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第十六章 「嵐、迫る」


 初めて自分の力で空を飛んだのは、16歳になるかならぬかの春のことだ。


 正式名称、三式初歩練習機。おそらくこれ以上にお粗末な造りの飛行機を、少年はこれまで見たことは無かったし、そしてこれから先も見ることはないであろう。

 胴体、複葉の主翼はいずれも儚さすら感じられる羽布張り、カウルすら掛けて貰えなかった剥き出しの空冷星型エンジンは100馬力程度の出力しか出せず、そしてそれ故に装備は空を飛ぶ利器として最低限の機能と装備しか持たない、単機で離陸はおろか着陸すらままならない飛行機とは名ばかりの代物――当時吹けば飛ぶような飛行練習生だった少年にも、それは一目見たときから容易に察せられた――事実、それは少年が操縦桿を握った途端、克服困難にも思える現実として彼の前に突き付けられたものだ。


『――弦城練習生、何度言ったらわかるんだ?』

 一度空に上がれば、教官の叱責は少年の背中に容赦なく降り掛かる。機体の操作、周囲への注意、空間の把握――年端もいかない練習生は未だ自分の置かれた環境に慣れるか慣れないかの内にそれらをほぼ同時にこなす事を求められる。何故ならそれら一つを怠った者に、空は決して容赦することはないから――


『――方向舵の操作は正確に! 腕で飛行機を飛ばそうと思うな。飛行機は脚と肌で飛ばすものだ。飛びながらでいい、肌で感じたことを即座に脚に反映させられるよう、舵の感触を身体にしっかりと叩き込め』

『――針路1‐6‐0ヨーソロ。水準儀が右に揺れとるぞ。ちゃんと計器を見ろ!……外の景色だけに頼るな。貴様が飛ぶ場所は陸地ばかりではない。洋上飛行では計器が読めんと命取りになる』


 その空への夢を投げ出すまで、永遠に続くかに思えた苦痛と煩悶の日々。

 それらが報われたと感じられる刻は、その頃の少年にとっては未だ遠かった。




 それでも――時は進む。

 厳しさと希望の中に教程が進み、練習航空隊という新しい任地の空気にも慣れ始めたように感じられるようになったある日のこと――


「――弦城練習生、単独を許す。すぐに準備をしろ!」

 午前の教習が終わりに近付き、広大な飛行場が再び静寂に包まれようとしていた頃、早足に歩み寄ってきた教員が弾んだ声で発した言葉の意味を、カズマは最初量りかねた。だがその真意が念願の単独飛行の許しであることを少年が察するのに余り時間は掛からなかった。


「――……っ!」

 練習機の列線に駆け寄ったところで、思わず立ち止まる。

 列線の一隅では、すでに教員の意を受けた整備員が砂袋を担ぎ前席に積み込みを始めている。本来ならば練習生の指定席である筈のその場所に、整備員二人掛りで乗せられた砂袋が何を意味するか理解できない練習生は霞ヶ浦海軍航空隊には最早いない。教程としての単独飛行そのものはすでに始まっていて、数馬の同期から単独飛行に臨む者もまたぽつぽつと出ている。もし最後までお呼びが掛からなければ――


 だからこそ、早い単独飛行の許可は少年には嬉しかった。



「――弦城練習生、只今より初歩練習機による単独飛行に出発いたします!」

「――行って来い!」

 敬礼し、申告を終えた数馬に教員は白い歯を見せて笑い掛けた。すかさず延びた掌が強かに数馬の肩を打つ。彼なりの激励を受け、それに弾かれたかのように数馬は鮮やかな挙動で操縦席へと駆け上る。座席に腰を下ろすや慣れた手付きでバンドを締め、そして計器類の確認――教程を開始して最初に戸惑った穴倉のような狭苦しい操縦席とそこに滞留する機械の臭いに、数馬の体躯と感覚はすでに慣れていた。


