恋
それから、10年がたちました。
リアとトラウムは、15歳になりました。
お誕生日の朝はやく、トラウムとリアは初めて出会ったクヌギの木の下で待ち合わせをしていました。
朝日がのぼるよりはやく二人は木の下に集まり、「おはよう」も「おめでとう」も言わず、木の下に座りました。
二人は、じっと空を見つめていました。
空に朝日が昇れば、今日が始まってしまいます。
今日が始まれば、トラウムは1年間学校に行かなくてはいけません。
学校は都会にしかないため、トラウムは寮に入ります。
この1年は、トラウムは家に帰れないのです。
それは、二人が10年前に出会ってから、初めてのお別れでした。
リアはまだ暗い空を見上げながら、お日様がずっと昇らなければいいのに、と思いました。
そうすればトラウムの15歳のお誕生日にはならず、トラウムはずっとこのお屋敷にいられると思ったのです。
トラウムはそっとリアの横顔を眺めていました。
初めて出会った時にはトラウムよりずっと年上のお姉さんに見えたリアは、今ではトラウムよりほんの少ししか年上に見えません。
そして今では身長も、体重も、トラウムのほうがずっと大きいのです。
「……空が」
リアの願いは、かないませんでした。
空には今日もお日様がのぼり、二人のお誕生日の朝が始まります。
ぽろり、とリアは涙をこぼしました。
「いやよ」
「リア」
「トラウム。どこにも行かないで。行っちゃ、やだ」
リアは膝を抱え、うつむいたまま泣き出しました。
トラウムはリアの青い髪を撫でました。
「ごめんね、リア」
決然としたトラウムの声は、なんのためらいもありませんでした。
そのことに、リアは衝撃を受けました。
「トラウムは、悲しくないの?私と離れること、なんとも思わないの……?」
この国では、成人となる16歳になる前に、最低1年は学校に行くことが義務付けられています。
いわば大人になるための必須条件です。
リアは精霊ですが、トラウムのことならなんでも知りたかったので、そのことを知っていました。
だからどんなに泣いて引き留めても、トラウムは行ってしまうとわかっていました。
けれどそれでも、トラウムも本当は自分と一緒にいたいはずだと、学校になんて行きたくないはずだと、信じていました。
トラウムが口にだして「行きたくない」と言うことはなかったけれど、リアの心の中では、それは当たり前のことでした。
なのに、トラウムはなんの迷いもなく、学校に行く、と言いました。
そのことが、リアを余計に悲しませました。
この10年、リアとトラウムはいつも一緒でした。
同じベッドで目覚め、ともにごはんを食べ、トラウムが家庭教師と勉強している時でさえ、リアは傍で一緒に家庭教師の話を聞いていました。
リアが庭で歌う時は、トラウムは庭でその歌を聞き、トラウムが馬に乗るときは、リアは横で風に乗ってついていきました。
そして一日の終わりはまた、二人は一緒のベッドで眠りました。
夢の中でさえ、リアはトラウムと一緒でした。
それは、とても幸せな日々でした。
けれどトラウムにとって、リアはもう置いていくべき存在なのでしょうか。
お別れして、忘れてしまう存在なのでしょうか。
リアが不安に体を揺らすと、トラウムはぎゅっとリアを抱きしめて言いました。
「リアと離れることは、寂しいよ。けど、僕は大人にならなくちゃいけないから」
「私のこと、忘れるの……?」
トラウムは、15歳になった今もリアのことが見え、触れられます。
人間が長じても精霊と接することができるのは、とても珍しいことでした。
まだ多くの人間が精霊を見られた時代でさえ、小さな子どものころは精霊が見えた子でも、大人になるにつれて精霊が見えなくなるのが普通でした。
今のように精霊を見られる人間がほとんどいない世の中で、15歳にもなるトラウムがまだリアを見られるというのはひとつの奇跡でした。
けれどだからこそ、リアはトラウムと離れることが不安でした。
トラウムと離れて、トラウムが大人になってしまえば、もう二度とトラウムの目にリアが映ることはなくなるかもしれません。
「ばかだなぁ、リアは」
トラウムは、呆れたように笑いました。
笑ったつもりでした。
けれどトラウムも、いつの間にかぽろぽろと涙をこぼしていました。
「僕が、リアを忘れるはずないじゃないか。……待っていて、リア。僕は大人になって、この家に戻ってくる。そしてこの家と、リアを丸ごと守るから」
「トラウム、戻ってくる?」
「当たり前だろ。ここが、僕の家だ。1年後には、ここに戻ってくる。だから、待っていて」
待つのは、いやでした。
リアは、トラウムと離れたくありませんでした。
けれどリアの住処はすっかりこの屋敷に定まっていて、今はもうお屋敷から離れられなくなっていました。
都会にあるという学校にまでトラウムについていくなんて、できません。
だから、待つしかないのです。
このお屋敷で、トラウムの帰りを。
「きっと、きっと帰ってきてね」
「うん。約束する。1年後にはきっと、学校を卒業して、ちゃんと成人して、リアを抱き上げられるくらい大きくなるよ。そしたら、リア。僕のお嫁さんになってくれる?」
「お嫁さん?」
リアは、目をぱちくりして聞き返しました。
あんなに止まらなかった涙がぴたりと止まりました。
「だって私はハミングバードの精霊なのよ?トラウムは人間じゃない」
「そうだけどさ。人間と精霊が結婚しちゃだめって決まりはないだろ?」
「そりゃ、だめって決まりはないけど。人間と結婚した精霊なんて、聞いたことないわ」
リアは、お馬鹿な弟に言い聞かせるように言いました。
けれどトラウムは少しもひるみません。
「そう?僕はいっぱい知っているけどな。ほら、一緒に読んだ本にもあったじゃないか。精霊と結婚した男の話がさ」
「だってあれは、おとぎ話よ?」
「おとぎ話だからって、本当の話じゃないとは決まっていないだろ。それに他の人がどうであれ、僕はリアをお嫁さんにしたいんだ。ダメなの?」
トラウムは少し苛立ったように、リアの頬を撫でます。
抱きしめられたまま、じっと顔を覗き込まれて、リアは「ずるい」と言いました。
この空色の目に、リアはずっと囚われているのです。
トラウムにこんなふうにお願いされたら、リアはいやだなんて、言えません。
それに、トラウムのお嫁さんになるなんて考えたこともありませんでしたが、お嫁さんになればきっとずっとトラウムの傍にいられるのです。
それは、なんと素敵なことでしょう。
「いいわ。待ってる。だから、きっと帰ってきて、私をトラウムのお嫁さんにしてね」
リアが言うと、トラウムはくしゃくしゃの顔で笑いました。
そしてリアの額にくちびるを押し当て、
「約束だよ!」
と言いました。
そして、その日の朝。トラウムは学校へ行きました。
そして1年が経ちました。
トラウムは、帰ってきませんでした。




