第六章 「侵入」
『――「ミスティック1」、現在速度二百。このまま主脚を上げず、水平飛行に移行する』
滑走路に沿ってキラ‐ノルズ――レムリアの前進翼機は飛ぶ。修復成った胴体後部搭載のエンジンの爆音は濁り無く、順調に六翅のプロペラを回していた。気流を拾った後退翼が滑走路の直上を舐める様に飛び、そして隣接する演習場の上空に達する。
『――「ミスティック1」、エンジン回転数千四百……いい仕上がりだ。舵の効きも悪くない……このまま高度二千まで上昇する!』
『――ちょっと……!』
追従機のタマゴ複葉戦闘機の悲鳴を嘲笑うかのように、「ミスティック1」の回転がさらに上がる。同時にプロペラとは波長の違う、金属の共鳴を思わせる空を切る音が蒼空を烈しく圧する。エンジン回転軸に配された強制冷却ファンが駆動し、過熱するエンジンに冷気を送り込むことにより生み出されている響きだった。機体構造上、推進効率の向上を優先する意図で胴体後部に収められたエンジンを冷却するに、十分な外気を取り込めないために講じられた対策だったが、それが却ってミスティック1の飛翔に聴覚面での迫力を与えている。
『――速度を落としてくれ! 追従できない!』
タマゴ複葉戦闘機のパイロットが叫ぶ。こちらはすでに全速。だが眼前の推進翼機は全出力の半分も出しておらず、さらには脚を下した状態だ。その状態でも徐々に両者の距離が開き始め、さらには高度を上げる余裕すら「ミスティック1」は見せている。
滑走路上空から離れていく二機。彼らを眼で追う地上の人影が、格納庫傍に集中している。
「……高度千二百……千四百……千六百……二千に到達」
無線送信されて来る、「ミスティック1」の緒元表示盤を読み上げるマリノ‐カート‐マディステール空兵隊少尉の声は、発音に独特のリズムがあって心地良く聞こえた。高度計は元よりエンジンの回転数、機体の姿勢、潤滑油温度……凡そ機上にあって「ミスティック1」を操縦するマックス‐クレア少佐が見ているのと同じ計器盤の動きを、マリノは地上に在って掴むことが出来ていた。時折表示盤から目を離し、蒼空を翔る「ミスティック1」の姿を眼で追う内、自分自身もまた「ミスティック1」の操縦桿を握って空を飛んでいるかのような感覚すらマリノの胸中に喚起された。
ただし、そこまで行くのに道は決して平坦ではないことを、当の彼女自身が先週に思い知らされている。丁度その頃に行われた、モック‐アルベジオ基地所属士官中の志願者を対象に行われた操縦士適性検査で、マリノは不備を晒してしまったのだ。型遅れのCAウイングの後席を借りて行われた飛行適性検査で、要求された一定時間以上の姿勢維持に難渋する内に先ず三半規管が悲鳴を上げ、次には恐慌を来したマリノの精神がそれに続いた。その結果同乗した操縦教官の、彼女に対する心証は最悪なものとなった。
試験官は航法士あるいは航空機関士に進む途を勧めてくれたが、慰めの言葉は一途に操縦士たるを志望していたマリノにとって屈辱以外の何物でもなかった。しかもこの基地で同様の検査が行われる機会は当分なく、あくまで操縦士たるを志望するのならば、彼女は他の航空隊に出頭して適性検査を受けねばならない。マヌエラ‐シュナ‐ハーミスは「運が悪かったのよ」と慰めてはくれたが――
そうだ、運が悪かったのだ――思い出す度に込み上げてくる憤りを、マリノは胸の奥に押し込めるようにして空を睨む。自ずと険しさを増したブラウンの眼差しの先に、太陽を背にして追従機を翻弄するレムリアの新鋭機が見える。それがやけに眩しくて、同時に次は上手くいくと、自己を言い含めようとする我が身に気付く。そして同時に――あいつの顔を思い出し掛けて、生来のじっとりとした目付きがさらに悪くなるのを、マリノは自覚する。
あいつ――
『――自分は行きませんよ。警備兵で十分です』
適性検査を受ける前日、入隊から二週間後に行われた訓練兵を対象にした適性面談で、パイロット訓練を勧めた検査担当官に真顔でそう言った訓練兵の顔が、不意に思い出された。およそ軍人向きとは思えない、女みたいな顔の少年……いや青年。全体的に小柄だが、やけに目立つ……いや眼に留まるやつだった。名前は確か――――携帯無線機から漏れ聞こえるテストパイロットの声が、マリノを現実に引き戻した。
