第五章 「鉱石運搬船」
ラッパの音が聞こえる。夢の中だ。
それはほんの二、三年前のツルギ‐カズマの生活にとって、一日の生活の始まりを意味した響き――座学と教練に明け暮れた予科練の日々の記憶は、住む世界を異にした現在に至るまでもカズマの精神、肉体に刻まれている。
その記憶が、カズマの体内時計に作用したのか、単に眠りから覚め行く感覚に、兵舎の窓から差し込むかすかな光を感じたのかどうかは定かではない。
カズマは、目を覚ました。二段ベッドの暖かい毛布がカズマを再び眠りに引き込むには、もはやカズマの意識は明瞭であり過ぎた。乱れの無いベッドからゆっくりと半身を起こしたとき、時計はまだ六時を回ったばかりだった。起床を告げるベルが鳴る六時半に達するにはまだ間がある。ここはモック‐アルベシオ艦隊航空隊基地の一角に設けられた教育航空隊学生班の宿舎。カズマが訓練兵としてここを寝床とする身となって、すでに一週間が過ぎていた。
二段ベッドの上段から、カズマは周囲を見回してみた。日頃の訓練の疲れからか、大部屋にいる全員が唯一のプライバシースペースたるベッドの中で、ただ延々と眠りの中にわが身を委ねているかのように見えた。夢の世界だけが、今のところは彼らに自由を謳歌させることを許された世界であった。すやすやと立つ寝息。はたまた耳障りな鼾……同室の仲間達の性格をそのまま反映させるような寝相に、カズマは思わず苦笑する。
作業服を着て、長靴を履きながらカズマは今日の予定に思いを巡らせていた。早朝のランニングと筋力トレーニング、朝礼と朝食を挟んでの各種教練が午前中の予定の大半を占める。そして昼食の後はまた――そんなことを考えながら、慣れた手つきで黙々と服を着ながらカズマは下段のベッドへ視線を走らせた。
そこでは、イホーク‐エイクが口をぽかんと空け、寝よだれを枕に垂らしながらその線の細い体をベッドの上に横たえていた。気のせいか、入隊時と比べ少し逞しくなったような感じがした。だが連日の訓練が彼の身体に少なからぬ負担をかけていることぐらい、そのだらしない寝姿からなんとなく想像できた。しかし連日の訓練、とはいっても、あの「大女」が皆に対してやっていることは「ただの苛め」程度にしかカズマには思えなかったのだが……
……ただし、そのことを差し引いても日本の軍隊に比べれば此処は天国だ。敵襲が無いのは勿論、週末にはちゃんと外へ出られるし、基地の周囲には遊び場所が沢山ある。売店に行けば、上級者に気兼ねせず美味いものを好きなだけ食える。甘味好きなカズマにとってはアイスクリームやケーキ、コーラまで楽しめるというのはそれだけで此処に身を落ち着けるのに十分な理由になり得た。米国との戦争が始まる前からモノ不足に苦しんでいた日本では、まず考えられないことだ。
そういえば他の班は自分たちのことを「貧乏くじを引いた連中」「地獄のD班」とか好き放題言っていたっけ――再びカズマが時計に目を移したときには、起床時刻まですでに一分を切っていた。
三、二、一……
耳障りなベルの音が部屋一面に鳴り響く。帝国海軍の起床ラッパとは違う、胸がむかつく、心臓に悪い音である。ベッドから飛び降りると、カズマは下段で未だに眠りこけるイホークを起こしに掛かった。毛布越しに胸を揺らし、声をかける。
「イホーク、起きろ。起きろってば」
「あー……カズマか?」緩慢な動作で半身を起こすイホークの肩に服を掛けてやり、袖を通してやる。それでもイホークの眼はまだ開ききっていない。いまだ覚めぬ意識の中、だらしなく項垂れたままだ。
「ほら、服着るの手伝ってやるよ」
「……ごめん」
イホークに靴を差し出しながら、カズマは周囲を見回した。イホークのようにかろうじて身体を起こしたものの、それ以上のことが出来ない者、このやかましいベルの下でも未だに寝床から這い出ることすら適わない者……周囲にいる訓練生はそんな面々ばかりであった。別にイホークも含め彼ら訓練生の資質に問題があるわけではない。睡眠によって解消するにはあまりに過度に蓄積された疲労が、彼らを心地よい目覚めから程遠い状態に追い込んでいるのだろう。
