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第七章 「マウリマウリ」


 ここ一週間続く晴天と、空湾に続々と集結を果たす艦艇の群が相互に熱気を生じ、立ち上る熱気に歪められた島々の空気は、そのまま周辺に滞留して蜃気楼となった。蜃気楼は情景を躍動させる効果を発し、帰結として南方の空の泊地に一層の活気を与えているかのように見えた。


 鳴らした汽笛は二度。

 曳船にその巨体の四方を伴われ、空母ハンティントンは空とそこに浮かぶ陸地の織り成す狭隘をゆっくりと航走(はし)っていた。元来軍艦として生を享ける筈が無く、偶然と運命の共演の結果として鋼鉄の戦乙女としての道を歩むに至ったフネとはいっても、五インチ連装両用砲、高射砲、高射機関砲といった兵装に全身を飾られたその巨体は、巡洋艦や駆逐艦といった周囲の小艦艇を圧倒するに十分過ぎるほどの威厳を保っていた。


 ――そして「ハンティ」には、泊地にいる艦艇の大部分が経ていない「実戦経験」があった。


 ほんの二週間前に終息したリューディーランド方面の航空戦において、迎撃に展開したラジアネス艦隊はリュ―ディーランド方面の制空権奪取を目論むレムリア艦隊の猛攻を前に一隻の空母を喪い、そしてそれに続く夜間戦闘において、危うくもう一隻の空母を喪うところであった。そのもう一隻――「ハンティントン」もまた、戦闘が終結したかと思われた夜間、突如出現したレムリア軍夜襲部隊の集中攻撃に晒され、敵味方の帰趨すら定まらない状況下で二度に亘る雷撃の悉くを回避し切れたのは、まさに持って生まれた天運の為せる(わざ)と言っても過言ではないのかもしれなかった。



 だが――

 入港――それは、本来ならば二日前にありうるべき光景だった。

 艦隊の大多数を占める中小艦艇、そして戦艦部隊の停泊地確保が優先されたこともまたハンティントンの入港が遅れた理由の一つだったが、それと同様に、轟沈した「正規空母」と生還した「改造空母」――リューディーランドの空において両者を遇した対照的な運命が、艦隊上層部に少なからぬ後者への反感を抱かせたことも、おそらくはこのような冷遇を為さしめた上で無関係では無かったのかもしれない。その割を食ったと言っては何だが、戦闘を生き抜いた2789名に上るハンティントン乗員は、久しぶりでの陸地を目前にして「日程調整」の名目の下、まる二日に亘る足留めを食わされた形となったのであった。自然、ぶつけようの無い不満も高まってくるというものだ。



 ラウドスピーカーを通じ、艦橋に号令が拡がる――

『――機関停止30秒前……20秒……10秒前……停止いま!』

 絶え間ない訓練の成果であり、乗員がハンティに完熟(なれ)た結果でもある。号令の瞬間、ここ数週間に渡りハンティントンを支配していた鼓動のごとき振動と、推進器の生む重層的な爆音は完全に消え、その後には揺籃に横たえられたかのごとき静寂が生じ、そして広がり始める――その深奥では、この世に広がる全ての空を凝縮したかのようなフラゴノウムの蒼い灯が、艦をこの空洋に浮かべるべく終わることの無い淡い輝きを湛え続けている――艦長として、この日艦の上で為すべき最後の仕事を終える間際、唐突に入ってきた内線電話のベルに接し、「ハンティントン」艦長アベル‐F‐ラム中佐は取り上げた内線電話の送受話スイッチを押した。


「提督、艦載艇(ランチ)の準備が完了致しました。出立のご用意を」

『――あいわかった』

 正式名称、第001任務部隊指揮官たるフョードル‐ダオ“D”ヴァルシクール中将は、この日艦隊幕僚を伴い戦況報告と今後の方針策定のため、タイド島の艦隊司令部へいち早く向かう手筈になっている。艦隊司令部との交信を交わし、それからきっかり五分後に艦を離れる艦載連絡艇を艦橋から敬礼と共に見送った後、それを待ち構えていたかのように従兵がコーヒーを満たした紙コップを艦橋の士官に配り始める。待ちに待った上陸までの、淡い一時――


「向こうが、マウリマウリ島だろう?」

 と、艦橋に詰めていた一人の士官が外の一点を指差した。泊地の最北、司令部の存在するタイド島から離れた空域に位置するハンティントンから、泊地の慰安施設が集中する小島が意外にも近い距離であることに、多くの士官がこのとき気付いた。


「へぇ、絶好のロケーションじゃないか?」

 と、ラム中佐は副長のシオボルト‐ビーチャ少佐を顧みた。当のビーチャ少佐はといえば、太鼓腹を揺らしつつ適当に苦笑するのみだ。この泊地におけるハンティントンの微妙な立場を、最も実感しているのは実はこの彼であるのかもしれなかった。だからこそ、ラム中佐の冗談に心から同意を覚えられる筈も無かったのである。


「我々は歓迎されておるのですな」

 と、ビーチャ中佐は言った。もちろん皮肉を篭めて。

「ああ、マウリマウリでは(・・)歓迎されるだろうね」

「……?」

 その瞬間、ラム中佐をビーチャ副長は軽い驚愕と共に見遣る。眼鏡越しの視線の先で、この艦で彼の唯一の上官は、紙コップから湯気と共に立ち昇る芳香をただ無心に楽しんでいるかのように見えた。


 艦長もまた知っている? 

