第十七章 「大空襲」
炎――
――夢とも現とも知れない意識の中で、弦城 数馬はそれのみをはっきりと見出していた。
数馬の眼前で、炎は瞬く間に零戦の列線を包み込み、その禍々しい掌の中で溶かしていく――
やがて炎は、カズマの眼前で木造の兵舎や倉庫にまでその劫略の手を伸ばし、無残なまでに押し倒していく――
「……!?」
愕然として、カズマは白みかけた南方の空を見上げた。そのカズマの瞳の驚愕に震える遥か先では、あの忌々しい白い星を纏った青黒い銀翼が数十、まさに我が物顔に乱舞し、地上の航空機や港湾の艦艇、そして周囲の人々に手当たり次第に銃爆撃を加え血祭りに上げていた――
時は、昭和19年2月17日――
帝國連合艦隊。その太平洋上における最大の根拠地であったトラック島の朝を、カズマはそういう風にして迎えた。激戦に明け暮れた最前線ラバウルから休養と部隊の再編とを兼ねて、戦闘を生き残った僅かな仲間たちと共に引き上げてきた、わずか三日後のことであった。
トラックまでは、敵は攻勢の手を伸ばしてこない――米軍の攻勢が太平洋全域に亘り矢継ぎ早に続いたこの時期、傍から見ればあまりに根拠に乏しい連合艦隊首脳部の希望的観測を、敵主たる米軍は最悪の形で裏切ることとなった。敵はトラック島近海洋上に強力な空母機動部隊を進出させ、その保有する全航空戦力をこの南洋の環礁地帯に叩き込んできたのだ。彼らにとってその任務は重大で、かつ事前の準備は用意周到につきた。
「上がれ上がれ! 全搭乗員は上空に退避、退避せよ!」
滑走路から離れた士官用宿舎から、誰かが叫ぶ声をカズマは聞いた。共に後退してきた基地司令の声だった。カズマは慌てて混乱の支配する周囲に視線を巡らせた。椰子林の傍で銀翼を休める一機の零戦、それを見出した直後には、零戦はカズマの当面の行き着く目標となり、カズマは弾かれたように駆け出す。息せき切って近付くにつれ、零戦の付近に待機する整備員の姿を認めた瞬間、カズマもまた走りながらに片手を回し、声を張り上げる。
「まわせぇーーーーーーー!!」
カズマの姿を認めた整備員が、それまでの要務をかなぐり捨てて凄まじいまでの手早さと勢いでエンジン始動を終えるのと、身一つで飛びつくようにして主翼に駆け上ったカズマが操縦席に腰を下ろすのとほぼ同時だった。地上に飛び降りた整備員が車輪止めを払うのを見届けるまでも無くカズマはスロットルを開き、地上を駆け出した零戦は、そのまま滑走路に突っ込むような勢いで滑走に取り掛かる。
「……!?」
その滑走の最中、滑走路の端で機首から地上にのめり込むようにした姿勢のまま炎を吹き上げる零戦を見出した瞬間、カズマは全開にした操縦席から腰を上げるようにして状態を捻り、周囲を見渡した。腰以外のベルトは付けていない。肩まで固定すれば上半身から自由が奪われる。言い換えれば見張りの邪魔になる。敵がこちらが離陸する瞬間を待っている可能性に、カズマは思い当たったのだ。
敵に目端が利くやつがいれば、こちらが離陸する、まさに生まれ出でた赤ん坊のように何もできない瞬間を狙い、上後方から攻撃を仕掛けてくるだろう。それはおよそ戦闘機乗りにとって、考え得る最悪の死に方の一つだった。
目まぐるしく、だが細心なまでの注意で周囲を見回し、灰色の上空を乱舞する機影がこちらに興味を示さないことにカズマは内心で安堵する。このまま低空で速度を稼ぎつつ島外の洋上まで出、高度までも稼ぐことが出来れば生き残る途は開ける。そしてその後は――
「……?」
離陸に必要な速度にまで達した零戦の操縦席から、同じく空へ向かい併走する他の零戦の姿を横に見出し、カズマは軽い驚愕を覚えた。その零戦は半ば強引にカズマの機より先に機首を上げ、主脚を収納するのも忘れたかのように地獄の空へと向かっていく――
「ばか!……高度を上げるな!」
直後――
火花――マッチで擦られたかのように燃え上がり、そのまま滑走路に叩き付けられる零戦。それは地上で二回転、三回転して四散した。かつては精悍な零戦52型であった鋼の骸の直上を、黒い機影が悪魔のように航過していく。
