第十四章 「慰問公演 後編」
薄暗い劇場は公演準備に当たりその座席を全て取り払われ、今日までただコンクリート製の床が剥き出しの空虚な空間と化していたが、今ではそこは、ツルギ‐カズマではなくとも足を踏み入れた者誰もに、その中に入ることに躊躇いすら催させる程の驚愕を催させる。
群集の圧倒的な集り、言い換えれば蝟集の結果であった。そしてカズマはこの世界に導かれてからというもの――否、これまでの人生の中でかくも巨大で、熱狂的な空気の中に身を置いたことが無かった。強いて言えば太平洋の戦いが始まる前、街の各所で行われていた時局演説会や反英米集会に、雰囲気が似ている。ただし熱気の度合いと方向とが、住む世界を異にする過去と現在との間では明らかに違っていた。
「……」
躊躇――初めて接する人々の渦に対しカズマはそれを覚え、やがてカズマは群集の熱狂によって醸成された喧騒と量感に気圧され、人々を掻き分けて予約された最前列へ出ることを諦めた。それほどの熱狂と歓喜に対し、彼は何の免疫も持ってはいなかったのだ。つまりはこういう時に自分の取り得る方法を知らずに、カズマは今日まで生きて来たとも言える。
しかし――カズマは思う。前線だというのに、これほどまでに男たちを惹き付けてやまないフラウ-リンの魅力とは、一体どういうものなのだろう?
「――そろそろ始まるぞ」
「――わくわくするな」
「――生のフラウ-リンなんて、初めて見るぜ」
「俺は二回目だな。でもこんなところでフラウに会えるとは思わなかったぜ」
観客を構成する将兵の、熱意すら感じさせる話し声に耳を傾けるうち、不意に照明が落ち、同時に水を打った様な静寂が辺りを漂い始める。群衆に対する無関心を装うかのような静寂はしばらく続き、それによって醸成された期待が、胸を押し潰さんばかりの緊張感となって臨界点に達しかけようとしたそのとき――
『――ヘイ、ボーイズ。うちのエンジェルに会いたいかぁー!!』
バンドリーダーを兼ねるサックス奏者が叫んだ直後、壇の下一面に詰め掛けた男どもが歓声とともに一群のうねりと化すのをカズマは見たように思った。
「…………!!!」
文章では表記不可能な、だが押しつぶされるかと思えるほどの、圧倒的な感情量を籠めた歓声に会場が揺れ、そして周囲の空気が昂る。そんな光景にカズマは生来より無縁だったが故に困惑する。彼の困惑を斟酌することもなしに歓声は留まるところを知らず拡大し、熱狂に対する免疫に乏しい青年を、やがては惹きつけていく――だがそれは、時間が経ち空気に慣れるうちに不快な感覚ではなくなっていくのだ。
『――お前たちと同様、お前らのエンジェルもこの日をお待ちかねだ。さあ紹介するぞ。永遠の妹にしてラジアネス中の男たちのエンジェル、フラウ-リンのご入来!』
「ウオォォォォォォ……!!!!」
直後、直上からステージを照らし出す照明の色が淡く、かつ暖かさすら強調させたものへと一変し、光の交差はその場の男たちを一層の興奮へと誘っていく。同時に始まったベースとピアノの軽快な伴奏、そのメロディにカズマは十分過ぎるほど聞き覚えがあった。
そして――
「――――!」
新たな驚愕は、群衆に手を振り、笑顔を振り撒きながらステージの中央に進み出た少女の姿を捉えた瞬間にカズマを支配した。フリルとリボンとに飾られたドレスが、投げ掛けられる光を受け、一層の華やかさを以て舞台に進み出た少女の笑みを彩っていく。
「フラウ……?」
『――Hallo Hallo――皆さんご機嫌いかが
今日も空は青く
私たちの町を照らし出しています
小鳥の囀り心地良く
夜明けの女神を湛えます
空の空気の快さと
朝食の香ばしさ
それが私の生きる糧――』
さらに高まる男たちの歓声――
端麗さと初心さの絶妙の調和――
それに重なる少女の美声に、カズマはさらに魅了されようとしていた――
――失望。
――来ると、思っていたのに。
期待を抱いて足を踏み入れたステージの最前列に、少女が望んだ人影は認められなかった。
だが今はそれを感情に顕すべき時期ではなかった。仕事に私情を持ち込んで平然としていることを、この途を択んで以来少女は何よりの恥と教えられ、そして信じていた。だから少女は募る失望を押し殺し、美声を奏で謡い続けた。そして謡う内に少女の胸中からは一切の迷いが消え、少女は此処で自分のなすべき仕事に対し意識を集中させ始めるのだった。
『――離さないでYour Angelを
何時までもあなたの胸に抱き締めていてYour Angelを
もし離したらあの広い青空へ
そのまま飛び上がってしまいそう
背中に映えた羽根を使いこなせない
いけないYour Angel
だからずっと私の手を握っていて
私はずっと、Your Angelでいたいから
あなたとこのままずっとダンスを踊っていたから――』
「ワオ! 新曲だ!」
ステージにまで達する熱狂が、佇むカズマの胸を震わせる――
奏者たちにまで伝播したそれは、より情熱的で華やかな演奏を生む――
熱狂と演奏は舞台に一体感を与え、それが少女を突き動かす――
そうした連鎖の内に一体感を生み出す才幹が稀有のものであるからこそ、フラウ‐リンは芸能の世界に見出され、ごく短日時のうちに時代の高みへと駆け上っていったのだ。
それでも――
彼女がそうした自らの「価値」を自覚しているかといえば、それは甚だ心許ないところがあったのかもしれない。純粋なるがゆえに少女は、実は無意識のうちに自らの持つ価値に困惑を覚えていたのかもしれなかった。それを自覚したところで、自分には何の術もないと少女は観念する以外に途を見つけられなかったのかもしれない。
『――愛しいあなたへ
そちらは変わりはないですか?
