勇者誕生
上下左右も分からなくなった暗闇の中、わずか数秒だったけれど、ジロウには長い長い時間に感じられた。
スーツケースを自分の支えになるよう、側に引き寄せ、数歩足を出すと、赤い光が見えた。
足音も、スーツケースの音もしない、耳に蓋をされたような無音の空間を、赤い光を目指して歩を進めた。
自分の頭上より少し上に、赤く揺らぐロウソクに両側から照らされ、椅子に座った姿の仏像が見えた。
ジロウはビクッと体を強張らせた。
そして、畏れ、一歩後ずさった。
ジロウは仏像から何か得体のしれないものを感じとった。
無言のままジロウは仏像を見つめていると「もっと近う」と低くお腹に響く声が聞こえた。
無駄だと思いながらも、ジロウは左右を見回して、声の主がいないか確認した。
「わかっておろう。」
再び低く響く声がして、ジロウは仏像の声だと観念したように、一歩仏像へ近づいた。
「そなた、名は?」
「名前…ワ」
ワタナベジロウと名乗ろうとして、ジロウは、ふと、テルの「名を言うてはならぬ」という言葉が耳元に蘇った。
「あいつ…。」
仏像は小さな声で悪態をついた。
「え?」
「ジロウ、こっちの世界へ来るのだな?」
「え?」
「迷うておるなら、来るべきではない。」
「いえ、名前。」
「わしの名か?」
「それも気になるけど、どうして俺の名前…。」
「こっちの世界では、質問するだけで、わしのように相手のことがわかる者も多少いる。気をつけよ。」
「改めて問おう。ジロウ、そんな世界でも、こっちの世界へ来る決心は変わらぬか?」
「……はい。」
ジロウは声を震わせて返事をした。
「戻れぬぞ。」
仏像が重ねて聞いた。
「はい。」
ジロウは強く返事をした。
新しい自分になりたいと強く願った。
「さて、ジロウよ。こっちの世界では、職業というものがある。」
「魔法使いとか?」
ジロウは環境に慣れてきたのか、仏像が悪態をついたからなのか、最初仏像に感じた畏怖の念は消えかけていた。
「まぁ…そのようなものじゃ。こっちの世界では、魔法使いは陰陽師という名になるが…。」
ジロウは俯いてしまった。
「ジロウ聞いておるか?」
「は、はい。」
慌てて顔を上げて、頷いたが、ジロウは聞いてなかった。
「この世界では基本的には職業を変わることはない。」
「身分制度…ですか?」
「そのうようなもんじゃ。ジロウはどんな職業を希望するか?」
「勇者!」
仏像の問いかけに、被り気味で、ジロウは返事をした。
仏像が一瞬ひるんだ。
といっても、仏像が動くわけではないので、気配がした程度なのだが。
「ジロウ…。」
「全然勇者ってガラじゃないのは、わかっています!でも、自分を変えたいんです!」
「お…おう。」
仏像が小さく見えた。
「…で、できませんよね。不相応ですよね。」
「わしに、できぬことはない。」
今度は仏像がジロウの言葉に被せるように言った。
威厳を取り戻すかのように、仏像は一つ咳払いをして間を置いた。
「ジロウ、両手を前へ。」
ジロウは両手でお椀の形を作った。
「そなたには勇者という職業を与える。」
低くお腹に響く声で、ゆったりと、仏像は告げた。
仏像の方から青白い光が生まれ、ふわふわと円の形を保とうとしながら、ジロウの手まで飛んできて、手の平に収まり、飲み込まれるように、消えた。
「さて、ジロウ。もうしばらく真っ直ぐ進むと、ジロウがこれから暮らす世界へ出られる。しっかり精進せよ。」
仏像の姿が薄くなり、ロウソクの揺らぎも消え、再び暗闇と無音がジロウを包んだ。
けれど、先ほどよりも落ち着いてジロウは上下左右も分からない暗闇を、一歩一歩進んだ。
勇者になった。
その実感がジロウの心を満たしていた。
胸を張って力強く歩くうち、月明かりが目に飛び込んできた。
暗闇に目が慣れていたせいか、三日月と、落ちてきそうな星の数々は目をみはるほどだった。
ジロウは胸いっぱいに空気を吸った。
甘く、優しい空気だった。
そのジロウの鼻に、微かに匂いが漂ってきた。
ジロウにとっては嗅いだことがないような匂いだった。
ただ、動物園やペットショップに混ざっている匂いだった。