第十一章 「いざない」
ファッショル飛行場――
「――今日もまた、輸送船が二隻沈められたらしい」
「――どうなっている? レムリアンの動きは?」
「――黒狼三人衆が、動き出したって話だぜ?」
「――黒狼って……あの黒狼三人衆か?」
「――アレディカ戦で、空母二隻を仕留めたっていう……」
「――戦艦も一隻撃沈められたっていうな」
ここ数日の間、周囲から漏れ聞こえる整備員たちの会話が、マリノ‐カート‐マディステールには煩わしいものとなっている。
「――島はもうレムリアのTボートに包囲されてるらしいぜ」
「――それどころか……レムリアンの機動部隊が近付いているらしいじゃねえか」
「――マジかよ……おっかねえ」
ツルギ‐カズマのジーファイター艦上戦闘機に隣接し、攻撃機の列線が広がっている。その一機――BTウイング艦上攻撃機の機体に取り付き、点検作業がてらに話し込む男どもの会話は湿っぽく、そしてやるせない。それがマリノの癇を昂ぶらせ、そして傍目には無駄とも思える激発を促してしまう。
「あんたらね! 無駄口叩いてる暇があったら、ちゃんと給料分働けっての!」
唐突の一喝に男たちは竦み上がり、そして整備作業をいそいそと切り上げると、逃げるように立ち去って行った。どうせ逃げた先でも、例の湿っぽい話を続けるつもりなのだろうが、自分の傍でやらないだけでも精神衛生上健全というものだ。少なくともマリノはそう思っている。
「……」
――ふと、マリノの茶色の瞳はだいぶ作戦機の増えた飛行場の一角へと凝らされ、そして彼女は二日前にレムリア軍機の攻撃を受け、半死半生の状態で飛行場に滑り込んだBTウイングの骸へと注意を向ける――再三に渡る基地管制塔からの脱出命令を拒否し、発火寸前の機を最後まで操って飛行場に滑り込んだその乗り手に、彼女は覚えがあり過ぎるほどあった。
「あのバカ……!」
形のいい唇から漏れた感慨は、決して長い言葉では無かった。だが簡潔なるが故に、彼女と乗り手の関係を濃密なまでに言い表しているといってもよかったのかもしれない。現在、航空機無断搭乗と命令無視の廉で、空母艦内の私室で謹慎中のツルギ‐カズマのことを、マリノは考えている。考えたくもないのに、仕事に間が出来る度に考えてしまうマリノであった。
脱出命令を無視し、着陸を強行したた結果、カズマは負傷した二名の同乗者の生命を救うことに成功した。だがその代償は決して小さくはない。命令を無視して危険な胴体着陸を敢行したおかげで蒙った昇進と叙勲の延期――それに同情を覚えた者は決して少なくはないことを、マリノは知っていた。
だが、自分自身が同情を覚えているかといえば……そこまで考えたところで、マリノは当面の仕事たるエンジン調整へと意識を集中させるように勤める。頭を擡げかける、彼女にとってはどちらかと言えば歓迎されざる思念を打ち消そうとするかのように――
レムリア軍の活動が活発さを増している――
それも大艦隊の展開するレンヴィル泊地の鼻先で――
これまでにも、レンヴィル周辺の空域まで、レムリア軍がその侵犯の足を伸ばしているという兆候はあり過ぎるほどにあった。だがその多くが偵察やその他情報収集活動であり、そのいずれも近来のリューディーランド方面で生起したような大規模な侵攻作戦の予兆を匂わせるものではなかった。
だが現在――状況は極めて予断を許さぬ方向へと一変しつつある。
カズマも巻き込まれた「K‐408輸送船団襲撃」の件ばかりではなく、ここ数日の内、レンヴィル周辺の空域で敵の攻撃を受け沈められる輸送船や艦艇の数は増加の一途を辿っていた。従来のようなT‐ボートによる伏撃に拠らず、その行動範囲に制限を受ける一方で、機動力に優れた単発航空機による襲撃を多用しているという事実からして、レムリア軍は航空機搭載可能な艦船を一隻、あるいは複数隻ラジアネス軍の哨戒圏内に展開させ、自在に目標を捕捉し撃沈しているものと思われた。リュ―ディーランド方面で、空母一隻の喪失と引き換えに進撃への勢いを削いだと思ったのも束の間、レムリア軍はその手法を替え,今度は異なる方向からこちらを揺さ振りに掛かっている。
そして――
――当のラジアネス軍は自らの膝許に迫りつつある破滅を前に打つべき手を打てず、ただ呆然と立ち尽くしているかのように多くの人々には見えた。
『――定期便が飛ばない? そんなバカな!』
『――現在該当空域は非常警戒下にあります。従って警戒が解かれるまでの当分の間定期便は飛びません。ご了承ください』
――朝方、書類上の手続きで訪れたタイド島の艦隊司令部、その窓口で起こっていた民間人と軍の係官とのトラブルをマリノは思い出す。いかにも大都会住まいのキャリアウーマンといった感じの、クリーム色のスーツを纏った女性は、外面のクールさに似合わぬ怒気を発露させ、応対する後方勤務士官を戸惑わせていた。
『――一日スケジュールが遅れるだけで、うちはどれほどの損害を蒙ると思っているの? 危険が迫れば優先的に島を出られるというのは契約書にも書いてあったでしょう?』
『――しかし……規則は規則ですから』
『――その決まりごとを破っているのはあなた方でしょ! これでもしフラウの身に何かがあったら!……』
民間人か?……一体誰だろう?――遠巻きに彼らの遣り取りを伺うマリノの疑念を晴らしたのは、連れたって司令部の入り口を潜った友人、マヌエラ-シュナ-ハーミス中尉だった。
「あの女、フラウ-リンのマネージャーね。すごいやり手みたい」
「へぇー……あれがねえ……」
フラウ‐リンというアイドルのことは、マリノもよく知っている。マリノ自身、音楽の嗜好が合わないが故に彼女の歌が別段好きというわけではなかったが、それでもあの少女の仕草や声に、世の男たちを惹き付ける要素が十分にあることを判っていた。
その二人の眼前で、アイドルのマネージャーというスーツ姿の女性は、内に篭った怒りをいよいよ激発させようとしていた。
『――……ようーくわかったわ』ファッショングラスに覆われた眼光が硬質な輝きを放ち、それは線の細い士官を芯から怯ませる。
『――あなた如きじゃ話にならないということはようーくわかりました。基地司令と交渉します。今すぐあなたの上官に会わせて!』
『――司令は現在会議中ですのでお会いになれません。それより事前にアポを取りませんと……』
『――アポですって!? こんな非常時に、悠長にアポが取れるまで待てっていうの!?』
『――どうかミス-ラプカ、お気を静めて……何分そういう決まりですので』見かねた古参下士官が、ふたりに割って入る。
『――民間人の人命と規則とどっちが大切なの!? あなたは!』
茶色の瞳の遥か先で、ヒステリックに喚く女性に同情を覚えるマリノでは、さすがになかった――
回想を止め、再び作業に向き直ったマリノが、交換すべきエンジンプラグにスパナを伸ばそうとしたそのとき――
「……?」
自分の背後でブレーキを作動させた車の気配をマリノは感じた。ブレーキの響きから高級士官用の地上車であることを察し振り返った先で、マリノの目は運転手の腕章に釘付けとなる。
戦闘航法学校――!