草萌える高原の町
夏の萌しも微風に乗ってきました
わたしは変わりなく
あなたの帰りを待ってます
花嫁修業も板に付いてきました――」
あの運命の夜以来、自身の内面を捉えて離さない何かに、切実に語りかけるかのようにフラウは謡った。謡い続けている間、現実の彼女を囚えて離さない柵が、自然と解けていくように感じられた。彼女自身は自覚してはいなかったが、少女は無意識の内に待っていたのかもしれなかった。彼女の内面を捉えたあの面影が、今にもステージ上の少女の藍色の瞳の中に飛び込んでくる瞬間を――
会場の男たちにとって、天国にも身を置いているかのようなめくるめく瞬間の連なりは、開放感の中に過ぎていった。
予定された最後の曲目を、ステージ上のエンジェルが歌い終えた瞬間、満ちてくる潮のように広がりゆく静寂に抗えなくなったのは、その場の男たちだけではなかった。戦場に身を置くという運命ゆえに男たちは慰安を欲していたが、その慰安の対象たる少女もまた、「何か」を欲してステージに上がったのであった。そして眼前の男たちと違い、ことの最後に至るまで欲するものが得られないという事を悟り始めた瞬間、フラウは自分があの夜のように断崖上に在ることを悟らざるを得なかった。
――来ると、思っていたのに。
――それは、決して軽からぬ失望。
その募る失望が、少女にスケジュールにない行為を決意させる。
「……」
ステージの終焉、ボーカルたる少女が唐突に振り向き、バンドリーダーと目を合わせた瞬間、経験豊かな彼は彼らのボーカルが、これまでステージ上では決して見せることのなかった愁いを、その円らな瞳に篭めていることに半ば本気で慄然とした。それでも彼は今なお熱狂を持て余し続ける人々を前にして、ステージの中央に立つ少女の感情ではなく、彼女の行為そのものから、少女が自分に何を求めているのかを瞬時に察し、それを実現ならしめるために用意に入る。
バンドリーダーは彼の指揮するバンドを一瞬省み、それで彼の意思もまたバンドの全員へと伝わった。
ゆっくりと振られるタクトに導かれるようにして前奏が流れる――それが会場に全体にメロディとして拡がった瞬間、新たな歓呼が一斉に開花を向かえた田園のように生じ、そして広がる。
再び昇る歓声――
『――懐かしい風だわ
そう、あの空港で
あなたの腕に抱かれたときに感じた暖かい風
運命の刻を
あなたは憶えているかしら
あなたとわたしが、永遠の絆を誓ったあの刻――』
本来ならばスケジュールに乗っていない、アイドルの予期せぬアンコールを前に、無粋な戸惑いを以って応じる男たちなど、この場の誰にもいなかった。ステージ上のアイドルが、どんな感情を流行のラヴソングに篭めようと、それを心から斟酌する者もまた、この場にはいない。
あるいは、この場の誰もが、アイドルたるフラウ‐リンの美声に歓喜を以って応え、彼女と心を一にすることで自らと彼らの基地を取り巻く深刻な現実からしばしの距離を置くことを択んだのかもしれなかった。フラウの唄が終わらない。それが一層に熱気を生み、場を盛り上げる。一方で外の現実もまた忘れ去られていく――
『――私の心はすでにあなたのもの
あなたの輝く空へ私の心からの愛の言葉が届きますように
銀翼きらめかせて、熱い戦いの場へ赴くあなたの元へ
私の心からのエールがとどきますように――』
彼女の唄が――変わった?