 自分たちが招かれざる客であることを――




 マウリマウリ島――

 遮るもののなく、四六時中に亘りひんやりとする風の舞う蒼空に佇む島では、太陽は絶妙の暖かさをその光とともに浮遊島とそこに住む人々に注いでくれる。


 レクリェーション‐スペースたるマウリマウリ島の一角、購買券配給所の前では、早朝から士官、下士官兵を問わず「上陸」を果たした多くの将兵が列を為し、休暇を過ごす彼らにとって命綱とでも言うべき配給券の交付を待っていた。


 居並ぶ皆が切実なのにも理由がある。いくら休暇をもらったとは言っても、購買券が無ければ休暇など無いも同然なのであるからだ。前進基地たるレンヴィルの補給は、その性格ゆえ後方の他の基地と比べ決して潤沢ではない――だが、ラジアネス軍とレムリア軍とでは「潤沢ではない」と言う表現に関しては絶対的な程度の相違があることも、此処でことわっておく必要がある――従って酒、煙草等の嗜好品の供給に関しては数量面で幾許かの制限を加える必要があった。具体的には事前に階級、職制に応じて将兵に嗜好品の購買券を配布し、将兵はその数に応じて嗜好品を購入することを許されている、という仕組みが作られるに至る。


 ツルギ‐カズマもまたその列の中にいた。

 彼自身からして上陸を果たし、配給所の列に接するにあたり、当初は何の列なのだろうと訝り、敬遠したものだ。元の世界にいたとき、帝国海軍連合艦隊前進基地のあったトラック島で勤務に就いていた頃、休暇をもらい何も考えずに下士官兵の列に並んだ先が、よりにもよって慰安所だったという苦い(!?)経験が、彼をして内心で警戒させた理由であった。それでも程なくして事情を知ってからは、どちらかと言えば嗜好品に対する興味に関しては淡白なカズマでも、積極的に並ぶようになった。

 量が制限されているとは言っても、購買券と引き換えに得られる嗜好品の量はカズマにとってはあまりに過分な量である。アイスクリームに換算すれば一日にバケツ一杯分を食べられるのだ。それは甘い物好きで、酒やタバコに縁の無いカズマにとって、あまりに魅力的な話だった。



 ……だが、人生というものはそう上手くは行かないということを、列に並びながらにカズマは思い知らされてもいた。

 

「……ビール六枚と、タバコ二枚。あとその他を二枚くださーい」

 かろうじて聞こえるかどうかといった小さい声で、カズマは配給所の下士官に言った。一瞬訝しげな視線を向ける中年の下士官、だが数秒後にはタイプライター型の発券機で打ち出した購買券を、無造作にカズマの前に放る。

 券を受け取り、列を離れ歩き出したカズマを背後から呼び止める声があった。思わずビクつき、振り向いたカズマの背後では、やはり母艦に先駆け先日に到着したばかりのクラレス‐ラグ‐ス‐バクルが、はにかみ気味の微笑をカズマに投げ掛けていた。安堵の表情を隠さないカズマに、バクルは言った。彼とて怪訝な表情は隠しようも無い。


「珍しいな。カズマがビールを頼むなんて……」

「エヘヘ……少し慣れておこうと思って」

「フゥン……」


 力なくカズマは笑い、そして会釈もそこそこにその場を離れていく。外目では納得しつつも、バクルの目はそのまま慰安区画へ向かうカズマの背中へと注がれたままだ。そしてトボトボと歩くカズマの前に、物陰から意外な人影が立ちはだかるのをバクルは見た。


 眼前に立ちはだかった……否、待ち構えていた巨大な人影を感じた途端、カズマの足は止まった。続いて頭を上げた先で、マリノ‐カート‐マディステールは端正な容貌にただ冷厳なまでの無表情を漂わせ、唖然とするカズマを見下ろしている。

「……」

 無言のまま、マリノは手を差し出した。

「出せ」

 コクン……

 促されるまま、だが渋々とカズマは購買券の束を差し出す。それを手早くひったくり束を数え出す否や、マリノの端正な無表情は忽ちに満面の笑みに歪む。


「ひぃ、ふぅ、みぃ……二枚分足りないわねー」

「さぁ……何のこと?」

 苦笑気味に目を泳がせたカズマを前に、忽ちマリノの顔から満面の笑みが消えた。

「出せ」

「だから……何のことかなぁ」

「じぃー……」


 目を細め、マリノは顔をカズマの鼻先に近付ける。

 交差する黒と茶の瞳――気圧されたカズマが姿勢を崩しかけた途端、マリノはカズマに組み付き、無理矢理に懐を弄り始めた。

「やめろっ! お願いだからやめてくれっ!」

「やっぱり!」

 と、マリノは懐から手を抜く、その掌の中には二枚の購買券。

「マリノ、せめて二枚……いや一枚分ぐらいは……」

「ダメ」

「そんなぁ!」

「このバァーカ、あたしの目を誤魔化そうなんて、一億と三千万年早いのよ」

 アハハハハハ!……と哄笑しながら立ち去るマリノ、その背後には呆然として足元から崩れ落ちるカズマが残される。

「あああああ! アイスクリームがぁ!」


 発端は進出時のフライトだった。カズマの健忘症も理由の一つだったが、かといって等閑にされたマリノがそのまま黙っているはずも無く、あれ以来、マウリマウリ島に身を置く限りでは、カズマは何かとマリノにたかられ、絞り上げられる身となってしまっている。例えばこのように、カズマに割り当てられた購買券を、マリノは有無を言わさず取り上げ、全部を酒やタバコ代――あるいは禁制のギャンブル――に使ってしまうのだ……




「――ハハハハ、災難だな」

 と、カズマから事情を聞いたバクルは笑った。カズマ自身の気苦労は別として、バクルにはこうした二人の遣り取りが何処と無く微笑ましいものに見えるらしい。アップルティー一杯でマウリマウリ島の兵員用カフェのカウンターに座るそのバクルの傍らでは、カズマはガラス皿に盛られたバニラアイスの山をただ無心にかっ込んでいた……もちろん、バクルの奢りである。


「でも、上手くいってるみたいじゃないか。君たち」

「そうかなぁ……」

 と、カズマは力なく笑った。だが、決してバクルの言葉を否定しているわけではなかった。でも……何かの拍子で放り込まれたこの異世界。そこで女の尻に敷かれる自分の姿を見たら、星野分隊士をはじめ靖国に行った連中はどう思うだろう?


