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第七章  「営倉より」

 ――それは忘れもしない、三度目の出撃での出来事だった。


 インド洋、ティモール島の基地から発進し、一千キロメートル近くの距離を踏破して敵国オーストラリア領ポートダーウィンの連合国軍飛行場を急襲する。それが、その日の自分たちに与えられた任務だった。

 

 両者を隔てるものは島ひとつ無い蒼い大洋のみだ。それはすなわち一度針路が狂えば機体もろとも二度と生きて還れぬことを意味する。それは往復一千キロメートル以上の長距離を飛行できる零戦だからこそ可能な任務だったのだ。

 熱帯特有の、じっとりとした熱線を放つ太陽の下、地上員心づくしの巻き寿司をぱくつきながらも眼は燃料計、混合比計、定針儀、そして航空図(チャート)など飛行関係へと向いている。スロットル開度、AMCオートミクスチャーコントロール、プロペラピッチと、他にも留意すべき点は多々ある。これらの要素ひとつ欠けても戦闘機による長距離の侵攻作戦には深刻な影響をもたらす。そして何より重大なことには、大型機と違い単座、小型の零戦ではこれらの調整を操縦士たった一人で行わなければならないのだ! 


 ――気が付くと、自機が列機に異常に接近していることに気付く。機体のことに気を取られるあまり、自らの属する小隊に注意することを忘れていたのだ。あわてて機体を滑らせて距離を取り列機のコックピットを覗き込むと、小隊長のベテラン下士官が拳を振り上げてこちらを睨んでいるのが見えた。拝むようにして謝った。これは還ったら絞られるだろうな。還ったら――そう、還ることができれば、の話だ。

 その小隊長も今は無い。後にほぼ連日にわたって繰り広げられる苛烈なラバウル航空戦の未帰還者名簿に名を連ねることになったのである。



 ――果たして、敵は待ち構えていた。

 その頃ポートダーウィンに配備されていたのは、前年のヨーロッパ戦線の緒戦、英本土防空戦(バトルオブブリテン)で勇名を轟かせたスーパーマリン‐スピットファイア戦闘機だった。搭乗員も今尚激闘の続くヨーロッパ戦線から引き抜かれてきた猛者ぞろいである。弱いはずが無かった。しかも彼らには地の利がある。もちろん、彼らはこれまで彼らのあずかり知ることの無かった極東の地に「ゼロ」という名の恐るべき戦闘機が存在していて、太平洋地域全域で連合国空軍に甚大な被害をもたらしているという噂を聞いたことぐらいはあった……だが、それは彼らにとってあくまで噂でしかない。そして噂というものは時として実際よりも誇大に伝わるものだ。自動車もろくに作れないような極東の島国に、そんな高性能戦闘機が作れるだろうか?


 ――そして、空戦が始まる。何時終わるとも知れない輪舞の始まり。

 狭い零戦の操縦席の中で首を傾け、バンドを解いた上半身を捻り獲物、あるいは追跡者を視界に入れんと足掻く。一方、レーダーによる誘導で優位な姿勢から零戦隊に襲い掛かるスピットファイア。幾多の試練をくぐり、自らの戦い方と乗機の性能に絶対の自信を持っていた彼らの多くが必勝を確信していたに違いない。だが、彼らの希望的観測は最も手痛い形で裏切られた。敵機の接近に気付くや、零戦隊は鮮やかな散開で彼らの突入をやり過ごすと、スピットファイアのパイロット達があきれるほどの運動性で思い思いの目標に食いつき始めたのである。編隊同士のぶつかり合いは、たちまち彼我入り乱れての乱戦となった。


 ――その乱戦の環の中に、何時しか自分はいた。

 異なる種類のエンジン音と銃撃音が殺人的に交錯する空の戦場に身を投じてすでに五分が過ぎただろうか。複数の機体と散発的に翼を交えては追ったり追われたりを三、四度ほど繰り返した後、味方の陸攻に食いついた一機を見つけ、そいつを追っ払おうと試みる。だが、それは敵機の獲物を陸攻からカズマへと変換するという結果をもたらした。独特のテーバー翼を振りかざし、尖った機種を突き刺すように向かってくるスピットファイアに、熟練者(ベテラン)の余裕が見えた。