「くそったれ、今日もまたあの空兵女に殺されかけるんだぜ」
舌打ちとともに、誰かが言う。同じように漏れ聞こえる愚痴のほとんどが所属するD班担当教官に対する悪意に満ちていた。昨夜の腕立て伏せ二百回の一件が今朝になって一気に燻りを見せているのだ。抜き打ちの備品検査で禁制の整髪剤とヌード雑誌を持ち込んでいた者がいることがわかり、班全員が罰則を科されたのである。連帯責任というやつだ。
「降陸連隊じゃあるまいし、何で腕立て二百回もやる必要があったんだよ……!」
「まだ腕が痛い……筋肉痛だな」
「これじゃ操縦訓練課程に行く前に殺されちまうよ」
「まったくだ、これじゃ何のために訓練兵になったんだか……」
悪態はそれをつく度に憎悪を増幅させ、そして皆の連帯感を高める効果をもたらしているように思われた。カズマが二足目の靴を履かせ終わったところで、ふとイホークが言った。
「なあカズマ、僕ら本当に飛行機乗りになれるのかなあ……」
「せっかく採用された訓練兵じゃないか。そんな弱気でどうする?」
「このままじゃ僕ら初級練習機過程に進む前に死んでしまうよ。あの空兵さんのやり口見ただろ?」
「…………」
「あいつ多分ここにいる全員を殺す気か辞めさせる気だよ。あの空兵女は魔女の親戚だよ」
イホークの愚痴を聞きながら、早朝の喧騒の中、カズマの研ぎ澄まされた聴覚は部屋に近づいてくる長靴の響きを捉えていた。
「イホーク、来るぞ」
「誰が?」
「魔女の親戚だ」
足音が止まった。ドアの前だ。ものすごい勢いで開くドア、それに続く怒声。
「こらクズども! いつまで寝てんだ! さっさと服着て外に出ろ!!」
筋肉質の長身、着ているジャケットからも豊かなバスト、見事にくびれたウエストがはっきりと垣間見えた。所属部隊名を記した帽子を目深に被った形の良い頭には、縁なしの丸眼鏡が冷たく光っている。その「魔女の親戚」こと教育航空隊訓練生課程E班担当教官マリノ‐カート‐マディステール空兵隊少尉はお決まりのように「教導棒」と呼ばれる長い棒をこれ見よがしに振り回しながら歩を進めた。同時に、怒声にせかされた訓練生達があたふたと、ボタンを掛けかけた上着をそのままに部屋から駆け出していく。
「お客さん気分で手ぇ抜く奴は即刻ここから叩き出すよ! ここは合宿所じゃないんだ!! 訓練が嫌ならさっさと辞めちまえ!!」
早足で歩くマリノのずっしりとした教導棒が勢い良くベッドの支柱を打った。カズマとイホークのベッドだ。
「こらチビ、人のことにかまけてる暇があったら自分の心配をしな。そんな愚図に貴重な時間を使うこたぁないんだ」
「カズマ、いいよ。あと僕やるから……」
カズマは黙礼した。マリノはその訓練生の非礼を見逃さない。
「コラ、それが教官に対する態度か……」
教導棒がカズマの頬を突いた。常人なら苦痛に顔を歪めるであろう棒の重みに、カズマはぐっと耐え、マリノの勝ち誇ったような顔をじっと無表情に見上げた。
「何とか言ってみろ。チビ」
「カズマ……」と、イホークが不安げな表情を浮かべている。
「……わかりました、教官殿」
「殿は付けなくていい」
カズマは、一礼し、駆け出した。
「今度そんな態度とったらただじゃ置かないからね!」
憤然として、マリノはカズマの後姿を睨みつけた。その傍らでは準備を終えたイホークが今にも駆け出そうとしている。
訓練生の一日は飛行場一周のランニングから始まる。
