第十五章 「獣は解き放たれる」
雲海――その水面を飛び続ける機影が孤独つ。
回転するプロペラの残像のみが、この世界における唯一の「道」であるかのように、それを何気なく凝視する眼差しの主には思われた。単調な航路は、それを辿る者に航程を妨げんとするかのような倦怠――と、それに伴う眠気――すら催させる。酸素供給マスクのホースを通して喉に流れ込んでくる生暖かい空気は、一層に機内の濁った雰囲気を助長しているかのように思われた。エンジン出力には余裕がある。上昇のために一度上げた過給機の段数を落とすべくレバーに手を伸ばし。突き上げてくるような衝撃とともにプロペラの回転と機の速度もまた、目に見えて落ちた。
「……」
ふと……足元へ落とす視線――
――ニーパッドに挟み付けた空図に引かれた航路は、すでにその半分を消化しようとしていた。
空母「ハンティントン」所属、第27攻撃航空群第15飛行隊所属のBT‐E2ウイング偵察/攻撃機「出来ちゃった婚」号は、ファッショル飛行場を飛び立つや南西に針路を取り、すでに一時間の航程を直線飛行に費やしていた。
哨戒飛行という、母艦と基地の別なくファッショル諸島に展開する飛行隊のパイロットたちにとって、当然ともいえる任務は、ここ一週間でその回数と危険度を劇的なまでに増大させていた。輸送船団への、度重なる敵の襲撃がタイド島の艦隊司令部を慌てさせ、孤立への不安から生じた恐慌は、本来泊地で休養と補給、そして部隊再編と訓練とに専念するはずだったハンティントンの飛行隊からそれらに要する時間を奪う形となった。小艦艇による長距離哨戒や基地に展開させている哨戒飛行隊をフル稼働させるだけでは足りず、厳重な哨戒網を形成する任務は、今のところ最も多くの戦闘を潜って来ている「精鋭」たる母艦飛行隊までにも回ってきている。
よりにもよって、そろそろ練成訓練を始めようかというこの時期に!――不満を抱いたのは、「出来ちゃった婚」号機長たる“ニック”フォークト大尉とその銃手兼通信手 レーダー操作員たる“ピート”モートン少尉とて同様だった。前方の敵に対するものではなく、後方の味方に対する意味合いが強い不満――そして、二人の不満は、何も待ち望んだ休養の時間を削られたことだけではなかった。
「……」
欠伸をかみ殺す。眠気覚ましになるとは思えなかったが、あえてそれを試してみる積もりで、フォークト大尉は長時間の操縦に固くなった背筋を解そうと背後を振り向いた。その彼の視線の先に、本来そこに乗り込んで通信機に嚙り付いている無線手の姿はおろか、座席すらきれいさっぱりに外され、塞がれてしまっていた。
「出来ちゃった婚」号には、本来ならば操縦席と銃手席にの中間に位置する座席に乗り込んでいるはずの、専門の通信手が乗り込んでいない、何故かと言えば長距離索敵/偵察専用機として開発されたBT‐E2ウイングにはある改造の結果として、彼が乗り込むべき中間席が存在しなくなったためである。中間席が潰れた代わりに、かつて中間席が存在したスペースには、最新型のANB‐1A捜索レーダーがその本体を独占するところとなった。他の細かい変更には、機体両主翼下面には指向性レーダーアンテナが据え付けられ、アンテナは後席に陣取ったモートン少尉の操作により、飛行する機体の全方位へ絶えず捜索電波を発し続けている。
中間席を潰すほどに嵩張るだけあってレーダーの精度は高く、駆逐艦クラスの大きさの目標ならば40空浬先の距離から捕捉することができ、周波数の変換により目標の方位、距離はもとより形状すら表示装置のブラウン管上に映し出す。ただしレーダーアンテナの数と同じくそれらを管制するスクリーンも左右ふたつ。ふたつのレーダーアンテナはそれぞれ機体左右180度方位を走査するのだから、結果としてレーダー手による管制操作もまた煩雑となっている。レーダー手をもうひとり搭乗させて、左右個々にレーダー捜査を受け持たせるべきでは?……という、困惑交じりの疑念は、当然実施部隊からも生じていた。そのあたり、未だ運用実績の蓄積による改善待ち、と言うべきだろうか?
BBBこと、セシル‐E‐“バット”バットネン空兵隊中佐が有力なレムリアンの編隊に襲われて戦死した翌日に、こいつが基地にフェリーされてきたのは、まさに皮肉としか言いようがない、とフォークト大尉は思った。何故なら搭載容量の大きいBTウイングの拡張性の高さを見抜き、将来の有力な航空装備として強力な電子兵装の開発と搭載とを主導し先鞭をつけたのは、当時艦隊兵器センターで、レーダー搭載試作機のテストパイロットを務めていた“バット”バットネン自身であったから――いわばこいつは、我々に対するBBBの大いなる遺産だ。遺された我々がこいつを熟成し、最適な戦い方を編み出すのだ。
「――“ピート”、これより索敵機動に移行する」
『――“ピート”」
後席の短い返事がイヤホンを打つ。相棒の返事を受け、フォークト大尉は「出来ちゃった婚」号を右旋回に入れた。バンク角を深くは取らない。実戦では決して役には立たない緩慢な、半径の大きい右旋回。それが続く間、後席の“ピート”モートン少尉は敵の接近が予想される旋回の外――左のレーダースクリーンのみに注意を傾ける。同時に二つの電子機器を使いこなす超人はおいそれとは居ない。常人がBT‐E2を使いこなそうと思えば、旋回を続けて左右個々のレーダーアンテナを使うしかない。これでもE2は、搭載レーダーの捜査距離と範囲、反射解像度において、ほぼ前方しか捜索できない標準型よりも格段に勝る。高性能を生かすための使い辛さとも言い換えることができるかもしれない。
まるで空飛ぶレーダーサイトだな――内心で呟くのと同時に、フォークトは思い当たる――そうだ、索敵旋回も自動操縦でできるようになればどんなに楽だろうか?
