第十二章 「Preferential Ticket」
誘導路を抜けたジーファーターの編隊が滑走路に入る。風向は、離陸開始位置に付いた機首から向かい風に入ることを、ブリーフィングの資料と風向測定器が教えてくれていた。
『――“サイファ”離陸を許可する。“キャット”は先行させてよいか?』
『――“サイファ”了解、“キャット”先行せよ。合流空域及び高度はブリーフィング通りだ』
『――“キャット”』
回線の中で、“キャット”グラフトン大尉が了解の意を示すのをカズマは聞いた。離陸開始位置に付いた“キャット”グラフトンのジーファイターQ型が頭一つ先に出、そのまま加速を始める。
駐機場から誘導路に出る間に感じたことだが、誘導員の指示が快い。前席のリン‐レベック“サイファ”ランバーン少佐に聞いたところでは、戦闘航法学校はその指揮下に専用の管制班を抱えている。
つまりは、訓練や演習の際、戦闘航法学校と対峙する飛行隊は、誘導と接敵に関してこの管制班とも「戦わ」なければならないことになる……この独立性と「唯我独尊」ぶりが、あの343空に似ている。優秀な操縦士と、優秀な地上要員、整備の行き届いた機材――343空と違い、これらが実戦部隊ではなく「生きた教材」として運用されているところに、ラジアネスという国家の底力が察せられた。
一般に「教導仕様」とも呼ばれるジーファイターQ――その複座型たるQB、カズマからすれば、自分が乗り込んでいるジーファイターの後席からの眺めは決して良好とは言えなかった。
何故かというにジーファイター生来の胴体構造上、操縦席たる前席が後席より一段高くなる。それで前方の視界が塞がれる。空戦で攻勢に移行する際、最も重要な方向たる前下方は言わずもがなだ。前席の積りで目を凝らそうとすれば、主翼が邪魔をする。カズマがこの後席でできるのは、上方と後方の索敵の補助ぐらいで、それ以外は遊覧飛行の客席と何ら変わりがなかった。昼間でありながら、夜間飛行の様に視界が閉ざされる。技量など、見ようが無い。
「……」
いや、そう悲観したものでもないか――足の間に生えた操縦桿に目を落とし、カズマは自身を納得させた。正式な用途は教習用なのだから、後席に副操縦装置が付くのは当然のことであった。エンジンコントロールレバーも付いている。ただしそのせいで後席は狭い。酷く狭い。小柄なカズマがそう感じる位なのだから、大柄な操縦士にとって、此処に収まること自体が拷問と化すだろう。
『――“サイファ”離陸する』
“キャット”を先行させ、離陸滑走を始めたQBが左右に揺れた。飛行場の整地が悪いのではなく、主脚サスペンションの問題だと思えた。操縦系もそうだが、本来単座機たるジーファイターを、無理くりに複座化した結果、滑走するだけで不安を抱かせる程に機体の均衡が崩壊している。離陸した後の飛行特性の悪さが、カズマには容易に想像できた。
そこに、前席の操作に合わせ、後席のスロットルレバーが「全開離陸」へと動くのを見る――こいつを平然と飛ばすリン‐レベックの技量の高さも、この後席からはよく判る。操縦装置は前後席とも連動しているから、操縦桿とフットバーの動きを後席からも把握できるのだ。
爆音の高鳴りに比例して加速が続き、横を見るカズマの眼前で、上向きの地平線が平行になり、そして機体が浮いた。滑走距離は予想よりも短かった。ファッショル飛行場の先端は島の崖だ。離陸して飛行場を脱した後、島の下まで高度を落としつつ滑空、加速し、速度を稼いで上昇るのは、浮遊する大陸や島が当然の様に存在するこの世界ではあり触れた離陸の技術であった。燃料の節約にもなる。
それらを考慮してもリン‐レベック少佐の操縦には危なげがない。横須賀海軍航空隊の飛行教官と同格だと、カズマには思えた。安心ができる操縦だ。この「異世界」に来た当初と比べ、女性の操縦に対する不満や偏見は、今のカズマには無い。だいいち、これまでに自分が撃墜したレムリア軍の撃墜王にも、女性がいたとカズマは聞いている。マリノもそうだが、この「異世界」の女は強く逞しい。