少なくとも群集の最後列から伺っていたカズマには、それがはっきりと感じられた。
だから、公演が終わる段になってフラウが再び唄いだした真意が、カズマには何となく判ったような気がした。それが何か、カズマには具体的に説明できなかったが、ただ前に出なければならないと彼は思った。
胸中に滲み出るように生じた直感に誘われるように――カズマは前に向かい熱狂する群衆に一歩を、一歩を踏み出した。ともすれば群集に押し出されそうになるのを必死に堪え、着実に人ごみの中で歩を刻むにつれ、ステージの唄は次第に透き通るような明瞭さを以ってカズマの聴覚に感じられてきた。
やがて――
その唄に誘われるがまま、群集の最前列に出たカズマ――
公演の終わりを迎えても、なお唄を奏で続けるフラウ――
ステージの段差を隔て、お互いの姿を認めた瞬間――
『――!?』
カズマの驚愕――
フラウの安堵――
息を吞む――カズマは驚愕を憶え、舞台の少女に圧倒された。
おれを待っていた?――そんな筈はないのに、そう思えてしまう。
「……っ!!」
フラウは待っていた。
間奏が続く中、自分が報われたことを、少女は悟った。
ああ――やっと逢えた。
待ち続けた末に望む人影をその足元に見出した瞬間、ともすればマイクを放り出しステージを駆け下りたい衝動に、彼女は一瞬抗いかねた。軽率な行動を取れないアイドルとしての矜持が、かろうじて彼女をこの熱狂の内の孤独に身を置かせていた。
フラウは踏み止まり、そして謡い続ける。
それでも――
漸くでカズマを見出した安堵の募りと、公演の間蓄積させ続けていた焦燥にフラウは抗うのを止め、そしてそのままの立ち姿のままステージの最前列へと足を踏み出そうとした――
だが――
ウアァァァァー……ン!!
電気信号と拡声器により織り成された空襲警報の重々しい響きは、華やかさに満ちたその公演の場を、現実の前線の中に設けられた場違いな事象と、観客に印象付けるのには十分過ぎた。そして戦を知らぬ少女の唄は、ステージの下に群れていた男たちを、再び慰安の只中へと抱き寄せるのにあたって、唄の内容と少女の演技ともに、少女の拙さ故、その実あまりに不十分な出来であることをその場に暴露してしまうこととなった――あるいは、もはや外の現実は、少女の唄で癒されるほどに甘い状況ではなかったのだ。
「敵襲か?」
「レムリアンが襲ってきたのか!?」
交差する疑念は混乱を生み、現実に引き戻された慰問公演の場は、その広範なるがゆえにさらなる混乱を生む。
照明が落ちた。
一変し浮き足立つ周囲の空気にカズマの意識もまた、戦闘へと向かう――
戸惑い、その一瞬の後に混乱に慣れ掛けたそのとき――
「え……?」
自分の胸に飛び込んできた―――否、舞い降りて来た―――人影を、何時の間にか抱き留めていることに気付き、次にはその顔を覗き新たな驚愕を感じるカズマがいた。
「フラウ……?」
見下ろした先にはカズマを見上げ、哀願する藍色の瞳――
その瞳の主を不覚にも知らず抱きしめていることを自覚したとき、カズマが覚えたのは全身を焦がすかのような羞恥――
衝動――混乱の中に好機を得たというそれが少女を突き動かし、少女は仮初の舞台からその流麗な装いとともに舞い降り、後は只管にカズマの胸に飛び込んだ。一方で戸惑いから脱しきれず、熱の篭ったカズマの面立ちをフラウはその頬の朱に必死さすら浮かべ、見詰めるのだった。
カズマを見上げ、その藍色の瞳でカズマの瞳を捉えるのと同時に、フラウは言った。
「お願い、連れ出して……!」
「そんな……!」
――――!!