ふと、モートン少尉が言った。
『――機長、聞きましたか?』
「何を?」
『――敵の偵察機が飛んできた晩、フラウ-リンを連れ出しやがった阿呆のこと』
「ああ、あの話か?」
応じるや、大尉は語尾を笑わせた。過日、「永遠の妹」ことフラウ‐リンの慰問公演の最中、敵偵察機の襲来を告げるサイレンの轟きに生じた周囲の動揺を縫い、堂々とアイドルを場外に連れ出してしまった若い操縦士に、彼は反感よりもむしろ羨望を覚えていた。
「あいつ、未だ営倉暮らしだっけか」
『――許せないですよ。俺らのアイドルを好き勝手に弄んで』と、モートンは反感――というよりやっかみ――を隠さない。
「そうか……お前、入隊する前はフラウ-リンのファンクラブに居たって言ってたなあ」
『――ええ、会員番号000777番たぁ、俺のことでさぁ』
直後に、モートンが話を打ち切ったのは、無駄話より同乗者としての彼に課せられた職務に忠実であったからだ。
『――機長、周辺空域に侵入者なし。間も無く第2変針点』
「了解」
フォークトにしてからか、任務中の戯れ事は本意ではない。徐々に旋回半径を拡げることで、離陸前に設定した第二哨戒開始変針点に入るよう飛行計画は組み立ててある。変針から直線飛行の操作に入ろうと、計器盤に、大尉が向き直った直後――
『――機長、レーダーに感!』
「侵入者か? ピート!」
『――レーダーに反応。輝点を視認』
「確認しろ、誤作動かも知れんぞ」
『――了解、それにしても……やりにくい』
レーダーを搭載するという「改良」の結果、自身の立ち居地たる座席に関し、モートン少尉には不満が生じていた。機器の搭載に併せ、銃手兼通信士席にレーダースクリーン及び各種の操作機器が設置された結果、満足に銃や無線機の操作もまともに出来ないほどに、座席内は手狭になってしまったのである。装備導入以降の生産機では解決しうるかもしれないレイアウトの問題が、暫定的な改修機故にそうもいかず、この点、ANB‐1A捜索レーダーには未だ改善の余地があった。従って――
はじめは、二人とも「よくある」レーダーの誤作動かと思った。
実際、完熟飛行でも機器の故障やレーダー手の誤操作は発生している。その都度修正と改善を繰り返してきた結果として信頼性もまた向上したものの、安定した運用には未だ課題は残されていた――だが、故障ではないことは、次第に熱を帯びるモートン少尉の口調ですぐにわかった。
「目標方位3‐2‐7、相対距離35、依然接近中――針路そのまま。形状を確認します」
左レーダースクリーンのブラウン管が眩い。輝点の群が円形の空間の中で蠢くのを心胆を冷やしつつ凝視する。その一隅、一際光を放つ点に目を奪われつつも、モートン少尉の報告は冷静だった。彼の報告を受け、フォークト機長は外への視線を左右のみならず上下にも巡らせる。AAB‐1Aは目標の方位と形状こそ示してくれるが、目標の存在する高度までは正確に探知することが出来ない。だが、敵に先んじた発見とそれに伴う対処が可能になるという点で、レーダーの存在は飛躍的な進歩と言えるかもしれない。
モートンの誘導に従って機を左旋回に入れ、群と交差する様に針路を維持する。侵入者をスクリーンで常時捉えられる様にするためだ。直進を維持するうち、フォークトからは、先刻までの気だるい感触などすでに霧散してしまっていた。操縦桿を握る手に汗が滲むのは、分厚いグローブのせいだけではない。
『“ピート”、識別符号を打ってみろ』
「了解!」
円形の受像ブラウン管傍のボタンを押し、敵味方識別装置信号を発する。もし目標が味方ならば、こちらから発信した信号を受信するや、向こうが搭載するIFFが自動的に応答波を発する筈だった。期待と不安の入り混じる指がボタンに触れ、そしてモートンは力を入れた。
だが――
『――敵味方識別装置、応答なし!』
「……!」
報告を聞くのと同時に、「出来ちゃった婚」号は眼前の雲海を抜け、そしてフォークト機長はその眼下に幾重もの真白い軌条を見出した。丁度3000SFの高度差を置いて、「|出来ちゃった婚《ショットガン-マリッジ》」号が対象を見下ろす形で目標と交差する寸前だった。
「見つけた!」
航跡――それも太い、速度と質感がある!
