大切に思っていないからだと、魔女は考えたのです。魔女は王の妻ですから、いろんなことを命令できます。しかし、当たり前のことですが、王の命令が最も優先されます。だからこそ、王の命令がなかった魔女は白雪姫を自分の好きなようにすることができていました。
このとき、魔女はもしかしたら自分はとても大きな間違いをしてしまったのかもしれない、と思いました。もしも王にとって白雪姫がどうでもいい存在ではなく、とても大切な存在だとしたらどうなるのか、とも思いました。
よく考えなくとも、それはとても可能性がある話です。白雪姫は魔女の前の王妃の子です。王が前の王妃を愛しているという話は有名でしたし、魔女を王妃としたのも白雪姫のためでした。
王の話を思い出して、魔女はやはり間違いをしてしまったような気持ちになりました。自分の愛した人の子どもです、愛していない筈がないのです。
しかし、魔女はそれでも美しさが大事でした。たとえ、王の心を傷つけても、白雪姫の命を奪っても、自分が美しく在ることが大事なのです。
魔女の問いに、王は答えませんでした。王は顎へ手を置き、考え込んだ姿勢のまま、動きません。
魔女は王を呼びます。王は魔女の声にぼんやりとした声で返事をしますと、何でもないと答えました。
これで、魔女と王の会話は終わりです。
魔女は料理長と料理人たちのところへ戻りました。城中の料理人たちを集めたのですから、もう料理は作り終えていると思ったのです。
そして、魔女の考えは当たっていました。
魔女の目の前には、林檎のケーキが置かれていたのです。林檎の要素がまるで見当たりません。
これなら食べてもらえるだろう、と魔女は思いました。しかし、林檎の味がしてしまっては食べてもらえないかもしれません。
魔女は切り分けられたケーキを一口、食べました。
そのとき、林檎の香りが強くなります。噛んだとき、その謎は解けました。林檎のムースとジュレを交互に入れていたのです。
魔女はとても林檎のケーキが気に入りました。
そこで、このレシピを教えてもらいました。なぜなら、毒の入った林檎を料理してもらうことはできないと考えたからです。そのため、魔女は自分で作らなければなりませんでした。
魔女は林檎のケーキをあっという間に完成させてしまいました。魔女は薬草などを使うこともありましたから、手先は器用だったのです。
魔女は老婆へと姿を変えて、白雪姫の住む家へ急ぎました。
老婆は前回と同じように、トントントンと軽くドアを叩きます。老婆の片腕にはバスケットがあり、中には林檎のケーキが入っていました。
ドアは前回よりも間をおいて、ゆっくりと開かれました。
白雪姫は呆れたような顔で老婆を見ました。しかし、老婆はそのことには気づきません。ようやく白雪姫に林檎を食べさせることができるとしか、考えていなかったからです。
「美しいお嬢さん、この焼き菓子はどうかね?」
バスケットの中にあるケーキを、白雪姫へ差し出します。林檎を使ったとも言っていませんから、こんがりとした焼き色のついた美味しそうなケーキがあります。
白雪姫は口元に手をあてて、ぱちぱちと瞬きを繰り返しました。そして、こてんと首を傾げて口を開きました。
前回のこともありましたから、老婆は気を引き締めていました。ぜひ食べたい、と言われれば嬉しいですが、そうではない可能性もあるのです。
「その焼き菓子は、貴女が作ったものですの?」
老婆はぽかんと口を開けてしまいそうになりましたが、必死で耐えました。それは自分の姿を気にしてのことではありません。老婆ですから、顎が外れてしまうかもしれない、と考えたのです。
老婆は白雪姫の言葉に頷きました。どうしてそのようなことを聞かれるのかは全くわかりません。しかし、老婆が作ったのは本当です。だから、問いに答えました。
白雪姫は老婆を見つめて、1つ頷きを返します。それは一体どういう意味なのだろう、と老婆は考えました。
「でしたら、頂きますわ」
老婆は今度こそ、口を開きました。そして、慌しく急いで閉めます。
白雪姫は老婆の様子を気にせず、バスケットから林檎のケーキを受け取ります。ケーキを見つめて、白雪姫はうっとりと微笑みました。
白雪姫は老婆へ視線を向け、にっこりと笑いかけます。
「よろしければ、貴女もご一緒しませんかしら? わたくし1人で食べるのは寂しいですもの。もう少しお待ちいただければ、小人たちも帰ってきますわ。そのとき、貴女もご一緒しましょう?」