『――30……50……100……離陸!』
リン‐レベックが速度を読み上げるのが聞こえる。機体の尾部もまた浮き始める。飛行場の端はそのまま空の海が広がる。飛び上がるというより、飛び込む様な感覚を操縦士は覚える。
滑空――主脚とフラップを畳むや、QBは速やかに加速する。
フラップは兎も角、主脚の操作ハンドルは後席には流石に付いていない。それくらい後席は狭い。降下から一転し高度が上がる。前席の操作で昇降舵のトリム調整ダイヤルが回るのが見える。更に上昇の過程で緩い旋回に入った機内、カズマが、自身の下半身を取り巻く違和感に気付いたのはそのときであった。
「……?」
躰に加速度が圧し掛かる頃合いで、Gスーツがじんわりと下半身を締め付ける。
Gスーツはエンジンから空気を送るホースと繋がれている。離陸前のリン‐レベックの説明では、機体の加速を自動的に検知し、Gスーツに空気を送り込むことで体内血液の下半身への過度の流入を防ぎ、不意の失神と視野狭窄から操縦士を守る効果を与えるのだとカズマは聞いた。そのいずれも――しかも何度も――経験済みのカズマからすれば、夢の様な利器にそれは思えたが、こうして機能を体感するまで、半信半疑であったことも事実だ――だが今、窮屈なことに目を瞑れば、これはこれで素晴らしい。
『――“サイファ”高度15000』
“キャット”との合流高度だ。左に垂直旋回を続けるQBの機上からは、港内に停泊する艦船や輸送船がよく見える……と同時に、絶えず自身に注がれる「殺気」を、カズマは背中に感じた。FASと初遭遇した経験、そして先刻の“キャット”のしたり顔が脳裏に浮かぶ。
あいつ――まさか太陽の方向か?
肩ベルトは、離陸の段階でとっくに外していた。
後席装備の固定ハンドルを握り、首を上げてカズマは太陽の辺縁に視線を巡らせた。烈しい光の辺縁の蒼、それに溶け込む様に、あるいはカメレオンの様に蠢く輪郭が孤独つ。レムリア機の様な黒点には見えなかった。
「迷彩か!」
『――えっ!?』
「“サイファ”左後上方! 八時!」
その瞬間、機影の形をした蒼が牙を剥き、距離を詰めてくる。QBを追尾する姿勢を取るQの鼻先に、グレー基調の塗装が迷彩であったことを、カズマは改めて自覚する。蒼空を切り取った様な、蒼み掛った様なグレーーー旋回しながらにQとQBが並ぶ。Qの機上、操縦する“キャット”グラフトンがカズマを指差し嘲笑っているのが見えた。脅かしの積りなのだろうか?
普通に編隊を組めんのか……こいつ――呆れるカズマのイヤホンに、操縦桿を預かるリン‐レベックの声が入った。
『――ツルギ少尉、過敏になることはないわ』
「了解」応答するのと同時に訝る――この女、あいつの接近を関知ってた? その上で、泳がせた?――“キャットがそのまま“サイファ”機の左後方に付いた。それも上方。見張られていると感じる。スロットルが再度開く。編隊はそのまま直進コースに入り、港を脱した。
ふうん……察知ていたか――操縦桿を握りつつ、リン‐レベックは考えている。
漫然と後席に収まっているとは思えなかったが、迷彩した追尾機をこうも迅速く見つけるとは――感嘆ではなくむしろ納得を以て、リン‐レベックはバックミラーに視界を落とした。狭いバックミラーの視界の中で、後席の撃墜王は物見遊山の様に、頭と眼を動かしている。傍目には滑稽にすら思える光景だ。だが――
第一関門は合格か――脳内に用意した設問の一問目に、リン‐レベックは合格点を与えた。無警告の接近は戦闘時に敵機の浸透を意味するのは勿論、平時に在っては事故を惹起する可能性が高い。空戦に勝つ以前に、通常の飛行で事故を付けないのがFASの一員たる第一条件だ。それを防止するという意味で、平時の見張りにも意味がある。