徽章に一瞬目を奪われたマリノの眼前で、夏季略装に略帽を被った女性士官が、直径の広いハンドルを片手に静かな笑みを浮かべてこちらを伺っていた。その眼差しはサングラスに遮られてはいたが、その裏に只ならぬ光を宿していることぐらい、彼女には容易に想像できた。
太い首筋と、女性にしては均整の取れ過ぎた体躯から、乗り手が戦闘機乗りであることをマリノは一瞥で察する。それも、ただの戦闘機乗りではない――
「ハイ!」
白い歯を見せ、女性士官は笑い掛けた。日焼けした浅黒い肌に、真白い歯が絶妙のコントラストを以ってマリノの視覚に迫ってくる。それでもマリノが警戒を解かないのを見て取ったのか、士官はエンジンを止めた車から降りた。階級は少佐だった。
脚立から自身を見下ろすマリノを尻目に、ジーファイターに女性士官は歩み寄り、操縦席付近のペイントで目を留めた。サングラスの先には、規則正しい列を為して連なるレムリア機の撃墜マーク。眺める少佐の口元から漏れる溜息を、離れた位置に在りながらマリノは聞いたように思った。
しばらく撃墜マークを眺め、やがて少佐はマリノを顧みた。
「あなたが、整備士さん?」
「マリノ‐カート‐マディステール少尉であります……!」
脚立を降り駆け寄ったマリノの敬礼に、少佐もまた敬礼で応じる。艦隊式の敬礼だと,マリノは内心で直感する。
「リン‐レベック‐ランバーン少佐です。ところで……」
「はい?」
「この機の乗り手は、今どうしているのかしら?」
「カズマなら……」
と、語を濁したマリノを、リン‐レベックは見逃さなかった。
「……言えないような場所にでも、居る?」
「まあ……その、あいつは今謹慎中だから」
「ああ……それで……」
納得したような素振りを見せ、リン‐レベックは背後の泊地を振り返るようにした。その視線の遥か先では、二人の周りで列線を為すジーファイターの母艦が、その巨体を空の只中に横たえている。そのハンティントンに目を凝らし、リン‐レベックは言った。
「母艦の中には、普通に入れるんでしょう?」
「はい」マリノは頷いた。
「マリノ少尉」
「はい!」
「パイロットさんの好きなもの、教えてくれる?」
「……」
微笑とともにサングラスが脱がれた瞬間、マリノは息を呑んだ。
問われると同時に脱がれたサングラスの下で、金色の煌きを放つ少佐の瞳に、マリノは気圧される。
それは明らかな興味の光であった。
雲海――その上をさ迷うかのように征く機影。
気がつけば、弦城 数馬とその愛機の至近には一機の機影すら見出せなくなっていた。
当初は規則正しい隊列と布陣を成し、蒼穹を威圧するかのように空に生じた爆音の連なり、地上を統べる地母神の胸すら振るわせるかのような勇壮さに溢れていた空の進軍は、基地を飛び立って30分余りが過ぎた今では、崩れゆく砂上の楼閣の如くその団結を失い、広範囲に散った複数の小編隊の、所在無げに広漠たる空を歩むだけの事象と化していた。
そして数馬もまた、飛びながらに列機と逸れた――一度も戦闘を経ること無しに。
時は、昭和19年初頭――
日本の敗勢は、決定的となっていた。
フィリピン――その地に在って、数馬は迫り来る米機動部隊を迎え撃つべく展開する基地航空部隊の一員となり、防空、そして邀撃に明け暮れる日々を送っていた。何度かの戦闘の末、度重なる戦果の蓄積の末、敵機動部隊の艦載機群に少なからぬ損害を与えたと「判断」された時点で、「決戦」を企図した司令部により下された出撃命令――
――基地航空部隊は敵空母部隊を捕捉し、これを撃破せよ!