 ―― 一瞬の戦慄、交錯する翼、その刹那に敵機の素性が見える。

 敵機の胴体に描かれた四つの鍵十字(ハーゲンクロイツ)と三つの束幹(ファスィズ)の撃墜マーク! それだけでもこのスピットファイアと操縦者が遥かな欧州から海を渡ってやってきた歴戦の勇士であることは明らかだった。自分よりずっと経験豊富なはずだ。一旋回……二旋回……三旋回……互いに背後を取るべく旋回を繰り返す二機、血流の欠乏が旋回の度に敵影を追う我が身の視界を狭め、同時に襲い掛かる強烈な加速度に堪らず呻く。まるで真綿で体中を締め付けられるような感覚。出来るものなら自らを締め付けるこの鉄の環から今すぐにでも脱出したいと願う。肺が痛い、急加速で意識が飛ばない様に短間隔で呼吸を続けた結果だった。


 だが――


 逃げるな!……逃げたら殺される! 自身の本能が彼自身に強い口調で語りかけていることに気付く自分がいる。そうだ……ここで逃げようものなら敵のパイロットもまたこの苦役から解放され、更に期せずして自らの前方に飛び込んできた獲物を背後から調理にかかるであろう。その哀れな獲物の運命こそ、戦いから逃げた者の末路なのだ――それが嫌で歯を食いしばり、終わりの見えない旋回に耐える――そして、忍耐の上に成り立つ均衡は一瞬にして崩れた。

 

 狭まりゆく視界の先で、堪えかねて銀翼を翻し離脱に入る敵機の影――加速度で次第に薄れ行く意識の下でも、その瞬間を見逃さなかった。スピットファイアを追いつつ直線飛行に転じる。光像式照準器の照星いっぱいに、スピットファイアの均整の取れた機影が重なる。本土の延長教育で教わった通り、自分を追う敵機がいないか背後を顧み確認する。再び前へ向き直った直後、完全に視界を取り戻した眼差しの睨む先で、敵のパイロットがこちらを振り向くのを見る。酸素マスクとゴーグルに顔を覆われた、(からす)天狗のようなパイロットから、表情を読み取るのは不可能に近い……そして、今の自分には彼に持ち合わせるべき一片の感情も無かった。


「――――!」

 機銃発射装置の把柄を握る手に、力が入る――

 カズマが、戦闘機乗りとなって初めて敵機を斃した瞬間――



 ――自分の放った一連射がスピットファイアの機体を幾重にも貫いた瞬間。カズマは目覚めた。

「…………」

 折り畳み式の簡易ベッドが軋む音を、目覚めるのと同時に聞く。半身を上げて寝台に座りこむ姿勢を取るのと同時に、素足に冷たい床の感触が拡がるのを覚える。畳にして四畳半程、鉄製のドアと狭い窓がそれぞれ一つ、その何れにも鉄格子が嵌められている――週末の夜に此処に入れられて、すでに二日程をカズマはこの殺風景な空間で過ごしている。営倉というやつだ。カズマの場合、少なくともあと五日は此処にいなければならないと既に決まっている。たとえその理由が、奪われたものを取り返しに行こうとしただけであったとしても――


 カズマは寝台から立ち上がり、狭い窓へと歩み寄った。カズマの背丈では少し背伸びをしたところで、その外を覗くことすらあたわぬ高みに据えられた窓。恐らくはカズマが目覚めるずっと前から暖かい光を注ぎ続ける鉄格子の窓。光の届かない場所では無いことに安堵しつつ、カズマは跳躍し鉄格子を握り締める。その後は懸垂の要領だった。二本の腕と背筋の膂力に任せ、カズマは狭い外の世界をそこに見出す。窓の外は演習場、集合した警備兵が彼らの指揮官から訓示を受ける様子が垣間見えた。頑丈なドアの覗き窓越しに誰かの立つ気配を感じたのも、そのときだった。


「…………?」

「……なに、逃げる積りなの?」

 覗き窓いっぱいに広がる女性の顔、マリノ‐カート‐マディステールの訝しむ顔を、カズマは鉄格子を握りつつ顧みる。驚愕や戦慄はその顔には無い。むしろ悪戯を身咎められた子供の様な困惑が、その少年の様な表情には含まれていた。ドアの食事搬入窓が荒々しく開き、大きな音とともに朝食の(トレイ)が投げ入れられる。窓から降りて搬入窓に近付いた瞬間、搬入窓から延びたマリノの手が盆の上の果物に延び、それはカズマの眼前でマリノの口に収まる。唖然とするカズマを他所に、鉄格子越しに果物を頬張るマリノの勝ち誇った様な眼が笑っていた。抗する術も無く、盆を寝台まで持って行ったカズマにマリノは追い打ちをかけるように言った。