「ところでカズマ」

「ん……?」

 急に改まったバクルの口調を聞き、カズマは口元をバニラアイスで汚したままに頭を上げた。

「戦闘機隊の休養期間が短縮されたという話、知っているか?」

「……」

 カズマは無言のまま、頭を横に振った。それはカズマにとってもやはり意外な話であることを、レムリアからの亡命者たる青年はすぐに察した。

「FASがわざわざ此処まで出張してきて、ぼくらに稽古まで付けてくれるってさ」

「……?」

 直後、カズマの瞳から一切の緩みが消え行くのをバクルは見た。休暇が取消された失望もあったが、「FAS」という単語に反射的に憶えるものがあった。だがそれは決していい印象を伴うものではなかった。あの連中だ――レンヴィルに進出したあの日、傍若無人に、それも危険な速度で編隊のど真ん中を通過して行った機影をカズマは思い浮かべる。その連中が、こちらを訓練する?――意味を捉えかね、カズマはバクルを凝視するようにした。そのカズマの訝るような視線に、バクルもまたその端正な表情を曇らせる。


「カズマも知ってるようだな。FASのこと」

「いい人たちじゃ、ないみたいですね」

「FASは――」と、嘆息とともにバクルは切り出した。

「……確かに、彼らの腕はいい。ぼくらよりも格段に。でも……」

「でも……?」

「自分の技量に対する絶対的な自信、言い換えれば過信……彼らは時たまそれを発露させるときがある。それが他の部隊のパイロットの不信と反感を買っている。そのFASが此処にやって来て、彼らの基準でパイロットを選抜し、集中的に指導すると言っている。彼らなりの価値観と分析観から生み出した対レムリア軍戦闘機の戦術というやつをね……正直、彼らの腕に敬意こそ持ってはいても、彼らを心から歓迎するパイロットなんて、此処にはあまりいない」

「それはそれで、有難いことじゃないですか?」


 と、カズマは取繕うように言った。戦闘機の性能や乗員の技量で優位にある敵に対し、戦法や運用で対抗する術を図ることの重要さを、カズマは過去の経験から身に染みて知っている。その経験から勘案すれば、たとえ教える側が気に食わない相手だろうと、戦法を学ばずに前線に出て、命を取られるよりずっとましというものだろう。


 それでも、バクルは言った。

「でも……多数の内の極少数だが、こちらの戦術上の工夫が全く通用しないパイロットが、レムリアにはいる」

「……」無言のまま、カズマはアイスクリームを口に運ぶ匙を止めた。

 レムリア軍の撃墜王……カズマ自身、何度かレムリア軍の戦闘機隊と銀翼を交え、その内十数機を撃墜してはいるが、その中にバクルが言うような「できるやつ」は皆無であるようにカズマには思われた……つまり、自分は未だバクルが言うような「危険な相手」には巡り合っていない。それは幸運なことなのだろうか? それとも――


 カズマは考える。

 もしその時――バクルが言うような、手強いパイロットの駆るレムリア機と合間見える時――が来れば、自分はその戦いを生き残ることが出来るだろうか?……考え、押し黙ったカズマの内心を察したのか、バクルもまたその顔から柔和さを消し、思いに沈むカズマの横顔を見守るだけだ。


「カズマ、レムリア人は誇り高い民なんだよ」

「バクル……?」

「レムリアでは、真に選ばれた者しか戦闘機の操縦桿を握ることは許されない。レムリアでは戦闘機乗りのことを空戦士という。その空戦士の中でずば抜けて素質があり、実力のある者は撃墜王(イクスペルテ)と呼ばれ皆の絶大な信頼と尊敬を集める。何故なら戦闘機とその乗り手こそ空を支配する民レムリアの、何よりの象徴だからだ」

「……」

「カズマ……我々レムリア人にとっては、戦う翼こそが命であり、名誉なんだ」

 出すべき言葉を忘れ、そしてまじまじとバクルを見つめるカズマに、バクルは細めた目を煌かせる。


 そして――

 二人の与り知らない場所で、二人の、至近の行く末に関わる重大な決定が、今まさに下されようとしていた。







 タイド島 ラジアネス前進艦隊司令部――

「――今回の練成に際し、小官から一つ希望があります」

 展開以来、通算三回目を数えた大尉以上の飛行隊パイロットより構成される会議に、形ばかりの終わりが見えてきたそのとき、この場で唯一の女性であったリン‐レベック‐“サイファ”ランバーン少佐の投げ掛けた一言は、艦隊側の操縦士たちに少なからぬ動揺をもたらすこととなった。


「何だね? ランバーン少佐」

 会議の議長役にして、ランバーンの上司でもある戦闘航法学校(FAS) 教導飛行隊長ウィリアム‐“ホーク”‐ハワード中佐の向けた疑念、だが当の彼女はその素振りが、会議の事前に打ち合わせた発言の機会の生起を、円滑ならしめんがための上司の配慮であることを知っていた。そしておそらくこの瞬間、彼女らの意図を察知し、あるいは彼女がずっと発言の機会を伺っていたことを知った人間が一名、この場にいることをも、当のリン‐レベックには判っていた。


「……」

 引き締まった胴とそこから下、両脚に至る曲線美を宿した腰を上げた姿勢もそのままに、リン‐レベックは臨席する一人の士官を一瞥する。その彼女の褐色の瞳の先で、空母「ハンティントン」先任戦闘飛行隊長カレル‐T‐“レックス”バートランド中佐は、かつての教え子の発言に、何ら関心を示さないかのように、この場で四本目の煙草を取り出そうとしていた。


 リン‐レベックは言った。

「今回提出された受講者リストにもう一人、パイロットの名を加えて頂きたいのです」

「このリストは、“レックス”バートランド中佐の推薦と助言によるものだ。本官としても、これ以上は望めないメンバーだと思うが?」

 と、臨席のベック主任航空作戦参謀が言った。事前に話を通していなかったこともあるが、顔に宿る戸惑いは隠しようが無い。戦闘記録(アクションリポート)と、考察と実証を経て編み出された対レムリア機用の空戦技術、それを伝授する対象として実戦部隊側から提示された中隊長クラス以上のパイロットのリストに対し、それらが本決まりとなりかかった土壇場でFASから物言いが付いた形となったのだから……


