終章 「初めてのキス 正しい居場所 前編」
後年、「レンヴィル空域会戦」と呼称されることになった航天暦1667年中期の戦いは、後年の純粋な軍事史上の研究対象としては、戦略的には何ら意味のない、突発的な遭遇戦の一端として語られることの多い種類のものとなったが、実のところ戦闘の当事者たちにとっては、これを以降の戦況の展開において、少なからぬ影響を与えるに至った戦いと捉えた向きも決して少なくはなかった。
特にレムリア軍――彼らの最重要目標たる「ハンティントン」を、停泊地より引き摺り出すことまでには成功したものの、その後の攻撃に徹底さと精彩を欠いた点は重大な反省材料とされるべきであったかもしれない。だがセルベラ-ティルト-ブルガスカを始め現場指揮官たちの等しく共有するところとなったその認識が、後方の、より上級の総司令部にかかれば、それが「取るに足りない遭遇戦」以上にも以下にも見えなかった以上、戦訓の分析などしようもなく、むしろセルベラが殆ど独断で虎の子たる空母と機動部隊を動かし、ラジアネス軍の前に少なからぬ損害を蒙ったことこそ、指揮系統の壟断という点から、彼らにとって問題とされるに至ったのであった。
前線の独断専行が問題視された一方で、喩え陽動の一環として為されたとはいえ、レンヴィル周辺空域における通商破壊作戦が、この戦闘を以て頓挫したかたちとなったのは、レムリア軍指導部にとって、指揮統制の問題以上に大きな衝撃を与えることとなった。何故なら今次の戦闘は、レムリア軍にとって対ラジアネス戦を戦う上で有効な方針と看做されてきた通商破壊戦略が、その開戦以来初めて挫折したケースとなったためであり、その面ではやはり、レムリア側にこの戦いが与えた影響は決して少なくは無かったのである。
一方、ラジアネス軍――彼らは過去のリューディーランド方面での戦闘で、一時レムリア軍の進撃を押し止めることに成功したものの、敵には依然として強力な戦力が存在し、絶えず新たなる攻勢を企図しているであろうという戦闘前からの彼らの認識は、このレンヴィル方面での戦闘を以ていよいよ明確となった。だがラジアネス軍の上層部に、レムリア軍の意図するところが占領地域の拡大よりもむしろ、此方の艦隊兵力を彼らが設定した「決戦空域」に絶えず陽動し、包囲撃滅することにあるという点に思い当たった者は、ヴァルシクール中将等の一部の例外を除き多くは無かったのである。
それでも新たなる敵の侵攻への対処――その鍵が一年以上の時間を耐え抜いた末に、ごく近い未来に迫った、後方での再編と練成訓練成った新戦力の投入にあることが、ラジアネス側の当事者たちにとってほぼ共有の認識となりつつあった。
言い換えれば、新たなる戦力の誕生と参入――それはまた、ラジアネスという強大な工業機械が、戦争に勝利するために必要なあらゆるものを、それこそ前線が望むだけ送り出せる段階に入ったという何よりの証であり、その時こそ、今次戦役の帰趨を決するべき時期であることを、今次の戦役を以て、ラジアネスの指導者たちは一層確信するに至ったのである。
――再び、場所は廻る。
――そこは、前線基地タナト。
――永遠とも思える暗黒の只中で、戦場から還った少女はただ項垂れて立ち尽くしていた。
「――ここに立っている理由は、わかるな。リエターノ少佐?」
凭れ掛けさせた長身に軋む椅子――さらに重厚な机にその形のいい脚を立て掛けたまま、少女をこの場に呼び出した主は軍帽ごしにその鷹のような眼差しを注いでいた。今次の「レンヴィル攻撃作戦」に於いて主導的役割を果たした作戦参謀、セルベラ-ティルト-ブルガスカ大佐にとって、前方の敵と同様、自らと同じ側にあって統制を乱す者もまた、排除と攻撃の対象であったのだ。
「……」
机を挟んで距離を置き、反論すら出来ずに立ち尽くすエルディナ-リステール-リエターノにとって、反論の機会はもはや失われていたし、その意思も彼女には無かった。初戦における命令無視、それに続く無断での出撃は、一般の将兵ならばここに立つ機会すら与えられず、最悪その人生はおろか生命の危機すら、覚悟しなければならないものであったに違いない。彼女は、その軍人として栄達の機会を今まさに奪われようとしているこの瞬間においても、まだ恵まれていた。
「わたしは……」
「……もはや弁解の時期は過ぎている。そうは思わないか少佐?」
言いかけた少女を、大人の冷たい声が遮った。セルベラの傍らに立つ基地司令。本国のお墨付きを得た以上、もはや当初のような卑屈なまでの慇懃さなど、示すまでも無いといった風であった。そして当の少女からもまた、彼の非礼に抗うような気概は、すでに失われている。
「……」
