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第六章 「タナト あるいは空の涯」


 旋回――

 また旋回――

 フットバーをもう一踏み――

 容赦なく全身に圧し掛かる加速――

 所々で飛ぶ記憶――

 風防(キャノピー)の前縁すれすれに張り付く相手の機影――

 それを睨みながら――

 それを目で追いながら――

 機影を照準機の真ん中に捉えようと――

 少女は――

 少女は――

 懸命に――

 スロットルを絞り――

 重い操縦桿を――

 手繰り寄せる――


『ハァッハァハァハァハァッ!――』

 酸素供給機と連結したヘルメット内に反響する息遣い――


 もう駄目――

 もう駄目か?――

 いやいや――

 まだまだいける――

 まだまだ――

 まだまだ!――


『ハァッハァハァハァハァ!――』

 荒れる息遣い――

 そのとき――

 垂直旋回から一転――

 眼前で急に水平に戻った敵影――


『駄目だ……!』

 操縦桿を握る少女の目に宿る失望――

『駄目!……やめないで!』

 もう少し――

 もう少し――

 お願い――もう少し旋回(まわ)っていて――


 だが――

 操縦桿に力を入れたまま戻す――水平飛行。

 自ずと、照準機のど真ん中に入る機影――


『――お見事! エルディナ様!』

 落胆――

 またか――

 再び、少女の心臓を滑り落ちる期待――



 ――その日も、少女は空戦に勝たされた。

 ――その日も、少女は失望を覚えた。

 否それは――失望に近い絶望。

 本国から遠く離れたこの地でも、少女の境遇は大して変わらなかった。

 それを今更のように悟り、同時に両肩に圧し掛かってきた脱力感と疲労とに、エルディナは愛機の操縦席で項垂(うなだ)れた。


 (せき)を切ったように、一気に吐き出される息――

 ヘルメットのガラスに堕ちる、汗の玉が二つ……三つ。




「――これより着陸する」

 何度も続けた格闘戦訓練により、だいぶ燃料を減らしたピンクのゼーベ‐ギガは、滑走路に機首を向け、上がり気味に高度を落としていく。だが見る者が見れば、ゼーベ-ギガの着陸はその降下速度の、およそ機体強度の許容しうる範囲ぎりぎりの早さで為されていることに、不安あるいは危惧を覚えるかもしれない。


「……!」

 進入角度が深すぎた!――大地が主脚を突き上げる様にダルタが跳躍(はね)る。

 機体を揺るがす衝撃――

 感情に任せた粗い操作――

 着陸にしては、早過ぎる速度であることも災いを呼んだ。粗いスロットル操作が引き起こした調和の乱れ。おかげで愛機(ダルタ)は二三度激しくバウンドし、それを経てもなお、ゼーベ‐ギガは上下に不快に揺れながら滑走路を、土埃を上げ走り続けた。


 荒々しい滑走はまた、乗り手の抱く、堪え難い動揺の顕れ――




 志願して赴いた前線であり、前線における肩書きこそ基地司令部付という、その名称どおりに立派な司令部要員ではあったが、「少佐」エルディナにとって現在の境遇は、単なる「飼い殺し」以上の何物にも感慨を抱かせるものではなかった。好きなときに愛機に搭乗し、一旦基地周辺の管制空域を飛び出すや、法規や航空管制に雁字搦めにされた本土と違い存分に制約の無い飛行に身を投じることの出来る環境は、少女にとって確かに魅力的ではあったが、この前線で彼女に与えられた権利といえば、ただそれだけであった。


 そして与えられた権利は、彼女の信じる自らの存在意義を肯定するものでは決してなかった。




「――私は任務を頂きたいのです」

「……?」

 着任した翌日、自らの執務室にまで赴き直訴したエルディナを、セルベラ‐ティルト‐ブルガスカ機動部隊司令は、裁可書類に署名のペンを走らせながらに聞いた。そしてエルディナの直訴に対する答えを発したときも、彼女がしていたことは聞いていたときにしていたそれと全く変わらなかった。


「貴公に適任と考えられる任務の必要が生ずれば、もちろん貴公にその任を負っていただく」

「私も空戦士です。上空警戒なり、周辺の哨戒なり、適任と感じる仕事はいくらでもある筈です」

「それが貴公に適任とは、本官は考えていません」

「では何が適任と?」


 セルベラは顔を上げた。

「……それは、本官と本土の(はら)の内にのみ入っていればいい話です。リエターノ少佐」

「それでは……!」

 さらに食い下がろうとして、エルディナは失敗する。口調こそ抑制された丁重さを含んでいながらも、勇猛かつ冷厳として敵はおろか味方からも恐れられる大佐は、その灰色の瞳で明らかに少女の志望を拒絶していたのだった。自分が全くに、彼女らの社会にとって「客」としてしか見做されていないことを、少女はこの時痛切なまでに実感した。




 だいぶ動揺の退いたゼーベ-ギガの機内――

 滑走する愛機を専用のエプロンまで進め、エンジンをカットする。

 その彼女と入れ替わるように、今しがた彼女が着陸したばかりの滑走路では、ゼーベ‐ラナの四機編隊が駆け上るように加速し、離陸していく。エルディナとほぼ同時期にこの基地に着任した年若く、階級も低い下士官空戦士たちの飛翔だ。その彼らはついさっきまで自分が為していた以上に厳しく、実践的な訓練を重ねることだろう。或いは実戦に赴くのも自分より早期(はや)く――編隊を目で追いながらにそれを考え、少女の表情から高潮が引いていく。エルディナが同じ駐機場の端で銀翼を休める異形を見出したのは、そのときであった。



「……」

 鋭角的な機影もいかめしい、双発の機影。三輪式の降着装置もまた少女には目新しく、そして巨大なスピナーの周囲に生える六翅のプロペラもまた少女の関心を惹く。降席を助けようとする整備員を無視し、ダルタの操縦席から降りるや、興味の赴くまま愛機を離れ歩み寄るエルディナの前で、機影は訓練飛行に備え整備を受けるジャグル‐ミトラ双発戦闘機の、見るからに獰猛な姿となった。


「ジャグル‐ミトラ……?」

 最終的には搭乗を固辞したが、本土で一度搭乗したことがあった。レムリアでも技量、実績共に最高クラスの空戦士にしか操縦を許されない高性能機、それを当時高等飛行訓練を終えて間もない少女は軽々と乗りこなして周囲を瞠目させたものだ。機体固有の強すぎる癖は、少女の天性の前では、ミトラの飛行にあたり何ら障壁と化した形跡はない。