「アンタ、これからどうするのさ?」

「やっぱり、これか?」

 自分の首を切る素振りを見せたカズマ。マリノは呆れたように言う。

「あたぼうじゃない。機密指定区域に無断で侵入したんだもの。それ位のリスクは背負ってもらわないと」

「機密にする程の場所かよ」と、朝食のヌードルにフォークを突き立てつつカズマは言った。それがドアの向こうに立つマリノの勘に障ったようだ。彼女としてはもっと卑屈な態度を営倉のカズマに予想……否、期待していたのかもしれなかった。

「あんたね……上官に対する振る舞い方についてもう少し真剣に考えた方がいいわよ」

 顔を引き攣らせるマリノに向け、カズマは舌を出して見せた。威圧をものともしないというより、そのような振る舞いをカズマは心底軽蔑している。

「む……!」

 虚勢の薄い皮が剥がれ、怒気を激発させ鉄格子にしがみ付くマリノに、カズマは目元を引っ張ってさらに挑発した。怒りに吊り上がった目に加え、今度は食いしばった歯も剥き出しにマリノはカズマを睨む。鉄製の扉に阻まれている以上、彼女に出来るのは精々これ位であった。

「このバカ!……ひとが折角心配して様子見に来てやっているのにチョーシこいてんじゃねーっつーの……!」

「用はそれだけ? 少尉さん」

 平然と朝食を食べ始めたカズマが聞くや、マリノの顔から表情が消え、当初の訝しむ様な眼差しを取り戻す。

「アンタ、何者?」

「ただの志願兵だ」

「…………」

 飯を食う手を止め、カズマは窓の向こうのマリノを見遣る。茶色の瞳の奥で、女教官の自分に対する猜疑が一層に深まっているのがカズマには判った。

「疑ってるのか?……レムリアって連中のスパイと」

 二人の無言……やがてマリノから無表情が消え、憐憫とも取れる笑顔へと変わる。

「スパイって言えば、もっと長くこの基地に居られるかもね。生きて出られるかどうかはまた別問題だと思うけど」

「考えとくよ」

「まあ、実を言うとあんたがどうなるかは未だ本決まりじゃないんだけどさ……覚悟ぐらいはしといた方がいいんじゃない?」

 カズマの沈黙……それで話は終わった。カズマを鼻で笑い、踵を返す間際――


「あの緑の戦闘機」

 カズマの一言は、マリノの足を止めた。

「ん?」

「飛べそうか?」

「もう見ることも触ること無いと思うから教えとくわ。『荘厳なる緑マジェスティック・グリーン』のことなら明後日には補修が終わる。あたしが言えるのはそれだけ」

 カズマは黙ってコーヒーを啜った。分厚いドアの向こうでマリノの足音が遠ざかっていく。不毛な会話が終わり、温いコーヒーを半分まで飲み干したところで、カズマは表情を緩めた。安堵の後には困惑に似た打算が胸中を占め始めた。


「さて……どうしたものか」

 ベッドに身を横たえ、カズマは思考する。全ては此処を出てから始まる。喩えその結末が、カズマ自身の人生の終了を意味するものであるとしても――



 日光を通すに遮るものの何も無い筈の飛行場に面しているにしては、カレル‐T‐“レックス”‐バートランド少佐のオフィスは薄暗く、濃い煙草の煙がシーリングファンに掻き乱されつつも雲の様に天井に滞留していた。むしろファンの巨大な羽根が、煙を拡散した結果であるようにも見受けられる。その元凶たる葉巻や紙巻き煙草の吸殻は、完全に燃え切らないが故にガラス製の灰皿の上でちょっとした休火山を作っていた。山から毀れ落ちた吸殻は床にまで達し、ペーパーバックの探偵小説でも散見される、うらぶれた街角の探偵事務所的な退嬰を演出している。


「『荘厳なる緑マジェスティック・グリーン』に関する君の報告書を、半分まで読んだ」

 椅子の背凭れに寄り掛かりつつ、出頭したマリノに告げたバートランドの手には、日曜の深夜に提出された報告書の束が握られている。既読部分の端々に貼られた付箋の数は多く、それが要訂正箇所では無くバートランドの個人的な着目点であるのにマリノが気付くのに、出頭してから五分ほどの時間が必要であった。気付いた後には、自分の仕事が正当に評価されつつあるということへの満足感が、彼女の豊かな胸に満ち満ちて来るというものだ。