「グラマン……!」
ずんぐりした胴体が、カズマには空を駆ける猛獣のように見えた。そして新たな黒い猛獣が、カズマの零戦の背後にも飛び掛らんばかりに追い縋ってくる。
来る!――本能的に蹴ったフットバーの導くまま左へ滑った零戦の元いた空間を、槍衾のような弾幕が突き抜けていく。
更なる一撃――カズマは右滑りでそれをかわし、そして零戦は炎と破壊の充満する島を滑走路の端、海原へと駆け抜ける――
カズマを追う弾幕が海原を薙ぎ、低空、着弾の水柱を噴き上げる――
後背から追い縋る赤い弾幕が頭上を掠めるのを感じる。敵は射撃の修正を重ね、執拗にカズマを追っている。遣ってはいけないことと知りつつ、カズマは背後を振り向いた。後ろを振り向けば機体は蛇行する。そこを速度を詰められ、捕捉される危険が高くなる。果たして、振り向いたカズマの眼前で、グラマンF6Fの機影は、その操縦士の顔貌すらはっきりと視認できるまでに肉薄していた――
「あ……」
やられる!
「――――ッ!?」
夢――?
夢……そうだ、全てが夢だ。
どちらかと言えばそれは悪夢だったが、嫌な夢ではなかったと思えた。硬いベッドの上に身を横たえたままカズマはゆっくりと目を開け、辺りを伺うかのように目を泳がせた。
そしてカズマはベッドから半身を起こした。気が付けば、何処からか遠来のような唸り声がしていた、それが今自分がいる場所全体に危急を報せるサイレンの音であることに気付くのにそれほど時間は掛からなかった。部屋に一つしかない、格子の入れられた窓から外界を覗くには、カズマの身長は頭二つ分程足りなかった。それでも意を決し、カズマは飛び上って格子を掴み、懸垂の要領で自らを外界の臨める高さまで持ち上げる――
「……?」
土煙を上げ走り回る軍用車両、同じく慌しく周辺を行き交う人影、人影、また人影――それが戦闘を目前に控えた基地の様子であることに思い当たるのに、カズマが要した時間は少なかった。
空襲――!?「大変だ!」
外から施錠された扉まで取って返し、カズマは叫んだ。
「オイ! 敵襲か? 敵襲なのか?」
「うるさい! 縄付きは縄付きらしく部屋でじっとしてろ!」
憲兵の一喝に怯むようなカズマではなかった。だいいち本当に敵襲ならば、此処もじきに危うくなる。
そのとき――
待てよ――あることに思い当たり、カズマは絶句した。
バクルはどうなる!?
そしてフラウは!?
この島々から逃れるべく踏み入れたはずの島――この泊地で唯一民間人に開かれた場所――は、至近に迫った敵襲を前に、すでに浮き足立つ軍の占有するところとなっていた。そして本来ならば彼らに守られるべき民間人であるはずのフラウたちはその混乱の中で、波浪に翻弄される岩礁のように、明らかに孤立していた。もはや基地は彼らが招いたはずの客人に対する丁重な態度を保っていられるほど、精神的な余裕を残しているわけではなかったのである。むしろ殺人的な波乱と喧騒とに身を置く彼らにとって、この場で何の貢献もせず(またはできもせず)、徒に権利を主張してばかりいる民間人の存在など、邪魔なものでしかなったのだ。
「どうして今になって飛べないのよ!?」
シンシア-ラプカはまだ諦めてはいなかった。特別便のキャンセルを告げた係官の襟を掴まんばかりの勢いで彼女は声を荒げるのだった。そこに日頃の冷徹なまでの平静さなど、誰も見出すことは出来なかった。
「戦時下ですから、従って頂く他ありません!」
「私たち民間人に、ここで死ねって言うのあなたたちは!」
「規則ですから! 定期便は出せないんです!」
「フラウ……」
二人のあまりに非建設的な遣り取りを遠巻きに窺いながら、ルイ-コステロは溜息とともに、そして諦観の混じった眼差しで傍らのフラウを見遣った。生還を諦めないシンシアとは対照的に、若かりし頃は戦場に身を置いたことのあった彼にはすでに前線たる此処で不慮の死を迎える覚悟がすでに存在していた。だが自分の傍らの天使――フラウ-リンだけには、自分たちとは違う途を与えてやりたかった。ただ……彼にしてもそのための方法が判らなかった。