数馬もまた、それに従った。
過分とも思える味方の戦果報告に対する疑念を、その胸中に押し殺したまま――
水平飛行を続けながら、零式艦上戦闘機52型を操る乗り手の上体は左右上下と大仰なまでに捻られ、視界の及ぶ範囲に生じた異状を見極めんと数馬は目を凝らす。
「……」
意を決した上昇――零式艦上戦闘機52型の機影はそれまで張り付くようにその上を飛んでいた下層雲から離れ、それまで頭上を占めていた上層雲とほぼ均等な高度差を保つに至る。下層雲の傍を飛んでいれば、上空から敵機にカブられたときすぐさまその只中に飛び込んで逃げることができる。一方で上に上がればそれだけ下方や遠方へと目端が利く。少し遠方を確認した後、再び降下に転じ、すぐに先程の高度に戻るのが数馬の意図だった。
適正な上昇速度と機動性、そして最適な燃料消費効率を維持するために、スロットルは開かない。
目指す敵機動部隊までまだ距離がある。燃料の無駄遣いはしたくなかった。
燃料計に目を落とす――大丈夫、まだまだ飛べる。
それでも――
キイィィィィィ……ン!
乗機、零戦52型の爆音はけたたましく、そして癇に障る。
向上を図ってもなお少ないエンジン出力を補うべく設けられた推力式排気管は、52型に僅かばかりの駿足を与えた反面で、遊覧機にも似た乗り心地の良さを奪う。そして「実戦経験の反映」という名の下で増設された各種防弾装置と強化された武装は、零戦から飛燕のごとき軽快さをも奪っていた。
「……」
何気なく、数馬は計器盤に目を凝らす。零戦の場合52型に変わっても、何か新しい計器が増えたとか、計器の目盛りが変更されたとかいうわけではない、計器盤の配置はそれ以前に数馬が慣れ親しんだ21型、22型のそれとまったく代り映えするものではなかった――ただひとつ、従来の7.7ミリ機銃二基に代わり機首に配された12.7ミリ機銃一基の長大な機関部が、その大きさゆえ機首に収まりきれず、計器盤右側に醜いまでに突き出ていることを除けば……
操縦しながらに、数馬は自分を育み、生き長らえさせてきた愛機の落日を思った。
そう……零戦の時代は、すでに終焉を迎えつつあった。
零戦――零式艦上戦闘機は、数馬が海軍飛行予科練習生に身を投じるのとほぼ期を同じくして生を享け、空に上がった。強力な武装、駿足、軽快な運動性能、そして常識を超えた航続性能は、流麗な機体を持つその機があたかも広漠なる大陸、そして広大な太平洋上を征するべく宿命付けられたかのようだ。
――そう、未だ見ぬ将来の空の戦場を征することこそ、零戦の持って生れた宿命。
――そして零戦は、その誕生から課せられた宿命に対し見事に応えた。
あの運命の開戦、それに続く緒戦、戦場と化した太平洋上、そして東南アジアの空には、必ずと言ってもいいほどそこを縦横無尽に駆ける零戦の機影があった。怒涛の進撃を繰り広げた帝国陸海軍の尖兵として零戦は蒼穹を駆け、そして瞬く間に征服していった。
あの頃――零戦は、文字通りに「無敵」だった。
数馬が訓練課程を終え前線に降り立ち、ラバウルやソロモンで幾多もの戦闘を潜ったあの頃までは――
――再び、戦場の空。
「あ……」
雲海の上層雲を背景に浮かぶ単機の機影――それが味方の「天山」艦上攻撃機であることに気付くのに、数馬には数秒も要しなかった。胴体下に抱かれた細長い魚雷の影が、何よりの目印だ。長い戦いは、帝国海軍の海鷲から、編隊を組み海と空を進撃する技術すら奪ってしまった。数馬の列機二機もまた、離陸して海に出て十分も経たぬうちに、雲海の何処かへと消えた。飛行時間も実戦経験も数馬のそれに及ばなかった二人の搭乗員、彼らは未だ生きてこの空を飛んでいるだろうか?
合流しよう――自ずと力が入るスロットルレバー。
接近を図るにつれ判る日の丸と所属部隊章――
天山艦攻の発する、2000馬力エンジンの力強い鼓動もまた迫って来るかのような感触――
マフラーに覆われた顔の下半分で、数馬が安堵の微笑を宿しかけたそのとき――
「――!?」
直上から投げ掛けられた赤い火線が天山の機影に延びるのと、反射的にフットバーを蹴るのと同時――
血の色のように赤い、礫のような弾幕には、見覚えがあった――
『F6F――!!』
一瞬にして背面に転じた零戦の操縦席から見る、断末魔の天山――
陽光を乱反射させつつ千切れ飛ぶ銀翼――
無残に引き裂かれた機体を、瞬時に包み込む紅蓮の炎――
背後に感じる、重い殺気の接近――
数馬は肩越しに捉えた―― 一撃で葬った艦攻に目もくれず、急降下に転じこちらを追尾に入る敵機グラマンF6F「ヘルキャット」の獰猛な機影。
把柄に伸びた手――増槽を落とし、一気に加速をつける零戦――
悲鳴のような爆音の高鳴り――機体が補強されている分、52型の降下加速はいい。
二機に増えるグラマンの機影――
撃たれる!――右に蹴り上げるフットバー、左に傾ける操縦桿。
左に滑った零戦の右側面を、背後から撃ち掛けられた怒涛の如き弾幕が瞬きつつ通り過ぎ、白煙で空を切り裂いていく。
400ノット/時に迫る速度計の針――
ギギギギギギギッ――加速とそれに抗えぬ機体の立てる不気味な振動すら、数馬の内面を不快に責め立てる。
再び――左にフットバーを踏み、右に倒した操縦桿。
零戦は右に滑り――
そのままの姿勢で下層雲に飛び込んだ――
助かった――そう思い込むには、数馬はあまりに実戦経験を積み過ぎていた。
機を水平に戻しつつ、数馬は周囲の空へ慌しく視線を巡らせる。
自分を追尾したグラマンは?
他に敵機は?