「貴公には、此処ではなく然るべき場所で責任を問われることとなるだろう。今すぐに本国へ向かう輸送艦に便乗し、しかる後に査問の準備をせよ。心の準備もしておくことだ」
「……」
ぎこちない動きで、エルディナは頷いた。もはやそうするしかない途が無いことを、少女は知っていた。
覚悟――
唇を噛締め、紅潮する頬――
心なしか、震える足元――
「感心しないな。年下の女の子を虐めるとは」
「……」
「――――!」
何時の間にか部屋の隅に腕を組んで寄りかかっていた人影が、それまで気配を消していたことに気付いていたのは、三人の中で唯一腰を下ろしていた一人だけであった。この場にとって招かれざる侵入者―――――タイン-ドレッドソンにその冷たい視線を向けることもせず、セルベラは呆れた様な口調で言った。
「今回の件は貴公にも責任はある。なにせ彼女の監督を怠ったのだからな」
「へえ、上の都合で勝手にそいつとくっ付けられたり引き離されたりしても、全責任は俺にあるとあんた方は言うのか?」
「言っているのは本官ではない。別の連中が、だ」
「外野には、言いたいだけ言わせておけばいいさ。それに――」
「……?」
「そいつはもう、書類上じゃ生きている人間じゃない。当分の間はな」
「何?」
狼狽を隠さない基地司令、それとは対照的に、セルベラはその冷たい眼差しをただ無感動に言葉の主に向ける――問いかけるように。
「……?」無言をタインに向け、セルベラは説明を促した。
「戦闘指揮官の権限で、戦闘中行方不明扱にしてある。捜索中の人間を査問に掛けられんことは勿論のこと、此処から追い出すわけにもいかんわなぁ」
「『帰還』したらその後はどうするのだ?」と、セルベラが聞いた。
「タナトの軍病院で長期療養中ってことにしよう。絶対安静に付き身体の移送は不可とでも診断書に書いておけばいい」
「貴様ふざけているのかっ!」
怒鳴った基地司令が目を剥いてタインを睨もうとして失敗した。横目がちながら、タインの眼光は彼のそれを瞬発的な迫力において、多分に上回っている。眼光に射竦められては、肉食獣の前の小動物の様に動けない。
「……ということだ参謀殿に基地司令殿。お嬢ちゃんは暫くの間祖国へは帰れない……というより自分の身の心配をした方がいいんじゃないか?」
「……」
セルベラの沈黙――司令部の裁可を仰ぐことなく独断で空母を動かし、同じく独断で行った敵艦隊根拠地への攻撃――確かにそれは、少女が為したそれよりも軽率で、重い責任を問われるべき過失であるのかもしれなかった。微かな笑みで口元を歪め、タインはエルディナに先に部屋を出るよう促した。戸惑う少女に、タインは眦でさらに退室を勧め、そして少女は従った。その笑んだ眼差しで、タインはセルベラに無言の内に別れを告げた。
そのとき――
エルディナに続いて部屋を出ようとしたタインを、硬質な美声が呼び止める――
「タイン――何故、こんな事をした?」
「お嬢ちゃんには生き残る力がある。そういう奴は此処では一人でも多く欲しい。それだけでいいじゃないか」
セルベラを顧みない。その背中でタインは言った。
それはあたかも、別れの沈黙の中に、振り向くのを期待したかのようなかつての恋人の想いを振り切るかのように――
「――!」
詰問の場所から出、漸くで自由を取り戻したかのような空気を感じた瞬間、自らを待つ何者かを前に見出したエルディナの瞳は完全に生気を取り戻し、息を切らせ駆け寄ってきた彼女の愛犬を、膝を屈して抱締める。
「ワーグネル!」
彼女と共に出撃した結果として、折れた片耳と胴に巻いた包帯が痛々しかったが、犬はそれでも少女の胸に飛び込むや、飽きないかのように少女の頬と言わず鼻筋と言わずにその長い舌で舐め始める。それを少女は、顔を逸らしながらも満面の笑みと止め処ない涙でそれを受け容れるのだった。
「いい相棒じゃないか。そいつに感謝するんだな」
「じゃあ――!」
驚愕に顔を上げてタインを見、エルディナは悟った。少女にとっての救いの主を此処まで導いたのが、この相棒であったことに――次に、泉の湧く様に生じたエルディナの満面の笑みを、確かめるように凝視して鼻で笑い、やがてタインは踵を返し外へと歩き出す――
「あなたは――」
エルディナがそこまで言ったところで、タインの足は止まり、代わりに言葉が返ってきた。
「あのとき、何故、死のうとした?」
応じようとしてエルディナは失敗し、そして戸惑った末に、少女の戸惑う唇は弁解を紡ぎ出す――
「酸素供給機に被弾して、失神したの……ただそれだけ」
「嘘をつけ」
はっきりと変わる口調、いきなりに叩き付けられたその厳しさにエルディナは一瞬我を失う――
「――――!?」