 リン‐レベックはバートランドに向き直った。当のバートランドは、悠然と脚を組んだまま、彼一人沈思に耽っているかのようにこの日三本目の煙草を燻らせ続けていた。その無関心という単語を具現化したような態度に触発されたかのように、“サイファ”ランバーンの発言は続く。


「さらに申し上げます。今回の選抜に関し主導的な役割を果たされたバートランド少佐は故意に、ある一人のパイロットを外しておられるのではないですか?」

「ランバーン少佐、それは誰かね?」と聞いたのはやはりベック参謀だ。上席のハワード中佐に至っては沈黙を保ったまま、無心に部下とかつての先達との遣り取りをただじっと見守っているばかりだった。その真意は、自分の仕事はすでに終わった。あとは部下の提案がこの場に如何なる波風を立てることになるのか見届け、要らぬ対立が生じればそれを仲裁する意思がある、という態度の表れであるのかもしれなかった。


 疑念を投げ掛けた参謀を顧み、リン‐レベックは応えた。

「先般のリューディーランド航空戦において、単機よく20機のレムリア軍機を撃墜したパイロットです」

「……」

「ハワード中佐、バートランド中佐、彼をどうか今回の練成に加えてください。彼の存在は我々にとってきわめて有益です。彼もまた、今回の教程に加えるべきです」

「悪いがそれは無理だ」

「何故?」

 リン‐レベックの表情が曇ったのは、バートランドによる即座の拒絶よりも、その口調の素っ気無さの方に気を惹かれたところがあったかもしれない。そして語を次いでもなお、灰皿に三本目の煙草を押し消したバートランドの口調の素っ気無さは変わらなかった。


「……坊やの希望を、俺は聞いてない」

「故意に聞かなかっただけでしょう?」

 リン‐レベックの口調に苛立たしさが篭るのを、その場の誰もが聞いた。中にはその口調に、夫の不甲斐なさを咎める自分の妻を連想した者もいたかもしれない。

「理由はな……」バートランドが顔を上げた。顔を上げたそのときには、その口元は苦笑で心なしが歪んでいた。自分の妻にへそくりが露見した夫のそれに、バートランドのそれは似ていた。


「FASの特別授業なんて……坊やにゃ未だ早い。ひょっとしたら必要がないかもしれない」

「未だ若い現在だからこそ、吸収できるものもあるのではないかと小官は考えます」

「坊やと一緒に飛んだこともないのに、何故そうと判る?」

「素質ある若者に技量向上の機会を与えるのも、我々FASの責務だからです。“レックス”バートランド中佐」



 バートランドの目が、硬く煌いた。

「俺が、あいつをただ飼い殺しにしている……と君は言いたいのか?」

「違います。限られた期間ではあっても、彼に対しより充実した環境を与えるべきという当然の配慮を示したまでです。総合的に我々の戦力を向上させるために」

 バートランドの傍らに座る“ラムジー”キニー大尉が、顔色を欠き声を上げた。

「総合的な戦力向上は、何も君らだけの目標じゃない。我々だって打てる手は打っている」

「ですが研鑽に集中できぬ実施部隊では限界があります」

「その研鑽に必要な実戦データを集めてくるのは、いつも我々じゃないか。それも多大な犠牲と引き換えに!」

「その犠牲を最小限に抑えるべく、我々は最良と判断される方策をここに示しています。どうか実施部隊の皆さんには矮小なセクショナリズムに囚われることなく、意義ある判断をして頂きたいのです」

「セクショナリズムだと!?」

 無礼とも思える言いように声を荒げる実施部隊の男たちを、リン‐レベックは平然と見返した。その眼光には一切の揺らぎもない。何時の間にか醸成された両者の緊張を破ったのは、彼女の上司だった。

「バートランド中佐をはじめ、実施部隊の諸君らには部下の出過ぎた発言を詫びよう。だがランバーン少佐の発言は真に艦隊戦闘機部隊の戦力向上を希求するが故の提言だ。実施部隊にとっても一考の余地があるとは思うが……」

 ハワード中佐の発言はまた、今次の会議を締め括る言葉でもあった。



 ――会議は終わり、足早に司令部の正面玄関へと通じる廊下を歩くバートランドを追いながら、キニーは彼の背中に話し掛けた。

「少佐、実のところ坊やの件に関しては自分としても疑問だったんですが」

「ボーズには今回の教程を修了した後で、定時訓練でFASのやり方を示す。そのあとでボーズの意見を聞くさ」

「……最初から、そのつもりだったんですね?」

 バートランドは頷いた。

「ジャック……親心ってやつを察してくれよ」

「はぁ……」

 そのとき不意にバートランドの足が止まり、バートランドは肩越しに険しい視線をキニーに向ける。

「FASやリン‐レベックには悪いが、今度の練成内容は、はっきり言ってボーズ向きじゃない…そういうことだ」




 連絡艇は楽園にも似たマウリマウリの喧騒を脱し、そこから南に舵を転じた。

 途上、フネはマウリマウリで休息を過ごす将兵を満載した連絡艇と何度も行き合ったが、泊地を南へ向かう連絡艇に身を委ねる人影は、対照的に閑散としたものをその狭い甲板上に漂わせていた。

 涼風――それがブルーのジャケットの襟をはためかせ、その弱からぬ勢いが青年の瑞々しい瞳を細くする。

 雲海――細まった瞳の先に広がるそれは、青年の持つ翼を絶え間ない飛翔へと誘おうとしているかのようだ。

 浮遊する島々――それらに取り巻かれ、守られているかのように巨体を浮かべる大小の艦艇に、青年は木の葉のような連絡艇の上甲板から圧倒される。

 自ずと、口元に宿る笑み――休息に身を置く者に対する苦笑と羨望に満ちた船上の中には、縁に上体を凭れ掛けるカズマと、それを微笑ましげに見遣るバクルもまた居た。


 船上を駆け抜ける微風に、金髪を撫でさせたままバクルは言った。

「カズマは仕事熱心だな」

「それ以外に楽しみがないから」

「実はぼくも、そう思っていたところさ」

 ほぼ同時に、二人の眼差しは連絡艇の針路先へと向かう。その針路上にやや小振りな空岸の輪郭を広げるファッショル島では、彼らの愛機が整備を受けつつそれぞれの乗り手を待っているはずだった。