思わず、握り締める操縦桿――
――そこに、モートン少尉のさらなる報告。
「監視報告……敵駆逐艦7、巡洋艦3……あと一隻は艦種不明……いや、新鋭艦と思われる」
『ピート、司令部に報告しろ』
「了解!――こちらフライトラインD、敵艦隊発見! 規模は新型巡洋艦と思しき艦影1、巡洋艦3、駆逐艦7……いや8――敵艦隊、レンヴィルより推定1200空浬南西を東方向――」
驚愕――フォークト機長の眼前で、ほんの五分ほど前までは小皿一枚分の大きさしかないレーダースクリーンの一隅を汚す点でしかなかった目標は、朝焼けの雲海を驀進するレムリア艦隊の雁行陣となって、朝陽を背に浮かび上がろうとしていた。
『――戦隊前衛より報告、敵哨戒機と遭遇。繰り返す、敵偵察機と遭遇せり』
――スピーカーを通じ急激に艦内を圧し始めた警報音が、宛がわれた士官室で仮眠明けのまどろみを弄んでいた少女にとっては格好の目覚しとなった。最初に乗組んだ頃には人間の住処ではないとすら少女に思わせた部屋を、今では少女は着なれた普段着のように使いこなしていた。
「――!」
軍人としての義務感に従い少女が寝床から半身を起こすより早く、毛布を敷いた床から立ち上がったワーグネルが慌しげに周囲を見回しながら当て所無く吠え立てる。寝床から形のいい脚を下ろすや、寝癖を整えるのも忘れてエルディナは慌しく制服を着込み、そして艦内通路へと繋がるドアを開けた。遊撃戦隊の「指揮官補佐」として前線に出ることを許された少女が、夜間飛行訓練を兼ねた上空哨戒を終えて母艦たる巡洋艦「レーゲ-セラ」に帰投してすでに五時間が経過している。帰還から遅い夕食とシャワーも早々に切り上げて個室に戻り、そのまま下着姿で寝床に潜り込んでからならば、三時間も過ぎていない。
通路内を行き交う将兵の表情と足取りは、平時と違いその深刻さと忙しさとを増している。それらから出来るだけ超然と振舞おうと勤めれば勤めるほど、それまで惰眠を貪っていた自身が歯痒くなっていく。周囲への配慮ではなく、将校としての義務感から少女は歩を早め、やがては走り出した。
それにしても――と、エルディナは思う。
わたしは……本当に……戦場に身を置いているのだろうか?……と。
今更ながらの感慨――前線行きは確かに自分が望んだことだった。だが前線に身を置いたところで、戦闘そのものに容易に参加できるとはさすがのエルディナでも考えても見なかったのだった。前線行きに要したのと同じくらい――否、それ以上の――労を注がねば実戦への参加は叶わないであろうと少女はそれまで思っていたのである。
だが――現在の少女はこうして、いままさに戦闘に望もうとする巡洋艦の中に身を置いていた。
――発端は、ほんの二週間ほど前に友軍遊撃部隊とラジアネス軍哨戒部隊との間で生起した戦闘であった。対極的な観点から言えば小競り合いとでも言うべきそれは、結果的には「黒狼三人衆」に率いられた友軍機動遊撃部隊の圧勝に終わり、戦果だけでも輸送船5隻撃沈、護衛艦2隻撃沈、1隻大破、護衛空母1大破(ラジアネス軍は後にこれを護衛艦の砲撃で自沈させた)。そして敵哨戒機、戦闘機計16機を撃墜破という輝かしいものとなって後方のタナトを奮い立たせたものである。
その一方で――
――遊撃部隊による戦果報告の一文にあった「艦載機」と、作戦に参加した空戦士の証言から露見した、「H」という敵攻撃機の主翼に描かれていた符号が、タナトにいたある人物の注意を惹いた。
「――遭遇したというのか? 『ハンティントン』の艦載機と……」
レムリア艦隊 南西方面機動打撃群司令セルベラ-ティルト-ブルガスカ大佐は、報告を受けるや鷲のような眼差しを一層に細め、その灰色の眼光を煌かせたものだ。過日のリューディーランドにおける艦隊戦と、各方面より収集した情報から、レムリア軍はすでに「ハンティントン」というラジアネス艦隊の主力空母の名、そして緒元をその大体において掴んでいる。その存在を戦場に確認した瞬間、否、それが空に進み出る前の段階から、「ハンティントン」というラジアネスの空母はレムリア軍にとって最重要目標のひとつとなっていた。そうした経緯もあり、ラジアネス空母機動部隊を構成する各飛行隊の編成及びマーキングと、機動遊撃部隊が報告した敵部隊の特徴の一致は、空母の脅威を認識し一刻も早い撃滅を期する“雌虎”セルベラの注意を喚起したのであった。
「――ですが司令、『ハンティントン』は先日のリューディーランドの戦闘で沈めたはずでは?」
輸送船団襲撃に成功した翌日、定時の作戦会議の場で怪訝な表情を隠さない幕僚たちに、冷気でその場を凍らせんとするかのような溜息で応じると、セルベラは語気強く口を開いたものだった。
「――だが現に、敵の根拠地に存在し、飛行隊を送り出している」
「――母艦を失っても、飛行隊そのものは根拠地さえあれば行動可能です」
「――では、彼らの家があるのかどうか、確かめてみるとするか」
その日の夜、タナトより発進したニーレ‐ガダル長距離偵察機は、針路上で遊撃戦隊の艦艇と合流、艦を根拠地に活動を開始した。
そして二日後――
「……!?」
偵察機はラジアネス軍の警戒網を掻い潜り、レンヴィル泊地上空に侵入。その際、写真撮影用に投下した照明弾を背景に浮かんだ、空母の特徴的な艦影――フィルムに刻まれたそれを目の当たりにし愕然とする幕僚たちを従え、セルベラは写真に鷲のような眼光を注ぎながら厳かに言い放った。
「――現実に対し見たいものしか見ようとせぬ者に、向上もなければ勝利もない。生き残りたくば貴公らもよく肝に銘じておくことだ」
セルベラの言葉は続いた。
「――前進遊撃部隊に命令……レンヴィル方面へ展開し、索敵を開始せよ。それと我々も出る。準備を急がせろ」
「――我々も……?」
どよめく幕僚連を、セルベラは真深く被った軍帽越しに睨み付け、そして怯ませた。
「――レンヴィル方面に『ハンティントン』が居ないのならばそれもよし……だが居れば、自ずと別の選択も生じて来よう」
その「別の選択」を、眼前の女性指揮官が内心で期していることなど、この場ではわざわざ他言を要するまでもなかった。
――再び、「レーゲ‐セラ」
――早足は流れるように駆け足へと変わり、少女は空戦士の待機室へと駆け込むようにして入った。
「少佐殿に敬礼!」
先に部屋へ入っていた空戦士たちが、少女の姿を認めるや一斉に立ち上がり敬礼する。それに応えるのも煩わしげに、少女は早足で奥の更衣室に駆け込み、そして手早く軍装の装着に取り掛かる。高級士官でありながら立場上では空戦士である故か、エルディナもまた、今日の搭乗割に入れられている。打撃艦隊の攻撃隊指揮官ではなく、上空警戒部隊の、それも一員として。
当初、少女を前線に出す際、頂上階級に属する立場として、形だけでもエルディナに指揮を取らせようという意見も出なかったわけではないが、セルベラと、そしてタイン-ドレッドソンの反対が全てを決した。反対した両者とも有能な空戦指揮官であり、かつ歴戦の空戦士とあっては、誰も異論を挟めなかったのである。その瞬間、少女の戦隊における立場は空戦士でありながら傍観者となった。
常に指揮官機につき従いながらも編隊指揮に関する裁量は微塵も与えられず、危険と判断されれば母艦にすぐさま戻されるという待遇――少女にその真意が知らされる機会はついに設けられなかったし、例えそれが知らされたところで、少女は自分がそのような扱いに反論できる立場にないことを弁えていたことだろう。
それでも、エルディナにとっていち空戦士としての実戦参加は願ってもない好機に思えた。自分が指揮官としての適正を備えている人間であるとは、少女は考えてもいなかった。そして戦闘経験の皆無な少女にとって、指揮官としての権限をいきなりに与えられることは、近い将来の戦いに身を投じる上で却って重荷であるように思われたのだ。
それでも――
――少女は、此処にいる限り、自分が戦闘に巻き込まれるであろう可能性を信じていた。
――自分が戦場の空を駆けるのに、何故に地上のしがらみを持っていかねばならないのか?