予科練時代の体力練成訓練や軍事教練で身体を作ってきたカズマにとっては大して苦にはならなかったが、わざわざ勾配の多いコースを選んでいるだけあって中途から息を切らす者、著しくペースを落とす者が目立ち始めるのが毎度のことだった。その度に併走する教官の雷のような叱責が飛ぶ。訓練生の中には女性もいたが (それがカズマにとっては珍しく、ある意味では信じられない光景ではあったが)、彼女達もまた男子と同じコースを走り同様に叱責の対象となっていた。
その一方で、体力的に余裕がある者が眼を転じれば、モック‐アルベジオ艦隊航空隊基地の広大な飛行場を見渡すことが出来た。列線を形成する作戦機及び練習機の一群、天を突くように林立する管制塔や通信塔、さらに視線を巡らせば一区画に密集する格納庫や整備工場の連なりが広大な敷地を埋め尽くすのを手に取る様に見ることが出来る。
基地内には航空機だけではなく、飛行艦船の発着も可能な船渠も備え付けられていて、時には前線へ向かう艦船や輸送船、逆に修理や休養のため前線から戻ってくる船の姿を眺めることも出来た。その様を見る度、よくもまあ、あんなに巨大な鉄の塊が空に浮かんでいられるものだとカズマは感嘆する。しかし何でもあるが故に、この基地が「戦闘」を想定していない基地であることを、カズマは先ず海軍軍人として理解した。
「――諸君らも訓練を無事終了した暁には、艦隊の一員として前線へ赴くことになる! 過酷な前線で生き残るために、諸君らはこれから直面するであろう厳しい訓練の日々を乗り切っていかねばならない!!」
モック‐アルベシオ基地司令 ジャ‐バンバール准将は訓練生の入隊式典においてそう言った。戦うどころか「過酷な前線」に行くつもりもないカズマは単に聞き流していたが、イホークを始め一定の熱意を以って基地の門を叩いた面々にはそれなりに堪えた内容だったようである。
果たして、式典後に開かれた入隊歓迎昼食会のとき、カズマと向かい合わせの席に着いたイホークは、熱っぽい口調でカズマに語りかけた。
「僕は国のために戦うんだ。カズマも一緒に艦隊に行こうよ。航空隊でレムリアンと戦うんだ」
「おれはいい、後方で銃を構えて突っ立っていた方がお似合いだよ」
そんな時、カズマに声をかけてきた者がいる。入隊試験で初めてこの基地に足を踏み入れたとき、カズマ達の組を担当した女性士官だった。
「あなたも入隊したのね。この前はどうも」
「確か……ハーミス少尉?」
「中尉です」
くすっとカズマに笑いかけると、金髪、青い眼の美貌を振りまきながら彼女はカズマに語りかけた。
「あなたはD班よ。D班の担当教官は私の友人だから、困ったことがあったら何でも言ってくださいね?」
と、ハーミス中尉は食堂の一点を指差した。教官たちの居並ぶその席では、一人の大柄な女性士官が、でかい口を開けてフライドチキンにむしゃぶりついているのが見えた。
「おいカズマ、あの女、この前志願者をぶっ飛ばした……!」
「あ、ほんとだ……」
「お前、しょっぱなからえらい貧乏クジひいたなあ……」
と、自分の近い未来の不運をまだ知らないイホークは、苦笑している。
そのとき、投げかけられる視線に気付いたのか、マリノが顔を上げた。二人のきょとんとした眼が合ったのは同時だった。二人は、何気なく目礼した。
――それから一週間が過ぎた。
「馬鹿野郎! ペースを上げないか! それで戦場に行くつもりか!? レムリアンに殺されっぞ!」
マリノ教官の相手を選ばない厳格さは相変わらずだ。息を切らす訓練生の耳元で怒鳴り散らすかと思えば、遅れがちな者の尻を後ろから蹴り飛ばし、教導棒でひっぱたく。入隊して一週間が経ち、多少の軍務に慣れたとはいっても朝っぱらからたたき起こされてこれはきつい。
カズマがふと横を向くと、隣を走るイホークの息が上がりかけているのが一目でわかった。ペースが鈍り、快調に飛ばすカズマとのそれが目に見えてずれてゆく。走りながら蒼い顔でうなだれ、息を詰まらせるイホークに併せるようにカズマが速度を落としかけたとき、複葉機の黒い影が軽快なエンジン音をなびかせながら彼の頭上を横切って行った。