そして――
ともに銀翼を連ねて決戦の空へと向かった仲間たちは?――
そこに――頭を擡げる疑念。
――敵戦闘機隊は、我が航空部隊の猛攻に大打撃を受け、遠い根拠地へ去った筈ではないのか?
自問に対する答えを見出す暇を、戦場の空は与えてはくれなかった。
「……!」
ともに雲を抜け、さらに距離を詰めてきた敵機を肩越しに一瞥するや、数馬は零戦を急旋回に入れた。加速が付いていたがゆえに適正速度が保てずに追尾の旋回半径を膨らませたグラマンの背後を取り、そこに反撃の一撃を叩き込もうと距離を詰める――形成は逆転し、数馬は二機を追う形でスロットルレバーを再び開いた。
「……!」
決した眦とともに握る把柄――
発射の手応え――
白煙を曳き撃ち出される12.7ミリ、20ミリ弾の光の束――
当たった!――白い射弾の銛は一機の機影を捉え、グラマンは弾かれた様に横転し、そのまま自転を続け黒煙を吐きながらに高度を落としていく、さらにもう一機と距離を詰めた数馬の零戦の周囲を飛び越えていく赤い弾幕――数馬の与り知らぬうちに敵機の数は増え、死神の手もまた延びる。
眼前のグラマンが降下――数馬もそれを追い、気速を得ようと機首を下げる。
だが――
徐々に……そして明確に開き行く距離――加速は敵の方が遥かにいい。
――防弾もいい。
――武装もすごい。
それだけでなく――
――素早い上に運動性もいい。
あんなにがたいが大きく、そして重いのに――?
軽く、速く、そして強く――それらを目指し徹底的に機体を軽量化し、その過程で防弾と安全性すら排除した零戦と比べ、何という格差!
「……!」
降下に転じた零戦の操縦席で気が付けば、周囲の空はすでに乱戦の爆音と黒煙、そして火炎に彩られていた。
縦横無尽に飛び交う大小の機影。それらが曳く水蒸気の帯は、天空の碧を背景に縦横無尽に重なり、機影ははっきりとした輪郭を伴い彼我の優劣をカズマに見せ付ける。追うグラマン、追われる零戦。黒煙を引き摺りながら、当て所なく空をさ迷う機影、機影、また機影――
数馬は悟った――敵は、こちらを待ち構えていた?
そう――米軍は、待ち構えていた。
発端は、外周警戒艦の対空レーダーが捉えた、敵味方識別装置に反応しない機影の接近だった。それらはデータリングを通じ即座に旗艦たる母艦に伝えられ、米艦隊は迫り来る日本軍の針路上にグラマン戦闘機から為る重層的な迎撃陣を敷き、招かれざる侵入者を殲滅にかかったのだ。そして艦載機部隊にとって、まとまった編隊を組むことも無く――あるいは出来もせず――三々五々と不用意に接近してきた日本機を捉え、葬り去ることなど七面鳥を撃つのと同じくらい容易い事であったのに違いない。
それを知るすべも無く、数馬もまた乱戦に飲み込まれた。狼のように背部に食らい付く敵機を必死の操作でかわし、あるいは上昇と反転を繰り返し背後を取った敵に機銃を撃ちかける。それを繰り返すうちに消耗する弾薬、燃料、体力……そして生還への意思――
そして――
次々と虚空に消えていく友軍に反比例し、その数を増していく追跡者を振り切ろうと横転に転じた数馬が、疲弊の末に死を覚悟したそのとき――
――カズマは、夢から解き放たれた。
ゆっくりと見開いた眼差しは虚しく、輝きを失っていた。
「……」
謹慎の身で、十分な睡眠時間を取れた筈なのに、跳ね起きる気力など持てずにいる。目覚めてもなお、しばらく漠然と身を横たえた後、冷や汗にぐっしょりと濡れた寝台から漸く身を起こし、カズマは目を擦った。
怖い夢だとは思わなかった。
ただ、悲しい夢だと自覚してはいた。
厚意から自分を空の旅へと誘ってくれたバットネン少佐は、結局は還らなかった。悄然とし親友の未帰還を報告したカズマを、バートランドはこういって慰めたものだ。
「――人間は何時か死ぬ。だが違うのはそれを自ら進んで択ぶか、期せずしてそれに直面するかの二つだけだ。あいつは馬鹿だから前者を択んだ。ボーズがいくら万能でも、防ぐことなんて出来やしなかったさ」
そして、カズマの顔をまっすぐに見詰め、続けた。「カズマ、暫く休め」
バートランドの労いを反芻しながら、カズマは寝台の下段を意識した。今はそこにいない寝台の主は、同じく先週の出撃で負った負傷を癒すべく、医療区画に居るはずだ。
「アイスクリーム、買って来てやるよ」
部屋を出る間際、そう言って微笑みかけたバクルは、包帯で頭と腕を痛々しいまでに飾っていた。戦闘での被弾と、必死で乗機を操りそれに続く着陸の失敗で負った傷だった。そしてその時、カズマは自分たちを襲い、バットネン隊長の生命すら奪った恐るべき敵手の素性を初めて知った。
「やつらは、黒狼三人衆だ」
「黒狼……三人衆?」
「人を殺すことなど何とも思わない、文字通り狼みたいな連中さ。技量も高い」
「強いのか?」
バクルは頷いた。
「強いだけじゃなく、容赦を知らないし慈悲も知らない。だから味方からも恐れられ、嫌われている」
「そんな連中が、何故この戦線にいる?」
バクルの表情に、一層の切実さが加わるのをカズマは見た。
「奴等は大きな作戦がある前に必ず動く、だからきっと……レムリア軍はまた何かを始める気だ。それが何だかは、ぼくにもわからないが……」
先日の遣り取りを反芻しながら、カズマは寝返りを打った。眠気はとっくに消えてはいたが、バートランド隊長のもの憂げな顔を思い返す度、起き上がる意思と気力は、当分取り戻せそうになかった。ひんやりとした寝台の上で寝返りを打った背中で、ドア越しにカズマは気配を感じ、それはノックとほぼ同時にドアの開かれる音となってカズマの聴覚に顕れる――
「この部屋です。どうぞ」
聞き慣れたマリノの声は、彼女が誰かを伴っていることを明らかに示していた。続いて感じ取った気配は、カズマの知らないものだった。それが、カズマに突然の来訪者に対する興味にも似た感情を喚起させる――寝台に横たわったまま、こちらに一向に顔を向けないカズマに業を煮やしたマリノが声を上げたのはそのときだった。