「君の報告書から判断される限りでは、補修こそ簡単だが機体内部、特に操縦系に未知の機構が数多く見られる……ということでいいのかな?」

「その未知の部分の損傷が、殆ど見られなかったという点は、まさに幸運ではないかと小官は考えます」

「その未知の機構について、君はどう判断する?」

「報告書にも書いていますが、小官が推測するに飛行時の状態に影響されない、円滑な操作を実現するための機構ではないかと……」

「つまり……?」

「飛行時の速度によって、同じ操作を行うのに要する力や加減が異なる場合があるかと思います。『荘厳なる緑マジェスティック・グリーン』に実装されているのは、恐らく操作時の加減を一定にし、パイロットの負担を軽減するための機構ではないかと小官は推測するものです」

「君が言っているのは、剛性低下方式のことだな……であるにしても、実用化されているのは驚くべきことだ」


「…………」

 剛性低下方式……そう言えば、何時か読んだ航空部隊の部内誌に、そういう名称の研究に関する論文が載っていたっけ……マリノの思案を他所にバートランドは報告書を捲り続け、再び頭を上げた。

「……それで、君をしても本当に判らない部分についてはどうかね? あればレクチャーを願いたいが」

「フラップの作用……ですかね」

 考え込む素振りをそのままに、マリノは応じる。

「フラップ?……離着陸時に使うやつか? カウルフラップではなくて」

「操縦席にフラップの管制装置らしきものが接続されていました。単に離着陸時にのみフラップを使うのならば、ここまで複雑な機構は必要ないのではないかと……」

「フラップに、何か特殊な用途がある……と?」

「その点は、完全に分解しないことには何とも申しあげかねます。完全な分解に類する作業は、さすがに此処の設備では出来かねるのではないかと……」

「わかった! 御苦労さん」

 満足げに応じ、バートランドは続けた。

「念のために聞いておくが少尉、先週君以外で『荘厳なる緑マジェスティック・グリーン』に触れた人間はいるかね?」

「触れないまでも、先週末、近くで見た者なら二人……いや一人います」

「誰だ?」

「マックス‐クレア少佐であります」

「少尉、君は嘘をついている」

「は……?」

「彼の他にもう一人いたろ。無資格であそこに立ち入った罪で営倉行きになっている訓練兵が。確か君の担当する班だ」

「嘘をついて申し訳ありません!」

 慌てて背を正したマリノを見上げ、バートランドは口元を大きく歪めて笑った。

「まあいい、君の素晴らしい仕事と部下を庇う誠意に免じて見逃してやる。訓練兵も明日付で教程復帰だ……さて、どんなやつかな」

「そんな……!」

 思わず声を上げたマリノ、我関せずとばかりに個人ファイルを開いたバートランドが、その呟きに軽い驚きを加えた。

「へえー……適性検査飛行参加予定者なのか。でもこの顔、年齢誤魔化していないか?」

 バートランドはぼやいている。ツルギ‐カズマ――白黒の正面写真に写る、少年のような顔に顔を曇らせつつ……



「…………」


 震える手でドアを閉め切るのに、少なからぬ勇気が必要だった。

バートランドのオフィスを辞して教育隊のオフィスへ戻る途上、その不快な一言は容赦なくマリノの脳裏に反芻されて来る。


 ――先週の君の仕事と部下を庇う誠意に免じて見逃してやる。訓練兵も明日付で教程復帰だ。


「チキショォォォォォ……!」

 T‐“レックス”‐バートランドめ、余計なことを!……激発しかける自我を抑え込みつつ、マリノは頭を抱え込んだ。誤算だった。自分の行いが結果的にあの無礼な訓練兵の首を繋げ、あまつさえ自分より一足早いパイロットへのステップを踏ませてしまうことになるとは……!