「敬礼っ!」

 近付いてくる上官に気付き、手空きの整備員たちは一斉に敬礼をしたものの、誰もがその相手にわが目を疑っているかのように見える。

 基地に頂上階級出身者(ノービル)が着任したことは、すでに各隊の指揮官クラスを通じ基地の全将兵の間に周知されている。そこへ来て頂上階級に属する人間が、下層市民、あるいはそれ以下の階層出身者が多くを占める整備兵たちの仕事場へ、自分から歩み寄ることなど、レムリアの社会ではまず有り得ない事象に属した。彼ら下士官兵からすれば、触れることすら憚られる猛獣が基地内に放し飼いにされていて、その猛獣が気まぐれに此方に足を向けてきたのと同じ恐怖が、この瞬間襲い掛かっていた、とも言える。


 当のエルディナからしても、下層民はそのような存在だった。積極的に害するに値しないし配慮の要も感じない。「彼ら」は常に彼らの方から進んで譲り、退いてくれる。

 この前線のみならず本土の家庭でも、学校でも、軍基地においても、彼女に接するいわゆる「下層民(シチズーノ)」の誰もが恐縮したように、あるいは卑屈なまでに会釈し、頭を屈めつつ年端も行かない少女から距離を置こうとしたものだ。

 レムリアという、空の最果てに閉ざされた世界を厳重に支配する階層制。その存在すら意識したことのなかった幼い時分の少女は、自らの立居地に対する無自覚と無関心故に、却って自らの出自をごく自然の内に受容れ、その結果として「選ばれた人々」の一員としてそれを当然のことと受け止めていた。しかし分別を弁えた現在(いま)では、逆に戸惑いにも似た疑念すら覚えていたのも事実だった――言い換えれば、自らの生い立ちに端を発する様々な過去の情景が、現在では少女から自分の出自に安住する精神的な余地を失わせてしまっていたのかもしれない。



 そして――

「……」

 ジャグル‐ミトラの一際傍に控える、汚らしい身なりをした両義眼の小男を、エルディナはわざと険しい眼光で一瞥した。その途端小男は、緊張した面持ちもそのままに少女から後退りし、彼の部下らしき整備兵に上ずった声を上げた。


「オイッ……少佐を呼べ!」

 戦時でもないのに、俄かに慌しさを増す周囲など関知せずに、エルディナは操縦席へと続くタラップを舞い上がるように上り、座席に飛行服から覗くその瑞々しいラインを滑り込ませた。大柄の機体にしては狭く感じられる操縦席の座席に腰を下ろすと同時に、少女には本土でこれを飛ばしたときの感慨が脳裏に迫って来る。

 スロットル、プロペラピッチ、ミクスチュア――双発機の常として、それらによって構成されるエンジンコントロールが二重に存在するジャグル‐ミトラに、エルディナは当初は戸惑いを見せたものだったが、一度飛行場の芝生を蹴って飛び上がれば、少女は機体の高性能とともに、それら複雑な操作系を自在に操ることに起因する征服感に酔いしれたものだった。


 少女は、回想する――

 スロットルを開けば開くだけ生み出される駿足は、汲めども尽きぬ泉のよう――

 操縦桿を引けば引くだけ、ミトラは天球の頂を超えて何処までも駆け昇っていく――

 宙返り(ループ)の頂点から降下――悲鳴のような爆音と共に重なる加速。

 降下加速を続けても軋まない頑健な機体。



 上昇し、フットバーを踏み込み、操縦桿を傾ける――紡ぎ出される機体の横滑りは、よく切れるナイフのよう。

 同時に惹起される激しい重力の渦に耐えながら――

 双発機とは思えないほどの軽快な操縦性を掌の内に、そして身体中で感じながら――少女が覚えた一体感。


 だが結局「巨大き過ぎる」――少女は前線に赴くに当たり「手の内に入り易い」ゼーベ‐ギガを選んだ。





「何をしている?」

『――!?』


 地上から投げ掛けられた声は大きくは無かったが、エルディナを幻想にも似た回想から引き離せる程の響きと力を持っていた。はっとして、エルディナは操縦席から声の主を見下ろすようにした。


「……?」

 空戦士だった。襟の階級章から少佐であることが判った。エルディナの大きな瞳は、直後にその容姿に釘付けになる。

 旧型の飛行服――それに全身を包んだ男の背は、高い。

 だが決してか細い体格ではない。

 後ろへ撫で付けられた金髪、甘さと(いかめ)しさの絶妙な調和の内に生み出されたかのような精悍なマスク、その右目から覗く無機的な輝きは生来のものではなかった。その隻眼の男が、ジャグル‐ミトラの操縦席を占拠する侵入者に、敵を睨む鷲のような眼差しを注いでいた。


 少女は別に驚かなかった……否、驚かない風を装おうとして失敗し、その代わりに戦慄した。

 只の空戦士ではないと、少女は思った。

 その少女の見下ろす先で――

 男は無表情のまま、無言の内にゆっくりと指を突き出して曲げ、降りて来るよう促した。

 逡巡の後、少女はそれに従った。



「俺の機体に、何をした?」

 降りてきた少女に、タイン‐ドレッドソンは只それだけを言った。

 そのタインの眼前で、少女はさして悪びれる様子も見せなかった。自身の操縦士としての腕と、自身のこの基地における地位に、少女は知らず頼っていた風があった。微笑を浮かべ、だがタインから視線を逸らすようにしながら少女は言った。

「久しぶりに座ったけど、いい飛行機ね。ジャグル‐ミトラ」

「俺は、質問をしている。機体の感想は聞いていない」

 撥ね付けられた馴れ合い――それが一瞬にして少女から精神の余裕を奪った。いかなる形であれ、親以外の大人に反抗(はむ)かわれるという経験に、少女は乏しかった。



「……?」

「何の用があって、俺の操縦席に座った?」

「私は……」

「何だ?」

 穏やかな、だが難詰にも似た男の言葉が、少女を知らず思慮の無い怒りへと誘った。

 下層民(シチズーノ)の癖に、何て無礼な男なのだろう――!

「私は、頂上階級リエターノの一門です!」

 パァン!