「カズマ! あんたに客だよ」
「話したくない……帰ってもらってくれ」
「このバカ、仮にも上官に向かって!」
肩を怒らせ、寝台へ一歩進み出たマリノを制したのは、カズマが始めて耳にする、落ち着いた感じの女性の声だった。
「ラジアネス連邦政府軍の、少佐でも……かしら。ツルギ候補生?」
「……?」
寝台に身を横たえたまま、それでも弾かれたように振り返り見下ろした先では、サングラスを懸けた女性士官が、微笑を浮かべながらにこちらを見上げている。
褐色の肌、短めの髪、女性らしいたおやかさの上に、男性的な精悍さを漂わせたその容姿に、カズマはしばし目を奪われた。飛行機乗りだ……という直感は、果たして胸に輝く操縦徽章を見出すのと同時に的中した。
そのカズマの眼差しを捉えたまま、その女性士官は手提げ袋を掲げ、カズマに示すようにした。
「あなたは……?」
「これ、食べない?」
アイスクリームの印字に、カズマの喉が鳴った――
開け放たれた車窓から飛び込んでくる風が、少女の鼻先に瑞々しい潮の匂いを運んできた。
連絡機の窓からは街の公園程度の大きさにしか見えなかったファッショル島は、車でその全容を巡ると意外にも時間を要することに訪問者の多くは驚かされる。本来ならあと一度、帰りの航空便に乗りこむ際にしか足を踏み入れることの無かった筈の飛行場を、こうして車に揺られて走っているのは妙なものだとフラウ‐リンは思った。
発端は基地司令部の申し出だった。遠路遥々前線へ足を踏み入れたフラウの「国家への献身」を労うと同時に、広報の意味も兼ねて、基地の幹部たちはフラウ達に部隊見学を勧めてきたのだ。前線の宿舎においてもレッスン詰めで、それに倦みつつあったフラウにとって、見学の機会は願っても無い気晴らしの機会のように思われたが、彼女を取り巻く大人達の感慨は、かなり異なったもののように少女には思われた。
「――要は俺達に、不安がらせる暇を与えるなってことさ」
フラウの後席で、バンドマンと話し込むルイ‐コステロの言葉は、久方ぶりの外出に浮かれるフラウの胸に、無形の針を突き立てるかのような不快感を与えずにはいられない。だがコステロの言葉にも一理ある。現に脱出のための交渉に失敗し、軍の提案に対しコステロと同じ感慨を抱いたシンシア‐ラプカは、憤りのあまり周囲との一切の接触を拒否して宿舎の部屋に部屋に引きこもったまま出てこないという有様だ。そして彼女と同じく、性急にも似た状況で組まれた見学スケジュールに、今更ながら不安にも似た感慨を覚えつつあるフラウがいたことも事実だった。
生起した複雑な想いとともに少女は顔を上げ、そして車窓の向こう側に広がる飛行場の全容に、彼女の藍色の瞳は釘付けになる――
「飛行機――」
陽光の吸い込み輝くダークブルーの銀翼は、幾列もの規則正しい横列を為して滑走路脇に連なり、真白い識別帯と番号に彩られた無骨な機体からは、なだらかな曲面が反射に起因する重厚な光を生ぜしめていた。機体の数は多く、気が付けば飛行場付近に達した直後から聞こえていた爆音の余韻は、今ではより一層の質感を以ってこちらの頭上を行き交っている。
車が、止まった。
案内役を務める士官に促されて地上に降り立てば、戦闘機の列線はすでに少女の眼前にあった。手を伸ばせば、そのまま真っ黒い戦闘機を掴み取りできそうな至近――
「フラウ、行くぞ」
夢想にも似たフラウの思いは、大人たちの声によって即座に現実世界へと引き戻された。飛行場が思いの外広いことに、少女を含めこの場の誰もが、今更ながらに思い当たったかのようであった。それでも、大人達の向かう先が戦闘機の列線であることは、それを間近で見る希望を抱いていた少女にとって好都合であったかもしれない。
「こいつは、どれくらい速いんだい?」
「コムドリア縦断鉄道の、ざっと3倍以上……といったところでしょうか」
「じゃあ、レムリアンの戦闘機はどうだい?」
「彼らの戦闘機なら、4倍以上はいけるとおもいますがね」
「だから戦闘じゃ、勝ちを取れずにいるわけか……」
「我々の戦闘機は、敵のそれに比してそれほど劣位にあるわけではありません」
士官は、一機のジーファイターを指差した。男たちの屈託無くも、真理を突いた会話に対し、反論する必要を今更ながらに感じたかのようであった。そして男たちの視線は、指差された方向で軽い驚愕に固まる。
「こいつぁすごい!」
フラウには、判らなかった。大人たちが感嘆の声を上げる理由が。だが機体を囲む大人たちの環の外から機体の様子を伺うにつれ、彼らの感嘆の対象が青黒い機体の、操縦席付近に描かれたレムリア軍のマークの連なりにあることに気付いたとき、少女は胸奥から頭を擡げた純粋な興味に促されるがまま、歩を進めていた。
「フラウも見てみろ」
と、ルイ-コステロが道を開けてくれたのは都合が良かった。そして少女は、胸の高鳴りに任せるがまま一歩を踏み出すのだった。
次の瞬間――
藍色の大きな瞳の――
その先に――
――少女は、異例の勝利に彩られた戦闘機と正対する。
「……」
「撃墜王の愛機です」
と、少女の絶句を補うかのように、士官が笑顔で口を挟んできた。それを無視するかのように少女はさらに歩を進め、少女の足は操縦席を間近に見上げる主翼付け根の下で止まる。
「操縦席、上がってみますか?」
「いいんですか?」
「もちろん」
士官は、フラウを主翼の後ろ側へと手招きした。手招きされた先では、操縦席へ上るための足掛けがすでに架けられ、その手際のよさにフラウはしばし困惑を覚えた。そんなフラウの困惑は、足掛けに形のいい脚を懸けた瞬間に連鎖するフラッシュの瞬きとなって失望にも似た感情へと昇華してしまう。広報資料を作成する上で撮られた絶好の一葉――ここでも少女は大人たちの興味と打算から自由ではいられない――それにはとっくの昔に慣れた筈なのに、こうした場面に接する度に、募ってくる空しさは何なのだろう?
