第五章 「戦闘航法学校」
連絡艇は折からの強風に大きく揺れながらも、針路を乱れさせること無くその舳先を目指す島へ向け続けていた。
乗船、それに続く移動の切欠は、母艦に先駆けいち早く到着を果たした地上に待っていた連絡将校。愛機を飛行場に下ろし、飛行場指揮所に駆け込むやもたらされた上級司令部からの指示は、空母戦闘機隊の主要指揮官の、司令部所在地への出頭を明示していた。
「いい眺めですね。隊長」
連絡艇のデッキに出て、平穏な後方の空気を楽しむかのように、ジャック‐“ラムジー”‐キニー大尉が言った。連絡艇は、すでに艦隊泊地に割り当てられた広大な空域の、そのほぼ中央に差し掛かっている。そこを占拠する戦艦群の、城郭のような艦橋構造物と砲塔とが織り成す魁偉な連なりに、目を奪われないラジアネス艦隊軍人はいようはずも無い。
「まあな……だが、フネの行き先が、違うんじゃないか?」
およそ空母航空群の指揮官らしからぬ、嫌みったらしいカレル‐T‐“レックス”‐バートランド中佐の一言に、司令部から差し向けられた連絡将校はばつ悪そうに顔を顰める。手狭なキャビンから視線を巡らせる度に目にする、対空迷彩を施した艦艇の連なりは予想を超えて多く、それを目の当たりにする者によっては、今後の戦局に幾許かの希望をもたらすものであったかもしれない。
だが、それを見る男たちの目に、そうした種類の光は宿ってはいなかった。むしろ、先月の激戦を経て勝ち取った上陸の楽しみを、それを鼻先にぶら下げられたところでいきなり取り上げられたことに対する不満こそが、男たちの眼光を険しいものにしていたのかもしれない。
「マウリマウリなんて、何時でも行けるじゃないですか? 年甲斐もなく何を不貞腐れてるんですか?」
と、嗜めるようにケネス‐”オックス”‐オービルマン大尉が言った。
「楽しみにしていた分だけ、失望も大きいってもんさ」
と、キニー大尉が言う。その彼ですら、自分の仕える隊長の、その端々に見せる稚気に、微笑ましさの混じった苦笑を抱かずにはいられない。
上空を圧する爆音――反射的に見上げた先を、彼らが今しがた発ったファッショル島へ向かうBTウイング攻撃機の編隊が航過する。BDウイングよりも大柄な機影、体格に相応しくエンジン音も猛々しい。
それらが「ハンティントン」の艦載機ではないことは、ダークーブルーの主翼に刻まれた識別符号から一瞥して判る。レムリアンの長い手が及んでいない環空洋や南北大西空で部隊の編成と練成を終えた母艦飛行隊が、新たな作戦に備え現在でも刻々と集結を果たしているのだ。自分たちがこうして休養を望んでいながらも、戦局はそんな事情など何ら斟酌するつもりも無いかのように刻々と動いていることを、男たちは否が応にも感じさせられる。
艦隊司令部の所在地であり、泊地で最も広大なタイド島の全容を間近に見る距離にまで連絡艇が迫ったとき、キニー大尉が言った。
「そういえば隊長、聞きましたか?」
「何を?」
「フラウ‐リンが、この島に来ているらしいですよ」
「そんな今風のアイドルとやらなんて、俺みたいなおじんにはお呼びじゃねえよ」
キニーは笑った。「何だ、興味あるんじゃないですか」
連絡艇が桟橋に近付き、同時に陸地の司令部施設の全容が目に入る距離であった。それなりの規模を持ってはいるものの、いかにも急造の艦隊基地と呼ぶに似つかわしいプレハブ作りの司令部庁舎。島中央部に位置する丘陵の頂上に設けられた無線通信塔及び対空レーダー施設。島自体を防衛する対空機関砲の段列。間外縁部各所に点在する燃料、弾薬庫。それらに横付けする油槽船、港湾作業船……戦線の拠点たる島は、それなりの活気を漂わせ、遠い空からの来訪者を迎えていたのだった。
接舷を果たした桟橋から司令部差し回しの軍用地上車に乗り込み、司令部正面へと速やかな到着を果たしたバートランドたちは、そのまま基地の会議室まで通された。優に40名ほどを収容できるその会議室では、すでに中部大空洋全域を管轄する大空洋艦隊の主任航空作戦参謀たるアーノルド‐C‐ベック大佐と、繋ぎの、ダークグレーの飛行服姿の二名の高級士官が、バートランドたちの入室を待っていた。そこで、バートランドの太めの眉が険しくなる。男と女、いずれも高級士官である二名。