その彼の眼差しの先で、フラウは泣く事も無く、または失望を顔に出すことも無くただ黙々と眼前の遣り取りを見詰めていた。その面に表れていた平静さに、コステロは内心で驚愕を覚えたものだ。少女は確かに、至近に訪れるかもしれない未来をすでに受容していた。
「仕方ないわ……」と、フラウは言った。
「避難所ぐらいあるでしょ。そこで時を待ちましょう?」
「フラウ……?」
「こんなときに周りに当り散らかすなんて……見苦しいったらありゃしない」
「……?」
平静でいて、だが辛辣なフラウの言葉に、コステロは言葉を失った。だがその脳裏でフラウの感慨に賛同する彼がいることも確かだった。コステロはフラウに頷いて見せ、未だ喚き続けるシンシアの元へ歩み寄り、その節くれ立った腕を伸ばすのだった。
「……!?」
シンシアが係官を詰る声を止めて振り向いたとき、彼女の腕はすでにコステロの図太い掌中にあった。
「何をするの? 離して!」
「シンシア!……もう止めないか」
「ルイ……?」
シンシアが言葉を失ったのは、何時にないコステロの眼光の烈しさに気圧されたためだけではなかった。急に取り戻した冷静さの中で、今更のように取り乱した自己を恥じ、俯く彼女に、コステロは言った。
「フラウが見てる」
「……」
涙に汚れた目元もそのままに、シンシアは頭を上げてフラウを顧みた。
呆然とした彼女の視線の先で、少女はただ無言、だが毅然として彼女のマネージャーを見返している。
「――船長!」
イルク-レイナス甲板長の指差す先では、泊地の主とでも言うべき巨大戦艦の一群が、一斉に機関を始動する轟音を奏で始めていた。煙突から濛々と生じる黒煙の柱は一層にその数と量感を増し、未だ推進に必要な出力を確保できない巨艦の周囲では駆逐艦や護衛艦が低速で港内を駆け回り、厳重な対空警戒に取り掛かっていたのだった。
クルス-フォルツォーラ船長は船員用の宿舎から出、眼前に広がる光景にただ無表情に目を細めた。幸か不幸か、困難な航行を成功させ、貴重な補給物資をもたらした彼らに宛がわれた宿舎は、島々の中では「楽園」とでも言うべきマウリマウリ島に置かれ、その外庭から港内を一望できる位置にある。
「フネは大丈夫かな……」
そう呟いたフォルツォーラ船長が臨む位置の遥か先の港内では、脱出準備に入っている数多の艦艇群に混じり、彼らの母船たる「アリサーシャ」号が、その迷彩された巨体を浮かべているはずだった。そして現在、この泊地を仮初の根拠地としている輸送船や民間船は「アリサーシャ」号の他に89隻の多きに達していた。
「あいつら……俺たちを見捨てて港からトンズラこく積りらしいですぜ。」
「愚かなことを……!」
と、フォルツォーラは言った。それ口調の中には、理不尽な振る舞いに奔る軍への怒りよりも、愚行を犯そうとしている彼らに対する憐憫の感情の方が多分に強かった。背後に控える機関長レイモンド-ロックを顧み、フォルツォーラは言った。
「『アリサーシャ』に連絡は取れたか?」
「すでに通信は確保してあります。連絡艇を出してくれるそうです」
「急がせろ……出来るだけ早くフネに戻りたい」
「それからどうします。船長?」と、レイナスが聞いた。
「そうだな……逃げられるところまで、逃げてやるさ。但し艦隊とは逆の方向に――」
「船長―――!」
高台の宿舎と麓の歓楽街とを繋ぐ登り道を、重厚なディーゼル音が唸り声を上げつつ駆け上ってきた。オリーブドラブの無骨な車体と、ナンバープレートから、軍用の中型トラックであることぐらい一目で判った。そしてその荷台から声を荒げ、フォルツォーラ船長たちに手を振る人影には、彼らは見覚えがあった。果たして、彼らの前でドラムブレーキの乱暴な軋みを立てて止まったトラックからは、荒くれ者の乗組員たちが座席と言わず荷台と言わずぞろぞろと降り立ち、フォルツォーラ達の前に集まってきた。