『――「ミスティック1」よりグラウンドクルーへ、主脚を上げ、全速飛行に移行したい。許可を乞う』
「駄目だ。ミスティック1、もう十分だ。そのまま飛行場に戻って着陸しろ」
「…………?」
初飛行を成功させた空地の一体感に、何の関心も払わないかのような無感動な指示にその場の全員の注意が向く。マリノが計器盤から顔を上げた先、カレル‐T‐“レックス”‐バートランドが無表情にマイクを握りしめている。抑揚に乏しい口調、だが何者も抗えない意思の響きを彼はその命令の中に篭めていた。
『――「ミスティック1」了解、これより着陸コースに入る』
演習場の上空で補助翼と昇降舵を使い急旋回に入るミスティック1、機を軋ませる程の加重が掛かるそれは、補修したてのキラ‐ノルズに対するには余りに大胆で、かつ無謀とも取れる操作だった。まるで飛翔を差し止めたバートランドに対する当てつけの様な――その時点では、追従するタマゴは追尾機動自体成り立たない位にまで距離を開けられている。
「…………」
――フラップを下しつつ、そうするには早過ぎると思われる速度で滑走路へと脚を踏み入れようとする奇妙な形の飛行機。かなり距離を置いてその後を追うタマゴ複葉戦闘機――演習場から見上げた構図に、ツルギ‐カズマは思わず目を奪われた。カズマの眼前で後ろ向きにプロペラの付いたその飛行機は、横風の下であっても危うげ無く水平姿勢を維持して接地し、そこでプロペラの回転を落として順調な滑走に入った。
誘導路に入ったそいつの尖った機首が、車輪を通じて地面の凹凸を拾い上下に揺れる。そいつが誘導路を直進した先でカズマの眼は止まった。兵士の手を借り格納庫から引き出される途上の機体の一群、翼の一端が欠けているもの、尾翼がすっぽり失われているもの、エンジンの収まるべき機首自体が無いもの――完全な状態を保った機体は全く無く、それらは引き出された先で軍人たちによる検分を受けていた。
「――第三列、前へ!」
「――――!」
カズマの意識は自ずと眼前の光景へと引き戻される。カズマの正対する約百メートル前方、盛り土の成された区画に居並ぶ標的……それが、当面カズマが意識を集中するべき処であった。
標的を見据えつつ身を伏せ、カズマはつい二時間ほど前に彼自身の分身として託された銃を構える。M1862小銃。総重量五キログラム程の鉄と木の塊。だがそいつは、日本でカズマが扱ったことのある38式小銃と違い、弾丸20発入りの金属製の弾倉を差し込み、一度装填レバーを引けば、引鉄を引くだけ多量の弾丸を連続して標的に撃ち込むことが出来た。38式よりも銃身が短く、銃把と分離した銃床部分に、弾倉を繋げる機関部が位置する奇妙な形の銃。取り回しは悪くないのだが、命中精度はお世辞にもあまり良くなかった。そんな歪な外観が、地上のみならず飛行船内での接近戦闘を想定した結果の「正常進化」であることをカズマは後に知った。何度か扱った結果の印象として、小銃と短機関銃の合いの子の様な銃だとカズマは思っている。
連射と単射、二通りの射撃間隔変換用の摘みが教官の指示通り「単発」に合わさっていることを確認し、カズマは教官の新たな指示を待つことにする……少なくとも、此処まではカズマの計算通りに全てが運んでいる。
晴れて訓練兵となって二週間が過ぎたところで、カズマは希望通りに警備兵の訓練を受けることが許された。但し適性検査の結果は、ラジアネス軍という組織の中でカズマが選び得る可能性が決して狭くは無い事を教えてくれていた。警備兵は勿論のこと艦船の乗員、さらにはパイロット……他者と比べてずば抜けて良好な適性検査の結果を前に、検査担当官は面談の席で顔を綻ばせ、カズマに「転科」を促したものだ。
「ツルギ訓練兵、パイロットに志願してはどうかね?」
パイロットに志望を変更すれば、今後基地で行われるという実用機を使用した飛行適性検査を優先的に受けられる上、たとえ操縦適性無しと判断されても航法士、通信士、機上整備員等何らかの形で航空機に関わる訓練を受けることが出来る。あるいはその途上で再びパイロットに挑戦することも……それは、この基地から愛機紫電改を取り戻すという大それた意図さえ抱かなければ、十分に魅力的な条件である筈だったが、カズマはと言えばやはり当初の決意に則り、基地の勤務に拘るあまり警備兵を志望する。それは担当官にとっても予想外の態度であったらしく、表情を曇らせる彼を前に、却って不信感を誘うことになったかとカズマを内心で不安がらせた。