なおも続く混乱の中、舞台上のアイドルが消えたのに観衆が気付くのには時間が掛った。観衆が舞台を離れ一人の青年と抱擁するアイドルの姿に気付き始め、同時に自らの周囲に広がる新たな種類の驚愕を肌で感じるや否や、遂にカズマはそれに突き動かされるようにフラウの手を取り、あたかも逃げるように出口へ向かい駆け出した――その後のことを考える余裕など、もはや二人には無かった。
力任せに切ったハンドルは、街中の景色を急変させ、車は姿勢を整える暇すら与えられないまま曲がり、そして走り続けた。
曲がらない四輪駆動車を腕力に任せて無理やりに旋回る。ラジアルタイヤが舗装道路を削る音が猛々しい。軍用地上車は荒い挙動もそのままに埠頭を駆け抜け、そして限界まで踏み込まれたアクセルもそのままに市街地の大通りを突っ込むようにして疾走した。オープントップの運転席で、その頬や胸元に烈しい風を受けながらも、車を操る乗り手の意識から平静さは完全に失われていた。
「あのバカ!……なんてことを!」
ハンドルを回しながらの呻きは、未だに泊地全体を支配するサイレンの音に掻き消され、むしろそれゆえに感情を昂ぶらせた乗り手は、彼女が捜し求める誰かを、自身でも気付かないうちに一層に車上で罵っていた。
「……!」
眼前の交差点に差し掛かろうとした瞬間、角の向こう側からいきなりに姿を覗かせたトラックを、ハイビームにしたヘッドライトの照らし出す先に見出すや、運転席のマリノ‐カート‐マディステールは反射的にサイドブレーキを引き、慌ただしく重いハンドルを回す。いきなりその動きを止められてもなお、惰性に乗った車はタイヤから派手に煙と悲鳴を上げスリップしながらに方向を転じ、軍用トラックの鼻先を掠め、そして曲がりながらに加速し左折した。左折が終わるのと新たな通りに差し掛かったところで派手に歩道に乗り上げ、ゴミ箱を弾き飛ばす。遠巻きに居合わせた通行人が悲鳴と怒声を上げる。
「――!」
交差点を通過し終え、再び加速に転じた車の運転席でマリノは舌打ちした。自分の拙い運転に自己嫌悪を覚えたせいでは決してなかった。
戦闘航法学校の教官――あの鼻持ちならない少佐とあいつが?――逢瀬が謹慎を破ってハンティを抜け出す動機にしては、それはあまりに弱過ぎる理由である様にマリノには思えた。かと言って看過はできなかった。「あいつ」の姿を追い求めて車を士官宿舎に走らせ、やがてマリノは車をより広い将兵の慰安区画に向けた。あの少佐――リン‐レベックに、「アリバイ」があることをそのときマリノは知った。彼女ら戦闘航法学校の面々はいま、タイド島の艦隊司令部にいる。
そして――
マウリマウリの街中で敵襲を迎えたことはまさに予想外の展開だったが、それから後が、それ以上に彼女の想像を超えていた。
「艦隊の航空兵が、フラウ‐リンを連れて逃げた。それも彼女の手を握って……!」
――――!!?
熱狂に満ちたコンサート会場から一転、唐突の敵襲に混乱の井戸と化した集会場から方々の体で逃げ出してきた兵士からそれを聞いた瞬間、後頭部を無形の槌が勢いをつけて打ったかのような衝撃をマリノは感じた。次の瞬間には衝撃に突き動かされるがまま彼女は、交通整理のMPの罵声を背に全速で車を公演会場へ乗り入れた――
ツルギ‐カズマが逃げた? しかも大スター、フラウ‐リンの手を引いて!?
混乱――最初は、マリノといえど半信半疑な、ツルギ‐カズマの顛末。
しかし、車を走らせる内、累積していくかのように彼女の胸中を支配していったのは止め処ない怒りだった。
自分の知るツルギ‐カズマらしくない、あまりに突拍子もない、理解できない行動――彼女の与り知らないところで彼がそれを為したことに彼女は怒り、そしてそれに自分以外の「女」が関わっているということに、マリノはさらに怒った。
「奥手のくせに!」
勢いをつけてハンドルを切り、交差点の側面から頭を出した二台目の軍用車両を間一髪でかわす。弾みで再び乗り上げた歩道のゴミ箱を派手に二、三個蹴り飛ばしながら、さらには歩道を歩く将兵の人影を追い立てながら、車はエンジンの唸りもけたたましく決して広いとはいえない道を走り続けた。
「――?」
――ふと、疾走の中で取り戻した平静が、マリノの脳裏に疑念を与えた。
舗装の悪い道、間断なく揺れる剥き出しの運転席で、マリノの思念は巡った。
『――やだ、あたし、何でこんなにキレてるんだろう?』
不本意――
あまりに不本意――