「……?」
ダークグレーの飛行服?――
当のバートランドのみならず、入室した男達に走る驚愕――
そして――
二人の胸を飾るワッペンの紋様を前に、バートランド以外の指揮官から感嘆の溜息が漏れる――
髑髏とそれに絡みつく毒蛇――その紋様の持主が意味するところを知らないラジアネス軍パイロットは、さすがにこの場にはいなかった。
「バートランド中佐以下五名、参上いたしました」
改まった口調での、バートランドの報告――
その彼ですら強いられる緊張を前に、彼に付き従う男たちから失われ行く余裕――
永遠とも思える空気の凍結を破ったのは、ベック大佐だった。「任務ご苦労だった中佐、座ってくれ」
淡々とした口調――醸成された緊張を解すとか、用件の進行を積極的に促進しようとか、そのような意図を込めたものではなかった。全員が先着の三人に対面するように座り、そして最初に切り出したのは、やはりバートランドだった。
「……で、ご用件は?」
「君たち実施部隊指揮官諸君には、これから少しの間、ちょっとした聞き取り調査に、協力してもらいたい」
「ヒヤリング……ですか」
「戦技研究の一環です。バートランド中佐」
丁寧な口調、だが野太い声で言ったのは、飛行服の一人だった。筋肉質の長身、その声に似つかわしいほど胸板は厚く、そして首の筋肉もまた歴戦の戦闘機パイロットと呼ぶに相応しいまでに発達していた。やや日焼け気味の肌、丁重な、自制した物腰にあっても、対象を不敵に射抜くかのような青い眼、短く刈り上げられた金色の頭髪は、その一本一本が天を突くかのように鋭角的に逆立っている――召集されたパイロットたちが発言した彼の身体的特徴を大体に渡り捉え終えたところで、ベック参謀が執り成すように言った。
「ああすまん、紹介が遅れたな。こちらは戦闘航法学校のハワード中佐とランバーン少佐だ」
紹介を経て、着席したまま同時に一礼する二人。そのとき初めて、「ハンティントン」の指揮官たちはもう一人のダークグレイの主を観察する余裕を与えられる。
女性だった。階級は少佐、短めの黒髪、ハワード中佐ほどではないが、ラジアネス艦隊戦闘機隊の総本山とでもいうべきこの部隊特有の、緩急自在な特殊飛行を繰り返す過酷な任務に適応を遂げた、均整のとれた肢体を飛行服と褐色の肌の下に隠していることは、誰の目に明白であった。だが平均的な美人とでも言うべき彼女の容貌は、沈黙の内にすらそのような印象を与えぬほどの知性をその前面に印象付けているかのようだ。初対面で「美しい」よりも先に、「賢そう」と彼女に印象付けられた男たちの方が、この部屋では多かった。
「……」
女性の少佐は無言のままその褐色の瞳を巡らせ、そしてバートランドに会釈した。その瞬間、バートランドの口元が突発的とでも言うべき苦笑に、急角度に歪むのを両隣のキニー、オービルマン、フィルバーストは見た。おそらくは三人同時に、脳裏で彼女とバートランドとの過去の接点を探ろうと試みた筈で、彼らの思考は部屋の空気の流れにも混じってバートランド本人にまで伝わってくる。
上陸を果たし、初めて直に接した女性に見惚れる男たちを、現実へと振り向かせたのは、やはりベック参謀だった。従兵にそこそこの厚さの書類を配布させ、それがこの場の全員に行き渡ったところを見計らっていたかのように、彼は再び口を開く。
「まず、先月のリューディーランド方面における航空戦に関する統合作戦本部の報告書の草案が、すでにこちらに届いている。君らにはまず、それを熟読してもらいたい」
「それは……いささか早急の嫌いがありますな。」