「ツルギ少尉、間もなく訓練空域」
『――了解。検証の方、もう始めますか?』
『――もう少しファッショル島から離れます』
「了解」
リン‐レベックの返答は、カズマに意外と思える感触を与えた。
検証をしたいだけならば、そこまで飛ぶ必要はない。だいいち、帰還るのに時間が掛るだろう。離陸前に持たされたニーボードの空図。QBの飛行は、FASの訓練空域の中で、ファッショル諸島から北に最も離れた場所まで飛ぶ可能性を示していた。ブリーフィングの席、「敵情によって、飛行計画が変更るから」という理由で、リン‐レベックは「検証場所」の位置を明言するのを避けている。
「待てよ……」反射的に、計器盤の燃料計に目が向いた。離陸時、QBは胴体中央に一本増槽を提げて来た。これはカズマが普段操縦しているジーファイターβの、長距離飛行時と変わらない構成だが、QBは複座という機体の性格上、重量増加分の燃料消費も多い。燃料計の針の動きを注視する……もしこの速度を維持したまま先述の辺縁部まで飛べば、ファッショルに帰還るまで燃料はギリギリだ。機内燃料も多くは積んでいないようにも思える……カズマの懸念を他所に、二機はどんどんファッショルから離れ、周囲にはささくれ立った雲の海と大気の蒼以外の何物もまた、見えなくなった。
「方位指示器の方、大丈夫ですかね?」
『――積んでないわよ? 重くなるから』
「……!」
冗談かと思ったが、思い返せばそんなもの零戦や紫電改にも積んでいなかった。「航法……自信がおありなんですね」鎌をかける積りで言った。『――当然。私は14歳の頃から操縦でたから』平然とした返事に、カズマは内心で鼻白む……鼻白みつつ、計器を基に空図に鉛筆を走らせる。粗雑な計算式と数字の羅列と、経路線が奇麗な空図を汚し始める。
『――ツルギ君』
「はい」
『――今どの辺り?』
「ファッショル島北西200空浬かと。空図だともうすぐイライザ……イライザ島の南を通過します」
『――ふむ……』
眼下は絨毯の様な下層雲が視界を覆っている。左右には谷の様に層雲の拡がりすら見える。右主翼端に臨む更に先、層雲に紛れて黒い山が突き出しているのが見え始めた。山と断崖絶壁ばかりから成る小浮遊島イライザ島の一角を、編隊は過ったのだと判る。
『――……』
前席のリン‐レベックが、口笛を吹くのをカズマは聞いた。あと三十分も飛べば、編隊は懸念した通りの飛行限界点に到達するだろう……
すごいな……と、リン‐レベックは思い始めている。
見張りを自然にこなせるだけでも戦闘機乗りとして優秀、バックミラー越しに後席の動きを見ているだけでも、その技量と意識の高さがよく判る。彼は航法計算をしている。このまま機上から自分が消えて、この機にツルギ‐カズマ独りが残されても、彼は平然とファッショル島に帰還ってくるだろう……
「……いいぞ、合格だ」
『――少佐、なにか?」
「いや、独り言よ」
『――そんなことより少佐、そろそろ基地に戻らないと燃料が……」
「ああそうね……これより変針点。方位1‐8‐3」
『――方位1‐8‐3』
復唱するのと同時に、QBは左に傾いた。Gスーツの効果をより体感し得る、迅速い旋回と滑らかな加速であった。リン‐レベックの技量の良さも加わって、急旋回がこれほど楽に感じたことは無い。こいつが真に威力を発揮するのは、加減速と上昇下降を繰り返す格闘戦なのだろう――考えるのと同時に、飛行の目的があくまで「検証」にあることをカズマは思い返す。後背に圧を感じた。それも強い圧だ……案の定“キャット”のやつ、ベッタリとこちらの傍にくっ付いている。飼い主に甘えるネコの様に、だ。
「レムリア機は、三時上方、2000SF程の高度差から攻撃してきました。三機編隊ひとつとあと中隊がひとつ……自分に喰らい付いたのは三機編隊、特装機の方です」