「どうしたんだ? それは!」と、トラックを指差しレイナスが怒鳴った。
「麓の憲兵司令部からかっぱらって来たんでさぁ!」
「盗んできただぁ!? お前自分のしたことが判っているのか?」
「キーを付けっ放しにしとくアホが悪いんですよ!」
と、乗組み員たちは笑顔を見せた。其々の汚らしい口元から除く黄ばんだ歯、所々が欠けた歯、金歯が、彼らに全幅の信頼を寄せる船長には眩しいものに見えた。最先任の甲板員がヨレヨレの作業服姿もそのままに進み出、暴飲に荒れた濁声でフォルツォーラに集合を申告した。
「船長! 非常呼集を受け、全員参上いたしました! 以下省略――!」
フォルツォーラは苦笑を浮かべて頷き、言った。
「この通り、愉しい休暇は取消しだ。さて諸君、こいつで我々の家に戻ってさっさとこんな糞溜めから抜け出すことにしよう!」
「アイアイサー!」
だが――
軍用車を借り切った、周囲の混乱を無視したかのような男たちのピクニックは、麓の街に達した瞬間に唐突な挫折を強いられることとなった。とっくに軍属の人影が消え、軍用車のみが忙しげに行き交う歓楽街の大通りに出たところで、一人の人影が腕を広げ唐突に彼らの前に立ちはだかったのである。それに気付いたのは運転手ではなく助手席にいた船長だった。
「止めろ!」
前のめりに急停止した反動で、危うく頭から前面に突っ込むところを回避した船長だったが、彼が自分の下した決断を後悔することとなった理由は、それだけではなかった。その若い艦隊士官は、いきなりにトラックの座席に乗り移ってきたのである。
「このバカヤロー! 死にてぇのか!?」
「頼む、乗せてくれ。礼はする」
と、士官は甲板長の罵声に切実なまでの表情を以て応じた。唖然として指示を仰ぐ甲板長と運転手に、フォルツォーラは無言のまま頷き、そして再び走りだしたトラックの中で、彼は落ち着いた口調もそのままに士官に聞いた。
「行き先は埠頭でいいんだろ?」
「違う、此処の憲兵司令部だ」
「なに!?」
船長は我が耳を疑った。横にいた甲板長も運転手も同様だった。さすがに抗議の声を上げようとした甲板長の機先を制するかのように、士官は続けた。
「頼む!……親友が、あそこにいるんだ」
「てめえの飲んだくれの親友なんか知るかよ!」
「飲んだくれじゃない! 女たらしだけど……」
「じゃあ尚更気に食わねえな!」
「喧嘩はやめないか!」
フォルツォーラが色を為して甲板長を嗜め、士官に向き直った。灰色の瞳にくすんだ金髪……艦隊の制服の上にフライトジャケットを纏っていることを除けば、実直な好青年という印象を、若い船長は今更ながらに受けたように思った。年の頃は、恐らくは自分とそう代わり映えしないはずだ。
「あんたにとって大事な人間か?」
「命の恩人だ」と、青年士官は言った。それが嘘ではない事を、フォルツォーラはその灰色の瞳の輝きから悟った。
「行先を変更する。憲兵司令部へ」
「船長!」
「こいつは死ぬ気で車を止めに来た。それぐらいの価値がある奴が、営倉にはいるんだろう。行ってやれ」
「……」
甲板長が無言で針路変更を促す。不承不承、運転手がハンドルを回し始めた。それは憲兵司令部の方向だった。再び速度を上げ始めた車内で、フォルツォーラは青年士官に言った。
「少尉さん……そう言えば、未だ名前を聞いてなかったな」
「バクル……クラレス-ラグ-ス-バクル少尉だ」
名を出した直後、微妙な空気が運転席を一過したかのように、その場の誰もに感じられた。
「ふうん……艦隊も人手不足なんだな。最近じゃあ、寝返ったレムリア人も無条件で雇ってくれるのか?」
「それでも、数は未だ足りないがね……何なら君たちもどうだ?」
「ハハハハ! 我々は輸送船乗りだ。ヤバイ目ならあんたら軍人以上に遭わされてるよ」