――自由に羽ばたき、その結果として少女は空で死にたかった。
『――第二直上空警戒部隊、発艦始め、発艦始め』
エルディナは第三直だった。出来れば第一直警戒部隊が発進を始める時までに起きていたかったが、出港以来、率先して参加した訓練飛行による疲労の蓄積が、結局は少女にそれを許さなかった。気の急かすがまま飛行軍装に身を整え待機するエルディナに、当直の少年兵が温かい飲物を持ってきた。熱い金属製の器から沸く湯気と香ばしい芳香に、少女は顔を綻ばせる。緒戦で支配下に置いた殖民都市産のコーヒーを、「レーゲ-セラ」の主計分隊は空戦士のために用意してくれていたのだ。
「……」
慎重な手つきで熱いコーヒーを啜りながら、エルディナは第三直で共に飛ぶことになる「列機」を見遣った。仮初の長機たるエルディナを他所に、階級も階層も飛行経験も違う二人の空戦士は、普段基地にいるときと同じく「下界」の話に興じているかのように見えた。エルシーニ少尉とカスバ曹長……時折エルディナに興味の眼差しを向けつつ、同じくコーヒーを啜る彼らの何れもが自分より遥かに年長で、かつ戦闘経験も豊富であるように少女には思われたし、それは事実であった。出撃を待つ彼らの挙動の端々に顕れる余裕――それを未だに持てないでいる自分を、少女は知っていた。
「あのう……少佐殿」
「……?」
遠慮がちに呼びかけられ、エルディナは内心で身構えた。いち空戦士としての身ではその必要はないことを、自分ではよく知っていたはずなのに――
「煙草……吸ってもいいですか?」
唐突に呼び掛けられ、内心で慌てつつエルディナは頷いた。同意を得た途端、安堵したように懐を弄り煙草を取り出した二人の列機、そして彼らが火を点けるや旨そうに煙草を吹かした途端、濛々たる紫煙がゆっくりと拡がり、さして広いとは言えない部屋に立ち込める。換気装置の効果は大して見込めず、嗅覚と喉奥を擽る臭いと煙に、少女はやや後悔を覚えた。空戦士は例外なく煙草が好きだ。だが自分は――
そのとき――
『第二直後衛より報告、敵哨戒機発見、我が艦隊に接近しつつあり――』
「……!」
予期せぬ接触――絶句を覚えたのは、エルディナだけではなかった。
ときに、現地時間0717――
『――第二直後衛第三分隊より報告、敵哨戒機発見、距離、艦隊最後尾より40空浬。単機我が艦隊に接近しつつあり――』
直援機によりもたらされた報告は、その操縦士が視認した範囲においては正しかったが、その実多分に誤認を孕んでいた。何故なら遡ること二時間前の段階で、前線艦隊拠点タナトを進発した巡洋艦4隻、駆逐艦7隻から成るレムリア軍機動打撃部隊は、彼らの知らない内にすでにラジアネス軍哨戒機の接触を受けていたからである。
その哨戒機――BTウイング「出来ちゃった婚」号は、搭載レーダーで敵影をいち早く察知するや、直援機の監視の目を縫うべく巧妙に雲間を抜ける針路を取り、そのまま艦隊の目の及ばない後背に占位すると、その搭載レーダーを通じ、文字通りの「実況状態」でレムリア艦隊の位置、針路、その勢力に至るまでを克明に報告していたのである。レムリア軍上空直援機がその存在に気付いたときには、すでに「出来ちゃった婚」号は所定の任務を終えて帰投し、監視活動は三機目のBTウイングに引き継がれていたところであった。
そして予期せぬ追跡者を直援飛行隊が発見しそれを排除にかかったときには、ラジアネス軍哨戒機はすでに追撃の及ばない遠方まで退避することに成功し、レンヴィル方面のラジアネス軍はレムリア艦隊の位置及び戦力をほぼ完全に把握しきっていたのである。レムリア軍にとって、ラジアネス軍の最新兵器たる機載レーダーの存在とその性能を把握していなかったが故の、これは不運と言えた。
「――発見されたか」
艦隊根拠地タナトにおいて、敵機との接触第一報を受けた瞬間、“雌虎”セルベラ-ティルト-ブルガスカ大佐は表情を変えぬまま作戦司令部の広大な指揮卓に拡げられた空図に目を凝らした。北西方向よりレンヴィルへ接近しつつある先行戦隊と、南西方面よりそれに追随する増強の別働戦隊。後者が最初に敵の索敵網に掛かった以上、先行部隊が同じ経緯を辿るのも時間の問題であるようにこの場の幕僚たちには思われた。
彼女自身の手でディバイダーを回す空図へ鷲のような眼差しを注ぎながら、セルベラは言った。
「先行戦隊に打電、鴉の巣に火を掛けよ、と」
途端に、慌しさを増す指揮室。本来ならば空母「ダルファロス」以下主力戦隊を押し出すべきところを、あえてそれが為されなかったのは今回の作戦がどちらかと言えば隠密性を重視せねばならない性質のものであるのと、セルベラの具申を受けた艦隊司令部が空母を出撃させることに難色を示したが故に他ならない。攻勢の不徹底から生じた、撃沈した「はず」の「ハンティントン」の生存という事実を突き付けられても彼らは未だ、過日の戦闘で空母が損傷した時に抱いた懸念を引き摺っていたのである。
一人の幕僚が、拡げた空図に目を凝らしながらに言った。
「しかし司令、意外ですな。先に敵に発見されるとは」