「え…?」

 男の伸びた手が、少女の感知できぬ早さで頬を強かに打っている。予期せぬ反応により心身にもたらされた衝撃と周囲のどよめきは、一瞬にして少女から精神の平衡を奪う。


「旦那!」

「……!?」

 周囲の驚愕と、顔色を失ったレグエネンの言葉など、タインには意味を持たなかった。冷厳そのものの眼差しを変えることなく、タインは眼前の、次の瞬間には瞳に涙を溜め、薔薇色に染まった頬に流しながらに(うつむ)く少女を見下ろし続けた。

「誰が、自己紹介をしろと言った?」

「ただ……乗ってみたかったから……」少女の言葉には、すでに嗚咽すら加わっている。

「だからといって、許可ももらわずに、資格も無いのに無闇矢鱈と人の飛行機に腰掛けていいのか?」

「それは……」

「それは……?」

「ごめん……なさい!」

 嗚咽を堪え切れず、少女は言うが早いが踵を返し駆け出した。愕然としてその後を目で追う整備兵たちには目もくれず、タインは主のいない操縦席に向き直る。

「レグエネン、点検だ。すぐに飛ぶ」

「りょ、了解しました!」





 地上と同じく、天界にもまた夜は平等に訪れる――

 軍港としての性格から、タナトには前線基地とはいえ艦艇の補給整備施設と同様、その乗員たる将兵の慰安施設をもその一角に設けている。そのための要員は本国から呼び集められた軍属の他、緒戦の電撃的進攻作戦の結果としてレムリアの占領下に置かれた各殖民都市の人々もまた多く含まれていた。酒場、売店、通常の宿泊施設といった慰安区域内の施設の内容は、その大方においてラジアネス側のレンヴィル泊地のそれと何ら代わり映えするものではなかったが、将兵の使用区画は厳格に分けられ、レムリア側にはもう一つ、ラジアネス側には無い特殊な慰安施設たる「慰安所」――言い換えれば“売春宿”――が付随している。


 そうした区域が俄かに活況を呈し出すのが、日が雲海の彼方に落ちるのと同時であるのは、この「島の墓場(グレイヴ‐スペース)」が基地として生まれ変わって以来ずっと代わり映えしない光景の一つとなっていた。特に兵員専用区画には酒に、食い物に、そして女に飢えた男どもが一斉に殺到し、決して豊かとは言えない給金を、長い人生でわずかな間でしかない快楽に蕩尽してしまうのだ。羽目を外し過ぎた結果として当然酒の上でのトラブルもまた頻発し、こうした喧嘩や乱痴気騒ぎの結果、一夜の内にタナト基地警備隊営倉の客となる下士官兵の数は、それだけで優に一個小隊を形成できるとさえ言われている。



 ――そのような兵士用慰安区画の最も奥に、その店はあった。

 ――名は、「黒百合(リヴィ‐ガラヤ)」という。

 ――看板は、店が開かれた当初から無い。

 一見しただけでは、何の変哲も無い、否……異界へと通じているかのような気味悪さすら漂わせる、薄暗い地下へと通じる階段の向こう側が、精強無比を以って成るレムリア空戦士たちの溜まり場であることを一般の将兵が認識することになるのに、泊地に着任して少なからぬ日数が必要であった。そして認識してから以後は、彼らは決して積極的にはその階段を降りようとはしなくなる。


 黒――只それだけにのみ、地下の狭い空間は統一されていた。抑えられた照明の下では、何処からとも無く黙々と生じる脂臭い煙が、さながら霧のように当て所なくその濃い白を漂わせていた。空調を掌るはずの天井を回るプロペラは、却ってその濁った、退廃的ともいえる空気を部屋中にばら撒く効果を果たしてしまっている。

 そこは酒場であり、歴戦の操縦士たちの溜まり場でもあった。上質のチーク材で作られたカウンターは、黒いナイトドレスと蒼白なまでに白い顔、そして開店の間常に守っている沈黙が印象的な双子の姉妹によって切り盛りされていて、主客である空戦士たちの間から誰とも無く出るようになった姉妹の別称こそが、当初は無名だった屋号を、「黒百合」とした。



 暗い世界のカウンターの奥――「黒百合(リヴィ-ガラヤ)」を占有する猛禽たちですら容易に犯せない一角。

 男はそこにあって、金塊を液体化したかのように清純な琥珀色の水割りを、少しずつその舌で転がしていた。

 「ダーク‐ホース」の航天暦1598年――無言だが忠実な姉妹は、戦場からの帰還を果たしたカウンター席の主のために、殖民都市産の飛びっきりの高級酒を確保していてくれていたのだ。それでも――時折沈思に浸りつつ、黙々とグラスを傾ける隻眼の飛行隊長――だがそれをカウンターから見守る姉妹の表情には、明白なまでに冴えが失われている。作戦から帰還して以来、男の酒量がここの所目立って増えているのが、その理由だった。


「……」

 タイン‐ドレッドソンが姉妹の視線に気付いたのは、この夜六度目のグラスを要求しようと、無言のままにカウンターへ氷塊を宿すばかりとなったグラスを滑らせたときのことだった。

「何だ。その顔は?」

 そう言い掛けたところで、タインは苦笑しつつ俯き、アルコールに染まった息を吐き出した。発作のような自嘲を再び覚えたのが、その理由だった。


 自嘲――そう、タインは今現在に至るまで自らを蔑み続けてきた。

 何のために……俺は今日までを飛んできた?

 (はじ)めは、自らを楽しませるために、おれは翼を得た。

 やがて俺は、国を守るために翼を使い、鍛えた。

 自らの翼で敵を倒し、祖国を守ることに、若い俺は充足を得た。

 同時に、多くの得難い仲間を得た。

 同時に、両手に余るほどの栄誉と名声を得た。

 同時に、この天空において何者にも負けを喫することの無い程強く、雄々しい銀翼すら、俺は授けられた……!

 ……だが、今の俺を蝕むこの空虚感は何だろう?

 ……俺の翼は、俺にとって決して掛替えの無い「何か」ではなくなってしまっている。



 何故だ……?