「タマゴ……」
いかにも大量生産の賜物という感じの、美しいとはいえないごつごつとしたフォルムだったが、立ち止まってそれを見上げるカズマは胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。現用のラジアネス軍主力艦上戦闘機とかつての愛機零戦の勇姿が、カズマの眼の奥で重なっていく……
「こらチビ! 立ち止まんな! 走れっての!!」
マリノの怒声は、もはや聞こえていなかった。
ウレスティアン‐タマゴが鮮やかな接地を見せる様子を、先に着陸していたパイロット達は黙って見つめている。低回転に入ったエンジンから黒い煙を吐き出しながら機は地上を滑走し、同じくプロペラの回転を落としつつ居並ぶ僚機の横まで滑走して止まる、待ち構えていた整備員達と同僚のパイロットがタマゴのコックピットに取り付いた。
「隊長殿!」
先に着陸していたジャック‐“ラムジー”‐キニー大尉が、古めかしい鳥かごのようなキャノピーを開くのを手伝った。
「調子はどうです?」
「いいよ。ただ……レムリアンと戦う分には、どうもな……」
と、カレル‐T‐“レックス”‐バートランド少佐は腰のパラシュートをかばうようにしてコックピットから飛び降りた。
ラジアネス軍の飛行服はシンプルだ、通常の制服の上に救命具と、パラシュートへ繋がる縛帯を一体化させた胴衣を被るだけで済むようになっている。飛行帽を脱いで芯を抜いた制帽に被りなおし、上物の葉巻を銜えて火を付けると、バートランドは香りの良い煙をいっぱいに吸い込みつつ、つい先刻まで三時間の空の旅を共にした乗機を細い眼で見上げた。
「αでもいい、ジーファイターにでも乗せてくれねえかなぁ……」
ジーファイターαは戦役全期間を通じて各型総数約二万機が生産されることになるジーファイターシリーズの先行生産型だ。初飛行及び初の部隊配備は三年前で、生産と実戦部隊配備の主力が改良型のβ型に移された現在では、主に後方の教育飛行隊に運用が移管されている……しかし、ここモック‐アルベジオへの配備は未だ進んでいなかった。それに、喩え供給が行われようと、ラジアネス軍では新型にあたるジーファイターを以てしても、強力なレムリア機に対抗するには無理があることを、バートランドはじめパイロット達は十分にわきまえていた。
「せめてCAウイングの分だけでもジーファイターと換えてくれればいいんですけどね」
キニーが見遣る格納庫の奥では「アレディカ戦役」以後、もはや教習と連絡飛行以外に飛ぶことの無くなった複葉機の一群が、保守作業に従事する整備員に取巻かれつつ翼を休めている筈であった。
正式名称CAウイング複座艦上戦闘/攻撃機。名称の通りその前席には操縦士が、後席には航法士兼銃手が乗る。「一人よりも二人を乗せた方が戦闘機としても有用」、「大型故に攻撃機にも転用が容易、従って艦隊予算の効率的な運用に繋がる」、「広大な空の海では、戦闘機といえど航法士が必須」……という、素人目から見ても尤もらしいこれらの理論が、凶悪なまでの速度と重武装を誇るレムリアンの戦闘機の前ではその実机上の空論でしか無かったことを、CAウイングは見事なまでに証明してくれた。一時期、艦隊航空部隊における数的勢力では単座のタマゴ以上を誇ったCAウイングは、あの戦い以来、急速に第一線部隊から引き上げられつつある。
どちらかと言えば後方に位置するモック‐アルベジオもまた、非常時にあっては機種改変事業の例外ではない筈だが、それでも「部品取り」の数機を除き、いち飛行中隊を為すに足るCAウイングが維持されているのは、近々この基地に、航空機搭乗員教育機関的な性格が付与されようとしている予兆なのかもしれない。何より、操縦士の負傷に備え後席にも操縦装置が付いているという点が練習機に打ってつけで、実際他の基地では既にそのような運用が為されている。