「……まあ、最終的に志望を決めるのには未だ時間があるから、飛行適性検査だけでも受けてみてはどうかね……そういうことにしておくから」
明らかな作り笑いと共に検査官は言った。彼に対し明らかな反感を示して、波風を立てる途をカズマは敢えて選ばなかった。だが――
「…………」
面談室の隅で壁に凭れかかり、自分と検査官の遣り取りを伺うマリノ‐カート‐マディステールの眼鏡の煌めきを感じた時、内心で引っ掛かるものを覚えるカズマがいたことも事実だった。長身のもたらす威圧感も然ることながら、遣り取りの一部始終を伺っていた彼女の表情に、何の感情も浮ばなかったことが、妙なまでにカズマの印象に残った。
――再び、射場。
「イホーク、イホーク」
と、カズマは銃を構えつつ隣に伏せるイホーク‐エイクを呼んだ。何か考え事をしていたのか、彼がカズマの声に気付き反応するのに優に五秒の時間が必要だった。
「カズマ……?」
「単発だ。単発の位置だ」
「…………!」
イホークが軽く狼狽するのがカズマには判った。射撃間隔の切換え用摘みが「連射」の位置だった。急いで摘みを切り替えた直後を、射場の安全管理者たるを示す赤いヘルメットを被った射撃教官が肩を怒らせて足早に通り過ぎる。切換えがもう少し遅れていたらお目玉だったろう。その一方で標的に目を凝らしつつ、カズマは思った――イホークのやつ、未だ立ち直って無いな……と。
カズマが面談で得た成果は予想外に恵まれたものであったが、イホーク‐エイクの場合は違った。面談の際の会話こそ婉曲なものであったが、カズマの志望と同じく警備兵か、あるいは後方勤務で倉庫に溜め込まれた軍需品の帳簿を作成するぐらいしか、イホークの使い処は無い――カズマを担当したのと同じ担当官の口から、彼はそのように宣告されたも同然であった。その日ずっと涙を流して悔しがるイホークを、カズマは「おれも同じようなもんだよ」と慰めたものだが、それが嘘だと露見するのに夕食の時間までしか持たなかった。何せ兵舎の掲示板に張り出された操縦適性検査飛行の同乗者の中に、ツルギ‐カズマの名前があった日には――
「…………」
切換えのし忘れを指摘されても、イホークはカズマに礼も言うことなく標的へ向き直る。彼はカズマの「裏切り」に明らかに怒っていた。ただしそれはカズマにとっては不条理な怒りと言っても良かった。外見と出自こそ異なっても、イホークはカズマのことを明らかに自分の同類だと思っていた節があったようだ。それが適性検査の段階で拠り別けられ、カズマの方が一歩先んじるとあっては――
「…………」
面倒なことになったな……と思いつつ、カズマは先刻に眼にした飛行場の格納庫を思い返した。恐らくは鹵獲したレムリアの戦闘機を保管して置く場所なのだろう……だとすれば自分の紫電改もまた、あの格納庫の虜囚となっているかもしれない……
そう言えば……明日から週末か――打算混じりの決意が、銃を構えたままのカズマの胸中を占め始めた。
週末になり、外出許可令の行き届いた兵舎からは完全に人影が消えていた。
入隊して三週間も経てば、志願兵は軍隊における自らの立ち位置を自覚するし、それに伴う自制心も芽生えてくる。モック‐アルベジオ基地に入隊を果たした訓練兵に先駆ける形で、カズマはそのことを十分に弁えていたが、軍隊では流石に自分の基地内をあれこれと詮索して回るための術は教えてくれなかった。
だいいち、モック‐アルベジオという名の基地が、興味に任せた勝手な詮索を許されるような場所では無いことは、地上部隊専用区画と航空部隊専用区画とが南北に幾重ものフェンスで別たれていることからもすぐに判る。飛行場とそれに付随する設備の規模だけならば祖国日本の霞ヶ浦海軍航空隊と同規模、それに付随する飛行船港と飛行艦船の整備施設とを合わせれば彼我の面積差は三倍にまで拡大するであろう。さらにはモック‐アルベジオは戦闘機の訓練基地であって、飛行場方向に目を向ければ昼夜を別たず離着陸を繰り返すあのタマゴ複葉機の姿を垣間見ることが出来た。当然、基地上空で「空戦」をする様子も……
「あんま巧くないなぁ……」