 凧のように儚い造りの、だが無骨な上翼に遮られた空を睨む。

 大きく息を吸い、そして吐く。

 同時に、風が広い草原を駆け抜ける音を聞く。

 静かだ……やけに静かだと思った。

 だが……それが有難いと少年は思った。


「――始動準備良し!」整備員が叫ぶのを聞く。

「――始動(コンタクト)……!」

 不覚――声を上げたつもりだが、思うように声が出なかったことは、怪訝そうに操縦席を見上げる整備員の表情から判った。何時の間にか浸透を果たしていた緊張が、少年から声を出す力と勇気とを奪っていた。

「コンタクッ!」

 操縦席でトグルスイッチを捻る数馬と、外でプロペラを回す整備員との意思が合い、そして初歩練習機の木製二翅プロペラは何度か息を突いた後、ゆっくりと、そして急激に回り出す。単調な発動機の音を聞きながらに、数馬はスロットルを動かし、そして操縦桿を倒し、フットバーを左右に踏み締める。正常に舵が作動していることを、地上の整備員が手振りで教えてくれる。


 格納庫の方向を、数馬は顧みるようにした。プレハブ造りの格納庫の天辺に立てられた吹流しは、風が北西方向に向かって吹いている事を教えてくれる。直進離陸に必要な舵の取り方を図る上で、風向は重要な指標となるから、風向には神経質になった。

 溜めていた息を吐く。エンジンの回転が一定したところを見計らい、数馬は両の掌を額の辺りにまで掲げ、そして開くようにした。主脚を固定し地上と機体とを繋ぐ車輪止めを外す合図だ。


 風上に向かい、ゆっくりと機首を廻らせる機体――

 学んだとおりに、ゆっくりとスロットルを離陸位置に開く――

 翼端の取っ手を握り、ゆっくりと、だが不快に揺れながら動き始めた機体を地上で誘導する整備員の手を離れた機体はやがて、緩慢に草原の滑走路を歩み出し、それは時を追って疾走へと変わる――

 風を得るべく忙しなく揺れ始める操縦席の中で――

 ほんの数週間前の――

 教員の背に負われる形で迎えた初飛行のときと似た感動を――


 少年は再び得ようと(まなじり)を決する。




「――219号、219号!」

『――!?』

 快い無意識の内に傍若無人に飛び込んできた硬質な声は、夢中の少年を忽ち現実の虜囚という立場に引き戻す。

 目を開けると、ツルギ‐カズマは堅いベッドから半身すら起こさずに声を投げ掛ける方向を見遣った。分厚いガラス付きの覗き窓と、食事を差し入れる口しか持たない鋼材剥き出しの分厚いドアが、声のした(みなもと)だった。


「……?」

『――面会だ。すぐに支度をしろ』

 営倉のMPの指示に、カズマは億劫そうに身体を起こす。

「う……!」

 途端に顔面に突き刺すような疼痛を感じ、思い出したように鼻を押さえたのは、そのときだった。

 形のいい鼻は、ここに入れられた少し前から、分厚い絆創膏の覆うところとなっている。



 憲兵の偉い人かとも思えた面会の相手は、カズマにとって意外な人物だった。

「やあ色男……アイドルと駆け落ちした感想はどうだい?」

「よしてくれよ……バクル」

 面会室で、満更でもない風にはにかむカズマだったが、痛々しい鼻柱を庇う様子には、さすがのバクルも眉を顰めざるを得ない。

「どうしたんだ?」と、先に聞いたのはカズマだった。

「発進の直前でエンジンがトラブってね……この通り、置いてきぼりさ」

「おれも……ね」

「君は女性関係の縺れだろう?」

 二人は同時に笑った。口を開けようとした途端に鼻柱に走る疼痛に、カズマは慌てて蹲る。面会机から対面するカズマを覗き込むようにして、バクルは苦笑した。

「無理もないな。フラウ-リンに手を出したんだ。MPと(いえども)もムキになるってもんさ」

「うう……」

 そう言われた途端、カズマは苦笑気味に俯いた。むしろあの時MPは、カズマを災厄から守ろうとしてくれた方なのだが――



 ――ジーファイターを降りたカズマが連行されたレンヴィル泊地の憲兵隊(MP)司令部は、マウリマウリ島に置かれている。

 兵器たる航空機の無許可持出及び訓練空域の無許可使用、そして無許可の民間人搭乗――ラジアネス航空艦隊軍規では、それらの行為の内どれ一つとっても一万スカイドル以上の罰金もしくは三ヶ月以上の懲役刑の対象となりうることを意味している。つまりはこれらの行為を犯した時点で、連行される前からカズマの未来は決まっていたも同然だった。