魔女は大きく首を横に振って拒否しました。白雪姫が持つケーキはただの林檎を使ったケーキではありません。毒の入った林檎を使ったケーキなのです。そんなものを食べれば、老婆も死んでしまうでしょう。
老婆は白雪姫を殺めに来たのであって、自分を殺めたいのではありません。
当然のことですが、白雪姫のお誘いは丁重に断ります。
白雪姫は残念そうでしたが、老婆は続けて言います。
「よければ、一口、食べてみてくれないかい?」
白雪姫はぱちぱちと瞬きを繰り返します。そのような動作ですら美しく、老婆は思わず見惚れてしまいそうになりました。
白雪姫は、1切れのケーキを手に取って美しい唇へ運びます。血のように赤く美しい唇の中へ、一口だけケーキは飲み込まれました。
老婆はにやり、と不敵に笑います。
それとほぼ同時に、白雪姫は倒れてしまいました。ただでさえ、雪のように白い肌はもっと白くなり、まるで綺麗なお人形のようです。
老婆は己の勝利を確信しました。白雪姫がいなくなったのですから、自分こそが国で最も美しいのです。
「ああ、遅かったのですね」
老婆はゆっくりと声のする方へ、顔を向けました。
声をかけたのは、白雪姫の幼馴染である隣の国の王子です。王子は老婆を見ることなく、白雪姫の元へ駆け寄り、跪きます。
白雪姫の頭を優しく撫で、王子は立ち上がり老婆を見つめます。
「魔女どの、いいえ。北の国の王妃さま、白雪姫は貴女の正体に気づいていました」
王子は老婆ではなく、魔女でもなく、王妃として語りかけます。
老婆は驚いて、魔法を解いてしまいました。老婆から美しい魔女へと姿を変えて、王子の話を聞きます。
「白雪姫は、貴女と仲良くなりたかったのです。たとえ、貴女にどのように思われていても、きっと仲良くなれると信じていました」
魔女は驚きました。
魔女は嫌われ者です。誰かの役に立つこともしますが、基本的に魔女という生き物は気まぐれが多いからです。だから、白雪姫が魔女である自分と仲良くなりたいなどと考えていたとは思っていなかったのです。
そして、魔女が白雪姫にしてきたことも、到底白雪姫が許すとは思えなかったのです。白雪姫は姫として愛されて育ってきたことを、魔女はよくわかっていました。姫としてのプライドが高いことも、魔女はよくわかっているのです。
魔女は泣きました。
涙をこぼして、声をあげて、泣きました。それほど、白雪姫を殺めてしまった己を許せませんでした。
白雪姫に向けて、謝罪の言葉を繰り返します。しかし、白雪姫がそれに答えることはありません。
「白雪姫、貴女の願いは叶いましたよ」
王子は白雪姫に向けて、微笑みながら告げました。
「あら、もうよろしいんですの?」
緩やかに瞼を持ち上げ、白雪姫は王子の支えに頼りながら、起き上がります。白雪姫の顔に浮かんでいるのは、どこな悪戯っ子のような笑顔でした。
魔女はまたも驚きました。一体、自分は今日だけでどれほど驚かされたのか、数えてみようと思うくらいには、驚かされているような気がします。
白雪姫は魔女を見つめ、自慢げに語ります。
「お義母さまは意地っ張りな方でいらっしゃいますわ。わたくしはそのことを知っていますもの。だから王子に協力していただきましたのよ」
白雪姫は王子の傍を離れ、魔女の元へゆっくりと歩み寄ります。
「わたくし、お義母さまと仲良くなりたいと思いましたわ。ずっとそう思ってきましたの。嫌われていることはわかってましたから、距離をとっていましたけれど、もう止めますわ。だって、それはわたくしに関係ありませんもの」
白雪姫は魔女へ向かって、手を差し伸べます。
「だから、まずはここから始めますわね。仲直りの握手、ですわ」
にっこりと可愛らしく、どこか勝ち誇ったように微笑む白雪姫の手を、魔女はおそるおそる掴みます。その手を、白雪姫はしっかりと握りました。
白雪姫は王子を見て、心から嬉しそうに笑いました。王子も白雪姫の顔を見て、喜びの笑みを向けます。
「では、お義母さま。わたくしたちとお茶会にしましょう?」
白雪姫は魔女と手を繋いだまま、家へと向かいます。
これから小人たちが帰ってくるのでしょう。そのときに何と言うのか、白雪姫は考え出します。新しい友人であり、自分の義母を紹介するのですから、今から楽しみにしているのです。
白雪姫は美しく微笑みました。