「いや、想定内だ」
動揺を隠さない幕僚連を、軽くあしらうかのようにセルベラは言った。レンヴィル周辺に展開させている遊撃戦隊は現在二陣、この期に及んでこちらの戦術はすでに決定している。後続戦隊は敵攻撃隊を曳き付ける囮とする。その結果レンヴィルの防空戦力が手薄になったところを先行戦隊より発進した攻撃隊により叩く。二陣も艦隊を出したのは、この内何れかがそうした役割を負えるよう、周到に為された配慮の賜物だ。だが――
「攻撃隊の戦力には不安がありますな」と、一人の幕僚が言った。
彼の言には正当な根拠があった。先行、後行とも艦隊の主力は巡洋艦及び駆逐艦であり、航空機の搭載能力を持つとはいっても構造上大型の攻撃機を多数搭載できない上に、その搭載機数自体も大きな制限を受けている。これでは、例え攻撃隊を出したところで敵艦隊の根拠地を破壊するに効果的な打撃力は期待できないだろう――
セルベラは言った。
「本官は何も戦艦や基地施設を狙えと言っているのではない。第一この作戦で我々にとって最大の脅威が消えれば、あのような泊地など何時でも、好きなだけ叩けるというものだ」
「最大の脅威……?」
「ラジアネスの空母だ」
そこまで言って、セルベラは頭上を照らす白熱灯以外に照明の存在しない周囲を睨んだ。その彼女の視線の先で、幕僚たちは一言も異論を差し挟むことなく、指揮官の次の言葉を待っている。
「脅威を排除するに十分な戦力を、本官は出す」
そのとき、指揮室に入って来た一人の士官が、セルベラに敬礼した。その報告に、指揮室はどよめかずにはいられない。
「司令、『ダルファロス』、出撃準備完了しました」
「許可する。直ちに出港させろ」
直後、幕僚たちはざわめいた。これでは、動員も単なる通商破壊戦に適正と思われる範囲を超えてしまう。獲物を狙う獣のようなセルベラの執心を確かめるかのように、一人の幕僚が聞き返した。
「『ダルファロス』も出すのですか? 司令」
「『ダルファロス』はこの際後詰だ。作戦終了後の遊撃部隊の撤退を援護させる。だが……レンヴィルより燻り出された敵を捕捉した場合はその限りではない」
目深に被った軍帽の下で、セルベラは目を細めた。
その眼光の先、先刻に偵察報告を受けたラジアネス軍泊地を構成する島々の成す環の只中に浮かぶ唯一つの点――
燻り出された敵――それこそが、セルベラの目指す目標。
自ずと宿る、冷厳なまでの微笑。
対する、空母「ハンティントン」――
巨体の周囲を行き交う連絡艇は一層にその数を増し、母艦への接舷を果たす度に、休養を打ち切られた多くの乗員が憤懣と困惑を伴にしながらも駆け足で配置に付いていく。
「――一体何があったんですか?」
「――うちの偵察機が敵艦隊を発見したのさ」
「――それ位なら、攻撃機隊に任せりゃあいいものを」
「――そんなわけにゃあいかんだろう。何せ敵さんもこっちを狙っているだろうしな」
「――じゃあ、逃げる準備ですか?」
「――逃げるんじゃなくて、戦略的後退ってやつだろうぜ」
「――それと逃げるのと、どう違うんですか?」
「――知らん!」
疑念と文句の応酬は艦内至る所で起こってはいたが、配置そのものは迅速だった。「ハンティントン」は二十分余りで既定の乗員の収容と配置とを終え、艦の各部門を統括する士官には士官室への集合が命ぜられる。
「――状況を説明する」
「ハンティントン」艦長ラム中佐は、そこまで言って席に居並ぶ彼の部下たちを見遣った。
副長ビーチャ少佐、航法長ランベルク少佐、CICチーフ兼砲術長のシルヴィ-アム-セイラス大尉、機関長ラクエル大尉、そして対空、飛行、ダメージコントロール各分隊の指揮官たち……さらには先任飛行隊長カレル-T-“レックス”バートランド中佐をはじめとする母艦飛行隊の指揮官たち――事態の急変に直面しつつも、参集を果たした彼らの表情に些かの怯みや困惑を見出せないことに内心で感銘と安堵を覚えつつ、若き艦長は言った。
「――現時点において、敵艦隊は依然レンヴィル南西300空浬の空域を遊弋中。その規模は巡洋艦4、駆逐艦8。空母の存在は確認されていない。敵艦隊の意図はおそらく、輸送航路の断絶もしくはレンヴィル方面に対する威力偵察と思われる。本艦の任務は敵遊弋部隊を捕捉し、これを撃破することにある」
「質問」
と挙手したのは、バートランドだった。敵艦隊の捕捉と攻撃に際し、彼ら母艦飛行隊が最も重要な役割を果たすであろうことはこの場の皆の共通の認識になっていると言ってもよかった。
「敵艦隊の捜索及び追尾にあたり、司令部は万全を尽くしてくださるのでしょうか?」
「現在、母艦飛行隊と基地駐留の哨戒飛行隊が協同して泊地より半径1000空浬に三重の警戒線を敷いている。本艦の出航と同時に、在空在地を問わず母艦飛行隊は速やかに機動部隊の指揮下に戻り、本艦と合流し敵艦隊の追撃を続行するものとする」
「……」