 豆スープのように濁った脈絡の無い思考の末、カウンターの、自分の席の手元に、タインはさり気無く視線を落とした。

 その彼の、柄にも無く沈みきった眼差しの先で、姉妹によって満たされているはずの美酒は一滴たりとも満たされてはいなかった。無言のまま顔を上げたタインと、神妙な表情で悪酔いした上客を見守る姉妹の視線が交差した瞬間、タインは鼻で自分の内面に息づく冷静で客観的な何かを哂い、席を立とうとした――



「……?」

 タインが酔いを醒ましたのは、俄かに慌しさを増した外に、言い知れぬ悪い予感を察したからだ。唐突の、そして不遜な闖入者に対する、外から漏れ聞こえる若い空戦士たちの怒声。だが闖入者はその獰悪さにかけて若者たちの純粋さを遥かに圧倒している。


「邪魔するぜぇ――……」

 決して大きな声ではない。だがその声質からして、対象に対する邪悪なまでの陰湿さを湛えている。それがタインならずとも不愉快だった。

「何だ? 戦場じゃまともに地上人(ガリフ)も殺せないようなガキ共に飲ませる酒はあっても、俺らに飲ませる酒は無いってぇのか? アアン?」

「まったく、湿気た店だぜ……光輝あるレムリア戦闘機軍団に相応しい場所とは、到底言えねえ」


 風体の違う三人の人影――だが彼らに共通しているのは、笑ってはいても微動たりともしない澱んだ、空虚な眼差し。だがそれゆえに、殺気とか裂帛の気合とは別の意味で抗い難い迫力を醸し出している。

「ここにいたのか? タイン‐ドレッドソン」

「……」

 声の主たる中央の男を、タインは硬質な灰色の眼差しで無感動に顧みた。軍服を纏ってはいても一見して判るほどの筋肉質の中背、やはり戦闘機乗りらしく見事に発達した太い首筋、短く刈り揃えられたブラウンの頭髪。口の周りからあごに掛けて伸びた怖い髭、それ以上に強烈な印象を与える、左のこめかみから左顎の底に掛けて伸びる、縫い痕も生々しい斬傷――第666特殊任務小隊、通称「黒狼三人衆」のリーダーたるベーア‐ガラ大尉と、こうして顔を突き合わせるのは「アレディカ戦役」とそれに続く殖民都市進攻作戦以来のことだ。


 ……それでも、これは決して友好的な再会ではなかった。

 タインは言った。静かな、だが烈しい口調で。

「此処は人間の領分だ。犬は犬らしく外で水でも飲んでいろ」

「てめえ!!」

 ベーアの傍に控える、長い白髪の小男が揃いの悪い歯を剥き出しに声を荒げた。ガバト‐ニーブル少尉だ。それに対しごく自然な無視で応じるタインに、さらに食って掛かろうとするガバトを、長身の男が制した。

「タインちゃんよぉ、俺らだって一応は、ひとかどの空戦士だぜ? 混ぜてくれたっていいじゃんよ」

 およそ魁偉な巨体に似合わない、洒脱な物言い。だがその声の主は頭髪中心線のみを残し、そこだけを鶏冠のように高々と逆立て、そしてその厳しい顔中に幾何学模様の刺青を施し、その上に狂気にも似た風格を野放図なまでに漂わせていた。グルジ-ノラド少尉だ。


 煙草に火を点け、タインは三人を煩わしげに睨む。

「汚れ仕事専門の貴様らを、何故同類扱いしなきゃならん?」

「考えの相違だな。だがそれは双方の努力によって埋め合わされるべきだ」と、ベーア。

「努力か……貴様らが吐いていい言葉じゃない」

 タインのみならず、この場の全員の空戦士が、彼ら三人に向ける隔意には、明らかな根拠があった。特殊任務(エインゼクツ)とは体のいい名目であって、その実彼らが成し遂げてきたのは無抵抗の一般市民に対する破壊と虐殺――それらのみに彼らの存在意義は集約されている。それが喩え、軍事戦略上必要とされた任務であったとしても、彼らはそれらに嬉々として手を染め、任務の場面場面で常人離れした凶悪さを発揮し現在に至っている。あたかも軍上層部の歓心を惹こうとするかのごとき彼らの態度と所業に、タインを始めまっとうな(・・・・・)レムリア軍操縦士は決して好意的ではなかったのであった。



 対峙の間、四分の一ほど燃え尽きた煙草を灰皿に押し付け、タインは言った。

「……地上人(ガリフ)を一人、殺すんだったな」

「ん……?」

「お前らにむざむざと殺されるような地上人だと、お前らには思えるのか?」

 ベーアは笑った。乾いた、だが耳に残る笑いだった。

「この世界で最強の戦闘機乗りがあんたなら、俺たちはこの世界で最強の飛行小隊だ」

「そう思うのは、お前らの自由だ」

「何?」

「その慢心が、命取りにならなきゃいいがな」

「……!?」

 一辺に表情を強張らせる三人を尻目に、タインはカウンターから腰を上げた。出入口へ向かい、ベーアと擦れ違いかけたところで、タインは言った。

「……存分に飲め。今夜のところは、奢る」

「……」


 ベーアの無言を了解と取り、タインはさらに言った。

「今のうちに現世(うつせみ)を精々楽しんでおけばいい。後腐れのないようにな」

 三人と一人は、そのまま擦れ違う――

 カウンターの悲鳴――

「……ッ!!」

「!?」

 隠し持っていたナイフを振り上げ、背後からタインに組み付いたのはガバトだった。だが反射的にタインは背を屈め、ガバトの襲撃を受け流し猿のように小柄な体躯を投げ飛ばした。

だが――直後に伸びたグルジの豪腕がタインの襟元を掴み上げ、そしてグルジは慢心の力を篭めタインの首を締め上げた。回避の暇は無かった。

「この時を待っていたぜ。タイン‐ドレッドソン!」

 嬉々とした、あるいは狂喜に満ちたグルジの声を聞きながらも、呼吸を絶たれたタインから、意識は緩慢に失われていく―――――


「殺せる!……今ならてめえをあの世に送ってやれる!」

「……ッ!」

 踏み止まる意思に任せて後ろへ蹴り上げた踵が、グルジの脛を強かに打った。余裕に満ちたグルジの表情が一変し、同時に豪腕の桎梏を解かれたタインの拳が今度はがら空きとなったグルジの鼻筋を撃ち、そして強かに潰した――鼻の折れる音。

「この野郎ぉ……!!」グルジの声が哭いた。


 鼻を潰したぐらいで倒れる男ではないことぐらい、タインが最もよく知っていた。距離を詰めてのもう一撃はグルジの胴を貫かんばかりの勢いでめり込み、そして膝を付いたグルジの体は一瞬で闘争能力の大半を奪われる。


 脚!?――回し蹴りという形で脅威を視界に感じ瞬間、タインは飛び込んできたそれを上腕と肘で受けていた。腕の骨に(ひび)を入れたかもしれぬ。それほど速く重い蹴り――そして蹴りの主たるベーアは、ピンと伸びた足をそのままに、タインの眼前で不敵な笑みを浮かべている。