「――ま、レムリアンどもがここまではるばるやって来るとは思えんがな……」
「もしやって来たら?」と、キニー大尉が聞いた。
「枕を並べて討ち死にさ」
ニヤリと笑うと、バートランドはタバコの煙を吐き出した。バートランドの一言に、傍らでタマゴのエンジン整備に取り掛かっていたシモンズ先任整備兵曹は身震いした。バートランドにしてみればほんのジョークのつもりだったのだろうが、「アレディカ戦役」の生還者である彼にしてみれば簡単にはそう受け止められない種類の言葉だったのだ。
キニー大尉は、話題を転じた。
「そういえば隊長殿、こいつ途中でいい思いをしたらしいですよ」
そう言って、傍らのエドウィン‐“スピン”‐コルテ少尉をつついた。先月延長教育課程を修了したばかりの若手パイロット。腕は未だ拙いが、筋はいい。
「いい思い? どういうことだ」
「ええ、つい三十分前に一隻の鉱石運搬船と同航しましてね、そいつにいかにも不似合いな美人が乗ってたんですよ」
「しかもこいつが言うには、その美人はパンツ一枚だったって……」キニーが口を挟んだ。
「胸は大きかったか? 少尉」とバートランドが戯れに聞いた。
「そんなに大きくは無かったけど、プロポーションは抜群でしたよ。それに投げキッスもしてくれたし……」
「じゃあ俺も同じコースで飛べば良かったぜ」
三人は笑った。もっとも、何故かバートランドの脳裏では、「鉱石運搬船」という固有名詞が次第に気に掛かり始めてはいたが……
純粋な水色をした青空の中、切り立ったがけのような雲が右舷に広がっていた。これまで船が接触したものといえば、つい十分前に古ぼけた航路標識を付けた小さな浮遊島とすれ違った他、それよりさらに二十分前におそらくモック‐アルベシオの航空基地へ向かったであろう「地上人」の旧型複葉戦闘機に追い抜かれたぐらいだ。
操舵室を兼ねる船橋では、上半身裸で大柄の中年男が眼下に広がる田園地帯に眼を細めながら舵輪を握っていた。筋肉隆々たる上半身のところどころに刻まれた大小の傷跡からして只者ではないことぐらい容易に想像がつく。だが今、男の内面は、現在彼自身に課せられている義務よりも彼が生を受けて初めて眼下に、そして直に目の当たりにしている地上世界の風景に支配されているといっても過言ではなかった。
操舵室の外では、パンツ一枚の上にポロシャツを羽織った美しい女性が、ラインのいいボディに直に高空の風を受けながらごつい双眼鏡を覗いていた。
女性、といってもまだ若い、少女の面影を色濃く残している。その少女特有の瑞々しさがラフな服装にマッチしている上に、この鉱石運搬船の無骨な船体と鮮やかなまでのミスマッチを演出していて、何も知らずこの船に出会う者に新鮮な印象を与えているのだった。
不意に船内に吹き込んで来る風が、女性のポロシャツを捲り上げた。ほんの二、三秒、彼女は聳え立つ入道雲の前にパンツ一枚のあらわな下半身を晒した。その女性の後姿に、男は目を細める。
そのとき、女性が言った。
「曹長、二時方向より駆逐艦、レギュリアスと思われる」
「針路は維持しますか? 少尉」男が聞いた。
「そうね……」
少尉と呼ばれた女性は、爪を噛みながら少し考えるそぶりを見せた。
「針路そのまま」
「宜候……針路そのまま」
やがて、雲間を押し分けるように進むラジアネス軍のレギュリアス級駆逐艦の重厚なフォルムと、彼らの船がすれ違う態勢を取る。そこからは全ては遮るものの無い成り行きの内に過ぎていく。すでにお互いの乗組員の顔が見える距離。甲板上で動き回る兵士達の視線が、鉱石輸送船上に立つ女性のセクシーなスタイルに釘付けになるのにさして時間が掛からない。
女性が、ウインクをした。駆逐艦の男たちの間から期せずして奇声が漏れる。女性に対して手を振る者もいた。笑顔から漏れる白い歯が、空の中女性の瑞々しさをいっそう引き立たせている。踵を返し船橋へ戻った女性が、船室へ戻ろうと歩を進めた。男が、彼女を呼び止めた。