直後に表情を曇らせたのは、過日の戦闘で戦死した前任者の後を継承し、レンヴィル入港後に正式に第117空母攻撃航空団司令となったジェームズ-T-“トール”ギャスパー少佐だった。三週間前のリューディーランド方面での戦闘で負った損失を埋め合わせる機材と人員の補充こそ迅速に為されたものの、再編成った攻撃各飛行隊の、母艦飛行隊としての技量は必ずしも回復の域に達しているとは、彼らは言えなかったのである。
此方が過ごしてきた時間は短く、敵の動きが早い――その“トール”ギャスパー少佐の苦渋を察する意味を篭め、ラム艦長は言った。
「開戦以来、飛行隊の諸君らには苦労をかける。だが、現在を乗り切らないことには我が軍の反撃態勢が整うことは永遠にない。貴官らには限られた戦力と時間を有効に生かし、最善を尽くして欲しい。以上だ」
部下を解散させ、内心に篭る苦渋を隠しつつ戻った艦橋では、当直士官が高声電話器を手に彼らの上官の入室を待っていた。
「艦長、タイド島のヴァルシクール司令よりお電話が入っております」
艦長席に腰を下ろすや、無言で受話器を引き寄せんとするかのように当直士官を呼び寄せ受話器を受け取る。受話器を耳に当て応答するや、今回総司令部の一員として泊地に残ることとなったヴァルシクール中将の声が入ってくる。
『――私だ。折角の休養をふいにして済まないが、我々が出て行かないことには話しにならん』
「最善を尽くします。閣下。ですが……」
『――何かね? 艦長』
今まで溜めていた何かを、吐露するかのようにラム艦長は言った。
「敵は小規模の艦隊です。我々は命令に従い、これを撃破するべく泊地の外へ出ようとしております。小官は何かひっかかるものを感じるのですが……」
『――具体的に頼む。艦長』
「確認されている敵の数が少な過ぎます。小官には敵の意図が、いわゆる陽動にあるのではないかと思うのです。我々の知らない何処かに、実はもう一つ敵艦隊が存在し、その意図は、実は我々に向けられたものではないかと」
『――敵の陽動作戦に対する君の懸念が現実のものになったそのときこそ、我々の「事前協約」が生きてくるというものだ。大丈夫、君が指揮を執っている限り「ハンティ」は沈むことはない。私が請け合うよ』
「では、閣下は?」
『――私は船乗りだ。島の上で死ぬような趣味は、私にはない。意地でも生き残るから安心したまえ。それでは頼む。中佐』
「最善を尽くします」
軽く頷き受話器を戻すと、入れ替わるかのように報告が入ってくる。
『――通信室より艦長、港湾管制隊より出航許可下りました』
「これより本艦は出航する。舫解け……!」
「艦長!」
と声を上げたのはビーチャ副長だった。艦橋の外を指差し、彼は続けた。彼の指差した先には、遠方より舳先を向け近付いてくる数隻の連絡艇の船影――
「未だ全乗員の乗艦が終わっていません」
「仕方がない。このまま出航する」
「……」
唖然とする副長に向き直り、ラム艦長は笑い掛けた。
「もう永遠に戻って来ないわけじゃない。この戦闘を生き抜けたら、また拾いに帰ってくるさ」
「了解」
噛み締めるように、ビーチャ副長は言った。
『舫解けーーーーー、出航するーーーーーー!』
当直士官の復唱が艦橋に重複し、その直後に下士官の咥えるサンドパイプの、刺すような鋭い音色が艦橋に響き渡る――それは出航を告げる音色だった。
『……還ってこれたら、な』
艦長の呟きはサンドパイプの鋭い高鳴りに打ち消され、艦橋の皆の耳には届かなかった。
『――フラゴノウム加圧上昇率異状なし。冷却系統異状なし』
『――こちら機関管制室。機関回転数、安定値に達しました』
『――こちら曳船15号。回頭作業完了まであと30秒……27……10、9、8、7……0。回頭完了』
「艦橋より機関管制室へ、推進器クラッチ起動――回転数20を維持せよ」
推進器出力を全開にした曳船が、円弧状の船首をハンティントンの艦腹に押し付けるようにして進むうち、機関を完全に覚醒させた巨艦は自らの力に拠らず悠々と回頭を負え、そこで一斉に主推進器を始動させた。そして甲板士官の一人として泊地の慌しさに意識を傾けるマリノの気だるそうな眼差しから、ハンティントンへ舳先を向ける連絡艇の姿が遠ざかり、やがて完全に視界から失われた。その様を見遣りつつ口元に咥えた煙草は、すでに元の半分近くにまで燃え尽きていた。
「……」
軽い失望――それが最初は、憤りであることを彼女は自覚していた。もしあのまま艦が動かず、連絡艇がすんなりと接舷を果たしていれば艦に戻れたであろう多くの面々――だが現実、緊迫する刻はそれを許さず、結果として約170名の乗員が、艦に歩を標す途を断たれたことになる。
マリノはひょっとすれば彼らの中に、現在軍規違反で営倉暮らしを強いられているはずのあいつの顔を見出したのかもしれなかった――その試みが果たせなくなったこと、あるいはそのように気を遣わねばならないことに、マリノは憤った。彼女がそれを表情に出さなかったのは実のところ、生来の内面的な形質もそうだが、感情と態度を比例させないことで自我を守ってきた彼女自身のこれまでの人生経験の為せる業でもあった。
でも――
「……?」
憤り?――誰に対する?
そして何故――憤る?