愛用のオイルライターで煙草に火を点けながら、バートランドが言った。この部屋が禁煙なのはもとより、火を点けるのと同時に卓の向こう側から注がれた射るような視線など、気にするような男ではない。ただし彼の挙動がベック参謀の心象を悪くしたのは確かなようで、参謀は一変させた険しい眼差しを始終変えることはなかった。ハワード中佐に至ってはただ無感動に、同格の飛行士官の喫煙を凝視している。あからさまに不快感を表してはいなくとも、彼がバートランドの仕草を内心で歓迎していないことがキニー達には察せられた。ただ一方のランバーン少佐のみが、そんなバートランドを淡い微笑みを以って見つめていた。
紫煙を吐き出し、バートランドは言った。
「……で、そちらの報告書と我々とFASが、どう関わるのですかね?」
「そちらの報告書」という言い方を、バートランドはした。
先月の戦闘経緯は、空母航空団に所属し、実際の戦闘に参加した各飛行隊の戦闘詳報というかたちですでに――つまり、こちらの手で――纏めてある。外野とでも言うべき艦隊司令部のしゃしゃり出る幕ではないはずだ。参謀が用件を切り出した時点で「ハンティントン」側の共有するところとなり、バートランドが吐露した疑念を、ベック参謀はこう言って釈明して見せた。
「この件に関しては、直に戦闘を行った中佐たちの意見と我々司令部、そしてFASの考察を加え、報告書をより完全な形にして議会に提出したい……というのが大空洋艦隊司令部および統合作戦本部の意向だ」
「なるほど……」
「ご協力、頂けますよね?」同意を促したのはランバーン少佐だった。会釈とともに促された同意は、明らかにバートランドの意表をつき、そして鼻白ませる。
「美人のたっての要請とあれば、受けないわけにもいきませんな……」
ブラインドを開いた儘にした窓に、眩しく熱い光が注ぐ。太陽を遮っていた雲が退くのと同時に、遠方から軽快なエンジン音が近づき、会議室の遥か頭上を掠める様に過った――
着陸――二機のジーファイターは仲良く銀翼を連ね、これ以上無い接近間隔を維持したまま主脚とフラップを降ろし、そしてアスファルトに接地する。風防はとっくに開け放っていた。
特異な塗装であった。低視認性を重視した灰色塗装の上に、さらに幾何学的なシルエットのように施された迷彩……およそ正規の艦隊飛行隊の塗装とはあまりに趣の異なるそれは、地上や空を問わずその事情を知る者に、何がしかの緊張と畏敬の念を見出させる。
典型的な――あるいは教科書通りに滑らかな三点着陸を終えるや、二機はプロペラを回しながらに滑走を続ける。正規の艦隊作戦機の居並ぶ駐機場から、やや距離を置き空けられた専用の駐機場まで誘導路を使い、ジーファイターは滑走る。同時に到着し並んだところで、二機はエンジンを切った。
その一番機――
プロペラの回転が止むまで待った後、操縦席まで駆け上ってきた整備員にバンドを解かせると、パイロットは億劫そうに腰を挙げ、そして装具袋を引っ掴み地上へと降り立った。機付長が待ちかねていたように彼に歩み寄り、緊張した面持ちもそのままに敬礼した。
「マッキンタイア少佐!」
「……?」
唯一神を目の当たりにしたかのような面持ちで背を正す機付長を、少佐と呼ばれた男は出来の悪い生徒を前にした気難しい数学教師といった眼差しで遇した。眼差しに宿る水色の瞳、顔の所々に刻まれた皺は短いが深く、眉にはすでに白いものが混じり、それらはどちらかといえば痩身の彼に、他者への威圧感と圧迫感を与える効果をもたらしていた。整備員の労を労うわけでもなく、ニコリともせず、少佐は言った。
「昇降舵操作索が二ミリ緩んでる。絞め直せ」
「はっ……!」
「それと右補助翼の反応に0.3秒のラグがある。マスバランスの付け位置を三センチ右にずらしたほうがいい」
「はい……」
「それと五番シリンダーの燃焼が不調だ。プラグを交換しろ」
「……」
「……以上だ」
「わかりました!」
再び敬礼……それを解いた後で、立て続けの指摘に焦燥気味の整備員に、少佐は言った。「整備、ご苦労だった」
「相変わらずですねぇ、少佐」
……唐突の、背後からクスクス笑う声に、ケン‐“バズ”‐マッキンタイア少佐はそれを顧みることなく口を開く。
「……“フック”、貴官は相変わらずラダーの使い方に進歩がない。簡単に軌道を読まれるのは頂けないな」