「フフフフフ……」

「……野郎!」

「……こっちの方の腕も、まだ衰えちゃいねえようだな。タイン」

 そのとき、グーナが腕を撫しベーアに迫った。


「こいつ!」

「グーナ!」

 タインの一喝――それが、グーナから私闘に加担する途を奪う。気が付けば扉の向こうが騒がしい。多勢の軍靴が階段を奔る音を聞く。

 私闘そのものは、地上から慌しく迫り来る軍警の疋音によって、その決着への途を閉ざされることとなった――





 夜がさらに深まる。闇に紛れて肌を刺す冷気がそれをタインに教えてくれた。「黒百合(リヴィ-ガラヤ)」と同じく、そこは闇と同居した静謐さが所在投げに空を漂っていたが、そこを仮の宿りとすることを強いられた者に美味い酒が出されることは決してない。


 同僚間の私闘を禁じた軍規違反の(かど)で入れられた営倉。その士官用独房の冷たい寝台の上に身を横たえながらもなお、タインは未だ自らを苛む漠然とした煩悶の正体を量りかねていた。

 仰向けになったまま漠然と天井を見つめ、呆然と凝視を続けるうち、タインの意識からはつい数時間前に大立ち回りを演じた黒狼三人衆のことは完全に消えていた。些か不本意な形とはいえ自らを付け狙う連中に抱いた煩わしさ――決して、恐れ、怯えではなかった――から一夜とはいえ開放されたことはタインにとって少なからぬ収穫ではあっただろうが、所詮はそれだけのことだ。


 つまらん――

 本当に、つまらん――

 硬い寝台の上で、それらを心中で呟きながら、タインは何度も寝返りを打った。

 独房から外界を臨む唯一の手段たる鉄格子の小窓……満天の星々に混じり港湾、慰安区画、居住区、様々な施設の織り成す光が、闇のみの棲む五メートル四方の狭い空間に押し込まれた男に救いを与えるかのように、そこから青白い手を伸ばしている。


 ……だが、そのようなものに救いを見出すほど、タインは堕弱でもなければ感傷を覚えやすい体質と言うわけでもない。

「……」

 ただ、小窓の中の夜空をぼんやりと見遣り、自分でも知らない内に目を奪われていたタインは、何時しか鉄格子越しに佇み彼自身を見下ろしていた人影の存在に気付かなかった――否、気付かない振りを、彼はあえてしていたのかもしれなかった。


 やがて、タインは自らの内面に生じた何者かに語り掛けるように言った。

「何だ? 俺の零落(おちぶ)れ具合をわざわざ確かめに此処まで来たか?」

「……」

「何とか言えよ……『雌虎』」

 それが彼女自身に向けた言葉ではないことを、セルベラ‐ティルト‐ブルガスカは鉄格子越しに不肖の部下を見下ろしながらに聞き、そして即座に悟った。


「……貴公、酔っているな?」

「……ああ、酔っている」

「……酒に酔わない貴公が、此処ではおまえ自身に酔っている」

「……」

 それだけの遣り取り――それだけで二人はそれぞれの心中にある多くを語り、そして心中の多くを僅かな間に通わせる――

喩えそれが、かつて二人が相互に抱き、そして現在ではもはや取り戻すことのない精神の琴線に触れることがなかろうとも――


 セルベラは、言った。窓から差し込む青白い光に照らし出された頬が、光を圧する程に白い輝きを放つ。

「では酔いながらに聞け。明日、貴公に重要な任務を与える」

「……?」

「やんごとなき姫君の、守役を貴公にやってもらいたい」

頂上階級(ノービル)のことか?」

 寝台の上で再び寝返りを打ち、タインはセルベラから目を逸らすようにした。セルベラとて、単にレムリアの最高権力層を持ち出したところで、眼前のこの男が心を動かされるとは最初から期待してはいない。

「何の気紛れがあってのことかは知らぬが、先方が貴官をご指名だ」

「……」

「貴公、エルディナ様に何かしたか?」

「殴った」


 セルベラは怒らなかった。タインとて、こうして彼に言葉を投げ掛けてくる女性が、それぐらいで腹を立てる女ではないことぐらい、ずっと以前から知っている。だが寝返りを打った背中で、哀れむように嘆息するセルベラの息遣いを聞いたとき、鬱屈した感情に任せた自らの行いに、少なからぬ後悔を覚えたことも事実だった。


「『レムリアの死兆星』も堕ちたものだ。年端も行かぬ女子に、軽率に手を上げるとはな」

「……あんたにとって、おれは何時でもそういう男に見えるんじゃなかったのか?」

「レムリアの死兆星」と呼ばれ、恐れられる彼らしからぬ強がり――かつて、タイン自身のその部分を、心から愛した女性がいたこともまた、事実であった。そしてタインの問いかけに沈黙で応じ、セルベラは抑揚に乏しい声を投げ掛ける。


「指名を、受けるな?」

「そんなこと、俺自身で、此処を出てから決める」

「では、仕方がない」

「……?」

「ジャグル‐ミトラに乗れるのは、これが最後になるぞ」

「なるほど……」


 乾いた声を立て、タインは笑った。

 彼女は判っている。

 このような状態に置かれた自分のあしらい方、そして慰め方(・・・)を――

「……すべてあんたの差し金か?」

 タインの問いに、セルベラは答えなかった。その代わり、応える必要すら認めないと言う口調でセルベラは言った。

「日が昇るまで時間は十分にある。貴官にとってこれは、此処で己を見詰め直すのと同じくらい、真剣に考えるに値することだと、私には思えるがな」

「フン……」

 自重めいた苦笑――

 タイン自身、自身をこの場に追い遣ったセルベラの機転に、すでに興味を失っていた。直接の原因たる黒狼三人衆にしても、その悪名に相違して結局のところセルベラたちの手駒でしかない。