『――それは報告書で読んだわよ。ツルギ君』
「……?」困惑した。じゃあこの飛行の意味は?――困惑とともに今しがたに話した三時上方を睨む。雲の壁に阻まれた視界、その方向に「敵機」の気配をカズマは感じなかった。確かめるように周囲を探る……そして、不穏な空気に気付く。
「少佐、編隊の間隔を開いた方がいいのでは?」
『――あら、どうして?』
「下は雲だから上からだと目立ちますよ?」
眼下、下層雲が絨毯の様に拡がる。実戦では一番緊張を誘う状況だ。QBもまた空に近い色調で迷彩されてはいるが、雲に映る影は誤魔化せない。
「それに飛行隊は、編隊を散開して分散警戒中を襲われたので」
『――じゃあツルギ君、敵機を探してみる?』
「……」返答から滲み出る不穏が、さらにどす黒くなる。
『――FASの流儀だと、仮設敵は、打ち合わせ通りに来るとは限らない』
「……」
やはり、そういうことか――誘いに乗る前のリン‐レベックとの遣り取りを思い出し、カズマは自身を納得させた。一番近い「敵機」は――さり気無く目を流し、いつの間にかすぐ背後、それも後下方を“キャット”が占めていることに気付く……全くもってネコだ。気配を感じさせない。
『――ツルギ‐カズマ少尉候補生』
「はい?」
改まった口調、その上に感情も消えた。
『――操縦を替わる』
「替わらなきゃダメですか?」敢えて、言ってみる。
『――FASは、あなたの技量が見たい』
「いやです」それが不当と判断された場合に限るが、ラジアネス軍の兵士には、上官の命令を拒否する権利がある。大日本帝国陸海軍とは違う、いい気風だとカズマは思う。
『――満更でもない癖に』
「……」
『――見せろ』
「いやだ」
『――じゃあしょうがない』
「……!?」
席越し、リン‐レベックが両手を広げたのがカズマには見えた。
『――いいぞ。攻撃しろ』
「――っ!」
反射的、剣を奪う様に操縦桿を引っ掴んだ。背面姿勢に入れるのと同時にスロットルを最大に開く。背後、雲海から急上昇してきた機影とQBが交差する。衝突コースだった。やつは上昇の頂点で捻り込み、降下加速して距離を詰めてくる――降下中の操縦席、自分の予測が当たっていることを、迫りくる背後の気配からカズマは察した。
砲弾の様に落下するQBを、下層雲スレスレの高度で引き起こして滑らせる。引き起こした瞬間に来ると思った血流の低下を、Gスーツが締め付けて止めた。急上昇の加重を呼吸で往なしつつ、スロットルを絞りつつ急旋回から離脱。ふと横を見れば、主翼を過る水蒸気まではっきりと見える。抵抗と摩擦熱の賜物だ。機体そのものも荷重に抗い、不気味に軋む。
敵影を追って上半身を捩る。明瞭な視界を傾けた操縦席から背後に向ける。その背後、同じく水蒸気を引き、上層雲から落ちるように降りて来た機影がひとつ、ふたつ――
『――カズマ! 前方から一機!』
「……っ!」
前がリン‐レベックに塞がれていることに、今更気付く。前方と交差!――近い! 黒い機影が大きな影となって操縦席を過る。操縦席と機体が衝撃波に激しく震える。スロットルを再度全開に、操縦桿に力を込めて振動と失速を抑え込む。力を込めた際に漏れた息が、酸素マスク内に反響するのを聞く。
『――一機、右に曲がった! 挟み込む!』
「……!」
フットバーを左に踏み込み、操縦桿を再度倒した。降下し加速する。降下の底で操縦桿を引いて機首を上げた。弾みがついたQBがエンジンに引っ張られるように昇る。追跡者のジーファイターQと、上昇と横転に入ったQBが再度交差し、機上のカズマはスロットルを閉じてフラップを全開、勢いよくフットバーを左に踏む。急旋回を超えた旋回――失速からスピンに転じたQBは、忽ち追跡者を追う位置に付いた。身体に掛る負担が楽に思える。呼吸も楽だ。Gスーツの効能と言うべきだろうか?