 連絡艇は島全体を占める飛行場を臨む桟橋に達し、業務で島に降り立つ僅かな将兵と入れ替わるかのように、休暇を得た将兵たちが船上を埋め尽くさんばかりの勢いで乗り込んでくる。そうした人々の波にカズマとバクルは抗うように進み、そして人ごみを抜け出した。



「あ……」乱れた服装を直す間も無く、カズマの目は眼前の光景に囚われる――

 駐機場で列線を作る牛のような巨体を目の当たりにするのは初めてだが、カズマは公刊写真でその姿と存在はすでに知っていた。実施部隊への配備が始まったばかりという「新鋭艦上攻撃機」BTウイング。ビア樽の様に太い胴体といい、折り畳まれた分厚い主翼といい、試運転を続ける空冷エンジンの爆音といい、その機体は全ての印象が重々しい。


 既存のBDウイングの、分類上は攻撃機だが時折見せる戦闘機らしい精悍さが、BTの場合すべての面で戦車のような重厚さに置き換わっている……それが、カズマの受けた印象であった。確か積んでいるエンジンはジーファイターのそれよりも高出力だと聞いている。列線の中の一機が百雷のようなエンジンの爆音とともに長大かつ分厚い主翼を展開させながら滑走し、さらに黄色がかった土埃を上げつつ、列線から鉄板の敷き詰められた仮設誘導路に進み出るのを、カズマとバクルは見守った。


 油圧動作により完全に伸びきった攻撃機の主翼――

 急速に早まるプロペラの回転――

 滑走路に出るや否や機影は重々しく加速を続け、それでも蒼空へと浮き上がるように巨体を駆けさせていく――

 浮き上がる? 否――エンジン馬力に任せて引き上げる、とでもいうべき力任せの離陸。

 開け放たれた風防から、首元に酸素マスクをぶら下げた操縦士の表情すら容易に伺える距離――

 ――戦闘機のそれと全くに趣の異なる、重量感ある離陸の様は、カズマをして新鮮な感動を与えていた。



「ヨゥッ……バートランドのとこの坊やじゃないか?」

「……?」

 飛行場の方向から突然に呼び掛けられ、カズマの意識は現実に引き戻された。そのカズマから鉄網製のフェンス一枚を隔てた先で、同じくハンティントン所属の第177攻撃飛行隊(VA-177)隊長セシル‐E‐“バット”バットネン少佐が、その角ばった髭面に微笑を湛えていた。慌てて敬礼する二人に、阿弥陀に被った軍帽を指先で微かに摘んで応えると、バットネンは言った。


「何だ? 向こうの島で悪いことやって此処まで逃げてきたのか?」

「えへへ……」

 力なく笑うカズマたちを、バットネンは手招きする。

「お前ら、そろそろジーファイターにも、飽きてきた頃じゃないか?」

「……?」

 唐突な言葉に、その顔に戸惑いすら浮かべる二人に、バットネンは親指で背後を指差して見せた。

「人手が足りないんだ。小遣い稼ぎに、ちょっと乗ってみるか?」

 唐突のことに、二人は顔を見合わせた。


 完熟飛行を意図しての渡航は、意図せぬ余禄を青年にもたらすこととなった――




 フラマン鉄工所(ワークス)――ジーファイター艦上戦闘機、そして現在カズマたちがその眼前に引き合わされている「新鋭機」BTウイング艦上攻撃機といった、ラジアネス艦隊航空部隊の打撃力の主軸を為すフラマン‐エアトロニクス社製の航空機は、その重厚な外見、そして構造の堅牢さから頻繁にそう表現されることがある。


 胴体、プロペラ、そして銀翼――飛行場に入ったカズマとバクルが引き合わされた機体は、それに歩み寄れば、目に入る何れを取ってもジーファイターより大きく、そして巨獣の様な頑健さをその外見から漂わせていた。胴体は過度なまでに太いように思われ、それは尾翼の直前で急激に絞られるまで延びている。イボの様に鋲頭が出た表面とも相まって、良好な居住性の一方で過分なまでに犠牲にされた空力特性を、カズマはその姿に思ったものだ。


 それは――

 ――一切の無駄と妥協を厭う日本人の感性とは絶対に相容れることのない、言い換えれば醜悪な機体。

 ――その姿に、カズマは知らずかつての敵手の姿を重ね合わせる。

 重ね合わせた瞬間――


「あ……!」

 ――小さかったが、思わず、カズマは声を上げる。

 ――そうだ、あれに……TBFに良く似ている。


 TBFアベンジャー雷撃機――眼前のBTウイングと変わらずずんぐりとして、分厚い主翼を持った米軍の攻撃機は、零戦乗りたるカズマにとってもその堅牢さゆえなかなか撃墜(おと)しにくい、しぶとい相手であったのと同様、洋上の帝國連合艦隊にとっても最大の脅威であった。どれほど多くの艦艇や船舶が、あいつの容赦ない雷撃によって海の藻屑と消えたことだろう……


 胴体表面の、鋲の突き出た外板、主翼から伸びる鉄塔のように太い主脚は、BTウイングの、機体の空力抵抗に対する表面処理の粗さ、そして航空機として必須なはずの軽量化への努力の乏しさを、カズマならずとも感じさせるはずだ。だが、それらを補って余りあるほどにカズマを感心させたのは、機の心臓たる最大出力2000馬力に達する高出力空冷エンジンと、空雷、爆弾といった各種兵装を搭載可能な胴体内ウェポンベイの組み合わせによって生み出された実用性の高さ――


「――すごいな。レーダーも標準装備か」

「え!?」

 声を弾ませたバクルの所在を、カズマは目で追った。右主翼下。主翼付根に近い場所に吊られたカプセルの傍で、バクルが整備員と話し込んでいるのをカズマは見た。カズマの視線に気付いたバクルが手招きした。