だいいち――
『――あたし、あいつを見つけてどうする積もりだったんだろう?』
唐突に感じた矛盾――だがそれが、紛れもない自分自身の内面の相克に起因するものであることをマリノが自覚した瞬間――
「――見付けたら、一発殴って、連れ戻す!」
裂帛の気合――
――それに急かされるままマリノの足は再びアクセルを踏み
――エンジンの爆音はマリノの聴覚内でサイレンの響きを圧倒する。
――観衆にとって上空からの、姿の見えない闖入者により引き起こされた混乱は、彼らの眼前の、舞台の華が消えたことによって一層に拡大した。
「――敵機は何処だ!? それと被害は?」
「――敵機は偵察機と確認。被害はありません」
「――よかった……で、他に問題は?」
「――実は……フラウ-リンが……」
「――何だ? 我らが歌姫がどうかしたのか?」
「――何と言っていいか……逃げました」
「――逃げ……た?」
青年と歌姫――舞台を降りた直後、互いに立場も出自も違う二人は動揺する人混みを搔き分け、あるいは回避しつつに二人は共に舞台を抜けて会場の裏口から外に達する。裏口から外を伺う段になって、少女が消えたことに舞台裏の人々が気付き、騒ぎ始めた時には、青年と一切の飾りを脱ぎ捨てた少女は、共に意を決して街中に飛び出していた。
『――街は初めて?』と、カズマ。
『――うん……』と、フラウ。
『――わかった!』
街中に出たところでそこに不案内な少女は、彼女よりやや背の高い青年に先導を譲る。それから二人は、サイレンの鳴り響き人々の右往左往する街中を只管に駆け続けた。それから先、カズマは少女の手を引いて、何処を、どう駆け回ったのかなどもはや憶えてはいなかった。ただ周囲の混乱こそが、カズマに少女を連れ、空襲から安全な何処かを探す理由を与えていた。
――気が付けばカズマは、マウリマウリ埠頭の隅に繋がれていた雑役艇を駆り、焼玉発動機のポンポン音も高らかに空の湾内へと漕ぎ出していた。禿げかけた塗装も痛々しい、何時、誰が何の意図を以って持ち込んだのかも判らないほどの襤褸船。それが却って二人の逃避行には打って付けであるようにカズマには思われた。加えて、異世界に対するもの珍しさも手伝ってか、日頃から暇さえあれば飛行船の操作方法を垣間見していたことも、初めての操船に役立つ形となったのかもしれない。
『――何処に行くの?』
『――向こうだ。』
急にその数と往来を増した警備艇の行き交う港内、その中心部で光を発し続ける浮標こそが、襤褸船の向かう先だった。湾の中程に出て、そこで永劫に光を発し続ける無人の大型浮標に横付けしたところでカズマは先に浮標に昇った、はっとして自分を見詰めるフラウに、カズマは付いてくるよう促した。揺れる襤褸船の上で身体の均衡を取ることに慣れていないのか、少女はカズマに手を伸ばし、そして逡巡――カズマはただ冷厳なまでに手を伸ばしたまま少女に自力で上るよう言った。
『――?』
『――来て』
意を決し、フラウはそのか細い腕を一層に延ばす。やがてともに伸びた手が互いの手を掴み、そして二人は同じ場所へと一歩を記す――この場で突き放されることに恐怖を感じたのか、あるいは自分から逃避を申し出たが故か、少女は従順だった。
――あとは、無言。
――無言の内に、空襲警報は静寂に飲み込まれるようにして消えた。
「……」
標識灯の根元に凭れて座り、カズマは放心したように彼岸のタイド島へ目を細めた。サイレンは止んだものの、島々の全体にわたって遠雷のような余韻を未だに引き摺っていた。夜も更けた頃、島の各所から上がったサーチライトが、黄色の腕を夜空へと十重二十重に伸ばしかけていた。島から延びる光を吸い込んだ雲が鈍い銀色に輝き、それがカズマの目には妙に眩しく見えた。
遠方の喧騒に目を細めつつ、カズマは言った。
「どうして……こんな事をした?」
不意に傍らから呼び掛けられた瞬間、フラウは自分に与えられた安寧が紙細工のように脆いものであることを今更に知らされたかのように驚愕した。恐る恐る振り向いた傍らで、呼び掛けたカズマは少女と目を合わせようともせず、次の瞬間にはただ不機嫌なまでに俯いていた。自分がしたことの重大さを、カズマはその若さゆえ、今更ながらに悟っていた。
「……」
「今からでも遅くはない、家に帰ろう」
「いや……!」力なく、声を上げる。
「どうして……!?」半ば唖然として、声が上がる。