というのが、ここ二週間、暇さえあれば空戦訓練の様子を見ていて抱いたカズマの感想である。戦闘機の空中戦なんて、経験はおろか決して長くは無い人生で関わることすら皆無であったろう訓練兵の面々は、頭上で繰り広げられる曲芸飛行紛いの空戦機動に見惚れていたが、カズマはそのような熱狂からはさすがに醒めていた。彼からすれば機動の所々に無駄な操作が多く、しかも追尾される側に回った際、回避に一番役立つ筈の「横滑り」をしない。単に教科書通りの操縦訓練を受けて戦闘機乗りと呼ばれるようになったような連中。空戦というものを知らない、実際に敵機と食うか食われるかの鍔迫り合いをやったことのない人間が操縦桿を握っているとしか思えなかった。
そのカズマは今、航空部隊専用区画にいる。
潜入自体は簡単に進んだ。物資搬入業務で地上部隊専用区画から飛行場方向に向かう途上のトラックの荷台に紛れ、カズマはそのまま検問を潜る。軍用トラックが搬入待ち車両用のモータープールに入り、運転手が事務手続きで車を降りた時を見計らって荷台を降りる……それで全ては上手く行った。そこからは、度胸の問題だった。軍服を着ていても勘の鋭い警備兵に身咎められれば、カズマは当初の目的を果たすことも叶わず忽ち営倉行き、最悪免職であろう。
この辺りは、オドオドしているよりも堂々と歩いていた方がいい――カズマはそう結論付けた。カズマは海軍時代からその手の「悪戯」の心得が無い訳でもなかったから、慣れも度胸も持ち合わせている。そして目指すべき格納庫の所在もまた、向こう側に居た時からだいたい目星を付けていた。平常心の赴くまま幾つかの交通路とフェンスを潜り、カズマは目指す処をその視界の内に見出す。
『着いた……』
という感慨と同時に抱いた達成感は、格納庫所在する区画一帯の周囲に巡らされた鉄条網付きのフェンスと、唯一の出入り口に設けられた衛兵付きの検問所によって裏切られた。検問所から距離をとりつつ、格納庫の周囲をさり気無く観察する。その中に検問所から見通せない交通路、フェンス沿いに止まる軍用地上車の姿を見出した時、カズマは咄嗟に決断した。歩調を速め、そして助走、跳躍と共に地上車の屋根に昇り、軍服の上衣を鉄条網に引掛けた。そこからフェンスの頂上を乗り越え、そしてフェンスの向こう側に飛び降りる。
「…………?」
所用を済ませて来た軍用地上車の運転手が、怪訝な顔で車の周囲を見回した。一人の人間というよりも兵士としての彼の勘が、つい先刻まで車の至近に居た気配の残像を感じ取ったのである。その大元を見出すことが出来ず、怪訝そうに首を捻りつつ運転席に腰を下す兵士、彼に運転された車がテールランプの赤も眩しく走り去っていく様子を、カズマは格納庫区画の物陰から見送った。内側の警戒はそれ程でもなかった。カズマは平静を装い、格納庫の傍まで歩を進める――
『あっ……!』
入口の陰から覗き、思わず声を上げそうになる。広範な格納庫には、その中を埋めるべき飛行機の影がひとつしかない。そのただひとつの影は紫電改のものであった。格納庫の隅に没然と佇む紫電改はもはや原型を留めていない。紫電改はエンジンの収まった機首を離され、その鋼の心臓は架台の上に乗せられている。その架台の傍ら――
「教官か……?」
見慣れぬ作業服姿故に一目ではそう判らなかったが、そこには確かにマリノ‐カート‐マディステールがいた。
エンジンカウルを開けてその鋼の心臓を目の当たりにすれば、愈々困惑は深まって来る。少なくともマリノにとってはそうであった。架台の下に置いた容器の中には、先程エンジンから抜き終わったばかりのオイルがどす黒い池を作っていた。一目で判るオイルの質の悪さにゲンナリした後には、未知の発動機に対する好奇心が再びぶり返して来る。
「…………」
気筒は18基、9基が二列に重なっている典型的な複列式空冷エンジン。これと同じ形式、そしてサイズのエンジンならば延長教育時代に派遣された整備学校で目にしたことがある。現有の戦闘機で唯一レムリアンに対抗可能とされた新鋭機、いわゆるジーファイター用の空冷エンジン ロブソン‐ヒューイットHG1540がそれなのだが、14気筒のHG1540に対しマリノの眼前に在るのは18気筒、むしろこちらの方が本来ならば構造上14気筒までが限界のところを、冷却用や配管用のスペースを犠牲にしてまで無理やり18気筒にまで増やした様な歪さが際立っている。当然エンジン本体以外の電気系統を構成する配線も窮屈に過ぎ、中にはエンジンの排熱で溶解しかかっているものすら見出された。