「ハーイ、笑って」
操縦席の傍に佇んだ姿勢からの、白い歯を見せた作り笑い――それを世間では、無垢な少女の純粋な笑みと看做してくれる……否、思い込んでくれる。そんな日々を続けるうちに、本当のフラウ-リンは虚像としてのフラウ-リンに侵食され、吸収されて消滅していく――それを思い、時には恐怖すら覚える少女であった。そして開け放たれたキャノピーの縁に描かれた操縦者を示す名前に、少女の瞳は釘付けになる
「ツルギ-カズマ……?」
呟きに震える唇――
取り留めのない疑問――
フラウはふと思った――この戦闘機を操縦しているツルギ‐カズマは、どんな人間なのだろう?
「――お乗りになりますか?」
搭乗を勧めるかのような口調に、フラウが顔を上げたそのとき――
「あ……」
広大な滑走路を二線跨いだ先――向こう側に居並ぶ戦闘機の鼻先を駆ける地上車の、助手席の人影には、見覚えがあった。
あのときの人――フラウは思わず目を奪われる。
それは、少女にこれまでとは違う、快い胸の高鳴りすら催す記憶――
オープントップがアスファルトを駆け抜ける。胸に受ける潮風が、疲れきった体には心地良かった。
司令部用地上車は、これまでカズマが足を踏み入れたことのない、だがそれでいて不快さすら覚えさせる場所を快調なまでに走っていた。
疑念が不快感に一変したのは、あの嫌らしい、幾何学的な迷彩をしたジーファイターを、間近に見る位置にまで来た瞬間だ。そして同時にカズマは、訝しさを篭めた眼差しで、運転席の主を見詰める。それでも運転席の女性士官は、助手席から注がれる隔意溢れる眼差しからは超然としたまま、前へ向かってハンドルを握り続けていた。
付いて来るべきではなかったか――食べかけのアイスクリームに目を落とし、そしてカズマは後悔する。謹慎の一時解除と事情聴取を兼ねた特別招致は、提示された文面からして正当な手続きであることを示していたが、それは招致の対象たるカズマの同意を前提としていた……そのことに、カズマは車が走り出してから初めて気付いた。迂闊な話だ……もう少し真剣に、ラジアネスの言葉を学んでおくべきであった。あるいは――
「……」
スタッフカーを運転する女性士官を、カズマはまじまじと見つめた。この女が持ってきたアイスクリームが、襲撃の衝撃から立ち直れないでいる自分の判断を曇らせる効果をもたらしたことを、カズマは否定できないでいる。自分を何の疑念もなく艦から連れ出すに、アイスクリームは十分な「餌」というべきで、それを意図して為したのであれば相当の策士ではないかとすらカズマは考え始めていた。やがてはそれを問い質したくもなる――ハンドルを握るリン-レベックの言葉は、困惑と苛立たしさの任せるまま、先に口を開きかけたカズマを制する形となった。
「休暇は、楽しい?」
「ええ?……まあ」
「それはよかった」
そう言って、リン-レベックは横顔を微笑ませた。健康的な茶色の肌、その口元から覗く並びのいい白い歯に、カズマは一瞬目を奪われかけた。そしてカズマが心を奪われている内に、車は格納庫の前で止まった。『降りろ』と、運転席から目と微笑とで促されがまま、カズマは車から降りた。此処まで来て、反抗する正当性などとうに消え失せている。直後に格納庫の屋根の下、迷彩塗装の機影に目を奪われる。
「ほあ……」
駐機するジーファイターを見上げ、思わず感嘆する。一本の枠も無い風防が艦隊制式のβ型のそれよりもずっと大きく、操縦席の後背の、さらに先まで延びている。後背への視界がβ型以上に良好なのは、改めて語るまでもなくカズマには思われた。後方視界の悪さは、カズマがジーファイターに抱く数少ない不満のひとつで、FAS配備の型はそのような不満をいとも容易く解決してしまっている。機体には補修の痕もなく一点の油汚れも見えない。艦隊のそれよりもずっと手入れの行き届いたジーファイターであることは、一瞥ですら分かった。
迷彩も、雲間に紛れるとか空の蒼に隠れるといった、所謂「見えなくなる」類ではなかった。機体にかけて描き込まれた暗灰色の模様が、対抗する相手の、此方に対する距離感を狂わせる効果を考慮していることにカズマは気付く。隠れるため、逃げるための迷彩ではなく、攻めるための迷彩。FASの操縦士が空戦技術に絶対の自信を持っていることの、それは何よりも雄弁な証明とも思えた。
感嘆から呆然として、機体を見上げるカズマの傍に進み出、リン-レベックは言った。
「私と、空の散歩をしない?」
「……!」言われて、驚く。
「大丈夫、許可は取ってあるから」
「自分は、任務と訓練のとき以外にはもう飛ばないようにしていますから」
「177飛行隊のこと?」
問われ、カズマは頷いた。頷くのと同時に、狡猾で獰猛な敵影が脳裏を過る。抱いたのは恐怖ではなく憤りであった。リン‐レベックの形のいい口が、微かに笑った。
「わたしたちはいま、調査をしているの」
「調査……ですか?」
「先日貴方達が遭遇した特装機の戦術と、その他の有力な特装機の戦い方を、ね」
「事情聴取って……それが?」
リン‐レベックが頷いた。搭乗と飛行に際し、不正の有無を探っているのかとカズマは思っていたが、違うことにむしろ拍子抜けした。