全速で走るトラックが金属柵に囲まれた憲兵司令部の正面を潜る。本来なら街の治安維持に当たっているはずの人員の殆どが島内警備に出払い、本部の警備は手薄となっていた。そこが彼らの付け目だった。正門警備の憲兵の罵声を背後に浴びながら、トラックはブレーキの音もけたたましく憲兵司令部の正面玄関に滑り込み、船乗り達は命令されるまでもなく荷台を降りて建物の中に駆け込んだ。
「貴様ら何をする!?」
「仲間を乗せに来たのさ」
不埒な闖入者を制止しようと出てきた憲兵は見る見るその数を増し、フォルツォーラは困惑気味にバクルを見やった。留守司令らしき丸眼鏡をした痩せぎすの憲兵少佐が進み出、勝ち誇ったような表情も豊かに声を荒げた。
「貴様らに告ぐ、バカな考えはやめてすぐに解散しろ。さもないと公務執行妨害で拘束するぞ!」
「どうする?」と、フォルツォーラが聞いた。バクルもまた内心で苦渋する。このままでは、彼らもミイラ取りよろしく虜囚とされてしまう。その間、態勢を整えた憲兵たちが短機関銃(SMG)を構え、バクルとフォルツォーラたちを包囲するようにじりじりと距離を詰めて来ていた。だが――
「少佐、お電話が入っております」
「今は忙しいんだ。あとにしないか」
「それが……」
部下の煮え切らない態度に舌打ちし、オフィスへと戻った憲兵指揮官は、それから三分も経たずして戻ってきたときには、蒼白な表情をしていた。指揮官は憔悴しきった表情もそのままにバクルを指し、替わって電話に出るよう促した。果たして、電話を取ったバクルを待っていたのは、聞き覚えのある彼の提督の声だった。
『――撃墜王と君のことは187飛行隊のバートランド少佐から聞いた。バカ面をした憲兵指揮官とは私が直接話を付けたから、後は存分にやりたまえ』
「有難う御座います。ヴァルシクール提督……!」
形勢は、逆転した。
勢いと営倉を開く鍵とを得、男たちは再び一斉に駆け出した。地下へと続く階段に達したところで、すかさず、フォルツォーラの指示が飛んだ。
「営倉は地下だ。急げ!」
地下に踏み込んだ途端、厳然と居並ぶ個室の連なりを前に困惑する乗組員の肩を叩き、フォルツォーラは聞いた。
「どうした?」
「他の囚人はどうします?」
「どうせこの島じゃ逃げる場所は無いも同然なんだ。今日は特別サービスってことにしておくよ」
「そうですね。これから人手も必要なことだし」
――それまでの空襲とは明らかに趣の異なる外の異変に気付いたカズマがドアの傍へ近付き、窓を覗く灰色の瞳と目を合わせた瞬間、カズマは飛び上がらんばかりに驚いた。
「バクルか?」
「カズマ! 今開けてやる」
「このガキが、女たらしだって?」と、レイナス甲板長がバクルを押しのけるように部屋を覗き込む。そこにフォルツォーラの姿も加わり、カズマはバクルに加え小窓から自身を覗き込む見知らぬ男たちを、唖然として見詰めるのだった。そしてカズマは、眼鏡をした若い男が、自分の姿をまじまじと見詰めるうち、急激に顔色を変えていくのに気付いた。
「――!?」
「……?」
「名前は?」と、あたかも混乱から気を取り直したかのような口調でその眼鏡の若い男は聞いた。
「……ツルギ-カズマ」
「……ツルギ?」
眼鏡の男の表情が、再び固まった。それにカズマが暗雲を漂わせたかのような怪訝さを顔に出して応じた次の瞬間には、彼は手ずから鍵を使い、ドアを開けた。
「何か?」
「……いや、何でもない」と、フォルツォーラはカズマから目を逸らそうとして失敗した。それは明らかなまでにカズマにも判った。何故なら、視線を落としたその眼差しの先に、彼は明らかにカズマの腕に巻かれた環を見て硬直していたから――
「あの……何か?」
カズマの声に、今更ながらに我に返ったフォルツォーラが何かを言いかけたそのとき、レイナス甲板長が口を挟んだ。
「……で、あんた方これからどうするんだい? この巡り合わせだ。何ならうちのフネにでも厄介になるかい?」
「ファッショル島まで行きたい」と、カズマは言った。空へ上がりたいという一途なまでの思いから、すでに自分に奇妙なまでの興味を示した若者のことなど、彼は忘れてしまっていた。
「ファッショル島? 俺らとは反対側のコースじゃねえか!」