これが実際に動くのか? もし動くとして順調に稼働するのか?……窮屈さと精密さの同居した鋼の心臓に、マリノはそれに微かではあるが芸術を感じた。旋盤やプレス加工など、機械で簡単に製作し得る構造のものを設備の整った工場で均一に生み出すべく考案された大量生産技術の産物ではない、シリンダーからボルト一本に至るまでが工芸品と言いきっても過言ではない、二つと同じものなど有り得ないと思わせる「芸術品」――そいつが秘める力を、マリノは脳裏で推し図ろうと試みた。「荘厳なる緑」に繋がれていた鋼の心臓たる「そいつ」の力――
「二千ぐらいか……」とマリノは呟く。馬力が、である。
しかし半信半疑であった。それ位の出力の航空機用発動機はラジアネスにもあることはあるが企業内試作品の域を出ていない。レムリアンにおいてもそれは同様だろう。豊富な資材と充実した設備を有する大企業ですらそうなのだから、その存在に当たり何の背景も見えない眼前の発動機が破格の高性能を有していること自体、マリノには自分で言ってみたところで信じられなかった……そこまで思索したところで、マリノは自身の責務を脳裏で反芻する。せっかくの週末が潰れそうだという予感もまた過ぎった。
「――空兵さんよ、こいつの面倒を見てやってくれないか?」
レムリア機の「試験飛行」の後、機材の整理を終えてオフィスに戻ろうとしたマリノを、カレル‐T‐“レックス”‐バートランド少佐はそう言って呼び止めたのだった。戦闘機乗りとしてとうに脂の抜けきっているのではとすら思わせる古兵の彼が親指で指差した先、マリノは格納庫の隅で孤影を忍ばせている機体を見出す。先月に近辺の山奥から発見され、この基地に運び込まれたというそいつの名は確か――
「『荘厳なる緑』!――」
絶句するマリノに、バートランドは付いてくるよう促した。共に格納庫に入れば、外を支配する烈日の魔手がすっかり消え去る一方で、背筋すら震わせるほどの冷たい空気がそこに滞留を続けている。正直好きな空気では無かった。基地の活気から取り残されたかのような、じめっとした冷気の漂流が、マリノにとっては居心地の悪い事この上ない。
バートランドと連れ立ってその「荘厳なる緑」に歩み寄る途上、天井を向いた機首からボタボタと漏れ続けるオイルの作る黒い池をマリノは見出す。それは当初は無関心に近かったマリノの「荘厳なる緑」に対する印象に、拭えない負の感覚を催したものだ。遠巻きに見れば精悍な外見。だが近寄って見れば外板に拠る皺や歪み、欠落したリベットといった醜い実相が浮き彫りになってしまう。出自の知れない上に、洗練された機体とは到底言い難かった。
「まるで……大昔の空賊刀みたいだろう?」
と、鼻の下を擦りつつバートランドは言った。言い出しっぺの彼自身、内心では「荘厳なる緑」に対し幻滅しつつあるのではないか……とマリノは思う。
「再来週までにこいつの損傷個所を全てピックアップして、報告書にまとめておくんだ。修理方法も書いてくれればなお助かる」
「……で、何故自分なのですか?」
「ホレ」
と、バートランドはマリノの豊かな胸、侘しげにそこを飾る整備徽章を指差した。
「それだけで?」
「うん」
バートランドは頷いた。その素っ気なさが、却ってマリノの反抗心に火を点ける形となった。
「自分はいずれ飛行訓練を受ける予定なんです。ストレートに修了して実戦機操縦教程に進む準備もあるので、大事な時期に雑用を申し付けられるのは困るんですけど」
「ああ思い出した。CAウイングの後席でパニクって、高度200で失速させそうになった士官は、確か君だったな」
「う……!」
「君はCAウイングの回復操作に要する最低高度は幾らか知っているか? 三百、最低でも三百だ。もしあそこで失速していたら君は教官諸共お陀仏だった。調達価格二万スカイドルの戦闘機とそれ以上の費用を掛けて養成された操縦士を喪失の危険に晒した事実を、もう少し真摯に受け止めてほしいものだな」
「…………」
困惑気味に頭を垂れるマリノを、バートランドもまた困惑気味に見遣る。内心では言い過ぎた……という後悔の念もあったのかもしれない。