「貴方には、FASの検証飛行に同行してもらって、当時の状況について証言をしてもらえれば助かる」
「成程……」
言われ、そして納得する。何時しか傍らのリン‐レベックの眼差しが真剣さを以てカズマに向いていた。レムリア軍の跳梁は尚も続いている。打開が必要だと、カズマもまた純粋に考えた。
リン‐レベックと僚機が攻撃機役を務め、別働の編隊三機がこれを待ち伏せる形で「襲撃」する――FASの事務室、そのブリーフィングの席で、訓練空域で実施する「検証」の手順をリン‐レベックが示したとき、カズマはブリーフィングルームの白板に張られた地図に、思わず目を見張った。
艦船用の空路で分割されたFASの訓練空域が、レンヴィル諸島に近接している。中には泊地の中枢たるファッショル島の艦隊司令部に重複しているものもあって、いずれも広範だ。一個飛行隊、あるいはそれ未満の規模でしかない戦闘機部隊が占有するべき規模の空域ではない。ハンティントンを発艦し、初めてファッショル島に到達したとき、FASのジーファイターに針路を妨害されたのが思い出された。彼らからすれば、彼らFASの占有する訓練空域に闖入した艦隊の飛行隊に、ちょっかいを掛けたつもりだったのだろうか……?
「……?」カズマの態度を上の空と感じたのか、対面するリン‐レベックの眦が険しくなるのをカズマは察した。横着を許さない、生真面目な性格なのだと思う。典型的な飛行教官だとも――
「訓練空域、広いですね……」場を繕うために、カズマは言ってみた。羨ましい……という皮肉を辛うじて飲み込む。
「FASは、この基地の防空も任されてるからね」思い出したように、リン‐レベックは白板の地図を顧みた。
「航空機や飛行船で移動中の軍司令部や政府要人の護衛も、FASが任されることもある」
そこまで言って、「知らないの?」と問う顔をリン‐レベックはした。「知らない」という顔をしたカズマに苦笑で応じる。苦笑でもいい笑顔だ。それでも――
「……」
気まずい沈黙――その間に生じた沈黙が、カズマの内心で嫌な感触へと変わる――この大尉、今回の飛行について「何かを」隠していないかという疑念……観察に転じかけた彼女への眼差しを、一瞬で隠す。
沈黙の中に垣間見えた相手の打算――
「君は私の機に同乗、敵機の方位と高度から指摘の方、お願いできる?」
「少佐の機に同乗するのですか?」確認する様に、カズマは聞いてみた。
「大丈夫、操縦は私が実施ります」確認する様に、リン‐レベックも答える。「君、操縦は禁止されているでしょ?」
同乗? まさか生身じゃないだろうな……という懸念は、驚きを以て裏切られた。ロッカールームで渡された従来型の装具に加え、着用を勧められた装備にカズマは目を丸くしたものだ。
「何ですか?……これ」
「耐加速度服よ。カズマ君」
「……?」ずっしりと重い装具を抱えて呆然とするカズマの眼前で、リン‐レベックは装着を「実演」してみせた。日本の古来の狩装束の様な装具を、スラックスの上に履くというより巻き付ける様にして着ける。その腰の部分から、太いホースが延びているのがカズマの目には印象的に映った……何時しか装着を終えたリン‐レベックが、「やってみて」という微笑をカズマに向けている。
促されるがまま、畳んだままのGスーツを拡げる。着難そう……という予感はすぐに外れた。コルセットの様なベルトを腰に巻いてしまえば、あとは袖先までを脚全体に巻き付けてジッパーで止めるだけで全ては上手く行くようになっている。その過程で、生地の部分々々に袋の様な空間が設けられていることにカズマは気付く。更にそれらは、生地の下に通る血管の様に細いホースで繋がっている――何時しか背後に周ったリン‐レベックが、ベルトの緩みを締めた。苦痛に、思わず眦が険しくなる。
「……きついな」
「我慢して。こうしないと離陸した後で大変だから」
背後からリン‐レベックに話しかけられる。首筋に吐息がかかる近さだった。この世界で飛び始めた時に感じた身軽さが、すこし窮屈になる。
最初にGスーツを見せられたときに予感した歩き難さは、装具を提げて格納庫へと戻る途上でそれを実感する。それでも走れないというわけでも無さそうなところに、これは慣れの問題なのだとカズマは自分を言い聞かせた。複座型に改造されたFAS仕様のジーファイターが、ふたりを待ち構えている。整備リストを持った整備指揮官がリン‐レベックに敬礼し、搭乗手続きが速やかに始まる。この辺り、カズマが在籍する187戦闘飛行隊と変わらない。むしろずっと厳格……否、真面目であるかもしれない。まるで練習航空隊のような――そうか、FASは実戦部隊ではなく教育機関なのだという事実に、カズマは今更ながらに思い当たる。
格納庫に足を踏み入れた時、それまでジーファイターに取り掛かっていた整備員たちの視線が、一斉に自分に集中するのをカズマは感じた。好奇の目もあるが、それ以上に、FASでは部外者は操縦士はおろか地上要員にすら「試されている」という感触をカズマは受けた。正直気持ちのいい感触ではない。