「少佐の舵の使い方が、異常すぎるんですよ」
「異常?……巧妙と言ってほしいものだ。そして貴官の機動は、稚拙そのものだ」
「ひでえ……」
再び、クスクス笑う声――一向に堪えていない列機の様子を、マッキンタイアが漸く振り返ったのはこのときが最初だった。その彼の射るような視線の先で、ハーバード‐D‐“フック”‐フォスターJr大尉はその年齢に似合わない美少年のような容姿を歪めることの無い、綺麗な笑みを湛え続けていた。傍目から見れば十年以上も年季の違うように見える二人、だが実年齢における差は片手の指程度のものでしかない。
突如――
二人の上空を、唐突に駆け巡る爆音の連なり――
それを二人は、ほぼ同時に見上げ、目で追う――
地上に撒き散らされた軽い衝撃波に襟元を蹴立たせたまま、“フック”フォスター大尉が言った。
「あの方向からは進入禁止だった筈なのに……“キャット”と”マイティ“、相変わらずですね」
「死ねばいいのに……あいつら」
ギョッとして、フォスターは発言の主を見遣る。だがそれが心からの悪態ではないことを、彼はマッキンタイアの表情から知る。ラジアネスの理系教育の最高峰 リスタウェスト工科大学の工学部飛行造船工学科卒業後に艦隊に入隊、飛行教官とテストパイロットとしての経歴を経て一旦予備役となりRIT大学院に進学、工学博士号を取得した後に現役に複隊し、FASに迎えられた“バズ”マッキンタイア少佐は、抜群の操縦技量と空中観念の持主である一方で、学者肌の人間らしい、浮世離れした偏屈さすら持ち合わせていた。
二人は、整備を受ける機材の居並ぶ間を歩き始めた。
居並ぶ機材のいずれもがジーファイター、それも二人が操る機と同じように複雑極まる迷彩が施されている。この一角が、リューディーランド方面の戦闘終息を機に、艦隊司令部航空総隊直属の|戦闘航法学校《Fighter Aviation School》から分遣されてきた教導飛行中隊の占有するところとなったがゆえの、それは奇異な光景であった。
航天暦1855年に創設された戦闘航法学校は、作戦用航空機の大型化、高速化に伴い廃れかかった複葉機時代以来の単機格闘戦技術の維持研鑽と、航空技術の発達に適応した各種戦術の発展研究をその設立目的とする。
その性格ゆえ、部隊を構成するパイロットは全て飛行教官資格の保持者であり、八機以上の編隊指揮官資格を持つ中隊長資格の保持者でもある。要するにFASに所属するパイロットは、一人一人が優秀な操縦士であること、そして優秀な戦闘機隊指揮官であることを求められる。
従って入隊が難しい一方、ラジアネス艦隊戦闘飛行隊の最精鋭としてパイロットたちの間でも転任希望者はずば抜けて多い。だが入隊を果たしたところで、そこでも絶え間ない研鑽と実証演習の日々が待っている。ある意味学者の研究生活、あるいは武道家の修行にも似たそれに適応して初めて、パイロットはFASの一員として認められる。
艦隊士官学校工学部機関科卒業、飛行学生訓練課程、実戦部隊勤務という、およそ艦隊のパイロットとして「スタンダード」な経歴を経てFASに入った“フック”フォスター大尉は、それ以前に決まっていた空母戦闘飛行隊隊長のポストを固辞してFASを選んだ。もし決まっていれば、彼は艦隊史上最年少の飛行隊長になる筈であった。それを蹴ってまで「ベビーフェイス」とも形容されるほど若々しいフォスター大尉がFASを選んだのはやはり、世俗的なそれ以上にパイロットとしての頂点を極めたいという、純粋な探究心の赴くところであったのだ。
FAS専用の駐機場の隣、先刻に「ハンティントン」の艦載機が到着して以来、急に密度を増した艦隊の作戦機の居並ぶ一角を見遣りながら、フォスター大尉は言った。
「XF‐107、何時回ってくるんでしょうね?」
現在急速に実用試験が進捗している対レムリア戦闘機の切り札となり得る「新鋭機」――その名に対し、マッキンタイアはジーファイターの列線に方向へ視線を巡らせて応じた。