『――すごい!』
「ちゃんと前見ろ!」
『――二機、左旋回で回避中。このまま左旋回を続けて!』
前が見えない。それがもどかしい。「もう一機は?」
『――右旋回! こちらの背後に占位る!』
全速で飛びつつ、後背を顧みる。急機動から完全に置いて行かれた“キャット”との間隙、そこに別の機影が入り込もうと旋回るのが見えた。
「“キャット”にあいつを撃墜すように言え!」
『――カズマ君、“キャット”は今さっき敵機に回ったわ』
「おいおい!」
『――御免なさい。今日はそういう手筈なの?』
「技量を見たいんじゃないのか? 何を考えてる?」
『――シチュは四対一。どうする?』カズマの話を、リン‐レベックは聞いてくれない。
「このまま前の敵を見ていろ」カズマは諦める
『――カズマ君、二機、左右に散った』
「上の雲に入るぞ!」
操縦桿を軽く引けば、逃げ込める距離と高度と踏んだ。カズマの目算は正しかった。湿気を含んだ雲が、高速で突入した風防に水滴となって広がり視界を塞ぐ。分厚い雲ではない。だが潜みつつ新たな雲を見つけ、追跡者から距離を離すのに十分な状況だと思えた。
『――どうする?』と、再度リン‐レベックが聞く。
「ばからしい。このまま帰還る」
『――空戦わないの?」
「これでどうやって空戦えと?」
複座機、それも操縦する自分は後席に居て、空戦おうにも機銃の狙いが付けられない――この位のことも理解らないのかと言いかけて踏み止まる。雲の森をQBは単機飛び続けた。針路は現状で問題ないようにカズマには思えた。そのまま機上で三十分が過ぎた。前方に光が漏れるのが見えた。
『――カズマ君、雲を抜ける』
「わかってる……!」
雲を抜けて蒼空の下に出る。緊張を覚えた。眼下は相変わらず雲海。頭上が怪しいと思えた。頭上――後背に向けて肩と首を捻り、雲間から顔を出した太陽の眩しさに思わず目を顰める。雲中の薄暗がりに慣れた目が驚くのを自覚する。背中がむず痒い。嫌な気配だ。
「……っ!?」
回避しようとして操縦桿が動かない。それは何時しか前席に握られていた。後背――急激に迫り、追い縋る機影に背中が震えた。直進するQB。その背後に暗灰色のジーファイターが雲間を縫って加速し、そして接近する――
『――ツルギ‐カズマ少尉候補生。貴官は撃墜された。状況「闇の舞踏」を終了。これより編隊は集合し帰投する』
抑揚に乏しい男の声が、無慈悲にイヤホンを打つ。
『――ツルギ君、あなたは失格よ。演習空域を逸脱した』
「……?」
失望を含んだ女の声は、それが前席であるだけにカズマの胸を鈍く抉った。
「――こちらが第二飛行場です」
係官の声は、来客を扱うことに対する慣れと、基地の重厚な陣容を来客に誇れたことにより、一層の弾みを増しているかのように聞こえた。
向かい側に位置する第一飛行場の持てる空間全面を、艦載機の無骨な姿が埋め尽くしていたのとは対照的に、練習機や連絡機が駐機する過半を占める第二飛行場は、地上の民間空港にも似た閑静さすら漂わせていた。
一行を乗せた車が誘導路を通過した直後、二機のBTウイング艦上攻撃機がゆっくりと、重々しく滑走路から浮き上がり、やはり少しずつ上昇しながらに雲間へと吸い込まれるようにして消えていく。編隊が消える直前、四機のジーファイター艦上戦闘機がいち早く離陸を果たし、攻撃機を悠々と追い抜き上昇していった――先週以来、警戒部隊の陣容は一層にその重厚さを増している。その一方で削られゆく休養期間が、未だ前進と再編を続けている空母飛行隊に少なからぬ負担を強いていることは事実だった。そうした実情から超然として、来訪者の一行は飛行場の周辺を巡っている
「すごいもんだナァ……」
隣接する第一飛行場の様子に、改めて目を見張る大人たちの感嘆を他所に、最後に車を降りたフラウ‐リンの藍色の瞳は巡った。この空域全域における攻守の拠点となる島だけあって、ファッショル島の抱える軍用飛行場は広い。士官食堂での昼食と休憩を挟んでもなお、見学に託けて全部を回りきるのに夜までかかるかもしれない。
広報課のカメラマンなど、この日だけで食事の光景まで含めると、カードゲームができる位の枚数の写真を撮った筈だ。当然、全ての写真にフラウが写っている。午前中だけでこれで、昼食のデザートのレモンパイに口を付けようとした瞬間まで撮られたのには、さすがのフラウも表情を消して彼らを睨みつけたものであった。
昼食の間に帰還したのだろうか、薄蒼色に塗装された戦闘機が五機、格納庫の前で並んでいる。物見遊山気味に周囲の作業員に視線を流した先、格納庫に近い薄蒼色の戦闘機の傍で佇むあの青年の人影を認めた瞬間、少女の足は意識しないままに大人たちから離れ、歩を刻み始めていた。それでも――
「あ……」
数歩進んだ先に青年と正対する女性の姿を見出した瞬間、少女の足は竦んだ様に止まった。あの夜以来、フラウの心を捉えて離さないあの青年が、自分ではない女性と話をしているところへ自分が進み出るのに、少女は躊躇いを覚えてしまう。女性は、恐らくは士官なのだろうか? ともフラウには思えた……ではあの青年も士官?