「少尉、どちらへ?」
「艦長を起こしに行きます」
船内へ続く階段を下り、薄暗い廊下の、一番隅の一室の前に立つ。充満するオイルの匂いが彼女の嗅覚をわずかに刺激した。
「ヒラン少尉、入ります」
船橋のけだるい様子とは打って変わって背を正し、改まった口調で薄い戸を叩く。重厚な外見に比して、その内装や調度はなるべく軽量化される傾向にある飛行船、それは外見だけならば減価償却がとっくに終わった様な、みすぼらしい外観の鉱石運搬船でもそうだ……ノックに少しの間沈黙が応じ、次には「どうぞ……」と、ハスキーな女性の声が戸の向こうから聞こえた。
戸のノブを開くと同時に、甘い香水の香りが彼女の身体を撫でた。彼女の表情に、上位の者に対する緊張感は浮かんでいなかった。締め切った舷窓。埃を被ったランプから漏れる暖かい光。それに照らされ鈍い光沢を発する調度品の一群……隅に置かれた折り畳み式の簡易ベッドからは薄汚れたシャツと短パン姿の女性が、温かみのこもった眼で少尉を見つめている。短い、収まりの悪いくすんだ銀髪が細い眉と尖った顎とを相俟って女性の凛々しさ、あるいは美少年のような性の匂いの無さをいっそう引き立たせていた。女性であるのに女性と形容するのが躊躇われる種類の、精悍な美しさ……と言えばいいのだろうか?
「もう、起きておられましたか、少佐?」
「今貴官に起こされた」身にまとわりつく毛布を払いのけると、少佐と呼ばれた女性はゆっくりと床に形の整った足を下ろした。踵をつぶしたスニーカーに、無造作に足を入れながら少佐は少尉に笑いかけた。
「異状は?」
「先程ラジアネスの戦闘機と駆逐艦に接触しました」
「いつ? 誰何されたか?」
「三五分前と、五分前です。誰何はありませんでした」
少佐は微笑んだ。器用に手を伸ばして舷窓を開けると、水を注ぐように薄暗い部屋に日光が溢れてくる。部屋中に舞い上がる埃の、日光に照らし出される不快な煌きの中で、簡易ベッドの傍らに置かれたタイプライターのような機械の存在に少尉が気付いたのはそのときだった。無骨な箱型の外形の後ろ半分を占める幾条ものコードの煩雑な絡み合いに、少尉は一瞬子供の頃図鑑で読んだ地上世界の熱帯雨林を連想した。出港してから何度もこの部屋には入ったが、どういうわけかこいつの姿は今日まで見ることは無かった。
「『大祖国空戦』の戦利品だ。数が少ない上に複製が造れないから積むことを許された偵察艦は僅かでしかない……つまりはそれだけ本艦の乗員が優秀ということだ」
「ハッ……!」
背を正すと同時に、少尉は事の真相を把握する。こいつが艦の幹部たる自分ですら迂闊に触れぬ程秘匿され、運用に細心の注意が払われている「特別な」機器であることに。
「大祖国空戦」――「地上人」の言うところの「アレディカ戦役」――は、偉大なる祖国レムリアに多くの戦利品をもたらした。本来地上人の艦船に搭載されていた暗号通信機等はその最たるものだ。正確には受信した暗号電を実際に判読可能な文章に変換する――あるいは、その逆を行う――ための機械である。当然その用途はレムリア軍の場合、情報収集という観点から前者に限られていた。今のところは――
「暗号通信機ですか?」
あらたまった少尉の問いに、少佐は無言で頷いた。
「初めて見るか?」
「はい……」
「取っ付きにくいように見えるが操作は簡単だし、性能も悪くないようだ。地上人どももなかなかいい物を作る……」
二人が注視するその眼前で、暗号通信機は黙々と電子音とともにテープを吐き出し続けている。吐き出されたテープの上、規則的に空けられた穴の羅列――電子音が止まり、抜き取ったテープを少佐は微笑と共に少尉に渡した。
「『毒蜂』からだろう。解読法は、指示書緑の通りにやればいい」
「ハッ!」