カズマの語尾に宿る苛立ち、それを覚えつつも、フラウには何故かそれが怖くはなかった。
「自由に……なりたい」
「自由?」
カズマは、初めて傍らの少女を省みた。その省みた先で、先程の華やかな衣装も一変し、混乱の中で揉みくちゃにされた装いも痛々しい少女は、憂いを浮かべる反面で息を飲ませるような可憐さすら夜空の下で漂わせていた。
フラウは、言った。
「寝る時間も、遊ぶ時間も、行きたい処も……それにキスする相手も自由に選べない生活なんて、あなたには、想像もできないでしょうね」
「そんなに嫌なら、止めればいいじゃないか」
「……これ以外の生き方を……知らないの」
「……?」
「アイドル以外の生き方なんて、わたしは知らない。誰も教えてくれない。だから怖い」
「そうか、だから君は……」
カズマには、判った。少女がかつて死を望んだ理由が、そしてカズマは後悔を覚えた。何故に自分は眼前の少女の苦渋を、こうなる前に察してやれなかったのだろう……と。
「――死ぬ以外の選択なんて、私には判らなかった。ねえ……教えて? わたしに教えてよ、どうすればいいのか……!」
真摯なまでの訴えから目を逸らすように、カズマは周囲の島々へ視線を巡らせた。ここまで付き合った手前、フラウの訴えを無下にはしたくなかった。
そして彼の目はファッショル島の一角で留まり――
「――少し、散歩をしよう」
あたかも世界中全てから孤立したかのような浮標で、カズマが切り出した言葉が始まりだった。
喩え吹けば進む宛てを一瞬で失い飛んでいくような子舟でも、フラウにはカズマが付いている限り何処までも行けるような気がした。子舟の舳先から操船を引き受けるカズマを見詰めるフラウの藍色の瞳には、知らず熱いものが宿っていた。
「……」
「……?」
フラウの眼差しに気付き、カズマはフラウを見返すようにした。怪訝さを隠さないカズマの眼差しをその瞳に真正面から受け入れた瞬間、フラウは慌てて目を伏せる。フラウの挙動に釈然としない表情を隠さないカズマの頭上を天空から降りてきた探照灯の光線が延び、そしてあらぬ方向へと動いて遠ざかって行った。
「ここまで探りに来たか。急ごう」
「何処へ行くの?」
無責任な問いだとは判っている。だが聞かずにはいられなかった。そんな少女の問いを、カズマは微笑で反す。その後に沈黙を載せたまま舟は飛行場の端に面した人気のない岸辺に迫り、そこに乗り上げるようにして止まった。
周囲に人が居ないのを確かめ、先に下りたのはカズマだった。足を下ろし、そしてさらに人影が認められないのを確かめて上でフラウにも降りるよう促す。だが地上からの高さに飛び降りるのを戸惑うフラウ――それに気付いたカズマは手を広げ、フラウを抱き止める仕草をして見せた。
「――」
逡巡――結局は意を決し、フラウは舟から跳んだ。
「……?」
そしてフラウは、自らの搾り出した勇気が報われたことを、下で抱き留めた青年の胸の中で悟った。抱かれたことに驚き、思わず体を離したフラウ、カズマはそんな彼女の挙動を見届ける風でもなく、踵を返し歩き出した。それに少女は、決して軽からぬ不満を覚えた。それと同時に――
女を扱い慣れている人ではない――それは、フラウにも判った。だがそれは、いずれ時間が解決してくれるはずだ。自分が彼に付いている限り――
前のカズマに付いて夜空の下を歩く内、少女から次第に周囲への警戒や近い将来への不安が消え、少女は歩みに専念していく。
何処からか羽虫の鳴く声がした。
ふと、顔を上げた瞬間に少女を襲う驚愕――
「――!」
眼前の光景に圧倒される余り、少女の歩みが止まった。
漆黒を背景に広がる金色、あるいは銀色の大小の織り成す瞬きの連なり――
満点の星空というものを、少女はおそらくは数年ぶりに見た。
そして少女は今、自身が脚を標している場所が、正真正銘の滑走路であることに、今更ながらに思い当たる。
飛び上がりたい――宝石を散りばめたような星々の拡がりに目を奪われる内、飛翔への願望をその胸に抱いている自分に、少女は気付いた。そして少女は、自分の思いを叶える手段を、今自身が居る場所に一つしか見出すことが出来なかった。
「ねえ」
呼び掛けたところで、前を行くカズマの足は止まらない。取り残されるかのような恐怖が唐突に沸き、少女は思わず声を振り絞った。
「カズマ……!」
前方の歩みが、止まった。
「……?」
「どうした、フラウ?」