士官が青年に何かを言うのが、立ち尽くすフラウには聞こえた。
「――ちょっとした遊覧飛行よ。今日のはそう思ってくれていい」
「――こういうの、なんと言うか……良くないですよ」と、青年が答えるのが聞こえる。眼つきが険しければ声もまた大きかった。不満を吐露しているのだと少女には思えた。
その後に二三言会話が続いた。見守る少女の眼前で女性士官の手が延び、背の低い青年の肩に触れるのをフラウは見た。少女の見守る先で、青年は頭を振った様に見えた。期を同じくして飛行装具を纏った他の士官が女性士官を呼んだ。女性士官が離れ、そしてあの青年が独りその場に残される。
今だ――それらを見届け、少女は一歩を踏み出した。歩き出し、そして走り出すのに、少女は勇気を要さなかった。
「あの……!」
呼び掛けられ、ツルギ‐カズマは振り返った。呼びかける声には聞覚えがあった。
「あ……」
「……」
後ろで束ねられた豊かな髪が、熱いそよ風に萌えていた。
申し訳なさそうに、上目遣いに向けられた大きな藍色の瞳、頭を下げる少女の姿、それを視界に入れた瞬間、カズマからは先刻の記憶は完全に失われる――
「君は……前に……」
「先日は……ごめんなさい」
カズマの眼前で、少女は頭を上げた。真摯と驚愕――異なる二人の視線が交わった瞬間、二人の内背の低い方の頬が薔薇色に染まるのを、もう一方は見る。
「よかった……思い直してくれたんだ?」
「……」
掛けられた声が、再び少女から声を奪う。そして声を失ったまま、少女ははっとした表情もそのままに顔を上げた。そこで再び、少女は逡巡の中に心を置く自身を自覚してしまう。
その少女の困惑を察し、カズマもまた覚える困惑――それでも出すべき言葉を、彼は持っていた。
「あれから、どう? 変わりない?」
「……」
掛けられた言葉に対する、自ずと込み上げる微笑ましさ――それを押し留める意味を少女は感じてはいなかった。何故なら、眼前の青年の言葉には、少女が日ごろ聞き慣れて止まない打算――言い換えれば下心――めいた響きなど一片すら感じられなかったから……
微笑――眼前の、じぶんよりやや背が低い少女が無言のうちにそれを端正な容貌に浮かべた瞬間、今度はそれに胸中を震わせてしまうカズマがいた。上目遣い――それでも目の前の少女は何て温かく、そして無垢なそれを持っているのだろう?――だが、そんな少女の眼差しに、訴えかけるような悲しさを感じ取っているカズマもまたそこに存在した。それはまるで――
助けすら求めているかのように見える瞳の湿っぽい輝き。
それに誘われるかのように、ともすれば歩を詰め、少女を抱き寄せてやりたい衝動にすら駆られる。
「君は、何故ここにいるの?」
「わたしたちは、お仕事でここに来たの」
「仕事?」
カズマの言葉に、フラウはこくりと頷いた。同時に浮かべられた笑顔が、前とは一転し全くの作り笑いであることに、この時カズマは初めて気付いた。何となく、カズマは話題を転じる必要を感じた。
「……そう言えば、未だ自己紹介してなかったね。」
「え……?」
「ぼくの名前はカズマ……ツルギ-カズマ」
「じゃあ……貴方が……」
今度の驚愕は、フラウのものだった。先ほど自分が接した戦闘機――それも、赫々たる戦果を撃墜マークにして機体に纏った「殊勲機」――の乗り手が、まさかこの人であったとは……!