少尉の口調が改まったものとなった。凛とした軍人の表情で踵を返し、走って通信室に向かった少尉を見送った後にベッドから腰を上げ、少佐もまた早足で廊下に出た。気だるそうな、言い換えれば飄々とした物腰は、外の風に当たったところで変わらなかった。
「船長……!」
船橋に上がると、曹長が姿勢を正そうとした。少佐は手を上げて制すると、ポケットからしわくちゃになったタバコの箱を取り出して銜え、曹長に勧めた。曹長がライターを取り出して少佐に差し出した「眠気覚ましだ。一服付き合え」
「それは……ジットーか?」
曹長のライターを見て、少佐が言った。ジットーとはラジアネスの有名なライター製造のブランドだ。
「はい、出航前に戦友にもらった物です」
「いい物だぞ、大切にしろ」わずかに、少佐の表情が綻んだ。
「はい……!」
「異状は無いようだな」
そう言われ、曹長は少佐に笑いかけた。大きな口からは太い、黄ばんだ歯茎が覗いていた。
「ラジアネスの連中、弛んでますね。臨検どころか誰何もしない。近くに連中の基地があるってのに……」
「だからこそいいのだドクテン。それこそ我々が無理をせずに生きて還る見込みが増すというもの……」
「ハッ……!!」
少佐は船橋の外に出た。眼はすでに周囲の明るい蒼さに慣れていた。ニコチンと共に混じり気のない外気を一杯に吸い込んだ瞬間、少佐の細く引き締まった肉体から一切の気だるさが消えた。欄干にもたれかかり、眼下に広がる雲海を見やりながら、彼女――セギルタ‐エド‐アーリス少佐は現在に至る自身の巡り合わせに思いを馳せていた。
セギルタが少佐に昇進し、鉱石運搬船を装ったレムリア軍仮装偵察艦「ウダ‐Ⅴ」の指揮を任せられてすでに三ヶ月が過ぎようとしていた。
それ以前の彼女は緒戦のラジアネス殖民都市攻略戦に戦闘機部隊の指揮官として参加し、全軍の挙げた数々の勝利に貢献すると同時に彼女自身一〇機の撃墜機数を獲得している。前線での働きぶりを認められ勲章と一時休暇を与えられると同時に、前線にとどまるか休養を兼ねて後方勤務に就くかの選択を迫られたとき、彼女は迷わず前者を選んだ。軍人としての使命感に駆られたというより、もう少し第一線に踏み止まって戦況の推移を見守っていたかったのかもしれない。
現時点で大小約三百隻が活動している仮装偵察艦の役割は敵の勢力圏内にある空域監視及び敵基地の偵察の外、工作員の潜入支援と多種多様だ。外見ではラジアネス船籍の鉱石輸送船「ガムタナ」を装っている「ウダ‐Ⅴ」はこれらの仮装偵察艦の中で比較的大きいほうに位置する。外見ではどこにでもいるようなボロ船を装ってはいるが、偵察艦としての強力な通信機能を持つと同時に、反応炉、機関もまたはるかに強力な出力を出せる物に換装されており、内部には偵察機六~十機を収容できるよう大幅な改造が加えられていた。
ラジアネスへの出撃前夜、出撃の時を待つレムリア艦隊前線基地タナトで、セギルタは以前所属していた第208戦闘航空団「ブラック‐リリス」の前司令であり、現在では艦隊作戦参謀の地位にあるセルベラ‐ティルト‐ブルガスカ大佐に呼ばれた。階級こそ違え、ブルガスカとセギルタは軍官学校の同期としてざっくばらんに話を交わせる間柄だった……と言えば嘘になる。
若くして大佐の任に在ることからも判るとおり彼女は優秀な指揮官だが、上官、同僚を問わず誰に対しても冷淡であり、部下、敵に対してはそれ以上に冷酷なことで知られていた。たとえ同期でもセギルタのような「ごく普通の」軍官学校卒業者にとってはあまり関わり合いになりたくない存在ではある。主な用件はセギルタ出航後の事務的な引継ぎに関するものだったが、それをなるべく手短に済ませ、ブルガスカの執務室を退出する段になって、彼女はふとセギルタに任務の一端について語った。
「ラジアネス軍が近々新型の航空母艦を就役させるという情報がある……貴公の任務もおそらくそれと関連したものとなるだろう」