 あのクソガキの喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。レムリアのスパイではないかという主観に基づく疑念をバートランドにぶつければ、全ては彼女の思う通りに進んだのかもしれないが、明確な証拠が無い上に、バートランドの喜ぶ手前、水を差す様な発言が躊躇われたことが悔やまれた。あの生意気な少年……いや野郎はこのままいけば適性検査もパスし、自分を指し置いてよりウイングマークに近い場所へと近付くことになるのだろうか? そんなこと――


 ――許すものか!……自分でも呆れるほどどす黒い打算が胸中を浸透し始めるのをマリノは覚える。飛行服に身を包み、練習機のコックピットに腰を下ろそうとするツルギ‐カズマの姿――単なる想像の中でのそれは、忌々しいまでに様になっていた。それが悔しくて、マリノは拳をより強く握り締める。


 ツルギ‐カズマ!……あいつが本当にレムリアのスパイならば、どんなにいいことだろう……!





 基地を出る頃には未だ黄昏が未練を注いでいた空は、街に差掛る頃には満点の星空となって地上の不夜城を飾っていた。


 オープンカーは、モック‐アルベジオ基地の幹部用駐車場から繁華街に通じる幹線道路を一時間ばかりヘッドライトの奔流に埋もれ、その目指す場所へと赤い巨体を滑り込ませるようにして走った。そう、赤い丸目のオープンカーだ。俗称「翼の生えたM(ウイングド・マリー)」。こいつの新車を手に入れようと思えば、ラジアネス軍正規士官の基本給では、頭金だけでも優に三カ月分の額は必要になるだろう。



 座席から見上げる繁華街は、さながらネオン灯の杜だ。


 街の意匠には例外なく退廃と淫靡が散りばめられている。ネオン灯の木の下で退廃という名の花が咲き淫靡という名の果実が生い茂る背徳と堕落の森。そこにあって歓楽を貪る人間は、さながら本能のみで生き死にに関わる全てを決める動物も同然か――「地上人(ガリフ)」とはそのようなものかと、男は内心で嘲笑った。


 街路を照らし出すフラゴノウム灯の蒼く淡い光の下、歩道に収まりきらず、車道にまで溢れる程人影は多く、彼らの誰もが着飾り富だの食だの色だの、虚ろな会話に夢中になっている。今となっては見慣れた、週末のモック‐アルベジオ市に有触れた繁栄の光景。それは渋滞の中でハンドルを握り、夜風を受ける身からすれば初めは珍しくもあり、やがては不愉快に感じられた。男個人の感性というより、生来より此処に至るまで男が作り上げて来た「人格」が、このような生活様式を堕落と見做すようになっていた。煌びやかな街中を何度走ったところで、修正の必要を男は感じなかった。

 

 地図の上では繁華街の外れである筈だが、奇妙と思えるほどに活気が生じている一画があった。路肩に居並ぶ高級車の類が異様なまでに目立ち、歩道を占める人間の質が明らかに変わる。より具体的に言えば、服装に掛ける感性が主要路の住人よりも一、二段程増すと言うべきか。繁華街の中でも、そこを堂々と闊歩するのに一定以上の富と社会的地位のバックボーンが必要になる様な場所――高級車の列の最後尾まで車を寄せ、同時に黒服が近付いて来た。


「マックス‐クレア様でいらっしゃいますか?」

 装飾過剰な仮面に顔の半分を隠した黒服に、その銀髪の男は頷いて見せた。スーツ姿にソフト帽という、中心街の勤め人のような出で立ちだったが、他者の眼を惹く精悍さは隠しようも無かったし隠すまでも無かった。


導師(マエストロ)がお待ちです。こちらへ……」

 恭しく一礼し、黒服は車を降りるよう促した。赤いオープンカーとスーツ姿の美男子の組み合わせが、近くにいた淑女らの関心を集めるのも一瞬、黒服の先導に従い、クレアと呼ばれた男は路地の奥を支配する闇に取り込まれるようにして本道から消えた。




 道化――薄暗く、目を灼かない程度に抑制された照明の下で仮面が踊る。


 鋭利な刃物を握る道化の白いタイツが、どす黒い緋に染まる。音程の外れた異郷の音楽を背景に、狂おしい程の舞踏が、舞台の中心に吊るされた山羊や豚、牛を切り刻みつつ続いている。決して広いとは言えない舞台が飛び散った血や臓物、そして肉片に汚され、舞台袖にあって舞踏を眺めるマックス‐クレア少佐には、その一連の流れは彼がかつて経験した戦場の光景を連想させた。恍惚として舞台に見入る観客から見えない位置、特等席のテーブルに凭れつつブランデーを舐める内、雑念が霧散し過去のみが彼の精神の彼岸には残るのみとなっていく――地上の戦いでは無く、空の戦いの記憶――