あいつの顔なんて、見たくも何ともないはずなのに――
「マリノ!」
ラッタルを降り、息せき切って駆け寄ってきたマヌエラ-シュナ-ハーミスを、マリノは無感動に見詰めた。同時に沸いた僚友に対する疑念が彼女に言葉を紡がせ、一時的にもそれまでの思念を忘却の範疇へと傾けるのだった。
「あれ?……地上にいたんじゃなかった?」
「私は艦橋付よ、今回のところはね」
「地上より、艦の方が安全かもね」
と言ったマリノに、マヌエラは苦笑で応じた。
「あら……どうして?」
「いや……何となく」
微風に乱れがちな金髪をさり気無く整えつつ、マヌエラは話題を変えた。
「あの子、とうとう戻って来なかったわね」
「逃げたのよ」
「逃げた?」
「営倉行きだろうが、脱走だろうが、このフネに乗っていないってことは、逃げたっていうのとおんなじよ」
突き放すような言葉は、明らかにマヌエラの関心を惹き、細められた彼女の眼差しは苛立たしげに煙草を投げ捨てるマリノを捉えるのだった。
「あの子に手を上げたって、本当?」
「ガキの分際で分不相応な真似ばっかりするから。少しは灸を据えてやらないとね」
「マリノってさ……あの子にだけは厳しいんだね」
「へ?」
驚き、マヌエラを見返す。事実、あいつに対する厳しい見方が自分特有のものであることを、マリノは今更ながらに指摘されたような気がする。
「厳しいって……何よ?」と、マリノは俯きつつ声を低めた。
「いやさ……もう少し恩を売る位はしとくべきかな、と思ってさ」と、取繕うようにマヌエラは笑う。
「恩を売る?」
「だってマリノ……あの子の事になったらムキになるっていうか……子供っぽくなるもの。それがあの子の心象を悪くしていそうで私には心配なの」
「何を馬鹿な――」と言いかけたところで、マリノは言葉を失う。
何故なら――
あいつに反発されるという想定――
それを持ち出され――
それに反駁するには、あまりに心の準備が出来なさ過ぎて――
そのとき――
『――艦長より乗員へ』
ゆっくりと空域を滑り出したハンティントンを流れ出した艦内放送が、甲板の二人から会話を奪う。
『――まず諸君らより貴重なる休暇を奪ったことに対し、この場を借り軍司令部を代表して詫びたい。だが事は急を要する。本艦の任務はレンヴィル泊地周辺空域を遊弋し、我が軍空路を遮断せしめんとする敵艦隊を捕捉し、その意図を挫くことにある。よって本艦の任務は重大である。敵の攻勢を挫折せしめ、以後の休暇を有意義ならしめんがためにも、諸君らの奮励と健闘を期待するや切である……以上だ』
そこまで言い、艦内放送に繋いだマイクのスイッチを切ったところで、ラム艦長は初めて艦橋右端の艦長席に腰を下ろした。重複する推進器と主器の奏でる振動は、前進を続ける艦では時を経るに従いその鼓動を抑制し、あるいは安定させ、港内を完全に脱したところで巨艦はゆっくりと加速を始める。
「艦長、本艦第二戦速に到達しました」
「宜しい、状況に変化ない限り、第一変針点までこれを維持する」
『――CICより報告。レーダーに反応。六時方向より機影……IFF照合確認。空母飛行隊です』
CICからの報告に、ラム艦長は反射的に艦内電話機を取り上げる。この点、彼は空母艦長という彼の立ち位置に完全に慣れ切っていたのかもしれなかった。
「艦長より飛行長へ、機影を確認し次第直ちに収容作業に入る。甲板要員を待機させておくように」
『――飛行長、了解しました』
『艦橋見張所より報告―――友軍機機影を視認』
すかさず、ラム艦長の指示が飛ぶ。
「取り舵一杯。針路2‐8‐8」
「針路2‐8‐8宜候!」
『――艦橋より報告。三時方向に艦影見ゆ。駆逐艦8。本艦との距離800……護衛戦隊です』
「第201駆逐隊……指揮官はウォーレン-W-ダーク大佐か」
出航前に渡された作戦資料を捲りながら、ビーチャ副長が言った。ラム艦長は席上でうんざりした様に顔を顰め、軍帽を調え直した。
「守られる方より守る方の階級が上なのか……上層部の嫌がらせかな?」
「艦長、ご冗談を……」
と言いつつも、上司の皮肉に目を笑わせる程に副長は艦長を知り尽くし、そして理解している。そしてこの時の艦長の言葉が、強烈な皮肉であることを彼より年長の副長は知っていた。
――守られる側の皮肉めいた述懐は、守る側の共有するところでもあった。
「守る方より守られる方の階級が下なのか……上層部の連中、人事を斟酌する余裕もない位レムリアンの影にびびってやがると見える」
と、作戦資料に目を通しながらダーク大佐は言った。座乗する駆逐艦「アラガス」艦長ジャクソン少佐が肩を竦め、皮肉交じりに応じた。
「せめて指揮権ぐらい、大佐にくれてやってもいいものを」
「大佐位くらい、くれてやってもいいだろう? 喩え元商船乗りであってもな」
「……」
唖然とする艦長を尻目にダークは司令席から立ち上がり、空図台の傍に立った。不敵な笑みは隠しようもなかった。
「五分後に戦隊は空母の前に出る。あとは空母に任せるさ」
「レムリア艦隊と一戦交えたいものですな」
と言う部下に、ダークはディバイダーを握る手もそのままに首を傾げて見せた。
「戦闘をやりたいのは山々だが、今回のところはお預けだ。我々の仕事は、何処に居るとも何時来るとも判らぬ真っ赤な襲撃者どもから、か弱い乙女を守り抜くことにある」
「残念であります」
「歴史の流れと言うやつだよ。艦長」
怪訝とした表情を隠さない艦長を無視するかのように、ダークは眼下の空図に目を凝らした。
「……だが、機会はいずれ巡って来る」
自らを納得させようとするかのように、ダークは言った。艦橋下部のCICより報告が上がってきた。
『レーダーに感! 六時方向より機影多数接近――友軍機です!』
「おいでなすったな」
その恰幅のいい肩を傾け、ダークは背後を顧みた。不敵な眼差しで睨みつけた隔壁に遮られたその向こう側の空では、泊地を発進した艦載機が群を生し、空に躍り出た母艦へと着艦体勢を取っているはずだった。