「頼む! 連れて行ってくれ!」と、バクル。
「行ってどうする? 死にに行くのか?」と、フォルツォーラは戸惑い気味な口調で言った。営倉の青年に、自身の仕える船長が異様なまでの遠慮を示していることに、彼の忠実な甲板長はそのとき初めて気付いた。
「ぼくらは戦闘機乗りだ。迎撃に上がらないと……」
「こんな時にナイト気取りか? もう少し現実的な生き方を考えようや。ねえ船長」
「ツルギとか言ったな? 空に上がってどうする? 殺されるぞ」
「敵機を撃墜す。それにはファッショル島に行くしかないんだ」
「船長!」と、レイナスは困惑気味な顔をフォルツォーラに向けた。そして彼の遠慮がちな視線の先で、船長はすでに先程の原因不明の困惑から立ち直ったかのようだった。
「……レムリアンをぶっ潰す自信はあるってか?」
「だから空に上がるんじゃないか」
「なるほどな……」納得したかのように頷いたフォルツォーラが、再びカズマに向き直ったそのとき――
「船長――っ!」
息せき切って地下に駆け込んできた乗組員たちを、フォルツォーラは顧みるようにした。「どうした?」
「迎えが来ました!」
「迎え?」
「フネのやつらまさか……!」
フォルツォーラとレイナスは互いの顔を見合わせる。直後に二人の間に漏れる苦笑に、カズマとバクルが疑念を抱く暇すら与えまいとするかのように、フォルツォーラは二人を顧み、無言で外へ出るよう促した。
すでに混乱の極みに達した営庭で待ち構えていた巨大な物体に、外に出、久しぶりに外気を感じる暇も無くカズマは驚いた。
「あ……!」
「連絡艇か?」驚きは声を上げたバクルもまた同じだった。憲兵隊司令部の敷地直上でホバリングを続ける、細長い船体への錆食いも痛々しい旧型連絡艇が、航行規則を犯して陸地に乗り上げてきたものであることぐらい、ふたりにも容易に察せられた。そして連絡艇の船体上部から覗く煙突からは、黒々とした黒煙が間欠泉のように濛々と吐き出されていた。
彼らの船長の姿を地上に見出すや、連絡艇は悠然と地上スレスレまで高度を下げ、そして地上で待つ彼らの仲間を乗せるべく折り畳み式のタラップを下ろす。それに気付いた憲兵隊の警備指揮官が、囚人を制止していた腕を振り、色を為してフォルツォーラたちを怒鳴りつけた。
「貴様ら! 法規違反だぞ! あのガラクタをさっさと退けろ!」
「今は非常時でしょ? 隊長さん」と、素っ気無い口調で警備部隊指揮官に言い、フォルツォーラはカズマたちを船内に招じ入れる。オイルの匂いが不快なまでに充満する船内では、先に乗り込んだレイナス甲板長たちにより、降下により一度下がった出力を再び上げるための石炭補給作業が始まっていた。機関部と連結する竃の中に、スコップで直接石炭をくべている部下たちを一瞥し、形ばかりの船橋に立ったフォルツォーラが、すかさず指示を下した。
「針路0‐9‐0。総員見張りを厳に、全速で港を出るぞ。目標はファッショル島」
「正気ですか。船長?」
「私がこれまで、いかなる時も素面でしか指示を下したことは無い。それは甲板長の君が一番知っている筈じゃないか?」
「わかりました! それならば依存はありません」
「船長!」
とフォルツォーラに呼び掛けたのはバクルだった。「ありがとう!」
「空に出るんだろう? 謝る暇があったら、今のうちに生き残るための計画でも練っておくんだな」
フォルツォーラが素っ気無く応じた直後、機関室からレイナスの声がした。
「船長! 蒸気圧安定しました!」
「上げ舵三度。推進器クラッチ繋げ! 上昇して五秒後に出力を全開する!」
「アイアイサー!」
……連絡艇は緩慢な動きで、だが着実に高度を上げ、そしてファッショル島目指して船首を廻らしていく――
ファッショル島では、至近に迫った敵襲を前にして、緊張や恐怖とは全くに趣の異なる、奇妙なまでの熱狂が生まれていた。
「ようし、一丁やってやるか!」