「まあ……その経験を生かして再度の試験を乗り越えろ、としか本官には言えないな……で、やるかね?」
バートランドは背後の緑の機体に向かい、顎をしゃくる様にした。頭を上げたマリノの瞳に涙が溜まっていないことに安堵し、バートランドは続けた……女という生き物は、その扱いにいくら経験を積んだところでややこしい。
「人員と機材は好きなだけ使っていい。基地司令には俺が話を通しておくよ」
「……操縦士になれるよう、頑張れよっ……てか」
――去り際にバートランド少佐が掛けてくれた言葉を呟きつつエンジンを取り外し、整備用の架台に据えた後で、マリノは「荘厳なる緑」の操縦席に身を沈めた。正確には座席に座ろうと試みた。機内の計器配置を知りたいのは勿論のこと、欠落した計器があるか否かを探ろうという意図もある。
「狭っ……!」
マリノにとって、そいつの機内は愕然とする程、不愉快なまでに狭かった。自分が女性にしては大柄であることを差し引いても、特に座席の狭苦しさは異常であるようにマリノには思われた。
「子供の乗り物かっての……!」
思わず口に出し、本当にそう思えるほど機内は狭苦しい。そしてオイルと獣臭……それ以外にも得体の知れない臭いが鼻に付き、閉塞感も加わって一層マリノの不快感を増幅する。それでも強引に、あるいは半ば自棄に延ばした爪先で操縦席床のラダーペダルの所在を探り、そして探り当てた瞬間、マリノはあることに気付き、そして愕然とした。ラダーペダルが最前部に調整されている? つまりこれは――
『――脚が短い……つまり、背が低い人間が操縦している?』
発見は、マリノに戦慄すらもたらした。
バートランドによれば、発見されてから此処に運び込まれて以来、機体はおろか操縦席にも誰も触れていないという話だから、その事実こそがマリノの推理を補強する形となった。子供の玩具という訳ではないだろうから、恐らくこいつを操縦していたのは相当に小柄な人間だ。
そしてマリノの目は計器類の犇めく前方に向かい、それがさらに彼女を困惑の地平へと誘った。脱落している計器や損傷している計器があるのは兎も角、形状から辛うじて用途が読み取れるが、肝心の数値の配分……否、単位が既存のものとはあまりに異なる……そういう計器が散見されるのだ。ペーパーバックの空想科学小説に散見される、異星人の宇宙船に忍び込んだ主人公にでもなった様な感覚がマリノの脳裏を過ぎり、それは程無くして新たなる困惑となった。但し、ラダーペダルや操縦桿が付いていること、そしてスロットルなどエンジンコントロール関係のレバーが一通り揃っていることが、一面では安堵を与えたこともまた事実だった……こいつを操縦するやつには、いちおう手足がちゃんと二本ずつ揃っている。
「…………」
何気なく動かしてみた操縦桿が、やけに軽い……否、手応えが無い事にマリノは気付いた。補助翼が辛うじて動くのは直に見れば判る。ただし昇降舵は動かすのには難がある。着陸は不可能とは言わぬまでもこれでは離陸自体は不可能に近いと思った。索が切れているのか?……そう察したときにはマリノは操縦席の縁に手を掛け、狭い操縦席から抜け出さんと試みる――
「あークソッ! 抜けないじゃん!!」
肥ったからか?……否、そんな筈はないという種類の困惑すら催させる程座席が狭く、自身の臀部を完全に咥え込んでしまっていることに、マリノは今更ながら思い当ってしまう。抜け出すのに、まる三分近くの格闘が必要だった。とにかく、この「荘厳なる緑」が万人向けの飛行機では無い事はすぐに判った。
「…………」
物陰から臨む紫電改の操縦席で、あの女教官は何やら喚き立てていた。
今のカズマの置かれた位置では、怒りの理由は判然とはしなかった。そもそも何故あの女教官が紫電改に乗っているのかさえ判然としない。それ以上にあの大女が、怒りに任せて紫電改を壊しはしないかが様子を伺うカズマには気掛かりであった。いや……壊されているかと言えば既に壊されている。プロペラとエンジンを取り外された紫電改、今や首の無い馬を思わせるその佇まいに、カズマは半ば暗然としかける自我を、咄嗟に唇を噛締めて踏み止まらせた。スクラップになるとは到底思えなかったが、それでも一抹の不安が水面に垂らしたインクのような波形を成して拡大して行くのを堪えることが出来ずにいる。あの女教官の専科は整備だというが、あの女がやっていることが紫電改の修復かあるいは破壊か、カズマから見ればやはり判らなかった。