「当分我々は、ジーファイターで凌がねばならない。そのための方策は、十分に研究を重ねてきた。そうじゃないか?」
「ですが……勝敗を決するのはやはり究極的には機体の性能差でしょう?」
「あれを見る限りでは、そうではないようだ」
「……?」
マッキンタイアが歩を止め指さしたのは、銀翼を休める一機のジーファイターの前であった。その胴体に描かれた幾重ものマークに、まずフォスターの円らな瞳が釘付けになる。そのジーファイターは、その太い胴体に20もの撃墜マークを宿していたのだ。戦闘機のエキスパートたる彼らの注意を惹かないはずが無かった。
「すごい!……誰の機だろう?」
「もしくは、何人がかりかで搭乗し、戦果を上げた機体かもしれんな」
と、マッキンタイアが言った。「艦隊の飛行士は今や名誉職だ。本職ではない」
「なるほど……パイロットの腕がいいんじゃなくて、機体の持って生まれた運がいいってことですか?」
「運がいいのは案外……飛行士の方かもしれないぞ」
フォスターが笑った。
「そうですよね。運がなきゃあ、ここまで行きませんよ。今のご時世じゃ……」
「よう“ベビーフェイス”、お前何回『撃墜』された?」
「む……!」
背後から呼びかける明るい声に、フォスター大尉は一変して不機嫌な表情で振り返った。キース‐R‐“キャット”‐グラフトン大尉と、シーモア‐N‐“マイティ”‐ハリス大尉の二人が、訓練飛行を終え二人の元へ追い付いてきた。
猫の目のような形状のサングラスをぎらつかせ、グラフトン大尉がフォスターに言った。フォスターに対し軽口こそ叩いてはいても、サングラスから覗くその目は決して相手に対する隔意を宿してはいない。背丈は低いが均整の取れた体躯、角刈りの金髪にグレーの瞳、艦隊士官学校ではフォスターの一年先輩だったが、FASに入ったのは彼の方が一年遅かった。従って、戦闘機操縦の技量では実のところ後輩であるはずのフォスターに一日の長がある。グラフトン自身も、内心ではそれを認めている。
その“キャット”グラフトンが言った。
「“バズ”は強いだろう? 俺でも簡単にバックを取らせてはくれん。隊長や副長でも十回空戦って四度は負ける。それぐらい強くて巧い」
「あんたが簡単にバックを取れないのは、あんたの操縦に進歩が無いからじゃないの?」
「何だとてめえ!」
「まあまあ……」
と、ハリス大尉が二人を宥める。そして彼の目がジーファイターの撃墜マークを捉えた瞬間、彼の目にもやはり、興味の光が宿る。
「こいつは?」
ハリス大尉が言った。190センチの長身の持主、かといって決して筋肉質というわけではなく、むしろ樅の大木のようなか細さすらその長身からは漂っていた。黒い目に同じく黒く、縮れ気味の頭髪、元来整備兵で、長じて操縦訓練を受けてパイロットとなった“マイティ”ハリスはマッキンタイアと同年で、出自と経歴こそ違えこの二人は妙なまでに気が合った。
“バズ”マッキンタイアが言った。
「今しがた“フック”と話をしていたところさ。機体と飛行士、運がいいのはどっちだろうってね」
「へえ……ちゃんと判定は出してるんだろうな?」
「戦闘中のことだろうから、どうだかな……」
ハリスは苦笑した。頼りなげな同僚の応対に対してというより、未だ見ぬ乗り手に対する興味の為せる笑みであった。
「なるほど……撃墜なんて、本当のところは撃った当人でもわからないからな」
「その本当のところは、いずれ明らかになるだろうさ」
そして、“マイティ”ハリスは聞いた。「演習、何時始めるんだ?」
「早ければ、来週だそうだけど……」
「そいつは、楽しみだ」
そこまで言ったところで、マッキンタイアとハリスは空を仰いだ。そろそろ彼らの隊長と副長が艦隊側との打ち合わせを終え、飛行場に戻ってくる時間だ。それからさらに一時間後には、彼ら二人を交えた空戦機動訓練が、その鋭い牙を研いで待ち構えている――
――戦闘経験の聴取、敵の装備や戦法と、それに対する味方の対処に関する議論そのものは二時間ほどで終わり、ベック大佐は会議を締め括る形を取るかのように言った。