キース‐R“キャット”グラフトン大尉が陽気に叫び、飛行装具を手に駆け出した。戦闘航法学校(FAS)の出撃で、彼が真っ先に出るのは何時もの事だった。その点、グラフトンは隊のムードメーカーと言ってもよかった。そして彼の仲間たちも仮設の集会所から一斉に飛び出し、グラフトンに続く。
彼らの駆ける先には、教導仕様から戦時塗装に戻されたジーファイターの列線が、新品のような真新しい輝きを放っていた。日常の演習では定例の、空域の制限も高度の制限もない。そしてまだ見ぬレムリア機に対し、彼らは地の利と絶対的な勝算を持っている。
一番乗りを目指して愛機の操縦席に腰を滑り込ませた直後、“キャット”グラフトンは自らの目論見が完全に外れたことを悟った。列線の最右翼――飛行隊長の指定席――では、彼らの指揮官たるリン-レベック“サイファ”ランバーン少佐が、既に何食わぬ顔をしてバンドを締めている。
「……!」
唖然とするグラフトンの眼前で、リン-レベックはしたり顔もそのままに、エンジンを起動させる手振りを見せた。ポンプを使って燃料を注入し、点火スイッチを捻る。スロットルを始動位置に押し開く。スターターモーター起動――ただそれだけで、ジーファイターQBの空冷星型14気筒エンジンは目覚め、プロペラの回転と共にけたたましい爆音を発しながら機体は誘導路を滑り出す――
『――ウォッチ-タワーよりアプリコットへ、高度4000(エンジェル40)まで上昇後、針路0‐3‐4――以後無線交信はチャンネル9にて行う』
管制は完全に戦闘航法学校の指揮下に置かれた。風防を開け放ったままの操縦席に風を受けながら、“サイファ”とQBは上昇を続ける。高度3000(エンジェル30)に達したところで酸素マスクを装着する。喉頭式のマイクを掴み、無線機の調整を為し一息つく。その間も、両の眼はいち早く警戒空域に入って来るであろう敵機の機影を捉えるべく、操縦席から左右上下ヘ巡らされている。刺客の接近に備えるため、あるいは僚機に先んじて獲物を捉えるため――
地の利こそあるが、事態は急を要する。そして彼女の部下は、単独でも友軍を見つけて合流し、敵に当たれるだけの巧者が揃っている。それを知っているからこそ、リン-レベックは非常時に際しても安心して指示を下すのだった。
「アプリコット-リーダーより各機へ、各個に高度4000まで上昇後、敵攻撃隊との接触まで二機編隊を維持、接触後相互に援護しこれを邀撃せよ」
『了解!!』
「フォーメーション『W』か……ランバーン少佐張り切ってるな。飛びっきりの切り札を出してくるとは」
と、離陸に続く上昇の途上、その向かう前方にリン-レベックのジーファイターを見出したとき、シーモア‐N‐“マイティ”ハリス大尉は生暖かい酸素の流れるマスクの下で微笑を湛えながらに言った。それは彼ら隊員にしても望むところだった。自分たちがこれまでの月日を、空における烈しい練磨と陸における精緻な研鑽に費やしてきたのは、まさにこの日のためではなかったか?
リン-レベック直属の4機、グラフトン、ハリスの率いる各4機の計12機――編隊は上空で集合し、やがて二機ごとの六個分隊に別れてレンヴィルを抜けた。その後に、追求してきた他部隊のジーファイター16機が、編隊を組む間も無く続く――だが部隊として編成間もない彼らと、リン-レベックの隊とでは持てる技量と経験に格段の差があった。編隊の密集度と上昇速度に、それは如実なまでに現れていた。
「……!」
絶句と共に見遣る前下方――粒のような敵機群の背景を為す層雲と雲海との絶妙の配列が、邀撃隊のリン‐レベックに此方の優位を確信させた。
「敵機発見――高度3000、数多数!」
『――ウォッチタワーより邀撃隊へ、新たな敵編隊、泊地南西空域より接近中! 距離12空浬! 多数! 20……いや30はいる!』
「……!?」
衝撃――そして下位から急上昇に転じ眼前に迫る敵影の連なり。
多方向より迫る敵機に当たるには、こちらの数はあまりに少なく――
――そしてこちらが引き返し、態勢を整えるために距離を置くには、もはや遅かった。