「……」
絶句――少女の心中を占めたのは、むしろ意外――こんな、市井の何処にでもいそうな少年が、まさか艦隊の撃墜王とは――映画やコミックに出てくるヒーローのような、筋骨たくましい、野性味溢れる大男かと思っていたのに――
だが――
それを思ったとき、フラウは噴出した。文字通り、彼女自身ですら思いも拠らなかった、心から沸き起こる微笑ましさの為せる業であった。少女のそれが、今度は心からの嬉しさから生じた笑みであることを察し、カズマもまた笑った。
「わたしは……」
そしてフラウもまた、自分の名を告げようと形のいい口を開きかけたそのとき――
「フラウ! 何をしてるんだ?」
「……!?」
格納庫の外から男たちの声がした直後、少女が背筋から震えるのをカズマは見た。
怯えている?――込み上げる不審がカズマを突き動かし、そして視線を転じた格納庫の外では、数人の大人たちが手持ちぶたさにたった一人の少女を待っているのが見える。
「あの人たちは?」
その問いには答えず、少女はおずおずと一片の紙切れをカズマの前に差し出した。向こうの人々に名を呼ばれた途端、少女の顔に宿った怯えと寂寥は、一体どうしたことだろう?――少女の素性に疑念を抱く以前にカズマの胸中に宿った疑問を晴らそうと努めないまま、少女は沈んだ声で言った。
「あなたに」
「……?」
「お願い、受け取って」
少女の声には芯の強さこそ無かったが、抗い難い響きがあった。請われるがままカズマは掌を広げ、紙切れがその中に触れた瞬間、少女は両の手を伸ばし、あたかも念を押すかのように、カズマの手を包み込むようにして紙切れを握らせる――目の前でカズマが驚きを隠せないまま紙切れを受け取るのを見届けるや、少女は身を翻し駆け出した。
「君っ!」
カズマに呼び掛けられ、フラウは振り返った。
憂いを込めた大きな瞳――だがそれも一瞬、飛燕のような足取りで再び踵を返すや少女は駆け出し、そのまま大人たちの待つ方向へと去って行った。
「君……」
再び呼び掛けようとして、カズマは止めた。
少女の背中に、戦いに赴かんとする誰かの影を重ねて――
そしてそれを思った瞬間、カズマの胸中を奔ったのは、同情――
大人たちが、彼女の名を呼ぶのがカズマには聞こえた。
「――何をしていたんだフラウ-リン、俺の傍にいなくちゃ駄目じゃないか」
「フラウ-リン?」
フラウ-リン――その名に聞き覚えがあることに、カズマが漸く思い当たったとき、カズマは動揺する瞳もそのままに彼方へ消えた少女を見返した。そしてカズマが見開いた眼差しの先で、待ち構えていた大人に肩を押された美しい少女は、そのまま取り巻きたちに車内に入るよう促されながらも、ただ無表情に、かつ必死にこちらを伺っている。
――あの娘が、あのフラウ-リン?
「―――!」驚愕とともに、体中を駆ける高揚に身を委ねる。
自分でもそうと自覚しないうち、曳かれ行く少女を、カズマは何処までも見送っていた。大人たちに連れられた少女が、迎えの車の中に姿を消していくそのときまで――そして車が立ち去ったとき、カズマは思い出したように託された紙切れに目を細めた。掌の中に収まるぐらいの大きさの、大仰なまでに装飾の施された紙片、だがその真ん中に刻まれた文字がカズマの目を捉えた。
「優待券……?」慰問公演のチケットだった。
そして――
それはかつて生命を救い、これまで自分が話していた相手が、皆にとって特別な存在であることを、カズマが初めて自覚した瞬間――
「――フラウ-リン……」
襟をはためかせる風は、帰路を駆け抜ける車体の上で、一層にその湿っぽさを増していた。
「――フラウ-リン……」
「ツルギ君、何か言った?」
「いえ……」
帰路へと揺れる地上車の上で、何度その名を呟いたことだろう?