「これじゃあ……」
呟き掛けて、カズマは口を噤んだ。帰るに帰れないじゃないか……少し様子を見て戻る積りだったのに――口を噤んだカズマが、元々埋めていた頭をさらに下げるようにしたのは、何も眼前のマリノに対する配慮だけでは無い。戦闘機乗りの勘が、その背中で格納庫に入って来る気配を自然に感じ取っていた。
「あ……」
物陰に身を潜めつつ、カズマは軽く声を上げかけた。格納庫に足を踏み入れた影が独り、それは抑制された照明の下で一分の隙なく軍服を着込んだ銀髪の青年の姿となった。青年の端正な顔が不意にカズマの潜む場所に向かい、同時に青年士官とカズマの眼が合った。
「鼠のように振る舞うのは見苦しいな。正々堂々と出てきたらどうだ?」
「…………」
早々にカズマは観念することに決めた。眼前の若い士官が、その「見苦しい」と見做した振る舞いとそれを為した人物を激しく嫌悪する種類の人間である事をカズマは一瞥で察する。軍人というより武人という種類の人間……帝国海軍軍人としての短い人生経験は、若いカズマにそれらの区別を付けさせるだけの人間観察力を与えていた。外面だけは悄然として進み出たカズマを、その銀髪の青年士官は突き放す様な視線で見下ろした。身長はカズマより図抜けて高かった。軍服の胸に刻まれた操縦徽章を同時に見出す。階級は少佐か……
「道に迷ったのか?」
「いえ、飛行機を間近で見たかっただけです」
悪びれる風を見せずにカズマは言う。それに青年士官は納得したように頷き、共に歩く様促した。頭を上げた先、紫電改の操縦席から漸く腰を上げかけたマリノが、こちらを顧みようとしている。
「あーっ!!」
大仰なまでに大きな声が、格納庫に響いた。予期せぬ闖入者に対する教官の驚愕も当然だろう。カズマの姿を見出した瞬間、マリノは操縦席から慌てて足を乗り上げようとして失敗し、機体から派手に転げ落ちた。青年士官を置いてカズマは駆け出し、転んだまま起き上がれないマリノに手を差し出した。
「…………」
「教官、どうぞ」
驚愕から一転して怒りの眼光を湛えてカズマを睨むマリノ、その彼女の眼差しを受け流す様にカズマの眼は優しい。それが却ってマリノの敵愾心をさらに掻き立てたかのようであった。
「アンタ!……どうして此処に!?」
「彼かい? 私の個人的な知り合いだよ」
と、銀髪の少佐が顔を覗かせる。それがカズマを内心で驚かせ、マリノを困惑させた。カズマの助けを得ずに身を起こし、マリノは作業服の煤を払う。
「……で、クレア少佐はどんな用件で?」
「キラ‐ノルズの様子を見に来たのだよ」
と、クレア少佐と呼ばれた銀髪の青年は、後ろ手に紫電改と向かい合って駐機する機体を指差した。カズマは思わず足を止め、クレア少佐の指差す機体に目を奪われた。地上に在る姿も、空を飛んでいる姿も今まで何度か見たことのある前進翼機、そういえば同じ形状の機体ならば日本の兵器工廠でも見たことがある。上向きの尖った機首に脚の配置という、今にも滑走して飛び上がりそうな外見までが日本で見たものによく似ていた。クレア少佐と共にキラ‐ノルズを見上げつつ、カズマは言った。
「カッコいいですね」
「君もそう思うか?」
初めてクレア少佐は顔を綻ばせた様にカズマには見えた。軽く頷いて見せ、心証を悪くしないように試みる。侵入が露見した以上、余計な波風は立てたくなかった。
「私はこのキラ‐ノルズのテストパイロットでね……感覚を絶やさないようにこうして足を運んでいる」
「操縦時の感覚……ということですか? 少佐」
クレア少佐は頷いた。
「よく察したな。君はいいパイロットになれそうだ。ひょっとして飛行経験がある?」
「いえ……」
カズマは頭を振って見せた。但し正体を見透かされた様な気遅れを彼は覚えた。同時に背後に自身を注視する視線を感じる。紫電改の傍らに在ってカズマとクレア少佐を伺うマリノの視線、それには決して寛容の成分は含まれていない。ただ腕を組んで柳眉を顰め、彼女の仕事場への侵入者たちを険しく伺っている。しかしそれは、一面では正しい対応であろう。