「――おっ、『面接』の準備はできているようだな」
「……?」
ジーファイターの傍から声を掛けられ、カズマとリン‐レベックは同時にその方向を顧みた。猫の目の様に吊り上がったサングラスの男――やはりGスーツ装着済み――が、口をにやけさせてふたりを伺っていた。「面接……?」訝るカズマの傍で、リン‐レベックの眦がまた険しくなる。「演習でしょ。レムリア軍に対抗するための」
男が頷き、カズマを指差した。「ところで……お前が撃墜王か?」
「……?」唐突に話を振られ、しかも礼儀の一片も無い。それ故にカズマは訝し気に男を見詰めた。しかし階級は大尉、それ故に少尉候補生として、名乗る必要をカズマは感じた。
「ツルギ‐カズマ、少尉候補生です」
「候補生だと? 士官じゃないやつがFASを目指そうってのか?」
「目指す? FASを?」
目を点にしたカズマを、サングラスが興味の光を湛えて見返す。
「聞くところによると、お前はレムリアンを二十機も撃墜したそうだが、そこに何かしら秘訣はあるのか?」
「……」
「どうした? 秘中の秘というやつか? 教えられないか?」
「それは簡単でしょう。敵機の後背に忍び寄って、当たる距離まで近づいてから……」
「誰もがそれを出来ねえから、FASがいるわけだ」
「じゃあ出来るんですか? あんたは?」
「なに?」
士官の烈しい眼光が、サングラスを貫いてカズマに向いた。傲慢にものを言うとカズマには思えた。相手の態度に、カズマの内心も穏やかではなくなっている。
「お高く留まっている様だな。まあいい……余裕を扱いていられるのも今のうちだ」
言い捨て、士官はリン‐レベックに向き直る。
「こいつには操縦させないんですか“サイファ”? 直接に技量が見たい」
「今回はそんな想定ではないわ。“キャット”」
リン‐レベックの返答には、若い滾りを窘める響きがあった。そうだ、彼は「若い」――軍人としてのキャリアを換算すればカズマより年上の筈なのに、飛行士としてはリン‐レベックの言う通り「若い」と、カズマにも感じられた。と同時に、地平線から迫りくる雨雲の様に、ランバーン少佐に対する不審がカズマの心中に影を落としてきた――この女、何を企んでいる?
「あのう少佐、アイスクリーム……美味しかったです」
「……?」
「この飛行、止めてハンティに帰ってもいいですか? 面接とか想定とか、みんな訳のわからないこと言ってるんで……」
「あら、逃げるの?」
「……!」
唖然として、カズマはリン-レベックを見た。カズマを見る眼つきが、感情を伴わない、突き放すようなものに変貌っていた。鼻白むカズマの眼前で、リン-レベックは険しさすら漂う口調で続けた。
「ツルギ少尉、あなた、強いんでしょう?」
「……」
「レムリアの戦闘機を何十機も撃墜したんでしょう?」
「……」
「強いのなら……自分の腕に自信を持っているのなら、断る理由は無いはずでしょう?」
「自分が今すぐにあなたと飛ぶ理由もまた、ないはずです」言いつつ、「ああやっぱり」とカズマは確信し、そして困惑する。
検証など単なる名目だ。
FASはおれの技量を見たいだけなのだ。嘆息――前方の女性からそれを聞いてもなお、心を動かされるカズマではなかった。むしろ生じたのは、敵愾心――臆病者と思えば思うがいい――命令に拠らず、誰かから強制されて飛ぶことを、カズマは何よりも嫌った。前の世界――挑発と扇動で、いかに多くの若者が軽率に戦場の空に出、生き残る機会を奪われていったか――そのままカズマとリン‐レベックは無表情で対峙する。ふたりの傍ら、”キャット“と呼ばれた士官もまた、困惑しているのがカズマには判った。
眼前の青年が挑発に乗らないことを悟り、そのとき初めて、リン-レベックはカズマに向き直った。
「ツルギ少尉」
「……?」
自分に注がれる金色の眼差しがまた変わる。そこに篭められた直情を無視しようとして、カズマは失敗した。世の不条理に冷淡でありつつも、自らに向けられる真摯さを無条件で蔑ろに出来るほど、カズマは実のところ世間慣れしているわけではなかった。カズマを瞳の中に捉え、そして離すまいと眼光を注ぎ続けながら、リン-レベックは言った。
「君、もっと強くなりたいと思ったことはない?」
「強く……なる?」
二人の距離がさらに縮まる。
「先週の話は聞いたわ。ツルギ-カズマ士官候補生」
「あのことなら……もう整理は付きましたから」
嘘をついた。飛行隊長が眼前で死んだ程の負け戦の、けじめを取る決意。それが暴露するのを感情を消し、辛うじて抑え込む。黒狼三人衆とかいうあの三機のレムリア機は、絶対に自分が撃墜す積りでいた。不意に延びたリン-レベックの腕が、カズマの肩を軽く包んだ。
「悔しかったでしょう? 悔しくなかったの?」
「……」
「私なら、あなたの助けになれる自信がある」
自分の肩に触れた手に、力が篭るのをカズマは感じる。そしてリン-レベックは顔を寄せ、さらにカズマの顔を覗き込むようにした。
「ツルギ-カズマ……あなたのような飛行士を、私は待っていた」
「……」
困惑が逡巡に変わる。突き付けられた真摯さは、次第にカズマから言葉を奪っていく――