通常の偵察任務とは違って、偵察艦の主要な任務は機密保持のため出撃直前に知らされるか、事前に艦長室の金庫に書類として持ち込まれ、出航後に艦長がそれを開封するという形でしか知らされない。これはラジアネス軍でも同じである。
はたして翌日の出航直後。金庫に入れられた命令書という形でもたらされた任務内容は以下のようなものであった。
『七月一日を期して南大西空方面に進出し、サルトンク市の造船施設において艤装中のラジアネス軍空母の動向を監視せよ。また、状況が許せば破壊工作の実行も可なり』
欲張りというべきか優柔不断というべきか……目的に明確さを欠くその内容にセギルタは苦笑を禁じえなかった。基地を出航して十分後、操艦を部下に任せて引篭もった私室のベッドからは、舷窓を通じてすれ違う味方の巡洋艦と駆逐艦の姿が伺えた。
「臨機応変にやれ、ということか……」
セギルタはそう呟くと、命令書にマッチで火をつけた。火のついた命令書で銜えた煙草に火を付けると、船橋に出て指示を与えるべくスキのない挙作で部屋をあとにした――
――それから三週間が過ぎた。
その間ひとつ、「ウダ‐Ⅴ」は面倒事を押し付けられている。出港してすぐに「戦利品」の暗号通信機を通じ受領した新たな命令は、ラジアネス軍の鹵獲するところとなった新鋭機の「奪回」工作の支援を意味していた。セギルタたちの目標たるサルトンクと、新鋭機の所在たるモック‐アルベジオの地理的な近接が、上層部をしてセギルタに「お使い」を命ぜしめた形だった……かと言って、負荷の過重なるが故に上層部に任務の撤回を求める選択肢を、現在のセギルタは軍人として取り得ない心境にある。
「ウダ‐Ⅴ」が南大西空に到達するその間、中部大空洋の要衝コーラム島が我がレムリアの手に落ち、現在急速に新たな工作船用の前線基地化が進行している。また、本国では来るべき南大空洋空域への進攻作戦に備えての大規模な艦隊編成も完了しつつある。当然地上人共も必死で空域防衛を試みるだろう。そのときには命令書にあった空母も十分作戦行動が可能な状態に達し、反攻作戦に投入されるに違いない。ラジアネス軍ははっきり言って弱いが、その弱さもいつまで続くかはわからない。いずれその強大な工業生産力にものを言わせ、次第に手強い敵として我々の前に立ちはだかって来ることだろう。
セギルタとて伊達に三ヶ月も偵察艦の艦長を務めていない。偵察活動の所々で彼女が目の当たりにしたのは、地上世界の各地に点在する、本国のそれの何十倍も広大な工業施設と、そこから無限に吐き出され、前線へ送り出されて行く大量の物量の奔流であった。ラジアネスに対し人口比にして三十分の一、工業生産能力にして四十分の一のレムリアが、技術力と人材面の優位のみでラジアネスと何時までも互角の戦いが出来るという見通しこそ、排除されねばならない思考であった。大神ティルナードの加護も、物量の奔流には勝てないのだ。
――この戦争には勝たねばならない。地上人共が本気を出す前に――
地上に対する偵察活動の度に、彼女はそう思った。そのために自分の裁量で可能なことは何でも為すべきであったし、いままで為してきたつもりであった。そしてセギルタは、前線に留まる以上それがレムリア軍人としての自分の義務だと考えてきたのだった。
少尉が船橋に駆け込み、セギルタに歩み寄る。セギルタは煙草を外に投げ捨てて彼女に向き直り、少尉は声を弾ませる。
「艦長の読み通りです。『毒蜂』から入電、われ『雀蜂』を見出せり……と」
「気掛かりだな……『毒蜂』が地上人の悪風に染まらねばよいが」
「同感」
セギルタの刃の様な笑みに、少尉の冷たい微笑が追従する。艦橋の外に出、セギルタは雲海の広がりへと灰色の瞳を凝らした。
上に遮るものの無い空の海に、彼女の艦は孤影を引き摺りつつ進んでいる。この航海が終わるまでに艦を如何なる波乱が待ち受けているか、余裕の中にも予断を許さない緊張が併存していた。