 それで話は終わり、セルベラは硬い軍靴の響きも高らかに、もと来た狭く暗い路を戻っていく――




 衛兵司令の敬礼に見送られ、軍警司令部の正門を出た軍用地上車はそのまま走り続け、やがては小振りかつ平屋ながらも瀟洒な高級士官用宿舎の立ち並ぶ居住区へと入った。

 それらの中でひときわ広い庭を持ち、手入れの行き届いた一棟の門の前で車は止まった。緒戦の進攻作戦でレムリア軍の軍門に下った殖民都市の、高名な建築士に造らせた来客用の宿舎だ。応対に出た軍警指揮官が、後席のセルベラの姿を認めるや否やその尊大な相貌を崩し卑屈なまでに微笑みかける。それを無視するかのようにセルベラは降車し、早足で玄関まで歩を進める。特注とはいえ、実のところ決して広いとはいえないこの家の周辺には、誰の目から見ても過分な一個分隊に及ぶ軍警が警護のため配されている。その事実からして、邸宅の仮初の主の素性の異例さが、外からでも伺えるというものだ。


 玄関では、やはり警護の女性下士官が応対に出た。そして下士官の口から主がまだ眠りについていないという事実を知らされ、セルベラはその白皙の容貌に意外の色を隠さない。


「お休みになられるようには、申し上げたのか?」

「ハッ……ですがエルディナ様は報告を聞くまではお休みにならないと……」

 困惑気味の下士官の応えにセルベラは鷹揚に頷き、そして主の私室へと通じる廊下を歩き始めた。廊下の一番奥、そこに配されたドアの周辺でも、やはり二名の軍警が立哨し侵入者、あるいは来訪者に目を光らせている。それはセルベラにとって、何処かで見たことのあるような光景だ……先刻、まるで独房へ通じる営倉の廊下を守るかのような――


 ――それでも、ドアをノックしようと手を上げたときには、そのような感慨はセルベラの胸中から完全に消えてしまう。


『……入りなさい』

「失礼します」

 ドアを開けた先で、邸の主はレムリア軍士官制服姿のまま、机から書き物をしていた手を止め、軍人らしい硬さの全く伺えない少女の微笑で来客を迎えた。同時に少女の足元で寝そべっていた毛むくじゃらの大犬がすっくと立ち上がるや、不逞な闖入者へと牙を剥き掛ける。

「ワーグネル……!」

 机に付いたまま少女は大犬を嗜め、そして目配せで部屋の隅に位置する寝台へ行くように促した。従然として少女の意に従う大犬を、セルベラは暫しその灰色の瞳で追う。セルベラが話題を切り出したのはそれから幾許か、静寂と沈黙の内に刻が過ぎた後のことであった。


「――本人の同意は、今しがたに得て参りました」

「ご苦労様です、セルベラ大佐。貴方の尽力は忘れません」

 エルディナの言葉に、セルベラは心からの感謝を聞いた。だが階級の差でそれを完全に受け入れるだけで由とするほど、彼女は状況を単純だとは捉えていない。そしてそのような時の彼女は、立場や身分を越えて厳格であり、そして辛辣ですらあった。


「しかし……解せない」

「え……?」

 セルベラの疑念は、椅子の上で畏まったまま報告を受けたエルディナにとっても意外であった。報告を淡々と述べるだけで、足早に部屋を出るセルベラを、エルディナはそれまでその心中に想定していたのだ。そこまで突っ込んだ話をしてきたセルベラが、少女には新鮮な驚きを実はもたらしていた。


 ……だが、その宛ては外れた。

 ……一方でそのようなエルディナの瞳に、困惑にも似た揺らぎが宿るのを見て取りつつも、セルベラは疑念を()だし続けた。

 ……自分でも、意地が悪いとはセルベラ自身も思う。

 ……つまりは、言ってみずにはいられなかった。


「何故に、彼なのです?」

「私を……本気で叱ってくださったから」

「叱った……?」表情では冷静そのものを装いつつも、セルベラは内心では驚愕している。


 エルディナの言葉に対して驚きを覚えたからではなかった。それを口にした少女の表情が、場違いなまでに淡々としていたからであった。そして淡々とした表情のまま、セルベラより一回り若い少女は自らの考え――というより心境――をセルベラの眼前で吐露するのだった。

「彼ならば、私を本気で導いてくれるのではないかと……」

「それは、買い被りというもの」

 自分でも無礼だと思えるほど即座に、セルベラは言った……というより相手を択ばず、反射的に思っても見ないことを自分は言ったと、セルベラは思った。そのとき初めて、エルディナは笑った。暖かい木漏れ日のような、およそ夜にするべきではない翳りの無い微笑だ。セルベラにはそう思えた。


「認めているのですね、彼のことを」

 言い、セルベラはしばし沈黙する。そしてエルディナから視線を逸らしつつ言葉を搾り出す。

「……兎に角、小官はあまりお勧めできかねます」

「ですが私は、彼がいいのです」

「御意」

 階層の違いに基づく互いの立ち位置を、今更に自覚したからではなく、少女の静かな口調に、確固とした意思を悟ったからこそ、セルベラは深々と一礼する。



 帰路――車窓から臨む遥か先では、第一直の哨戒飛行に発進するニーレ‐ダロム攻撃機が、エンジンから薄青い排気炎を発しつつ緩慢に滑走を始めている。車に飛行場沿いの交通路を走らせながらにそれを一瞥し、セルベラは呟いた。


「抜かったな……」

「は?」と運転手。

「何でもない、こちらのことだ」


 不覚――それを、セルベラは思った。

 見栄えと囀りだけは立派な小鳥だと思っていたのは、間違いだった。

 あの少女には、それ以上の――鷲のような――存在に為り得る何かがある。

 その「何か」を少女から引き出し、彼女自身のものにさせるには、あの男は確かに必要なのかもしれない。


 だが――

 燼割(じんわり)と脳裏に浮かび始めた記憶――今となってはあまりに忌まわしく、悲しむべき経験――が、セルベラを逡巡させていた。


『どこまで私を悩ませれば、気が済むのだ。タイン……』

 かつては誰よりも深く愛したかもしれない男に、雌虎と呼ばれる女は痛切なまでに語り掛ける――




 遠方から発動機が空を滑る音が聞こえる。暖かい寝台に在っても聞こえるのだから、設定された進入経路がこの邸に近いのだろう。第一直の哨戒飛行より帰還した双発攻撃機の爆音だと、少女は知っている。

 朝――そう表現するに相応しい明るさが、蒼空に広がる小島や岩石の渦の上に拡がるには、未だ幾許かの時間があった。

 昨夜のこともあり、高級士官とはいえ育ち盛りの少女でもあるエルディナに許された睡眠の時間は、決して十分とは言えなかったが、それを深く眠ることで補うことに、軍人としての少女は誰よりも長けていた。暖かい湯を豊富に出すシャワーもまた、少女の瑞々しい肉体と精神を早朝特有の気だるさからいち早く解き放つことに関して大いに役に立っていた。