フラウは駆け出した。小鹿のような少女の奔りは忽ちカズマを追い抜き、そしてカズマは、今度はフラウを追う側へと回る。灯火管制の敷かれた、完全に照明の落とされた飛行場内、たった二人の人影がその敷地に紛れ込むなど造作も無かった。それでも格納庫や補修施設等の周辺を忙しげに往来する監視の警備兵を二人は巧みにかわしつつ、大胆にも広大な滑走路を二線も跨いだ先、カズマとフラウの足は見覚えのあり過ぎる機影を前にして止まった。
「あ……」
ジーファイターだった。滑走路の隅に並べられていた大多数の実戦機の中で一際異彩を放つ一機、二十に達する撃墜マークの他、胴体に描かれた識別番号でその所属と持ち主とを判別することができた。愛機の前で呆然とするカズマに気付き、行き過ぎたフラウが踵を返し、カズマの傍に立って主翼を折り畳んだ機影を見上げた。
フラウが、言った。「あなたの飛行機?」
無言のまま、カズマは頷いた。
「乗せてくれない」
「本気か?」
フラウの顔を覗くこともせずに、カズマは言った。
「連れて行ってくれるでしょ?……あなたなら」
「駄目だ」
「どうして……?」
「どうしても……駄目だ。」
そこまで言い切ったところで、カズマは彼の発言を後悔する。傍らの少女を失望させたのだと思う。
「そうだよね……いけないことだよね」
と、フラウは俯いた。思わずフラウの方を顧みるようにしたカズマの眼差し、その先でカズマよりやや小柄なフラウの横顔は、周囲の闇と天球の青白い星明りの下で眩く映えていた。カズマは思わずを息を呑む――少女の横顔の端正さではなく、むしろその瞳に醸し出された愁いに。
「フラウ?」
「カズマ……私のこと、嫌な女だと思ったでしょ?」
「そんなこと……ない」
「嘘よ」
「……」
「我侭で、身勝手で、無作法で……これが、誰も知らない本当のフラウ-リンなんだよ? 舞台に立っているのは全く違うわたしなの。本当のわたしは――」
「嘘じゃない。君はいい娘だよ」
「カズマ……」
「おれがいい娘だって言うなら、いい娘だよ。こうして君と一緒に居るおれが言うから間違いないよ。だから君は、君自身を嫌いになっちゃ駄目だ」
「ありがとう……」フラウはカズマを顧み、顔を上げて微笑みかけた。そしてやはり……寂しげに言った。
「送ってくれる?……宿舎まで」
「……」
「事務所や上官さんには、わたしがちゃんと話すから――」
――心配しないで、という言葉をフラウが飲み込んだのは、眼前のカズマから一切の厳しさが消えたことに彼女が気付いたためだった。
「カズマ?」
「乗りたいんだろう?」
そう言うやカズマは胴体の吊り革を掴み、弾みを付けて主翼へ飛び乗った。今更のように逡巡を憶えたのか戸惑うフラウに、カズマは手を差し出すように延ばした。思いつきや気紛れで、乗りたいとフラウは口に出したわけでは決してなかった。
それでも――
逡巡――何よりも彼女自身が望んでいたことなのに。
それでも――
外からキャノピーを開け、カズマはフラウを顧みた。何時しか、自分を見下ろすカズマの眼差しが、少女を誘っていた――それが、フラウに結局は勇気を与えた。
フラウは笑った。
カズマも笑った。
異なる場所から延ばされた手――
最初に互いの指が、躊躇いがちに触れ――
――そして、再び固く繋がった。
「コンタクト!」
始動する――ジーファイターは列線から抜きん出るや誘導路を進み始める。
ジーファイターの広い操縦席と、乗り手の小柄な体躯は、本来ならば規定外の少女一人の身体を納めるのに好都合に働いたと言えるかもしれない。だが機体を操るカズマにとって、それは戸惑いを催さずにはいられない「姿勢」ではあった。
座席に腰を下ろすフラウ、その彼女を膝に乗せ、背後から彼女を包み抱くようにカズマが座席に腰を下ろしている。まるで仲睦まじい恋人同士を思わせる姿勢。カズマとしては本当ならばフラウを座席の後方に乗せたかったのだが、少女は承知しなかったのだ。一緒に飛ぶという段になって、少女は不思議なほど積極的になっていた。
誘導路に入ったところで、カズマは始めて管制塔の呼び掛けを内心で懸念する。だがそれは無用の心配だった。すでにその監視範囲外に消えた敵機の追尾と、周囲を飛行する友軍機及び艦船の管制に、管制塔は懸りっきりであったから――
機体が滑走路に入ったとき、そのフラウの首筋から、覗き込み囁くようにしてカズマは言った。
「初めて?」
「うん……」
「怖がらなくていい。身体の力を抜いて」
