全力疾走
満点の星空に見とれ、胸いっぱいに空気を吸ったジロウは、何か忘れているような気がした。
それもつかの間、ジロウの立っている両側は木や草が多い茂っており、前後は草が茂っているものの、人が歩ける程度に踏みならされており、前方に赤塗りの鳥居が見えた。
両側の茂みから獣のような匂いと、何匹もの低く唸る声が耳に届いたとき、テルの言葉が耳元に蘇った。
ー異界に到着したら、さらに奥に鳥居が見える。鳥居の奥にお社があるから、そこを目指して、必死に走れ。ー
ジロウはスーツケースにとっては転がりづらいというか、転がらない道を、スーツケースを引きずりながら、鳥居を目指した。
走ってはいないが、必死に鳥居は目指した。
落ち葉や枯れ枝を踏む音がし、森の中から狼が1頭、ジロウの前に姿を現した。
狼は鼻頭にしわをよせ、姿勢を低くして、今にも飛びかからんばかりなのだが、ジロウは、狼を知らないので「犬?」と警戒を少しといた。
実際、大きさも、昼間見たハレ程度の、ゴールデンレトリーバーやハスキー犬などの大型犬サイズだった。
ジロウは犬が好きだけれども、犬の動作と感情の関係を知らなかった。
公園などで野良犬を見つけたときのように、腰を低くして右手を狼へ向かって伸ばし「チチチチチチ」と呼ぶ。
さらに「あ、そうだ…。」と言わんばかりに、リュックを下ろし、リュックの中に入っていたサラミの入った袋を取り出し、袋を開け、サラミを1枚取り出し、サラミを握った右手を再び伸ばして呼ぶ。
狼が牙をむき出し、よだれを垂らし、威嚇をすると、さすがにジロウも危ないということに気づき、リュックを背負って、後ずさった。
狼がもう一頭出てきてジロウの背後を塞ぐ。
しかも、前方にいる狼よりも、ひと回り大きな狼だった。
ジロウは前後を塞がれてしまった。両側には森。
心臓が早鐘を打った。
ゴールは鳥居。
ジロウは右手を振ってサラミを森へ投げるふりをした。
前方の狼の鼻が小さく動いた。
ジロウはサラミの入った袋に右手を突っ込むみ、鷲掴みにし、森に投げた。
鳥居側にいた狼は、サラミを追いかけるように森の中に飛び込んだ。
それが合図となり、ジロウは鳥居めがけて走った。
後ろの狼はジロウに飛びかかった。
一度目は、ジロウまで距離が足りなかった。
狼はすぐに追いつき、再びジロウに飛びかかった。
ジロウのリュックに狼が噛みつき、噛み付いた拍子にジロウは後ろに引っ張られて、こけそうになった。
リュックから両手が抜けると、態勢は戻り、手ぶらになったジロウは鳥居めがけて必死に走った。
森の隙間から毛並みの艶やかな白い獣がジロウの視界を捉えた。
人生で一番早く走ったと思える勢いで、最後の鳥居、3つ目の鳥居をくぐると、ジロウは木の幹につまずきこけた。
ジロウは、もうダメだと思いながらも、這うように社を目指した。
這いながら後ろを見ると、狼は追ってこず、鳥居の周りをウロウロしていた。
しかも、狼は2頭だけでなく、群れで追ってきていた。
ジロウは大きくため息をつき、立ち上がると、ズボンの汚れをはたいた。
社の賽銭箱の前に立ったジロウは、それから動けなくなった。
テルは社を目指すように言ったが、その後は聞いてなかった。
とりあえず、ポケットに入っている財布の小銭を確認し、五円玉を見つけると、取り出し、財布をしまった。
一礼し、賽銭を入れ、鈴を鳴らすと、「うっるさい!」と社の戸が勢いよく両側に開いてテルが出てきた。
テルからは化粧っ気が消え、髪の毛は下ろし、腰までの長さを右側でゆるくまとめ、浴衣を着ていた。
テルはジロウを見つけると目を細め、優しい顔つきになって「ジロ。」と呼んだ。
「テル…さん?」
確認するまでもないのだが、確認せずにはいられなかった。
テルという素材の美しさが、さらに際立っていた。
「うちも今帰ってきて眠ったばかりなの。ジロも疲れたゃろ。とりあえず寝よ。」
テルは賽銭箱の手前まで降りて、ジロウに手を伸ばした。
ジロウはホッとした顔をし、階段を登ろうとしたが、体の力が抜け、その場に崩れた。