「あの野郎、犯罪歴(・・・)までこの俺に張り合おうってのか?」

 と、報に接した“レックス”バートランドは苦笑交じりに呟いたものだ。搭乗員控室にはバートランドの他飛行隊の主だった士官もすでに揃っていて、基地憲兵司令部からの報を待っていた。だがその何れの顔色も、バートランドの余裕ある表情につられたのか、切迫した装いを感じ取ることは出来なかった。


「やれやれ……無茶をするんなら勲章をもらって箔を付けてからでもいいだろうに」

 と、バートランドの傍らに座る「ハンティントン」軍医長ブフトル-カラレスがバーボンのグラスを傾けながらに言う。本来ならば艦内飲酒厳禁の筈が、そのような規則からは「ハンティントン乗組員ラジアネス市民代表」を自任(自称?)して止まないこの男は超然としていた。


「……で、坊やは隊に戻れるんですか?」

 と、第187飛行隊副官の“ラムジー”キニー大尉が言った。バートランドがカズマの属する第187戦闘飛行隊(VF-187)の戸主ならば、キニーは実質的な女房役といった観がある。一同の中で唯一、硬い表情を隠さないキニーを顧み、バートランドは言った。


「今は非常時だ。そっちの方は俺が何とかする」

 “レックス”バートランドの「何とかする」は、飛行隊に属する全将兵にとって魔法のランプを使う呪文のような意味があった。うちの隊長は上級の司令部にも十分顔が利く、本格的な作戦が始まる前に飛行隊の貴重な「戦力」を「奪回」することなど、雑作ないようにこの場の誰もが考えている。


「それにしても坊やも大胆ですな。よりにもよってあの美少女に手を出すなんて……」

 同じく第187戦闘飛行隊(VF-187)幹部の、“オックス”オービルマン大尉がこの時三本目の煙草に火を点けながら苦笑混じりに言った。それは発言の主の真意に関係なくこの場の話題を変える意味も持っていた。


「いい女なら、この(フネ)にも腐るほど積んであるだろうに」

「そうですよ。特に艦橋勤めのハーミズ少尉とか」

「いやいや、一番はやっぱCICチーフだろう。あの甘ったるい目つきなんか特に……」

「そのセイラス大尉は、向こうからあの坊やに手を出そうとしてしくじったそうですよ」

「おれはそのままやっちまったって聞いたぜ?」

「そういやボーズの機付の、あの空兵もイカすよなあ」

「あれはダメダメ、ボディはトップクラスでも脳味噌の中は空兵だからな、下手に手を出したら殺される」


 下世話な方向に急激な転換を見せたその場を収めたのは、苦笑遣る方ないバートランドの一言だった。

「とにかく!……うちのボーズは、雛罌粟(ひなげし)のように可憐で胸とお尻の小さな女の子がお好みなのさ。お前らよりはずっといい趣味してるよ」

 バートランドは腕時計を覗いた。そして傍らのキニー、オービルマンの両大尉に目配せする。

「総員解散。こちとらそろそろ陸に上がったままのボーズの顔を見に行ってやらんとな……やれやれ、まずは適当な連絡艇を出してくれるよう甲板長に頭を下げなきゃいかん」



 ……だが、バートランドが艦を出る前より早く、カズマの元には「先客」がいた。

「――ここに姓名と階級、所属部隊を記入して」

「はい……」

 マウリマウリ島の憲兵司令部で、憲兵に指示されるがまま悄然と「営倉行き」の手続きに入っていたとき、俄かに外が慌しさを増すのをカズマは感じた。と同時に身を震わす悪い予感もまた――草食動物が肉食獣の接近を肌で感じる挙動に、それは似ていた。