「カズマ、レードームだ。中にレーダーアンテナが収まってる」

「電探……積んでるの?」

 カズマの問いに、バクルが応じるより先に整備員が頷いた。

「性能はいいですよ。戦艦クラスなら射程外から十分に探知(キャッチ)できます。夜間着艦の支援モードも付いています」

 発信する電波の波長を変更することで、索敵から雷撃照準にも広く使えるのだと整備員は教えてくれた。


「今度BDと置き換わるBDCも、レーダーは標準装備になる予定です」とも、整備員は言った。未だ見ぬもう一機の新型艦上攻撃機。新規開発のBTと違い、そちらは既存のBDウイングの性能向上型と聞いている。「至れり尽くせり、だ」とカズマですら心からの感嘆を覚えてしまう……と同時に、電探も装甲も全部下ろしてしまえば、こいつはどれ位性能が向上するのだろう……などという、日本で培った貧乏性も頭をもたげてしまう。



「――見てくれは悪いが、何年も乗ってりゃあ、女房より可愛く思えるもんさ。BDもそうだった」

 乗機たるBTウイングに関し、バットネン少佐はそう言った。「……で、未だ答えを聞いてないんだが、どうする?」

 髭面をにやけさせたバットネンの問いに、二人はほぼ同時に背を正す。

「乗せてください!」





「――第四小隊は離陸後北西に針路を取り、レンヴィル泊地から180空浬(マイル)空域(ポイント)に進出、K‐408の上空護衛に当たる。装備はMkⅢ対艦空雷一基、進出空域における予想滞空時間は二時間を予定――」

 ――五分後、久方ぶりで飛行装具を纏ったカズマとバクルは攻撃機隊パイロットに混じり、フライト前ブリーフィングの席上に在った。末席にちゃっかりと……という表現が似合う。それ故に見慣れない飛行士に不審の眼を注ぐ搭乗員もいる。“バット”バットネン主導の「悪戯」に臨むカズマとバクルとしては、彼らの眼が棘の様に痛く刺さる。


「なあバクル、K‐408って何?」

「輸送船団のコードネームのことさ」

「ああー……」

 隣席のバクルに聞きなれない言葉の意味を知らされ、納得を覚えたカズマは、知らず周囲に視線を巡らせる。その彼の眼差しの先では、やはりパイロットたちが咳一つもせずに、眼前に立つバットネンの説明に耳を傾けつつ航空図にペンを走らせていた。彼らのいずれもが、カズマたちの属する戦闘機隊パイロットと比べて何処と無く知的で、大人しげな印象を漂わせているように見えるのは気のせいだろうか?


『――いや、違う』内心の独白――カズマは悟る。

 長距離飛行、接敵、雷撃、対地攻撃、回避航法……攻撃機パイロットが課せられるその何れもが、実のところ戦闘機の空戦とは比較にならぬ精緻な計算と理論に基づく事象であることをカズマは過去の経験から知っていた。機位すら容易に掴めぬ広漠たる空、待ち構える敵機、敵艦の対空砲火……戦闘機のような俊敏さを持たない攻撃機は、その実一度空に舞い上がれば戦闘機以上に多くの敵と向き合わねばならないのだ。


 ……だから、経験を積んだ攻撃機のパイロットには、戦闘機乗りのそれとは違う意味での風格がある。

 ……そういう意味では、攻撃機隊の錬度は苛烈なリューディーランド戦という「洗礼」を経たことにより上がっているのかもしれない――そんなことをカズマは沈黙の内に考えた。



 ブリーフィングが終わり、飛行隊の搭乗員が一斉にBTウイングの列線へと向かった一方で、カズマとバクルはバットネンに呼ばれた。

「今のところレムリアンは影すら見えたという報告は無い。だからお前らにはただ単に俺に合わせて編隊を組んで、適当にまっすぐに飛んでくれるだけでいい。まあもっとも……敵さんが来ないからこそこういう無茶もできるってものさ」

「じゃあ、敵と出くわしたら?」とカズマ。

「そうだな……それでもまっすぐに飛ぶだろうさ、あの世までね……」



 鼻白んだカズマを置いていくように、バットネンとバクルが歩き出す。カズマもまた足早に二人の後を追う。

 バクルが言った。

「レムリア軍が攻めてくるまでに、部隊の再編が完了すればいいですね……」

「ああ、完了してくれないと困る。何なら……お前たち今すぐにここで攻撃機隊に鞍替えしてくれるか?」

 他人事のようなバットネン少佐の言葉に接し、二人の口元に思わず笑みが篭る。



「……」

 まるで二階建て家屋の二階に梯子で登るように主翼の踏み台を伝い、落下傘をぶら下げた腰を庇いながらにBTウイングの操縦席に腰を下ろした瞬間、ジーファイターに比べ広々としたそのレイアウトに、軽い衝撃を覚えているカズマがいた。これが本当に、攻撃機の操縦席なのだろうか?


 凡そ軍用機、それも状況によってはたった一機で大型艦すら葬り去ることが可能な艦上攻撃機の操縦席はカズマからしてみれば不必要なまでに広い。特に座席とフットバーの位置が離れ過ぎ、背の低い――脚も短い――カズマにはフットバーに足を掛けるだけでもひと苦労だ。そういう意味では、自分はやっぱり大型機乗りには向いていない…とカズマは改めて思う。


 そして、やはり不必要なまでに多くの計器類やレバー類が計器盤の側方、そして座席の足下を占めている。

 前方計器盤には夜間飛行用の紫外線灯はもとより伸縮式の航法用机すら完備され、同じく組み込まれている電波式帰投方位指示計器の管制盤は、操縦士一人にその飛行に関わる多くを一任させるというラジアネス艦隊上層部の方針すら、カズマのような「部外者」にも想起させてしまう――それはまた、過去の経験から攻撃機とは操縦を担当する操縦士と、航法と武装運用に関する一切を取り仕切る偵察員の連携によって飛ばすものと考えていたカズマにとって、ある意味新鮮な驚きではあった。