「あの時はっきりと俺の顔を見ただろう? 俺だってヤバかったんだ。今度やったら許さん。そんなに死にたいなら――」
「――――?」
「――此処じゃなくたって、戦争が終わったってできるだろうに」
「……」
呆然とした少女と、歩くタインの距離が開く。
やがてまた、その足は止まった。
「……糞溜めのような場所だが、そんなに此処に居たいなら、好きなだけ居ればいいさ」
「――――!」
タインはまた歩き出した。
その歩みがもはや止まることの無いものであるのを少女が感じた瞬間――
歓喜――
それが催す、一筋の熱い落涙――
「……」
この人に、付いて行けるだけ、付いて行こう――少女は立ち上がって涙を拭い、そして男の背中を愛犬と共に駆け足で追う。
レンヴィル――
――その日は、抜けるような晴天の蒼さが、眩いばかりに天球を覆っていた。
――その日は、眩いばかりの陽光が、天空の最果てに浮かぶ島々に刺す様な日差しを注いでいた。
あれから三日後、それ以前には我が庭の如くに島々の周辺の空々を徘徊し、足を踏み入れるものに牙を剥いてきた襲撃者たちはその影すら消え失せ、天空高くをその生業の場とする渡り鳥たちすら、闊達なまでにその影を島々の間で舞わせている。それは見る者によっては、これからの自分たちの旅路に心からの祝福を送っているようにすら見えるのかもしれなかった。
過日の空襲の被害は微々たるものであった。敵はその打撃力の中核たる攻撃機の投入が出来なかったばかりに、その攻勢に徹底さを欠くに至ったのである。だがそれはむしろ、攻勢の目標が、基地そのものではなくそこを仮の棲家としていた空母にあり、攻撃隊の任務が本格的な攻撃ではなく空母をその葬るに適した空域へと「燻り出す」ことにあった事を雄弁なまでに示す、何よりの根拠でもあった。
――結局、レンヴィルは守られ、「ハンティントン」もまたその指揮官の機転により救われた形となった。
戦闘から一週間後、「ハンティ」では人事面で幾つかの大きな変化があった。
「ハンティントン」艦長職に留まりながらも、アベル-F-ラム中佐は大佐に昇進した。時期的に昇進が間近であったこともあったが、未だ「建造途上」の空母を指揮し、ここまで引張ってきたというこれまでの戦歴を鑑みた上での、これは一種の「優待」と言ってもよかった。何よりも直属の上司たるヴァルシクール中将の口添えがあったことも、司令部の関心を彼に向けさせる形となったのだった。
そしてもう一人――今回の作戦で攻撃隊を率い、戦果を上げたカレル-T-“レックス”‐バートランド少佐もまた中佐に昇進すると同時に、新設の第201空母航空団司令に着任、同時にその傘下に咥えられた第187戦闘飛行隊指揮官には、同じく少佐に昇進したジャック-“ラムジー”‐キニー大尉が当たることとなった。
同じく航空団の新編に伴い、かつて空母「クロイツェル-ガダラ」所属で、今日まで暫定的に「ハンティントン」所属となっていたフィル-W-“フィル”‐フィルバースト少佐指揮下の第184飛行隊も、新たに201航空団傘下に加えられ、バートランドは気心の知れた仲間とその指揮下にある歴戦の搭乗員を、ごく自然な成り行きの内にその指揮下に得ることが出来たのである。
歴戦の搭乗員――そう、彼らの何れもが機体の特性に習熟し、性能に勝るレムリア軍戦闘機のそれをも悉く知り尽くした結果、戦術と技量で機体性能の劣勢を補う術を学ぶに至ろうとしていた。度重なる戦闘と犠牲とを経た末、彼らはもはや初戦のようにひ弱で、かつ臆病な新人ではなくなっていた。それこそが、以降の戦闘を潜り抜ける上での新たなる希望となりつつある。
一方で空母航空団司令――通称CAG。その名誉ある称号は、バートランドが実質的に空母機動部隊の長い槍の部分を掌る立場に立ったことを示していた。飛行隊の戦闘そのものだけではなく、その運用と人事に至る全てが、彼の胸先三寸で決まることとなったわけである。その点だけ取っても、近い将来のバートランドに、安寧など待っていよう筈も無かったし、何よりも彼自身、そのような温い待遇を艦隊に於いて望んでいたわけではなかった。
「――やれやれ、カレルにもとうとう先を越されちまったか」
と、ブフトル-カラレス「ハンティントン」軍医長は、定期診断と雑談を兼ねて医務室を訪れたバートランドに、そうぼやいて見せたものだ。最終学歴が医大ながらも士官学校中退の前歴もある軍医長は、艦である意味最も気楽な地位にありながらもそれでもなお、かつての士官学校の同期生に対し、軍歴に未練があるような素振りをして見せた。
「お前、ワザとらしいんだよ」
と、バートランドは苦笑を隠さない。
「ハイハイ……祝ってやるよ。ホラッ!」