 浴室(バス)に続いて入った食堂――白パン、生ハム、スクランブルエッグ、モロヘイヤとベーコンのスープ、温野菜のサラダ、バター、オレンジジャム他……士官食堂の給養兵ではなく、現地人たる本職の専属コックの手になる美味な朝食を短時間のうちに平らげると、エルディナは食後の紅茶もそこそこにワーグネルを伴い、外へと通じるドアを開けた。

 警護の衛兵の捧げ銃に無言の会釈で応じ、彼女一人で使うには広すぎる家の、決して立派とは言えなくとも調度の良い構えをした門へと通じる長い小路を軽妙な歩調で歩いた先では、ラジアネス製の乗用車が待っている。緒戦の進攻作戦で占領地から接収され、今では軍上級幹部専用に使われている多くの高級乗用車の一台だ。それが軍隊の階級上ではほんのいち高級士官でしかない彼女の通勤用に宛がわれているという事実こそが、レムリアという国家を支配する頂上階級(ノービル)と言う異質な集団の存在を、部外者たちにとって印象深いものにしているのかもしれない。


 衛兵の手によって開けられた後席のドアから覗く車内では、司令部付の参謀将校がにこやかな面持ちで少女を待っていた。それこそが少女の軽やかな足を停めた。


「おはよう御座います。エルディナ様」

「……少佐で結構です」


 参謀とは目も合わせようともせず、エルディナは小さな声でそう言ってワーグネルを先行させ、革張りのシートに腰を下ろした。基地に着任して以来、階級で自分の名を呼ばれた経験が、少女にはなかった。そして、そんな待遇に慣れた自分を、エルディナは正直好きになることはできないでいる。エルディナから自分を遮るように、シートにどっかと腰を下ろした大犬を、参謀は半ば表情を凍らせて見遣った。動物が嫌いな人間を、エルディナは信用しないことに決めていた。


 走り始めた車内で、すでに用意された飛行場の全容図を手に取り、向かうべき場所への道程を指で追う。エルディナが地図の上の一点で指を止めたときには、すでに走り出した車は幹部居住区を脱しつつあった。居住区とその他一般の兵舎を隔てるための検問所こそ、行程の途上に置かれてはいたが、車に付けられた特別ナンバーの恩恵か、車は一度も止められることなく検問所を風のように通り抜ける。


 そして――

「……?」

 満天の碧の下、走り続ける内にだいぶ明るさに満ち始めた車窓から、少女は思わず我が目を見張る。

 広大な飛行場の隅で、鷲のような銀翼を休める二機の双発機(ジャグル‐ミトラ)――


「止めて!」

 それを望むより先に、声が出ていた。車が未だ停まりきらぬ内に自らの手でドアを開け、外に脚を下ろすや否や、エルディナは胸を弾ませ、機影に走り寄る。ジャグル‐ミトラの機体に取り付いていた整備員たちが、少女に向けた驚愕の眼差しもそのままに機体から降り、慌てて駆けて離れていく。同時に駐機場のすぐ傍、露天に設けられた空戦士たちの待機所の存在にエルディナは気付き、そして参謀の制止もそのままに脚を向けた。少女の忠実な愛犬もまた、その後に続いた。


「……」

 少女は、目を見張る――これが、わが偉大なるレムリアの空戦士?


 キャンバス製の、薄汚れた日よけの下、そしてドラム缶を流用したテーブルの上――

 だいぶ量の減った酒瓶の山――

 同じく即製の灰皿の上で燻りを上げる煙草の山――

 無造作に放られたカードの束――

 胸を肌蹴た飛行服――

 屈強な体躯の飛行服姿もいる。

 締りの無い、肥満しきった体躯の飛行服姿すらいる。


 それらを驚愕の念もそのままに凝視する少女に対し、男たちは少女に向けて敬礼すらせず、ある者は煙草を咥えて立ち尽くしたまま、またある者はベンチに腰を下ろしたまま、むしろ敵に対するのにも同然の、厳しい視線を少女に向けている――それはまさに、上官というより闖入者に対するかのような、立場を弁えないあからさまな隔意であった。


 そして彼らを叱責するべき参謀は、こうした彼らの、無言のうちに醸し出される迫力を前に、一言も発せられずただ唖然と押し黙っている。

 それらはまるで、軍規弛緩の見本のような光景――

 だが――

 無精髭に彩られた精悍な顔立ちからは締まりが失われていたが、それはほんの仮初の表情でしかないことを少女は一目で悟った。


 少女は思った――

 ――何よりも、目つきが違う。

 ――彼らは戦いに臨む目をしている。

 ――俺が敵機を撃墜するのだ、という強い意志を篭めた目をしている。


 少女は続けて思った――

 ――この広大なタナトで、自分の知らない世界がここにはあった。

 ――この広大な空に、こんな物凄い飛行機乗りたちがいた……!

 そして、少女は人知れず胸を震わせる――

 ――このような男達を束ねて戦果を重ね、敵手たる地上人を恐れおののかせているタイン‐ドレッドソンとは、果たしてどのような人物なのだろう?


 意を決し、エルディナはその小柄な体躯を歩ませた。そして男たちの射るような視線

「私はエルディナ‐リステール‐リエターノ少佐です。タイン‐ドレッドソン少佐はどちらですか?」

 飛行服の一人が、煙草の煙を口から吐きながらに言った。

「少佐殿の傍に金魚の糞みたくくっ付いているそのアホを、少佐殿御自らこの場で手打ちにでもなされれば、隊長から諸手を上げてあんたの元へ馳せ参じるでしょうよ」

「……?」

 エルディナがこれまで生まれ育った「世界」に居たままでは、恐らく一生聞くことの無かったであろう、異なる言葉の響き。言っている内容こそ察してはいても、その耳障りの悪さ(・・・・・・)、そして直後に続いた男どもの下品な笑い声に、少女は内心で気圧される。そこで漸く、参謀がこの場の自身の存在意義に気付いたかのように上ずった声を荒げた。


「言葉を慎め、貴様ら!」

 このお方を誰だと心得る!?――という言葉を、それが激情に任せられるがまま発せられるその前に制することに、少女は成功した。そんな表現では眼前の彼らを承服させるどころか却って激昂させることになるであろうことを少女は内心で恐れたのだ――事実、エルディナの懸念は正しかった。先夜のタインを襲った理不尽な拘禁に接し、彼の忠実な部下たる彼らは上層部への怒りを募らせていたのだ。