 教本(マニュアル)に倣って座席位置の調整を行いつつも、カズマは計器盤の右上部に嵌め込まれた円形の機器(スコープ)に目を停めた。教本の計器配置によるとそこは……「レーダースクリーン」の位置。場合によってはこの電探を操作しつつ、この巨大な攻撃機を操縦しなければならないことを、カズマは改めて意識する。「――君たちはレーダーは触らない方がいいな。というか触るな。壊されでもしたら溜まらん」と搭乗前にバットネン隊長が言っていたのを思い出す。

 そのBDウイング自慢の索敵用レーダーアンテナは翼下から突き出しているが、本体はカズマの座る操縦席の直ぐ後背に収まっている。当初の設計では胴体内燃料タンクが収まっていた位置で、レーダー本体を収容するためにその容量を減らした結果、当然BDウイングの航続距離は低下した。それでも教本によればBDは増槽無しで1500空浬を飛べる。艦載機としては申し分ないアシの長さだ。これは整備員の噂の中だが、胴体内兵装格納庫に排気タービン過給機の本体と配管をぶち込んだ高高度偵察仕様機を、本土の飛行場で見たことがあるという者がいる……


 操縦席の傍に付いた整備員に手伝ってもらい肩バンドを締めつつ。カズマは漸く座高の落ち着いた座席から腰を浮かして翼下を覗いた。機首の更に前、三翅の巨大なプロペラが風車の様にゆっくりと回転っていた。カズマの操作によるものではない。長時間の駐機でエンジン下部に溜まった潤滑油を再び循環させるべく。地上の整備員が手でプロペラを回しているのだ。始動は今少し待たねばならない。その間、スロットルを始動位置にまで押し上げ、無線機を起動させる。




 始動――

 排気管より勢いよく噴出す排気煙――

 エンジンに鼓動が生まれた瞬間はゆっくりと、だがそれから時を置いて順当に回転を刻み始めるプロペラブレード――2000馬力の高出力エンジンが、スタータースイッチの一捻りであっけないほどに重々しい鼓動を刻み始めることすら、当の操作をしたカズマに想像の外であった。これが日本なら、外部接続式の始動装置が必要なところだ。ややもすればスムーズにエンジンが掛かるかも疑わしい。回転が安定するのを見計らい、スロットルを暖気運転位置に戻す。同時に帰投方位指示装置も含めた配電盤通電用のトグルスイッチを捻る……造りがいい配電盤のランプが点滅し、完全に灯って異状の無いことを告げた。上昇するエンジン温度と油温を感知し、カウルフラップと冷却器シャッターが自動で開く電動音が聞こえた……本当に造りがいいと思う。


 地上の整備員が主翼を展開するようハンドサインを送るのを見る。足元に近い位置に覗く油圧操作レバーを引くや、空気が抜けるような音がして分厚い畳の様な主翼が動いて開く。その動きに見とれる余裕は無かった。展開が完了したのちは「必ず」主翼固定/解除レバーを引いてロックを掛けるよう、カズマとバクルは口やかましい程に整備員に言われていた。

 何でもこのBTウイングが試作機扱いの「XBT」と呼ばれていた時期、ロックを忘れて離陸したパイロットがいて、負荷が掛かる特殊飛行の最中に固定されていない主翼が「折れた」というのである。翼を喪ったBTは砲弾の様に地上に激突し、パイロットと他二名の同乗者は助からなかった。主翼展開完了を示すランプが点く。躊躇なく固定レバーを引き、主翼固定が済んだことをカズマは手信号で整備員に告げた。次、主脚を留めるチョークが外されたことを、カズマは外にいる地上整備員の手信号から教えられた。


 隣接するバクル機がするすると誘導路に進み出たところを見届け、事前に教えられた通りに少しフットバーの主脚ブレーキを緩めた直後、巨大な機体は軽い振動を伝えながらに地面を進み始めた。その瞬間、プロペラトルクの強さから、機首が不意に左に振りそうになるのを、足を突っ張るようにフットバーを踏んで止める。同時に肝が冷えるのをカズマは自覚した。思った通り、こいつは大き過ぎて手に余る。今更ながら操縦ったのを後悔する。

 舵操作に重ねてエンジンブレーキを馴れぬ足裁きで操作し、カズマがぎこちなく機首を向けた先では既に、バットネン隊長機を先頭に、滑走路への進入を待つ攻撃機の縦列が出来ていた。集会(ブリーフィング)でも聞いたが、この時間帯は他にレンヴィルの上空を飛ぶ飛行機はいない筈である。この日偶然にも、空を自由に使えることにカズマは心から安堵した。現在のカズマからして、もはや飛行前に通電が義務となっている無線機には、管制官が飛行隊に離陸を促す指示が流れ始めている。無線機がない――あるいは、碌に動かない――零戦や紫電で戦場の空を生き抜いた「前世界」の日々が、今となっては奇異な経験に思えてくる。最前線ラバウルで、碌に動かないがゆえに、「バラスト」と化した無線機を下ろした零戦のアンテナ支柱を鋸で切り落とした経験が、鮮烈な光景として今更ながら浮かぶ。間もなく離陸に移る。




 離陸――重量級故に、緩慢かと思われた加速は予想よりも良好だと思えた。離陸出力を発揮する高出力エンジンの威勢を借り、力任せに飛び上がる機体――駆る前に接した外見に感じ取ったその予感は、誘われるがままにエンジンを始動させ、離陸態勢に入るのと同時に的中した。


「お……!」

 舞い上がると言うより、分厚い主翼の生み出す揚力に引き摺り上げられる……といった方が正しい――重い、どっしりとした操縦桿をゆっくりと、だが力を込めて水平に戻しながらに、カズマは考えた。重い機体と広く分厚い主翼、そしてエンジンの相性は決して悪くは無い。

 機の、その太い主脚を地上の仮設飛行場より離すや否や、操縦席のカズマは、操縦桿越しに感じる昇降舵の感触の重さをトリム調整しながらに殺す。座席側面の太く重い調整ハンドルを手繰るように回す内、操縦桿から纏わり付くような重さが消えていく――


