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異界移民

ジロウは温かく甘い匂いに包まれて、幸せな気持ちで目を覚ました。

視界には、陽を白い肌に優しく受ける女の人の美しいアゴのライン、整った鼻があった。

どの角度から見ても美しい人だった。

女は、楽しそうに遠くを眺めていた。

幸せを噛みしめるように、一度目を閉じて、ジロウは状況を断片的に思い出し体がこわばった。

その反応に気づいたように、女がジロウの顔を覗き込んだ。

「覚めた?」

ゆったりと降ってきた艶のある声に、ジロウは膝枕されているという、現在の状況を理解し、飛び起きようとしたら、女がジロウのひたいを抑えた。

「急に起き上がると目眩がするけん、ゆっくり。」

ジロウは再び気を失いそうだった。

ジロウに兄弟はいない。

彼女もいない。

女性に膝枕してもらった記憶なんてない。

女の人の手が、自分に触れるということも、ほとんどない。

こんな綺麗な女の人にも会ったこともない。

ジロウにとって、ないない尽くしだった。

女に手を添えてもらいながら、ゆっくり起き上がった。

木々の隙間から学校の裏手が見えた。

学校の裏山にある、神社の一つ目の鳥居の入り口だった。

ジロウは、考える時の癖て、手の平を口に当てて聞いた。

「現在の状況を教えてください。僕は学校の屋上にいましたよね。」

「そうじゃ。ゴツイ男がやってきて、ジロを捕らえようとするので、屋上から飛び降りた。」

「飛び降り…筋斗雲ですか?」

「そうゃ。」

「先生は?」

「先生…ゴツイ男か?」

「はい。」

「知らぬ。飛び降りたときは偉く驚いて手すりから乗り出して見たんやけど、すぐに姿がなくなった。」

1階へ駆け下りたか、逃げたか、どちらにしろ目の前で人が飛び降りたのだ。

ジロウは、嫌いな先生だけれども、少しかわいそうだと思った。

自分の両手を眺めて、触った。

「どうした?」

「筋斗雲ということは、僕は幽体離脱でも異界に来たわけでも、なんでもないんですよね。」

「そうゃ。屋上から飛び降りて、雲に乗ってここまできた。」

「筋斗雲は?」

「さっき乗った雲か?」

女は右手人差し指を頭の上でくるくる回した。

雲がスーッと降りて来た。

ジロウは雲を触った。

もちもちとしながらも、ふわふわする、表現のしようがない弾力感だった。

「筋斗雲は、雲に乗る術ゃ。そろそろ面接の続きをして良いかの?」

ジロウは雲を触ったまま、顔を上げた。

「え、いや、僕、学校。」

「帰るのか?学校に。まぁ、ジロの自由やから。止めはせんけど。」

ジロウは雲から手を離し立ち上がろうと地面に手をついたが、立ち上がるまでにはいたらなかった。

「とりあえず、今日はいっか。」

ジロウは座り方を、体育座りに変えた。

「では、面接ゃな。」

「面接の前に、あなたは誰ですか?」

女は立ち上がり、雲に座り足を組んだ。

雲は彼女の背中にもよりそうように形を変えた。

彼女は雲にゆったりと上半身をあずけた。

「うちは誰かか。難しい質問ゃなぁ。まぁ、ジロをスカウトしに来たと思ってもらえれば良いかの。」

「いえ、名前は…言ってはだめなんですっけ?」

「ジロに、うちの名前は教えても良いけど、長いので、テルと呼んでちょうだい。」

「なぜ、さっきは名前を言ってはダメだと。」

「そうやねぇ。ジロは、言霊について考えたことがあるか?」

「言霊…特には。」

「ジロは、この学校に入るとき、試験を受けただろう?」

「えぇ。」

「そのとき、落ちるとか、滑るとか言葉に敏感にならなかったか?」

「んー、あんまりいい気はしなかったですね。それに、周りは言わないように気をつけてくれていたと思います。」

例えば「消しゴムが落ちた」とか「階段で滑った」言ったから、入試に落ちるわけではない。

けれど、受験生に対しては、「落ちた」「滑った」は禁句になる。

言葉に引きずられることを避ける。

「そういうこと。言霊とは、深い深いところで根付いているもの。名前はもっと強く相手を縛る。」

「例えばこの雲。そなた名前をつけてみよ。」

「え…えっと。」

「なんでも良い。」

「ハレ…とか?」

「雲なのに、ハレか。面白いの。」

ジロウはテルの陽に透けるような美しさから、照る、太陽、晴れる、を連想し、ハレになったとは言えず、目を伏せた。

「さて、この雲をハレと名付ける。そなたは今日からハレじゃ。」

テルは、楽しそうに雲を撫でた。

ジロウには、雲は心なしか、喜んだように見えた。

「そなた、どう思った?」

「どうって?」

「筋斗雲は、雲に乗る術やと、うちは言った。つまりこの雲は、うちが適当に見つけて術をかけただけ。術を解けば、他の雲と変わらぬ。特にこの雲ひとつない天気では、すぐに消えてしまうやろう。」