「ちょっとアンタ、ツルギ訓練兵、此処は有資格者以外は立ち入り禁止よ。わかってるんでしょうね?」
マリノを顧み、応じかけるカズマの口を遮る様にクレア少佐が言った。
「少尉、君は此処で何をしていたんだ?」
「こいつの補修ですけど?」
「……『荘厳なる緑』のか?」
「バートランド少佐に頼まれたんです。補修の必要な箇所を報告しろって」
「…………」
カズマはマリノを凝視するようにした。胸に張り付いていた不安の氷が、融けだして滑り落ち始めるような感覚がカズマの内心を震わせた。カズマの視線に気付いたマリノが、汚らわしいものを見るような目を向け、カズマに口元を歪めて見せた。
「あんた何見てんのよ。少佐の覚え目出度いからっていい気になってるんじゃないでしょうね?」
「い、いえ……」
「つまらんな」
「…………?」
唐突にも聞こえた言に、カズマとマリノは同時に目を発言の主に向けた。その端正な風貌から表情を消し、クレア少佐はマリノの背後に佇む紫電改に目を向ける。その眼にも感情は無い、ただ未知のもの対する拭い難い隔意が、その眼光の奥に在る様にカズマには思われた。
「このような何処の馬の骨とも知れないものを、後生大事に取って置く余裕が今のラジアネス軍にはあるのかね?」
「あるんじゃないですか? 小官も時々少佐と同じ事考えることがありますけど。ただ……」
「ただ?」
「エンジンを素性は、かなりいいと思うんですよねこれ。プラグとオイルを替えてやれば大化けするんじゃないかって……まあ、これは小官個人の所見ですけどね」
「それはバートランド少佐にも報告する積りかね?」
「勿論、それが任務ですから」
「私としては、君が壮大な詐欺の片棒を担がずに済むことを、祈らずにはおれないな」
「お言葉ですけど、操縦系も見た限りでは我々の知らない、未知の機構を使っているようですよ」
何時しかマリノの眼が、クレア少佐の嘲弄に挑む様な光を湛え始めていた。
「レムリア機にもない?」
「それは現段階では判りませんが、簡単に切り捨てられる類の飛行機では無い事は明らかです」
「この何の変哲もない戦闘機の様なものが……か?」
「戦闘機の様なもの」の一句に力を篭め、クレア少佐は言った。それは紫電改の真の持主たるカズマにとって、最大の侮辱である筈だった。カズマの表情から何時しか表情が消え、同じく感情の消えた眼差しを彼はクレア少佐に向けている。その一方でカズマは考えている。今は怒るべきでは無く、紫電改が「修復」される見込みが生じたことを素直に喜ぶべきだろう――言葉が消え、次に生じた不毛なる対峙――不要な発言の帰結として、この場の二人に自身に対する隔意を生じさせたことを察したのか、クレア少佐はカズマに向き直った。
「もう飛行機は十分に堪能しただろう? 訓練兵」
礼儀の包装を取り払った様なぶっきら棒な口調……完全に言い捨て、クレア少佐は靴音を響かせて格納庫入口へと足早に歩き出す。マリノに黙礼し、カズマは彼の後を追った。
背中が苛立っている……カズマにはそう見えた。外に出て暫く歩き、哨所に差し掛かった途端、クレア少佐はカズマを指差し声を上げた。
「警備兵! 不法侵入者だ」
「…………!?」
驚愕する間もなく、哨所から飛び出して来た憲兵が二人の周囲に駆け寄って来る。初めて出会った時と同じ、突き放す様な涼しい視線を注ぎつつ、クレア少佐はカズマに言った。
「悪く思うな。機密にする価値の無いものであっても、法は守らねばならん」
「悪くは思わないよ。だが一つ解せないことがある」
「なに……?」
「レムリアの戦闘機を見ていたあんたの眼だ。あのときあんたは、間違いなく旧い戦友に会った様な眼をしていた」
「…………」
「単に愛機を見る目じゃない。戦闘機に注ぐ目にしては、あんたの眼は熱過ぎるんだ」
「……連行しろ」
憲兵はカズマの言葉を斟酌せず、クレア少佐の命令を完璧なまでに実行した。その一方で両脇を抑えられながらも従容として連行に従うカズマの後姿を見送る内、クレア少佐は自分でも思ってもみなかった感覚に襲われた。獰猛な虎との対峙――漸くそれから解かれたかのような、背筋の芯を落雷の如く滑り落ちる戦慄――
「……あいつ、何様のつもりだ」
唇を震わせた呟きは、夜を支配する冴え切った空気に取り込まれ、誰の耳にも聞こえなかった。