背後から延ばした手で操縦桿を握り直す。そのカズマの手に、フラウは両側から包み込むようにして触れ、重ねた。驚き、フラウを見詰め返すカズマと、振り向いたフラウが目を合わせた瞬間、二人は今更のように互いが密着していることに気付き、ほぼ同時に頬を朱に染めるのだった。火照る身体と胸中を押し殺すように、カズマはスロットルを一気に開き、言った。
「ただ今より離陸する……!」
生じる加速――全身を押し潰すかのようなそれは、今のフラウにとって怖さや不安を感じるものではなかった。
華奢だが……背筋の延びは驚くほどにいい――その体中でフラウの背中を抱きながらにカズマは思った。猫を抱いているような感触だと思えた。
車輪が離れる音と響き――その直後に機体は浮き上がった。
低空での直進――次第に速度を上げていく戦闘機の操縦席で、飛翔を体中で感じながらに、フラウは夜空の懐に取り込まれるような錯覚を覚えた。
だがそれも――決して怖くはない。しばらくの直進で速度を蓄え、次には蓄えた速度に任せ上昇を続ける内、加速の生む忌々しい加重はとっくに消え、少女は知らず星々の住む夜空を駆けることを体中で愉しんでいた。
「感触はどう?」躊躇いがちに、カズマは聞いた。
「いい!……すごくいい!」
「よかった」
安堵とともに踏み込むフットバー、加速に身を圧されない程度に滑り出したジーファイターの操縦席から広がる夜景が移り変わり、煌々たる星と白銀の雲の広がりは少女の目をさらに愉しませる。
夜空を滑り、あるいは銀翼を傾けながらにジーファイターは雲海を舞う――
微かに機を揺らす外の気流の流れと、機内に反響するエンジン音以外は何も聞こえない静寂の中での飛翔――
その中に身を置くうち、何時しか少女の胸からは地上で自身を支配していた現実が掻き消えていく――
ふと、フラウは言った「ねえカズマ」
「ん?」
「あなたはどうして、飛行機乗りになろうなんて思ったの?」
「……」
「やっぱり……そこに自由があるから?」
「死にたかったからさ」
「……?」
「……何もかも嫌になって、死にたくなったとき、こう思った。陸で死ぬより、空で死んだ方がずっと天国に近いだろうって」
「……」
「……だから、おれは飛行機乗りになろうと思った」
「カズマ……」
「でも……今は違う。正直もう理由なんかどうでもいいんだ」
「何故?」
「陸で死ぬのも、海で死ぬのも……そして空で死ぬのも……飛んでいる内に同じくらい馬鹿馬鹿しくて、そうする意味も無いことに気付いてしまったから……かな」
「……」
「おれには判ったんだ。何処に居たって、どんなに死にたくなったって、人は生きなきゃいけない。生きなきゃ、現在よりより良い自分になれない。どんなに辛くて、馬鹿馬鹿しい現在でも、現在の苦しみを解決するには、生きて明日を迎えなくちゃ駄目なんだ。だから……人は死のうなんて思っちゃ駄目だ」
「……!」
「フラウ?」
「……?」
「操縦桿、握ってみろ」
「うん!」
カズマが手を離すのと入れ替わるように、フラウは操縦桿に触れた。操縦桿に加わる加減は意外に重く、それに戸惑いながらも中立に支え続けようと勤めるフラウの耳元に、囁くカズマの吐息が触れた。
「針路変更、南東――」
「こう?」
「フラウ、違う。向きが逆だよ」
「ゴメン!」
苦笑――密着した背後からそれを聞き、羞恥に顔を赤らめ俯いたフラウの前に、カズマの手が伸び、そしてフラウの手を包み込むようにして操縦桿に触れる。
迫り来る別れの刻への自覚が、フラウを想うあまりにカズマを冷厳にさせていく――
「さあフラウ、帰ろう」
「いや……」
「未だ我侭を言っているのか?」
「違うの……」
「違う?」
「カズマ……」
「フラウ?」
「このままずっと……ずっとあなたと一緒に飛んでいたいから……」
「……」
言ったこと、言われたことに感じた驚愕が、知らず、二人に互いの瞳を見詰め合わせた――
そのまま直線で、三分間は飛んだだろうか――
そして――
カズマが先に目を逸らし、うって変わり堅い口調で言った。このままではいけないことを、カズマはよく知っていた。そしてフラウは、終わりを押し止める術のないことを知っていた。
「操縦代わる」
「……」
傾く機体――
異なる想いふたつを載せ――
機体は、来た路を戻っていく――
「針路0‐4‐3、ヨーソロ」
飛行機を操縦する青年の堅い表情を、少女は仰ぐようにし、何時までも見詰め続けた。