と、カラレス軍医長は琥珀色の液体を満たしたボトルをどんっとテーブルの上に置いた。ウイスキーボトルには、油性ペンで目盛りが振ってある。区切られた量だけでは、二人が心から酔うには決して十分とは言えなかった。アルコールが禁止されたラジアネス艦では、定期的な「補充」は難しい。
「この位置までだ。それ以上飲むと今日の飛行は許可できん」
「二日酔いでも、飛ぶことが愉しかった若い頃が懐かしいねえ。でも今は――」
「……?」
「――そんな体力も根性もないな」
自らの手でで二人分、グラスにウイスキーを満たしながら、カラレスは言った。
「なあカレル……俺は思うんだが、人間てやつぁ年齢を取るに連れて失うものもあれば、それだけ得るものもある。お前さんは、二つのバランスを十分に取れていると俺は思うが……」
「失ったものが、親友だけならおれの人生にはまだ救いがあったんだけどな……」
「どういうことだ?」
「……実は、ロザリーに離婚しようって言われた。」
「何?」
「昨日……手紙を貰ったんだ。ご丁寧にも離婚届まで同封してきやがった」
カラレスは笑った。闊達だが、苦々しい、溜めていた息を吐くよう様な笑いだった。
「ほう……この艦はまるで独身者専用寮だな。まともな家庭生活を営んでいる奴なんて、殆どいなくなっちまった。男として真っ当に生きてるのは副長ほかごく僅かな連中だけだ」
「慰めにもならんよ」
嘆息――カラレスはおもむろに油性ペンを取り出し、ボトルに新たな目盛りを刻む。目盛りの位置は先刻のそれよりだいぶ下がり、ボトルの底辺に限りなく近い位置となった。
「よし!……じゃあ、今日はこの位置までだ。フライトなんて航空団指揮官の権限でどうにでもなるんだろう?」
「友に持つべきものは、やっぱり酒が飲める医者だな。よく判ったよ」
「――だろうが?」
彫りの深い顔立ち、無精髭の間から黄ばんだ歯を見せて、軍医長は笑った。親友を悼む男の笑みであり、親友を労う男の笑みだった。注がれたコップの、琥珀色の輝きを放つウイスキーの表面を見詰め、そしてバートランドは天井越しに蒼空を仰ぐ。
「絶好の……飛行日和なんだがな……まあ、いいか」
そして――掲げるグラス。
「過ぎ行きし甘美なる日々に――」
「今は亡い親友に――」
男たちの笑みは、明日への希望の一方で、おそらくはどうにもならない現在に対する諦観を湛えていた。
『――編隊は1000に第一飛行場を離陸、以後北西に針路を取る。母艦との会合ポイント予定到達時刻は1035。天候は快晴。但し南東方向に強風の予報あり。針路維持及び着艦時の姿勢修正に留意するように。では解散!――』
ジャック-“ラムジー”‐キニー少佐のブリーフィングは、すでに板に付いたものとなっていた。バートランドが飛行隊の後継者に彼を択んだのは、彼が長年バートランドの列機だけではなく、その間編隊長として水準以上の技量と判断力を磨いてきた結果によるものであることを、ブリーフィングに参加していた全ての飛行士は知っている。従って、リーダーが変わったことによる多少の齟齬など、この場の面々にとって必ずしも瑕疵となってはいなかった。
「……」
解散間際、キニーは雛壇の一隅を見遣る。彼の柔らかな視線の先で、それに気付かないツルギ-カズマは微笑を浮かべつつチャートにペンを走らせ続けていた。
飛行隊の再編に伴い、カズマには嬉しいことがあった。バクルが正式に第187飛行隊に配属され、そしてカズマの列機となったのだ。
「これで気兼ねなくいっしょに飛べるな」
と言うバクルに、カズマは微笑で応じて見せた。つられて笑うバクルの肩には、新品の、中尉の階級章が鈍い光を湛えている。
「バクルがいてくれてよかった。でないと……ここまで生きてはいられなかった」
「オイオイ……オーバーな言い方だな」
と応じつつ、バクルは胸中でカズマに礼を言っていた――こちらの方こそ、ありがとう……と。
ブリーフィングの解散に接し、バクルと連れたって飛行場に出る道すがら、前方から行き会う人影に、二人の足は止まった。先日の飛行服から一転し略装姿の均整の取れた体躯の女性士官は、敬礼する二人の人影をその鳶色の瞳に捉えるや、立ち止まり答礼する。
「二人とも、先日は有難う」
「……」
何も応えられず、二人はリン‐レベック‐“サイファ”‐ランバーン少佐に対する敬礼を解いた。彼女は先週の戦闘で上官たるハワード中佐と同僚の悉くを失った。局地的な戦闘の勝利の一方で、強力な敵の前に記録的な敗北を喫した戦闘航法学校の再編と、研究機関としてのこれからの任務の困難さは、その内実を知らないカズマとバクルでも、容易に察することができた。
「少佐は、これからどうするのですか?」