 その胴体内に空雷を抱えていることもあるだろうが、それを差し引いてもやはり離陸速度は決して速くは無い。

 だがキャノピーを開け放った広い操縦席には、南方の空特有の、甘い潮の香りを微かに含んだ風が満遍なく入り込んで来る。

 すかさず、手がフラップ操作レバーに伸びる――


『――ツルギ候補生、フラップは急に上げるな。失速するぞ』

「了解!」


 イヤホンに飛び込んでくるバットネンの言葉をカズマは瞬時に理解し、レバーに指を触れるだけに止める。軽いジーファイターに馴れたが故の癖で、危うくフラップアップのタイミングを間違えるところだった。下手をすれば離陸から間も無い状態、加速も付いていないBTウイングは一気に高度を失いその太い腹から陸に叩きつけられているところだ。

 フラップを上げない代わりと言っては何だが、計器盤のチョークレバーを引き、半開き状態のカウルフラップとラジエーターのシャッターを全開にする。エンジンの過熱を防ぐための操作だ。自動操作を信用しきれなくて、反射的に手が出る。油温計の針が目に見えて下がり始める……広大な飛行場の半ばを過ぎた辺りで機体が浮き、程無くして主脚もまた地上から完全に離れた。滑走距離も、予想に反して短い。艦載機として設計されたのだから当然なのだろうが、こんな鉄の塊の様な飛行機、本当にハンティの艦上で飛ばせるのかという懸念は払拭できなかった。



 キャノピーを開け放ったままの操縦席に飛び込んでくる冷たさを増した風が、カズマに刻々と変わり行く高度の変化を報せてくれる。


『――“バット”より全機へ、に到達し次第旋回しつつ編隊を組め。五分以内――』

 カズマたちに先駆けてファッショルの飛行場を蹴ったバットネン少佐の指示を、大きく旋回を繰り返しながらに高度9000に到達したそのときにカズマは聞いた。


 重いハンドルの回転に合わせゆっくりと迫り出す風防が完全に閉められるや、同じく操縦席もまた完全な静寂の支配する所となる。方向舵、補助翼、昇降舵――操縦桿を通じて感じ取れる、適性高度に達し、ある程度の速度を得たBTウイングの手応えは思いの外軽く、戦闘機の軽快さに慣れ切ったカズマを内心で安堵させた。

 絨毯かと思われるほど巨大な主翼の織り成す、低アスペクト比の恩恵なのだろうか?……そんな取り止めの無いことを考える一方で、カズマの鋭敏な視覚は離陸を終え、三々五々周囲に到達し始める友軍機を、それが芥子粒程度の大きさしか持っていない段階で捉えていた。


 バクルは……?

 生じた疑念は、カズマにとって驚愕とともに解決された。微妙に速度を加減しカズマのBTウイングに追い縋るBTウイングの乗り手を、カズマは後背を省みる寸前に察する。追尾から併行に達したBTウイングの操縦席からは、首元に酸素マスクをぶら下げたバクルが微笑を覗かせている。それにつられるように、カズマの口元にも生じる微笑――


 編隊の組み方は、ジーファイターと大して変わらない。

 むしろ反応が重いだけ戦闘機よりやり易いかもしれない。


 その上空――

 自らの乗機の足元に少しずつ集合を始める部下たちの様子を見守る一方で、バットネンの目はこの空の何処かにいる二機を捉えるべく四周に廻らされていた。

「お……」

 彼の希望は、それを始めてから一分も満たぬ内に叶えられる。密着した二機編隊(エレメント)は、広汎な蒼空では一つの大きな黒点にその視覚に感じられる。それを見下ろすように目を細める彼の視覚の前で、黒点はやがて明瞭な二機の機影となり、そして機影は機番と識別帯がはっきりと判る距離に達し、時を置かずして接近を果たしたそれらは、滑り込むようにバットネン機との並行に入った。


 多少はできるようだ――軽い感慨とともに無線機のスウィッチを確かめるように入れ、バットネンは呼び掛けた。


「“バット”よりそこの二機、接近を許可する。もう少しこっちに距離を詰めろ」

『――了解!』

 待ち構えていたような明瞭な返事。それがベテランを苦笑させた。


 あいつら、やはり腕を撫す気でいたか。

 だが、悪い感触ではない。

 むしろ、そうでなくてはと思う。


「焦るなよ。機体を滑らせながらスロットルを少しずつ開いていけばいい。女の服を脱がせるのと同じさ。急がず焦らず、余裕を持ってゆっくりとやるんだ」

『こちらバクル、了解』

『――』

「おっ……坊やの返事がないな。返事がないところを見るとまさか……」

『……わかりました!』

「了解了解……先任航法士(ナンバーワン)飛行針(リポート)路報せ(-ディシジョン)

 焦った、あるいは取り繕うような若い返事に対する苦笑――困惑している。いきなり搭乗せたのは性急だったか――無線通信の向こう側からもたらされた意外な感触を意識しつつ、バットネンは全機が編隊を組み終えたことを確認する。だが彼の代わりに感慨を吐露したのは、後席に控える航法士にして長年の相棒たるブランディー中尉だった。


『――了解、それにしても隊長、意外ですね。艦隊の撃墜王が――』

「その先は言わぬが華ってやつだ。ナンバーワン」

『アイアイサー』


 哨戒機の編隊は寸分の乱れもない編隊を組み終わると、それを鮮やかなまでに維持しながら島嶼帯を発ち、雲の森へと分け入って行く――


 だが――

 ――その向かった先に待っているものが何か、この時点では彼らの誰もが明確な未来図を描けないでいた。





付記

ラジアネス軍の攻撃機に航法士がいるのは設定上無理があるかもしれない

何故ならモデルのWWⅡ米海軍の艦上爆撃機/雷撃機は操縦士が航法も担当し、後席にいるのは通信士と銃手になるので。ただ、英海軍の複座機(フルマー、ファイアフライなど)の後席配置は航法士なので、その辺今後の設定に組み込めればと考えています。


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[気になる点] 最新話でカズマがBTウィングとTBFを重ね合わせていますが、個人的にはGファイターとグラマンF4Fを重ね合わせても良いと思うのですが。 [一言]  今回末尾に、ラジアネス機は史実の米軍…
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