「――今後の予定だが、新たな作戦発起までの間、君たちを含め艦載機部隊はレンヴィルを根拠とし、速やかに部隊の再編成と練成訓練に入ってもらうことになる」
「なるほど……」
ハワード中佐が言った。
「特に戦闘飛行隊の訓練ですが、バートランド中佐以下指揮官位にある方々には、別メニューで我々FASの課す特別講習を受けて頂きたい」
途端に、指揮官たちの間に生ずる動揺――それを代弁する形となったのは、四本目の煙草を灰皿の上に押し潰したバートランドの言葉だった。
「話が見えない。どういうことかな?」
「つまりは、戦闘航法学校教官の操縦するジーファイターを仮想敵とし、過去の戦闘記録に基く各種状況を想定した格闘戦訓練を行って頂く……ということになります」
「……!」
絶句――それに続く指揮官たちの表情からは、「特別講習」の一端をこうして明かされただけで、一切の余裕が消し飛ばされてしまう。
ハワード中佐は、続けた。「我々が設定する訓練期間は三週間。講習を終了した後、バートランド中佐たちには幾下各部隊において部下に対し習得した戦技の教導を行ってもらい、全体の技量向上を図って頂きたいのです」
真意と同義の最終目標を明かされた直後、バートランドはこの場で五本目の煙草を取り出しながらに苦笑した。
「あんたらは……このご老体を、反吐が出るまで鍛え直そうって胎なのか?」
「ご老体とはご謙遜を……“レックス”バートランド」
バートランドの低い笑い――ランバーン少佐が、二人の遣り取りを微笑もそのままに見守る。
「“レックス”か……FASにその名を未だ知っている奴がいるとは驚きだ」
「FASは、貴官が作ったのも同然ではないですか? 我々は貴官に対する恩返しも兼ねて、過去一年に渡る実戦データを元に、我々FASが編み出した対レムリア軍戦闘機の戦技を伝授して差し上げたいと考えている。時は切迫しております。実施部隊の皆さんにはこれより早速、受講者たるに相応しい技量の隊員の選抜に入って頂きたい。我々の要望は、以上です」
「なんてこった……折角の泊地休暇がパーだぜ」
「安楽の日々も、今は昔になりにけり……か」
「当分、まとまった休みなんて取れそうにないなあ……」
「レムリアンが迫ってるから、ダンスパーティーもアイスクリームもお預けってわけですよ」
解散に転じた一座の中で、幾人かのぼやく声をバートランドたち三人はその背中で聞く。それに無関心を装って席を立ち、退出するべく書類を纏めるバートランドを、ランバーン中佐が呼んだ。
「宜しいですか、中佐」
「何だね、お嬢さん?」
視線の交差――何かを聞きかけたところで、彼女は止めた。その代わりに口を開いたのは、バートランドだった。
「リン-レベック」
「ハッ……!」
意味ありげな笑顔で名前を呼ばれた瞬間、ランバーン少佐は反射的に背を正した。だがその顔は、バートランドの反応を待ち構えていたように微笑んでいる。
「その分だと、FASに入った時からまた腕を上げたろ?」
「中佐には、まだまだ及びません」
「嘘つけ、教官を完全に超えてやったと、その済ました顔に書いてある」
ランバーン少佐は笑った。笑うと浮き出るはっきりとした笑窪と、並びのいい白い歯が、男の最も原始的な感性を擽る性質のものであることを、バートランドは以前から知っていた。期せずして両者に宿る明るい笑み――冗談の中には、教師と教え子の時間が流れていた。
舳先の向く遥か先に、椰子の木に飾られた広範な浮遊島を見出した瞬間から、戦闘に疲れた男たちの心は軽妙なステップを立てて躍り始める。
「――あれがマウリマウリかぁ」
期待と安堵に彩られた男たちの言葉を、ツルギ‐カズマはその背中で聞く。眼前に広がる、天にその翠を謳歌する島――それを目の当たりにし、当のカズマですら、目を楽しませる緑の拡がりに、何時しか胸を高鳴らせている。