と問われ、リン-レベック-ランバーン少佐は二人から視線を逸らすようにした。恐らくは同僚と自らに降り掛かったこれまでに対する整理の未だ付かないことへの戸惑いが、一戦で上官と同僚を失った彼女にそれをさせた。
「……研究は、一からやり直しね。でも仕方が無いわ。力の無い者が敗ける……それが空戦ですもの」
そして女性士官の瞳は、二人の内背の低い一人に凝らされ、そして女性士官は言葉を紡ぎ出す。
「ツルギ君、仲間の敵を取ってくれて有難う。改めて、礼を言うわ」
「自分は……」
そこまで言いかけて、カズマの口は止まった。自分を凝視するリン-レベックの眼差しに、何かを切り出そうとする真剣さを見出して――
「ツルギ君、私とノースミラマーに来ない?」
「……」
はっとして、バクルはカズマを見返した。ラジアネス本土に属するノースミラマーは、艦隊の主要な根拠地の一つにして、戦闘航法学校の本部が置かれている。リン-レベックの言葉が、いかなる意味を持つのかバクルにも、そしてカズマ自身にもはっきりと判った。
呆然とするカズマを硬い光を湛える眼差しで捉えつつ、リン‐レベックは続けた。
「あなたの技量が必要なの。これまでのレムリア軍との戦闘で培ってきたあなたのやり方を、FASに広めて欲しい……勿論、わたしだって協力は惜しまないつもりよ。ノースミラマーで、私と一緒に仕事をしない? あなたとなら、きっと上手くいく」
語を継ぐうち、何時しかリン-レベックの眼差しには、懇願するような熱っぽさすら宿っていた。その熱い瞳から逃れようとするかのような沈黙――やがてカズマは頭を上げ、リン-レベックを見詰めながら言った。
「少佐は、何か勘違いをなされておられます」
「……?」
「少佐は飛行機同士の戦いというものに理論を求めていらっしゃいます。少佐の考えを否定するわけではありませんが、自分には理論とかそのようなものはわかりません。自分はただ、空中戦と言うものを一種の勝負と捉えています。空戦は勝って生き残りたい者同士の、肉体的、そして精神的な激突の場であって、自分はそれに勝ち抜くには自分は飛行機を文字通り、自分の身体のように動かせることこそ肝要と考えた上で、そのための訓練と研鑽を重ねてきました。そこに技術とかそういう小難しいものはありません。自分はただ……今まで動物のような直感だけで飛行機を操縦し、敵と戦ってきたようなものです。自分にとって戦闘機は身体の一部であって、単なる乗り物ではありません。そんな自分の考えの何処に、技術とか理論とかが加わる余地があるでしょうか? 何故そんな飛び方が出来るのか、何故そんな戦い方ができるのか……そう聞かれて明確に答えることの出来る程、自分は頭は良くないし、理論を知っているわけではないのです……ですから、自分は少佐の助けにはなりません」
「……」
リン-レベックは押し黙った。だがそこには先刻のような切実さは露ほども残ってはいなかった。むしろカズマの言葉から何かを得たようにリン-レベックの表情は安寧さを取り戻し、その口元には晴れやかな微笑すら浮かんでいた。
「あなたは……似てるのね。バートランド中佐に」
「自分が?」
「そう……その考え方、昔のあの人にそっくり。あの人があなたを手放そうとしない理由がよく判ったわ」
「……」
カズマとバクルを交互に見、その眼差しを細め、リン-レベックは言った。
「戦いはこれからますます烈しくなる……でも、あなた達は絶対に生きて還るのよ。大丈夫、此処まで戦い抜いて来たんですもの。きっとこれからも上手くいくわよ。きっとね……」
「はい……!」
二人の顔に、強い了解の意志が浮かぶのを見届けたかのように、リン-レベックは笑った。
「私もきっと戻ってくる。どんな敵機にも勝てる戦術を作り上げて……必ず此処に戻ってくる。だから死んではだめよ。どんなに辛い状況でも、生きて飛び続ければ、必ず生還のチャンスは巡ってくる。それだけは忘れてはダメ」
「お待ちしています」
カズマとバクルは笑った。それに釣られるように、リン-レベックも笑顔を頷かせる。そしてカズマはリン-レベックの笑顔の中に、彼女が戦闘機乗りとして精神的に成長しつつあることを見出し、それに自分も続くことを心に決めるのだった。
――基地司令部を出た瞬間、渡り鳥の影がアスファルトの灼熱を横切り、そして再び冷たい空の蒼へと舞い上がっていく。
二人が滑走路に出たときには、発進予定時刻はすでに五分前にまで迫っていた。
連絡用の地上車両の荷台に煽られ、それが戦闘機の列線の手前で急停止するや、航空図と装具を詰め込んだ手提げ袋を手に、二人は息急き切ってアスファルトの上を駆けた。向かう先に延びる戦闘機の列線では、すでに戦闘機の始動が始まっていて、編隊指揮官たるキニー少佐のジーファイターに至っては、とっくに滑走路へと続く誘導路を、ゆっくりと走り始めていた。