フラウ-リン――
――お願い、受け取って。
そう言い、自分を見上げたときの少女の眼差し――それを脳裏で反芻する度に抱く感情に、カズマは車上で戸惑い続けていた。
切実――
哀願――
自分を見詰める円らな瞳に感じ取ったそれらに、カズマは思う――あの娘は、一体なにをおれに言おう――否、訴えようとしていたのだろう?
「……」
思念を振り払うように、カズマは走る車の外へと視線を巡らせた。滑走路の端に差し掛かった交通路から、疎らに駐機する作戦機が目に入る。その多くが風防、エンジン、外板といった各所の部品を取り払われ、傍目には無残とも思える姿を晒していた。
要するに補給路が寸断され、その結果として損耗部品の供給が間に合わないが故に、部品取りに回された機体だ。恐らくは過日の特装機の襲撃を逃れたBTウイングの中にも、「用途廃止」としてその様な運命を辿った機がいるかもしれない。新鋭機を襲った災難にしては、あまりに悲惨な末路とも言える。
ふと、ハンドルを握るリン-レベックが言った。
「ツルギ君」
「はい?」
「FASは飛行の後に講評をするのだけど、君、参加する?」
「あくまで自分は同乗者なので」
と、口に出して不快になる。それを察し、リン‐レベックは苦笑した。
「騙し討ちだと、まだ言いたそうね」
「事実そうでしょう」
「じゃあ、私と二人で『講評』するのはどう?」
「は……?」
意味を量り兼ね、カズマは運転席を顧みた。白い歯を見せてリン‐レベックが哄笑するのをカズマは聞いた。それが自分の冗談を気に入った人間の笑いであることに思い当たったのは、ずっと後のことだ。
「埋め合わせと言っては何だけど、『牛肉とロブスターのグリル』奢ってあげようか?」
「――っ!」
半ば驚愕して、カズマはリン‐レベックを凝視した。御馳走だ。この世界に来てから食べた回数は一二回も無い。それでも美味な料理であることは胃袋が覚えていた。
「レンヴィルで食えるんですか?」
「有る処には有るのだよ。ツルギ‐カズマ少尉候補生」芝居がかった声が、階級だけでなく年齢の余裕であるように聞こえた。
「その代わり、再戦を約束して」
「……」
「次は君の全力が見たい」
真剣な眼差しと口調に困惑するカズマをそのままに、司令部用地上車は連絡艇専用の桟橋の前で止まった。帰るべき空母「ハンティントン」の巨体が伺える距離であった。送ってくれた礼だけを言い、車を飛び降りたカズマの背後に、リン-レベックはまた呼び掛けた。
「ツルギ君?」
「『講評』の日時は追って連絡するから、再戦の件、それまでに考えておいてね」
リン‐レベックの言葉は、カズマには念を押すように聞こえた。その後はただ運転席から微笑が見送る。カズマは何も言わなかった。ただ踵を返しての敬礼――そして、リン-レベックの方でもカズマの返事を期待する風でもなく、車上からの答礼の後、淡々と車を滑らせそのまま遠ざかっていき、そして消えた。
車の後姿が飛行場の方向へ遠ざかっていくまで見送った後、カズマは埠頭へと向き直った。空を隔てた浮遊島の狭間、そこに巨体を浮かべるハンティントンに、カズマは目を細めた。港内を行き交う連絡船を利用しようと桟橋に集まる車列と人ごみは、四六時中消えることは無かったが、カズマはそれに加わろうとして止めた。
「……」
思い出したようにフラウから渡されたチケットを取り出し、カズマは目を落とす。本来ならば売店を飛び越し、より上級の需品課を通じてでしか入手することの適わないコンサートチケットだ。下士官兵が購入するには予約を必要とする。
そこに加えて普通のコンサートチケットではなかった。最前列の特等席へと通じる貴重な優待チケット、それをあの少女は、手ずから自分の手に握らせてくれたのだ。それを想起した瞬間、カズマの胸中にそれまで一度として喚起されることの無かったコンサートに対する興味が、次第に明瞭な質感を持って広がっていた。
コンサートは、三日後に行われると記されている。