「憲兵さん、自分を早く拘留してもらえませんか」

「え?……あ、ああ」

「急いで、早く!」

「君、そんなに急かすものじゃあ……」

 カズマの切迫した口調に対し、平然とした表情を装いながら拘留手続きの書類にペンを走らせる憲兵は、あくまで事務的だった。その間にも、玄関前に急停車で滑り込んだ軍用地上車のけたたましいアイドリング音は、憲兵の制止を眼力で振り切った人影の靴音へと変わり、さらには取調室の向かい側の角にまで近付いてきた。

「早くっ早く!」

「そうは言っても君ね、こういうのにはちゃんとした手続きというものが……」

「看守さん、鍵貸して」

 看守の手から素早く鍵をもぎ取り、いそいそと牢に引っ込もうと――あるいは「避難」しようと――したカズマと、そのカズマを追う様に、角を抜けてついに姿を表した靴音の主の視線が交差した瞬間――


「まずい……!」

「……!」

 通路の角から身を乗り出しながらに、マリノ‐カート‐マディステールはカズマを睨み付けた。だがそれは一瞬だった。カズマをその瞳の中に認め、雷鳴の如く眼鏡を煌かせた彼女は無表情のまま次の瞬間には早足でカズマに向かって近付くと、今まで溜め込んでいたかと思われるほどの怒声とともに拳を振り上げた。

「コノバカァーーーーーーッ!!」

「ちょ!!」

 直撃――まっすぐに突き出された拳は、ほぼ正確にカズマの顔面を捉えた。


 鼻!?……いきなり鼻に行くか?

 凄まじい心身の衝撃――それに対し辛うじて転倒から踏み止まったカズマに、マリノはそれまでの無表情からうって変わり罵声を叩きつけた。

「コノ変態、ロリコン、異常者っ!……あんたの居場所なんかこの世界中何処探したってもう無いんだから!」

「そこまで言うか? お前!?」

 やりたいことをやってのけ、さらに言いたいことを言ってのけると、今度は口喧嘩など興味はないという風に、マリノは憲兵を顧みた。

「ホラ憲兵! コイツをはやく牢にぶち込みなさい! こんな性犯罪者もう一生外に出さなくていいから!……つーか出すな! 縛り首にしろ!」




「――……いてててててて」

 ――過日の記憶を脳裏に浮かべながら、痛々しく鼻っ柱を摩るカズマに苦笑交じりに目を細めつつ、バクルは話題を転じた。

「彼女、今日帰るみたいだぞ」

「彼女?」

「フラウ-リンだ」

「……」カズマから、表情が消えた。

「コンサートの件もそうだけど、あの口喧しいマネージャー連中がタイド島の連中に泣き付いて来たのさ。もうこんな危なっかしいところには居られないって……」

「そうか……」

 無表情の次には、ありありとした落胆が浮かぶ。それがラグ‐ス‐バクルに、次の言葉を紡がせた。

「カズマは、ハンティに戻る気はあるのか?」

「それは……もう判らないな。戻れるかどうかもわからないし……」

「ぼくは、カズマに艦に戻って欲しい。だいいち君が戻らないと、あの艦ではみんなも……そしてぼくもやっていけない」

「……すまない」

 頭を下げたカズマを、バクルは慈しむように見詰めた。

「カズマは運が悪いよ」

「お互い様さ。バクル」


「219号、時間だ。部屋に戻れ」

 冷たい声で、憲兵は告げる。反感を抱くにはあまりに個性の無い響きだった。





 その頃――

 泊地で最も広い島の、かつ最も高い山の頂上――

 その最も重要な部屋の一隅に、無造作に置かれていたラジオは、その受信状態の良好さからか明瞭な歌声で勤務中の部屋の主二人の耳を愉しませていた。何せ山の頂上には島とそれを取り巻く無数の島々の周囲、半径200空浬を覆域(カバー)する格子状のレーダーアンテナが設置されている。そこには本来なら「員数外」の民間放送受信アンテナも「さりげなく」設置されていて、そこに勤務する技術兵に、監視に明け暮れる単調な日々を紛らわせるためのささやかな娯楽を提供している……


『――愛しいあなたへ

 そちらは変わりはないですか?