出撃から今日に至るまで一度として敵の哨戒網に触れることなく、敵地への接近を果たせたのは僥倖と言ってもよかったが、それが何時までも続くとは誰も考えてはいなかった。巨大な雲間を伝うようにして巡洋艦2、駆逐艦5隻から成る艦隊は、緩慢な速度で敵の哨戒圏内へ浸透を続け、誰もが気付いた頃には作戦開始の予定到達時刻を1時間と30分ほど過ぎていた。
「――艦長、変針点『ベガ』に達しました。」
艦のみならず戦隊全艦の航行を預かる航法長からの報告に、レーゲ-セルト級巡洋艦「レーゲ-ウル」艦長ドルヴィク中佐は襟を正すかのように軍帽を目深に被り直した。任務の性格上多少のスケジュールの遅延は命令書の文面に拠れば上層部の容認するところではあったが、それでも作戦を行うにあたり多少の柔軟性と余裕が削がれてしまったことは否定できなかった。それは今こうして攻撃位置に付いた彼らの手腕によって埋め合わされるべきであろう。
「攻撃隊に下令、出撃準備にかかれ!」
重複し艦内に伝播する号令。それでもこの期に及び、艦の長にして戦隊の指揮官たる彼が下せる命令は決まりきっていたと言っても過言ではない。前線基地たるタナトを出航前に、艦長室の金庫に入れられた命令書と言う形で彼に下された命令は、港内に停泊する敵空母を発見した場合これを攻撃し、撃沈するかあるいは港外の空域へと追い立てるというものであったから――現在動かしうる戦力をフルに活用して多方面より攻勢を掛け、それを徹底させようとする意味で、作戦を立案したセルベラの手腕は狡猾で、そして徹底していた。
「艦長!」
一人の甲板士官が、血相を変えて近付いてきた。それを省みるまでも無く、ドルヴィク中佐の表情から血色が失われていく。実は少なくとも彼の戦隊において、彼の胸中を苛む要素は作戦に望む緊張と同時にもう一つ存在していたのであった。
「またやつらか!」
指揮を副長に任せ、憤然として艦長は艦橋を出た。その向かう先の士官室の主たる「黒狼三人衆」は、今では三日前の作戦飛行を最後に部屋から一歩も出ることなくただ只管に酒と賭博を友に退廃を貪っていた。例え指揮下にあっても作戦時以外は部屋の連中に一切の干渉をするなというのが、彼らが配属されて以来の上層部の指示であり、それほどの特別扱いをするに足る程彼らは戦隊にとって有力な戦力だったが、実際戦闘を目前にした今度ばかりは、それは到底看過できるものではなかった。
「入るぞ」
士官室の前に立つと、艦長は一瞬の間を置いてドアノブに手を掛けた。
「……!?」
蹴破るようにして開けたドアの向かい側、完全に締め切られ薄暗い室内の暑苦しい濁った空気に混じって漂ってくる甘ったるく、かつ重い匂いに顔を顰めたのは、ドルヴィク艦長だけではなかった。その瞬間、部屋の主たちが禁制品のマリファナ類に手を染めていることぐらい、艦長の背後に付き従う若い甲板士官ですら容易に察することができた。
ドルヴィク艦長の堅いブーツに何かが微かに触れた。反射的に見下ろしたその先で転がった酒瓶が決して少なくない残りを垂れ流しながら、軍靴の切先で止まった。
「……」
再び見上げた先で、外の光のだいぶ浸透した部屋に認めた三つの影――それは弱々しく、惰性に犯されきってはいたが、醸し出す飢えた獣のような眼光は歴戦の軍人たる彼を内心で怯ませるに十分だった。それでも軍人らしく、沸き起こる怯惰を押さえ込みつつ、抑制した口調で艦長は言葉を振り絞るのだった。
「出撃だ。すぐに準備をしろ」
「……」
沈黙――背後で甲板士官が後退りする足音を艦長は聞いた。それが彼に後退りを思い止まらせる。
「何だい艦長さんよ……人の部屋に勝手に上がりこんで……」
暗い声の主が三つの影の中央であることぐらい艦長にはすぐに判ったが、それは以前に彼が聞いたそれとは、明らかに質感が変わっていた。アルコールと煙草の煙で喉が荒れている者の声だった。
「出撃だと言っている」
「今度の獲物は何だい艦長殿……商船か? 戦艦か?……それとも空母か?」
と、大柄な影が言った。
「その三つ共だ」
影の中央が、唐突に言った。「そろそろ敵機を食いたいな」
「出撃すれば、いずれ食える」
「だがその前に!」
最も小柄な影が目をぎらつかせ艦長を睨みつけた。
「……!?」
「おめえのその態度が気に食わねえ!」
「おい……!」
艦長が声を上げる間も無く、小柄な影は飛び掛った。それまで狭い一室で散々に堕落の極みを尽くしていた男の動きとは到底思えぬ敏捷さと凶暴さだった。艦長は逃げようとしたところを前のめりに押し倒され、瞬時にして背後から彼を押さえつけた影は刃物を彼の首筋に突き立て、そして裂いた。
「殺していいか……?」
「ヒ……!」
汚れた床にどっと溢れる鮮血……苦痛にのた打ち回る艦長と余りの出来事に呆然と立ち尽くす甲板士官を尻目に、後の二人は軽い足取りでドアの傍に達した。彼らの挙動は、それまで退廃と快楽とに身を委ねきった人間のそれではなかった。若い甲板士官は、無精髭を生やした男たちの幽鬼の如き表情と鬼気迫る眼光を静止できず、堪らず腰を震わせ絶叫とともにその場に座り込む。
「貴様らぁ……!」
流血の止まらない首筋を押さえながらに、艦長は苦痛と怒りで歪みきった眼差しを上げた。その視線の先で、今まさに退廃から抜け出そうとする三人はそれぞれの表情で不敵なまでに哂う。
「艦長さんよ。戦争は俺たちがやる。あんたらは特等席で黙って見てればいい」
吐き棄てた後、濁りきった、だがそれでいてぎらついた視線を行く先に向けたまま、ベーア-ガラは言った。「時間だ……」
「行くか……」と、グルジ-ノラド。
「オウッ!」と、ガバト-ニーブル。
男たちは歩き出した――向かう先の空に、新たなる煉獄を現出するべく。
――獣は、今まさに解き放たれる。