愛機の足下に滑り込むようにして駆け込んできたカズマを、先着していたマリノの一喝が襲う。
「カズマ、遅い!」
「――――!?」
怒鳴りつけた途端、マリノはカズマの服装にあるものを認め、大きくその茶色の瞳を見開くようにした。唖然としてこちらを見詰めるマリノの様子に気付き、カズマもまた眼を巡らせ、自身の身体を確かめるようにする。
「!?」
「どうした?」
カズマに歩み寄るや、マリノは信じられない、といった顔つきもそのままにカズマの首元を飾る十字状の徽章に触れた。
「あんた、このぶら下げてるモノは何よ?」
「ああ、これ? これは――」
「――艦隊殊勲章……!」
自分で言った途端、マリノは瞳を震わせ、そして声すら震わせて続けた。
「どうしてあんたがそんなモンぶら提げてんのよ? 受勲なら取り消された筈じゃあ……」
「エへへへへ……」
照れくさそうにカズマは笑った。先日での防空戦闘における活躍と、敵の有力な撃墜王を倒したことで、カズマの評価はむしろ上がっていた。新しい英雄の出現はむしろ、軍に彼のそれまでの「素行不良」を、若さに任せた瑣末なものと看做させ、前線からの叙勲と昇進の打診を迷うことなく容認させたのだった。そして昇進に至っては、それも異例の――
カズマ機に隣接するバクル機、後から乗機の傍らにやってきたバクルが、落下傘を主翼の上に放りがてらにおどけた様な口調で言った。
「さあ、訓練に行きましょうか。ツルギ-カズマ中尉どの」
「中尉――!?」
慌てたように、マリノはカズマの肩を抑えるようにした。はたして、彼女が眼鏡越しに凝らした茶色の瞳の先、艦隊中尉の階級章が、陽光を受けキラキラと金色の輝きを放っている。
「ハアァァァァァァァァ!!?」
腰を抜かさんばかりに愕然とするマリノに、ワザとらしく勝ち誇ったような眼差しを向けながら、カズマはこれまたワザとらしく、もったいぶったような口調で言った。
「ところで機体の調子はどうかね。マリノ少尉? ちゃんと仕事をしなきゃあダメじゃないか」
「クッ……!」
思わず拳を振り上げたマリノを指差し、カズマは言った。
「あ、上官を殴っていいのか? おれは中尉だぞ」
改めて突きつけられた力関係の逆転、それに拳の下ろし先を見失ったかのように動きを止めたマリノに、カズマは頬を示しさらに嘲弄する。
「殴りたいなら殴れよ。ホラホラ」
「コノォ……!」
憤怒の表情をそのままに、渋々拳を下ろしたマリノに対する、カズマの更なる挑発――
「よーし、わかればいいんだマリノ少尉。ところで――」
「む?」
「ちょっとした気晴らしに、乳を揉んでもいいかね?」
「な!?」
グニュッ――マリノが絶句するより早く、カズマの両手はマリノの豊満なバストに延び、その手はとっくに両の胸を鷲掴みにしている。
「――――!」
ポカッ……!
「あちゃー……」
一瞬の出来事に、二人の遣り取りを微笑ましく見守っていたバクルですら言葉を失った。吹っ切れたかのような拳骨の一閃――それはカズマの脳天を直撃し、カズマは頭を抱えてその場に蹲る。
「……!?」
「チョーシに乗んな! このスケベ!」
胸を庇う様に片手で押さえ、もう片方の拳を振るわせつつ叫ぶマリノの頬には、明らかに朱色が宿っていた。
「アーックヤしいィ――ッ!! どーしてあたしがこんな三下より階級が下なのよ! 艦隊の人事部は何やってんの!」
頭を抱え込むマリノを他所に、装具を着込んだカズマは、馴れた足取りもそのままに操縦席に腰を下ろした。座席に手を掛ける間際、目にした撃墜マークはすでに30機近くの大台に達しようとしていた。それを見てカズマは思う、自分が戦場で斃れる頃には、マークの数は果たしてどれくらいになっているのだろうか……と。
そのとき、カズマの脳裏に思い出されるあの紅い機影――
発進も近くなったとき、気を取り直したかのように、マリノは操縦席の傍まで上がり、肩ベルトを付けるのを手伝ってくれた。さすがに不機嫌さは隠し切れないのか、カズマと目を合わそうとすらしないマリノに、カズマは躊躇いがちに呼び掛ける。
「マリノ……」
「何よ?」
「おれ、すごいやつに会ったんだ」
「すごいやつ?」
「すごく操縦が巧くて、そしてすごく……すごく何と言うか……すごく強いレムリアのパイロットに……」
「……で、撃墜したの?」
「できなかった……」
「じゃあ、また機会は巡ってくるんじゃないの?」
淡々と口調を刻むマリノの目は、結わえ付ける途中の肩バンドに向いたままだ。まるでカズマの言葉に関心を示さないかのような態度を取り続けている。
「ああ……でも今度そいつに会ったら死ぬのはおれかもしれない。それぐらい……すごいやつなんだ」