 草萌える高原の町

 わたしは変わりなく

 あなたの帰りを待ってます

 花嫁修業も板に付いてきました――』


「しかし、ツイてねえよな俺」

 と、レーダースクリーンを為すブラウン管を覗いていたブラシウ三等兵曹が言った。

「何が?」と、その背後の机で報告書を打つタイプライターを動かしていたジルファー三等兵曹は、無関心そうに改行レバーを引いた。


「あの唄の主が、今もこの島に居るんだぜ?」

「リサイタルのことなら、とっくに諦めたんじゃなかったのか?」

 と、ジルファー三等兵曹は再びタイプを打つ指を動かし始める。

「諦めるわけねえじゃん……本当ならあの夜は俺もコンサート会場に居たはずなんだぜ?」

「仕方が無いだろ。ブッチのやつ……虫垂炎だったらしいからな」

「でも何で俺に回って来るんだよ? 代わりなら他にいっぱいいるじゃねえかよ」

 と、ブラシウ三等兵曹は不服そうに言い、乱れがちなレーダー波を調節する。レーダーがこの島――タイド島――に設置される前から、彼らは要員として本土で専門の訓練を受けている。従ってこの巨大な機器のことは、中枢たる回路部から通品塔の尖端にいたるまで自分の身体のように熟知している積りだった。


「お前はコンサート中にも拘らず、見ず知らずの男にホイホイ付いて行くようなバカ女が好みなのか?」と、ジルファー三等兵曹は呆れ気味に言った。

「そういうお前はどうなんだよ?」

「俺にゃあ関係ないね。俺はエボラ-ツィギーのファンだから」

「あのデカパイの淫乱女か!? 道理でお前さんとは話が合わないと思ったよ」

「フン!」

 と、ジルファー三等兵曹は鼻で笑うようにすると、椅子から立ち上がった。そのままコーヒーメーカーのポットに満たされたコーヒーを取りに行く。それまで愚痴を漏らしつつもレーダースクリーンに見入っていたブラシウが、その一隅に生じた異状の存在に気付いたのはそのときだった。


「あれ……?」

「どうした?」

 肩越しにスクリーンを覗き込んだジルファー三等兵曹もまた、そこに現れていた異状に我が目を疑った。フードに覆われた直径30センチあまりの円形のブラウン管の中で、暗闇の蛍のように浮かび上がった輝点は、それ以後決して途絶えることなく瞬き、ブラウン管の中心に位置する泊地へと西進を続けていた。


 あるいは自らに課せられた任務を思い出したかのように、おもむろに電話を取り上げたのは、ジルファーの方だった。

「ウォッチタワー01より基地管制室へ」

『――こちら管制室。どうぞ?』

「未確認の機影が泊地より東方から接近中。照合を請う」

 しばしの通話の中断――やがて管制室付きの士官が、二人の監視要員に当日の運行計画に基づく詳細を告げてきた。受話器の向こう側で、分厚い飛行計画書を捲る音まで聞こえてくるようにも思える。

『――当該機影の詳細判明……ええと、機影はリューディーランド方面からの補充機だ。敵機ではない。繰り返す、友軍機である』

「……」

 安堵――溜めていた息を吐き出し、ジルファーは受話器を持つ手もそのままにブラシウを見下ろした。席からジルファーを見上げるようにしていたブラシウもまた、ジルファーと同じ顔をしている。