 エルディナは参謀を顧みた。

「ここで十分です、あなたは先に司令部に戻りなさい」

「しかしエルディナ様!」

「危険です。私でも貴方を守れない」

「……!?」

 参謀の困惑、そして少女の前方で蠢く異なる種類の困惑―― 一台のラジアネス製の軍用地上車が、土埃を立てながらに駐機場へ滑り込んできたのはその時だった。空戦士たちが車上の人影を認めた途端、それまでこの場に人知れずに浸透していた緊張が、一気に霧散するのを少女は感じた。ワーグネルが振り向き、地上車に向け身構えた。


「貴様ら、何をつっ立ってるんだ?」

「タイン……?」

 レグエネンに運転された軍用自動車の助手席からの声に、声にならない小声で助手席の主の名を呼びつつ、エルディナは瞳を見開いた。彼女の求めたタイン‐ドレッドソンは、あのとき、エルディナの頬を()った飛行服そのままの姿で車から飛び降りる。


 対峙――左右に輝きの異なるタインの眼差しを向けられた途端、少女はそれを思う。

 そして微笑を浮かべつつ、タインは対峙しながらに制服姿の少女を「観察」する。


 若い――いや幼い。

 だがおそらく、彼自身が戦闘機の操縦桿を握り始めた頃よりもずっと早い段階から飛ぶことを知っている――

 腕も確かだろう――

 決して年季があるだけだからではない――

 彼女には、「天性」がある――


 だが――そこまで思考し、そしてタインはエルディナに言った。

「……で、何がお望みかなお嬢様」

 おどけた口調を、少女は聞いた。

 だがその響きに他者の安易な歩み寄りを許さない硬質感を、少女は悟る……だから、語を次ぐのに少し躊躇った。


「……鍛えてもらいたいのです。私の腕を」

「……」

「私を、実戦に出られるくらいに強くして頂きたいのです」

 

 タインの無言が、少女を更なる懇請に駆り立てる。

 その途端、タインの義眼が煌いた。

「他を当たりな。適任なら此処には幾らでもいる」

「……では、この基地にはあなた以上に優秀な空戦士が、それこそ星の数ほどいらっしゃるという認識で宜しいのですね?」

「……!?」


 全員が驚愕した。

 それくらい、エルディナの言葉は歴戦の操縦士たちと彼の指揮官に対する何よりの侮辱であるように聞こえたのだ。

 そしてタインとエルディナの遣り取りを見守る部下たちの多くが、エルディナの言動をレムリア空中戦士の誇りを侵犯する許し難いものと捉えていた――

 そして彼らの誰もが、タインが少女を受け入れることが無いであろうと思いつつあった――


 エルディナはさらに続けた。もはや後戻りが出来ないことが、少女を一層に反駁へと駆り立てていた。

「私は、あなた以外の誰も、私の教官に相応しくないと考えた上で此処に来ました。その私の考えは、間違いだったということですね?」



 整備員たちもまた、二人の対峙を見守る側であった。

「何やってるんですかあのお偉いさんは、これじゃあ皆の心象を悪くするばかりじゃないですか?」

 呆れたような少年整備兵の言葉を、レグエネン上等整備兵は苦笑と共に頭を振り、やんわりと否定してみせた。

「あのお嬢ちゃん、旦那の痛ぇところを突いてきやがる」

「え?」

「わからねえか。ああ見えてタインの旦那のプライドは、並の十人前はあるんだ。いくら年端のいかねえガキ相手でも、此処までコケにされて黙っていられるわけがねえ」


 語を次ぎ、レグエネンの苦笑は続いた。

「ただお上品なだけのお嬢ちゃんかと思ったが……あれでどうして、なかなか度胸がありやがる。多分、技量(うで)もいいな」

「あんな人形みたいな容貌(かお)で?」

 所々の欠けた、黄ばんだ歯を見せながらニヤけるレグエネンの両義眼の先で、彼が絶対の忠誠を寄せる撃墜王(イクスペルテ)は、ただ沈黙を保ったまま眼前の少女を睨んでいた。そして睨まれたエルディナはといえば、柄にも無く自らの言いたいことを並べ立て過ぎたことに気まずさを感じ、沈黙に転じたまま、その灰色の大きな瞳に不安な眼差しを篭めてレムリア軍随一の勇士を見遣る。


「……」

 出すべき言葉を見失った少女に、タインは笑いかけた。苦笑であると見えた。それが少女にとって意外であり、他の誰にとっても、やはり意外な光景だった。

「言いたいことは良くわかった」

「……」

 少女の幼さの残る頬に宿る喜色、だがそれは次の言葉で奈落の底に叩き付けられる。

祖国(くに)に帰れよ。お嬢ちゃん」

「イヤです!」

 即座の否定――だがそれは決してタインにとって不快な反応ではないことを、この場の少なからぬ男たちは知っていた。

「……そう言って聞くようなタマなら、元からタナト(ここ)には来ないか」

「……?」

 疑念に柳眉を顰める少女を他所に、タインは踵を返した。ジャグル‐ミトラとレグエネンの待つ方向だ。前に立ったミトラの巨大な銀翼の上で、ニヤニヤ笑いながらに指揮官の復帰を待っていたレグエネンを、タインはやはり苦笑気味に見上げた。主を待ちかねたようにミトラの主翼から飛び降りたレグエネンを他所に、タインは彼の愛機に目を細め続ける。


「何だ、何が可笑しい?」

「旦那、上には何も言って置かなくていいんですかい?」

 そう言われるや、タインは再び笑った。静かに、だが嬉しげに。


「レグエネン」

「ハイ旦那」

「向こうの格納庫に、型落ちのゼーベ‐ギガが置いてあったろう?」

「ああ、あの部品取り専用のやつですか?」

「飛べるように、直しておけ」

「旦那っ、ありゃあ型遅れもいいところのガラクタですぜ?」

「だからだよ」

「……」

「同じ飛行機で上がったら、俺の方が断然速くて強いに決まってるじゃないか」

「はあ……」

「頼んだぞ」

 そう言い、タインは部下の待つ待機所へと歩き出す。そのずっと先で、空戦士たちが整列を始めている。今日もまた、烈しい飛行訓練が始まる。



 二人から遠く離れ、ただ一人ぽつんと取り残されたまま二人の遣り取りを伺い続ける少女――

 自分が賭けに勝ったことに気付くのに、エルディナには未だ幾許かの時間が必要だった。






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