「……?」
肩バンドを締める手が、止まった。
「だから……今のままじゃダメだ。もっと修行しないと、あいつには――」
「――らしくないよ。カズマ」
「え……?」
「戦う前から弱音なんて、あんたらしくない。それにさ――」
「……?」
「――そのレムリアのパイロットと戦うのは、あんた一人じゃないんだよ?」
「マリノ……」
「ハンティのみんな、バートランド隊長、キニー隊長、バクルっていうあのレムリアンもそう……それに……あたしだってついてるし……」
「あたし」という単語に篭る、一際重い響き――
「……」
「だからさカズマ、そんなに重く考えることはないよ。気楽に行きなよ……それに、今まで思ってたけどさ……」
「……?」
「……こう言っちゃ変だけど、あんた、もう少し威張った方がいいよ。中尉になったことだし、それに誰憚ることのない撃墜王なんだから、それらしい態度取った方がいいかなぁ……なんてあたしは思う……よ」
途端に、マリノの口調に宿るぎこちなさ――それが初恋の人を前にした乙女のようなそれであることに、発言し、唇を嚙んだ当人も、言葉を聞いた当人もまた気付かない。そして気付かないまま刻は過ぎ、カズマは観念したように言う。
「いいんだよ。これで……」
「え……?」
「威張ったり、敵機を撃墜すこと以上に、おれには仲間を亡くさないことの方が大切だからさ……」
「カズマ……」
言葉を失うマリノの眼前で、カズマは空を仰いだ。
期せずして沸く感慨――この世界にも、とてつもなく強い戦闘機乗りがいる。
『タイン-ドレッドソン……』
おまえは今、何をしている?――
おまえは今、何を考えている?――
心の中で、男の名を呟きながら、カズマは蒼穹へ向かい、一層に眼差しを細める――
そのとき――
太陽と雲々を背に、カズマの眼差しの先を横切る影が一つ――
その羽ばたく影から舞い落ちる――
羽が、一つ、二つ……三つ――
「へぇ……渡り鳥――」
と、同じく空を見上げていたマリノが言った。零れ落ちた羽毛は、風に乗って空を滑り落ちるように、カズマの許へと向かっていく――
そして羽の軌道をそのまま目で追う内――
それが舞い落ちるジーファイターの先に――
「あ……」
思わず見開かれる、カズマの眼差し――
真白いワンピース姿の少女を、見忘れよう筈が無かった。
「フラウ……!」
――空は、一行の帰りを惜しむのようにその天球に蒼い帳を拡げているかのように思われた。
「あいつ……すごいやつだったんだなぁ」
ターミナルから滑走路を挟んだ向かい側に居並ぶ戦闘機の連なりを見遣り、ルイ‐コステロは言い、傍らのフラウへと視線を移した。その彼の眼差しの先で、少女はただ蝋人形のような無表情もそのままに戦闘機の列線へと瞳を細めていた。
「フラウ……」
人生経験の豊富なはずの大の男が、彼が手塩にかけたアイドルもまた、一人の女であるということを、改めて痛感した瞬間――思えばあの空襲のとき、フラウをコンサート会場から連れ出したという「撃墜王」に掴みかかったのは、その事実を認めたくなかったが故の「親心」の為せる業だったのかもしれなかった。ルイ‐コステロは少女が芸能の世界に飛び込んできて以来ずっと、少女の父親を演じてきたつもりであったが、このときになって初めて、娘を持つ父親の心情がわかったような気がした。
毛むくじゃらの太い手がそっと、後ろ手に少女の華奢な肩に伸び、そして抱く。
「……あいつとは、また逢えるさ」
「……」
「……でも、これだけは覚えておいていてほしい。おまえはスターなんだ。お前のことを愛している男はおれも含めてそれこそこの世界にたくさんいる。そういう人たちを失望させるようなことをしてはいけない。あのパイロットがどんなに素晴らしい人間でも、あいつだけを、特別扱いするわけにはいかないんだよ。たとえあいつに、どんなに恋心を抱いていても……な」
『わかってくれ……』と言いたげに、肩を抱く手に力が籠るのを、フラウは感じた。
判っている……判っているつもりだけど――
「みんな、搭乗許可が下りたわよ!」
シンシア‐ラプカが人数分の許可証を手に、待合室に戻ってきた。ようやく戦場を脱せられるという、嬉々とした表情は隠しようもない。喜色もそのままにコステロやスタッフに許可証を配り、最後にフラウのみが残される段になったとき、シンシアは言った。
「あなたの分は、私が持っておくわね」
「シンシア、持たせてやれ」
と、コステロは言った。怪訝な表情を隠さないシンシアに、彼は言った。
「この子はもう大人だ。自分の意思を行使できる機会を少しは与えてやった方がいい」
「は……?」