 ……そしてレーダーからの報告を受けた管制室では、付近を哨戒するBDウイングに、「空輸部隊」への接触が下令された――




『――ウォッチ-タワーよりバレンタイン02へ、東方より友軍の補充機が接近中。貴官の哨戒機が近い。ひとっ走りして空輸部隊を迎えに行ってくれ』

「――了解」

 レンヴィル基地を根拠地とする第127空兵哨戒飛行隊(VSS-127)所属のBDウイング艦上攻撃機「パシリ(ジョー‐ザ)のジョー(-メッセンジャー)」は、一時間前に飛び立ったばかりの基地からの指示に導かれるがままに増速し、石柱のような雲海を越え、そこでプロペラの回転数を巡航モードまで落とした。「パシリのジョー」機長“ジョー”エスペランザ大尉は、喉頭式のマイクを抑えながら、後席の同乗者に告げた。

「――――まもなく空輸部隊と接触する……ゴードン、このコースでいいんだよな?」

『―――――間違いありません!』


 と、後席に陣取る通信士兼機銃手の“ゴードン゛ライマン二等兵曹が、折り畳み式の航法机に広げた空図を睨みながらに応じた。「パシリのジョー」をはじめ、陸上を根拠とする空兵航空部隊の機体には、一部の艦隊仕様機のように機上レーダーの搭載はまだ始まっていない。「取り付ける」計画はあるのだが、それが何時かは具体的な日程をエスペランザ大尉の様な士官ですら知らされていなかった。ひょっとすれば、旧型のBDを改修するよりも、BTへの機種転換の方が先に来るかもしれない。


 だが当のエスペランザ大尉は現状に満足していた。喩え画期的な新装備とはいえ、海のものとも山のものとも知れない機械に無批判に信頼を置くほど、大尉は寛容な性格の持ち主ではない。三千時間を超える飛行時間に起因する操縦士としての自信もまた、現状を肯定する材料にもなっている。レーダーが無いのなら……



「ゴードン、目を皿のようにして機影を探せ。道に迷われでもしたら迷惑だ」

『――了解(ロジャー)“ジョー”』

 空輸部隊と接触した暁には、こちらは空輸部隊の誘導を任されることになるだろう――それを考えたがゆえにエスペランザ大尉は指示を下し、無限に続くかに思える雲海のさらに彼方へと目を凝らすのだった。知らず、高度を上げて全体を俯瞰したいという本能的な願望から大尉はスロットルを開き、機首の上がったBDウイングは高度の上昇に伴って徐々にその出せる出力を減らしていく――


 高度を上げ、一方で速度を落とし、その行き着く先で大尉は雲海を背景にした機影を見出した。時間はそれほど掛からなかった。高度計に目を遣り、酸素マスクのホースを摘まんで酸素が流れていることを確かめる。爆装していないBDは、戦闘機に負けないほど身軽で、操縦していても愉しい。


『――機長、五時下方に機影。層雲の間から次々に出て来ます……機影、我が方に向かい上昇接近中』

「……?」

 上昇姿勢から乗機を回復させるべく機体を傾け、そして大尉は背後を振り返った――

「……!?」

 急激に曲がり、こちらに近付いてくる白い軌条――それは攻撃機の曳く水蒸気にしては余りに急激に過ぎ、そしてその動きは速い。禍々しく旋回り、此方に向かい来る悪霊のごとき軌条――


「おい!」

 悪寒を伴った絶句は、そのまま脅威を見出し見開かれた大尉の目によりもたらされ、反射的に傾けられた機体の中で乗員たちに襲い掛かる驚愕――

「こちらバレンタイン02……後方より敵機。急速に接近中!――」

「“ジョー”!?」


 迫り来る黒い機影――

 それは、二人の乗員の恐怖に歪んだ眼前であの紅い翼を煌かせた黄色い機首となり――


 それを回避し、逃げ切るには必要な時間も空間も、BDウイング「パシリのジョー」にはすでに失われていた。





「――艦隊司令部より至急電です!」

 泊地を離れた「ハンティントン」が敵との接触を報じる第一報を受け取ったときには、巨艦はすでに攻撃隊を発艦させるべく全速で風上へと艦首を巡らせていた。敵編隊の接近と泊地内の艦船の退避援護を告げる電文は完全な平文で、奇襲を許した友軍の狼狽振りが、その文面からも容易に察せようというものだ。だがそれに対し無関心を装うかのようにラム艦長は彼の背後で息を飲むビーチャ副長に向き直ると、平然とした口調で告げた。