「――謝血祭(ブロンデ)といったかな……古エルグリムの儀式に触発されたのですよ」

「…………」

 タキシードを着た仮面が、了解も得ずにクレアの対面に座る。細身の男。鼻から上を覆う宝石を(ちりば)めた仮面の下、首に至るまで真白く化粧した細い顎とちょび髭が歪み気味に笑っていた。さも当然といった風に自分の近くに腰を下した「地上人」を、クレア少佐は汚物でも睨む様な眼で睨む。だがそれは一瞬で、しかも当人にはそうと気付かれることはなかった。

「エルグリム?……何だったっけ?」

「あなた方に先駆け、いち早く地上の物質文明に叛旗を翻した人々だよ。同志よ」

「君たちにも、野蛮なる地上文明とその忌むべき所産に抗う気骨が在ったと言いたげだな」


 タキシードの男は笑いつつ頷いた。それを見遣るクレアの眼差しが険しいのに気付き、慌ててにやけ顔を素面に引き戻したのがクレアには判った。男が地上より遥かな高みに生を享けたクレアを、地上生まれの自分と同等に見ていること、それ故の馴れ馴れしい素振りが、マックス‐クレアには無性に我慢がならなかった。降り立った地上で、初めて顔を合わせたときからやつはこれだ。地上人には地上人としての分がある。家畜が自分のことを人間だと思うのは家畜の勝手だが、どう繕ったところで人間に輪の中に入ることなど――食卓に上るとき以外に―― 一生出来はしないのに。


「言伝だよ。同胞よ」と仮面の男、リッチー‐スヴェージは紙片をテーブルに乗せた。気色悪い仮面と化粧に顔面を覆われてはいても、狼狽の色は隠し切れてはいなかった。思えばこの密会を思わせる仰々しい情報伝達の手段もクレアには気に入らない。わざわざこのような悪趣味な舞台に呼び出さなくとも、単に郊外の公園での時間にしてわずか五秒程度の受け渡しで済む筈ではないか……紙片を引き寄せ、蝋で密封された口を破りパンチカードを取り出す。


解読()もうとはしていないだろうな?」

「…………!?」

 ドスの利いたクレアの声は、スヴェージをして心胆を握り潰されるに足る重さを有していた。協力者の更なる狼狽に舌打ちし、クレアはポケットからペーパーバックを取り出す。開いたページの、特定の行にパンチカードを充て、穴が開いた箇所を読めば、「母船」の指示するところは大凡掴むことができるというわけであった。表情を消し、解読に傾注しているクレアに、スヴェージはまるで腫れものにでも触れる様に呼び掛ける。

「この場で確認しておきたいのだが……」

「何だ?」

「今度の作戦が成功すれば、私は間違いなくレムリアに――」

 開かれたままのペーパーバックが、ぽんっと音を立てて閉じた。

「――勿論だ。マエストロ‐スヴェージ。君は母なるレムリアに貢献した者として、天に住まう権利を与えられるだろう」

「…………」

「ただし、貢献の程を認めるのは私では無い。私より高みにある方々だ。精々励むべきだろうな。ところで……」

「…………!」

「武器と人間の集積は進んでいるか?」

 スヴェージの表情から狼狽が完全に消え、次には余裕を示す笑顔が浮かんでいた。

「それは問題ない。一声掛けてくれれば何時でも行動は起こせる。無能なラジアネス人相手に一戦交えられるぐらいはな」

「成程……ではまた……」

 刃身を思わせる微笑――それ以上は何も言わず、クレアは慌しく腰を上げる。背後から呼び止める未練がましい呻きを聞く時間を、彼は与えなかった。

 

 制止を無視するようにして路地に出てもなお、主要路にまだ人間が溢れていた。本道から追われた舞台芸術の天才だの、前衛芸術の巨人だか何だかは知らないが、つまるところはスヴェージも地上の住人だ。地上の退廃と汚濁に骨の髄までどっぷりと漬かった、択ばれしレムリアの民とは相容れざる地上の大多数のひとり――



「――地上人(ガリフ)は、皆ああなのか」

 濁り切った繁華街、その遥か彼方に広がる天界に問い掛ける様にクレアは呟いた。当然答えなど返ってくるはずも無く、そんなものなど、クレアは初めから期待してはいなかった。




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