シンシアは唖然としてコステロを見詰めた。彼女がフラウのマネージャーになってからこの方、そんな事など一秒たりとも考えたことのない、それは何よりの証だった。そしてコステロの言葉を無視するかのようにシンシアが許可証を自分のポケットに入れたのは、彼女がこれからもそれを考えることのないであろうことを明らかに暗示しているようにコステロには思われた。
あいつはもう、フラウには必要ないのかもしれない――そんなことすら、一抹の寂しさの内にコステロは考えた。
ターミナルの係官が、搭乗準備の済んだことを告げた。一行は係官に引率されるがまま、空調の効いたターミナルから灼熱の飛行場へと進み出る。
一行が、滑走路の全容を見渡せる一角へと差し掛かったそのとき――
「――――」
その戦闘機の列線に、彼の愛機の姿を見出した瞬間、少女は立ち止まった。
「フラウ!?」
次にコステロが気づいた時には少女の姿は定期便搭乗の列から離れ、そして自由を求めるかのように列線へと向かい駆け出していた。少女を止めようとする大人たちの声など、もはや聞こえなかった。
炎熱溢れるアスファルトを駆け抜ける、一途なまでの想いが一つ――
少女には、もう判った。
あの飛行機の乗り手こそ、彼女の大切な何かを捧げるに足る人――
想いの強く促すがままに少女は走り、そして――
「フラウ?」
涙目と共に見上げた先で、彼女の生命の恩人であり、そして初恋の人であった撃墜王は、その視線の先で息を弾ませる少女を見下ろしていた。だがそれも一時のこと、カズマは意を決したように肩バンドを外し出す――
「コラッカズマ!」
マリノが止める暇も無かった。バンドを解くのはほぼ一瞬だった。カズマは操縦席から腰を上げ、そして文字通りに愛機から飛び降り、駆け出す――
「カズマ」
「フラウ」
待ち構えていた藍色の瞳と、惹き寄せられた黒い瞳の交差――
そしてフラウは――
港に入る帆船のように――
カズマの胸元へと飛び込んだ――
「フラウ――?」
一気に嗅覚を擽る、汗と香水の混ぜ合わさった、何とも言えぬ少女の匂い――
「――――!」
思わず、少女を抱き止めるようにして受容れるカズマ――
それを見逃さず、カズマの首に伸びる、フラウの細い腕――
カズマの腕もまた、何時しかフラウの腰を抱いていた――
そしてフラウは――
背を伸ばし――
吸い込まれるようにして――
カズマの唇に、花弁の様な彼女のそれを重ねた。
「――――」
「――――!?」
吸い込まれるようにして、甘美に溶けゆく意識――
目を瞑り、躯と唇とを重ねる二人の背後を、発進準備なったジーファイターがゆっくりと駆け出していく――
「――――!!?」
マリノはといえば、操縦席から、それをただ見ているしかできなかった。
だが込み上げてくる怒りが、二人の意識を仮初の夢想から炎熱とオイルの臭いと烈風の溢れる現実へと引き戻す。
「カズマァァァァァァァ――ッ!!」
――絶叫にも似た怒声に、思わず二人の唇は離れ、二人は互いを見詰め合った。抱擁と接吻の余韻たる、互いに向ける熱い眼差しは、もはや隠しようが無かった。
「……?」
「セシル‐ロイドにくれてやる位なら、あなたにくれてやった方がマシよ」
微笑――少女のそれは以前にカズマが知っているそれより逞しく、そして大人っぽくなっていた。カズマを見上げながらゆっくりと、名残を惜しむかのようにフラウは身を退き、そして最後に絡むように握り合った手だけが残され――触れ合いつつも離れ行く指――そして二人は完全に別たれた。
「カズマ……元気でね」
「フラウも……」
フラウは頷き、そして踵を返すや天使のような軽やかさでもと来た途を駆け出していくのだった。その先には、乗せるべき重要人物を見失い、右往左往する人々と離陸すらままならない定期便のSC‐14輸送機が一機――
「そうか……フラウも還るんだ」
思わず、唇に触れる指……キスの感触を確かめるかのように、カズマは何度も唇をなぞって見た。何度も繰り返したところで彼女のそれに遠く及ばないことぐらい判ってはいたが、それでもやって見ずにはいられなかった。今更ながらに込み上げて来る余韻がカズマの口元を微妙に歪め、それはカズマから飛行士らしい実直さを溶かすように奪ってしまう。
その背後――
「……!?」
不意に伸びてきた手は、背後からカズマの首筋を掴み、そして怒りに任せて締め上げた。
「この馬鹿ぁ! アイドルに何てことしてんのよぉ!」
「マリノっやめてぇっ!……死んじまう!」
「このヤリチンっ! 女の敵っ! あんたなんかこの場で殺してやるぅ!!」
「マリノっ話し合おう。なっ! それにはまず首をっ……!」
首を絞める腕から逃れようともがく余り、難詰するマリノの声に泣きが入っている事に、カズマは気付かなかった。