「攻撃隊の発進は予定通り行う。島の司令部には悪いが、こちらに余剰兵力は無い。彼らの裁量で対処してもらわねばならない」

「しかしそれでは、艦長のお立場が……」

「私は軍人という仕事には興味も遣り甲斐も感じないし、この戦場に長居する積もりも無い。彼らが私に対する心象を如何に悪くしようが、そんな事、部下将兵の行く末に比べれば大した問題ではない。私はただこの艦の現在と未来のために、最善を尽くすだけのことだ」

「ヴァルシクール提督のことは、どうします?」


 ラム艦長は口元を歪ませた。当てが外れた時にするような苦笑に、それは似ていた。

「実は事あるを予期し、提督からは他空域まで進出した際の独自行動を認める命令書を頂いてある。正直あれが役に立って欲しくは無かったが、お陰で我々に対する足枷は、これで存在しないも同然だ」

「それで、その後は?」

「本艦は只今より、独自の判断で敵遊撃部隊を捕捉し、これを撃滅する!」

 そう言い、ラム艦長が軍帽を被り直したそのとき――


『――艦橋より報告、機影見ゆ。方位0‐5‐8より単機、進行方向北東。テラ-イリス型と視認』

「見つかったか」

 どよめきを隠せない艦橋の中、それでもさもそれが想定内のことであるかのような平然とした表情で、ラム艦長は言った。

「攻撃隊の発進を急がせろ。指揮はバートランド中佐に取らせる」

「ハッ!」

『間も無く適正風速に達します!』

 途端に、艦首飛行甲板先端に生じる真白い帯――それは艦が一定以上の速度に達したことを示す気流の棚引きだった。



『――攻撃隊乗員に告ぐ。直ちに搭乗し、発進に備えよ! 攻撃隊の目標は敵遊撃部隊。繰り返す! 攻撃隊の目標は――』

「よっしゃ! 一丁行くか」

 煙草の煙の充満する待機所を出て手袋を嵌め、”レックス”バートランド中佐は飛行甲板に居並ぶジーファイターの列線へと歩き出す。泊地の援護か、敵艦隊攻撃か――搭乗員の間でも意見が割れていた攻撃目標を、こちらが飛び上がる前に指揮所が明示してくれたのは有難かった。“ラムジー”キニー大尉がバートランドの後に続き、怪訝な顔を隠さずに言った。


「泊地の援護には行かないんですね?」

「俺たちが戻るべき(ところ)は、あすこにはない」

 素っ気無く言い、バートランドは続けた。

「……だいいち戻ったところで、俺たちにできることなんて何もないさ」

 キニーは苦笑し、話題を転じた。

「坊やのやつ、大丈夫でしょうか?」

「泊地にはリン-レベックたちもいるんだ。それに小僧には生き残る力がある。むざむざレムリアンに殺られはしないよ」

 指揮官専用機を示す白帯を胴体に巻いた愛機の前で立ち止まると、バートランドはキニーを顧みた。

「ジャック!」

「はい」

「艦隊の直援、頼むぞ」

「任せてください!」

「さて、行くか!」

 バートランドは顔を上げた。その彼の視線のすぐ先で、主翼の展張を終えたジーファイターの操縦席付近には、すでに三個のレムリア機撃墜マークが描かれている。だが現在の彼の任務はこのマークの数を増やす以上に重要で、困難な別の処にある筈だった。これより戦爆連合27機の編隊を率い、正確に敵艦隊へ誘導するというところに――


 ――そして攻撃隊は、現在彼らの母艦が運用しうる全力の半分であった。



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