「そうなんですか?」

「ハレが可愛く見えたし、消えてしまうと聞いては悲しくなったやろ?」

「はい。」

「そう、名とは、よくも悪くも特別なもの。だから、相手に名乗るかどうかは注意せねばならん。さて、そろそろ面接したかったんやけど、時間がきてしもうた。面接は合格。」

テルは雲から降りて立ち上がった。

「そなたには、姫の遊び相手として、一緒に来てもらいたい。」

「どこに?」

「いわゆる異世界。」

「この世界の僕はどうなるの?」

「どうにもならん。行方不明になる。」

「なんで僕?」

「ゲームが得意、かつ…こういう言い方はよくないが、行方不明になっても誰も困らぬ。」

ジロウは息を吐き出すように笑った。

ジロウは両親を亡くし、叔父夫婦に引き取られていたが、折り合いは良くないどころか、両親の遺産というか生命保険の半分を叔父夫婦に既に使われており、大喧嘩のすえ事実上、残ったお金の入った通帳を受け取り、今年から一人暮らしを始めていた。

身寄りは他にいない。

学校にも馴染めてない。

そりゃ友達だと思ってる人はいる。

でも、いじめられているジロウを助けてくれるわけではない。

きっと、いなくなっても、数日噂になって、学校を卒業する頃には忘れている。

ジロウは目を伏せた。

「でも、テルさんにとっては、友達ではないと思うかもしれないけれど、僕にとっては、オンラインゲームの中の友達も、僕にとっては大切な友達なんです。」

「それは問題ない。」

「問題ない?」

「ネット環境は整っておる。ジロのやっているゲームの中でキリンという者を知らぬか?」

「知ってます。何度かやり取りしたことあります。」

ジロウほどではなかったが、ほどほど強い。

「そのキリンが、そなたが今からお相手をする姫だ。」

「…姫って、キリンは女だったの?」

いつのまにかテルの姿が薄くなっていた。陽に透けそうなという比喩表現ではなく、実際陽に透けている。

「うーん、その辺は、会ってから。もう、うちには時間がないので、簡単に説明するが、明日の夜明けまでに、この世界と別れる決心がついたなら、この鳥居をくぐって奥の神社を目指せ。そうすれば異界に通づる。」

「え、待って。」

「黙って聞け。この世界と向こうの世界の地理はほぼ一緒じゃが、この神社は本来もっと山の上にあった。そこで、異界に到着したら、さらに奥に鳥居が見える。鳥居の奥に神社があるから、そこを目指して、必死に走れ。異界に来たから楽しいとは言わぬ。だから、ジロが選べ。これはお守りじゃ。この世界を選んでも返す必要はない。」

テルは首につけていた勾玉のような形のネックレスを引っ張り外すと、ジロウの手に握らせた。

ジロウが手元に視線を落とそうとした瞬間、テルの口びるがジロウの口びるに重なった。

ほとんど透けていたにも関わらず、温かさと、柔らかい感触ははっきりとあった。

そして、あの甘い匂いも。

「神の加護を。」

耳元で艶のあるささやき声を最後にテルは姿を消した。

ハレもいつの間にか消えていた。

ジロウは頭が真っ白になった。

とりあえず、学校へは戻らず、家に帰った。

家に帰ると、スーツケースと、リュックに荷物を詰めた。

そこで、ふと気がついた。

僕はこの世界に未練がないのだと。

未練はないけれど、物欲は強いようで、入りきらない荷物を前に、何を捨てるか悩んだ。

途中、コンビニに買い物にも行ったりして、気づけば夜8時に近かった。

時折、学校からの着信があったし、玄関のチャイムが鳴った。

きっと担任だろう。

そろそろ出発しなければ、担任から連絡を受けた叔父が訪ねて来る可能性が出て来た。

叔父は外面だけいい。

リュックを背負うとズシリと重みがきた。

スーツケースは想像以上に重かった。

でも、どの荷物も捨ててはいけなかった。何キロあるか分からない荷物を抱え、道路に出た。

アスファルトに、軋むスーツケースのタイヤの音が響く。

あまりにも音が気になるため、スーツケースを押す手に力を込め、スーツケースを持ち上げるようにしてみたが、どちらにしても音は響いた。

学校付近まで来ると、辺りは真っ暗で、職員室らしきところに明かりがポツンとついているくらいで、他に明かりはなかった。

暗い道を必死に鳥居へと向かうが、階段が多く、スーツケースを持って来たことを後悔し始めていた。

汗だくになりながら、そういえば小説でよく読む異界ライフに、こんな大荷物の人見たことないな…という思いがよぎり始めた頃、神社へ向かう最後の鳥居をくぐった。

もともとくらい道だったが、明らかに視界が変わった。

何も見えない暗闇で、上下すら分からなかった。

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