広大なレンヴィル諸島の東北、丁度タイド島と向き合う形に存在する小島マウリマウリは、泊地においては入港を果たした艦艇乗組員の娯楽、休養施設としての役割を割り振られている。上陸した将兵は、総面積25ヘクタールに及ぶこの島で、およそ南国のリゾート地と何ら代わり映えしない程の各種サービスの恩恵を受けることが出来た。
最大2000人収容可能な屋外、雨天両用の劇場施設、本職の調理師の手になる本格的な飲食施設、購買部、外泊許可証保持者専用の宿泊施設……そのいずれもが空調を完備し、大人数を収容するのに十分な広さを確保している。また、テニスコート、運動場、プールといったスポーツ施設までもが整備され、島の屋内外に点在するそれらの設備は、一日あたり10000名の将兵の利用に供することを可能とする。
そして上陸した先に待つ、下士官兵たちにとって上陸時の最大の楽しみ――艦内では禁止の飲酒もまた、ここでは許されている。ただし、補給の関係で下士官兵へのアルコール類の配給は、一日あたりビール2本という制限があった。それは近い将来士官への任官が決まっているカズマですら例外ではない。
接舷を果たした桟橋から島への上陸を果たすや、待ち構えていた補給科の古参下士官が、到着したばかりの下士官兵を並ばせる。半信半疑のまま、同じくその列の一員となったカズマが渡されたのは、ビールの無料配給券だった。下戸のカズマには正直どうでもいいものだったが、戦いに疲れた男たちが癒しをアルコールに求めるのは、どの世界でも共通のことであるらしい。
列から離れカズマの足はそのまま島内の案内図へと向いた。島の全容とその内部に目を凝らす内、彼の目はごく自然な感覚の赴くまま、何時しか好物のアイスクリームを食べられる(であろう)場所を探っていた。
「あった!」
子供っぽい嗜好を満たす機会を得、カズマは島内へと歩き出す。先着の将兵でごった返す大通りを歩きながらも、その眼はやはり、島内部の充実した慰安施設の居並びに惹き付けられている。明るい喧騒の只中で位置を見失いそうになり、思わず立ち止まったカズマの背後から、酒瓶を傾けた兵たちを既定乗員数以上に満載した軽軍用地上車が、その無骨で華奢な車体をガシャガシャ揺らしながらに走り抜けていく……そして、最大の驚きは、劇場施設でカズマを待ち受けていた。
照明器具を持ち上げるクレーンの軋み――
電動ドリルの立てる唸り声――
規則正しい鼓動を奏でる、ハンマーの奮われる音――
施設の外にまで溢れんばかりに満ち、未だ終わる目途すら立たないかのような、煌びやかな装飾――
売店や娯楽施設の居並ぶ通りを抜けた先、そこで一際広い敷地を占める劇場では、多くの民間徴用の作業員が工具や重機を操り、舞台の設営作業を行っていたのだ。そうした人々の醸し出す、劇場に満ちる熱気は思わず歩を留め、目を見張るほどに大きく、近い将来にそこで行われる催し物の尋常ならざるものであることをカズマは悟る。大きく、賑やかな何かの予感――だが、それ以上の感慨をカズマは、この時は持たなかった。軽い感銘をそのままにカズマは再び歩き出し、そしてカズマは目指す店を見出した。
島中央部の広場、そこに面する場所にカウンター式の軽食堂が見える。屯する兵士たちの姿は多くはない。空いた席に腰を下ろし、そしてカズマはバニラアイスクリームを注文する。
「バニラアイス頂戴。たっぷりと、山盛りに――」
店に据え付けられたレコードの奏でるメロディに、カズマが既視感を覚えたのはその時のことだ。
――Good morning my darling
カーテンを開けて柔らかな光を
その明るい笑みをわたしに見せて
朝食の準備は出来てるわ
お願いmy darling
わたしを愛しているのならmy darling
ベッドから起きてわたしを抱きしめて
Good morning my darling――
明るく、かつその端々に幼さすら残す少女の唄声を、自身で気付いたときには注文したことすら忘れて聞き入っているカズマがいた。思えばそれは、カズマのこの世界における、決して平穏ならざる日常の何処かで奏でられていた歌声であったのかもしれない。アイスクリームを山盛りにしたガラス皿を、無造作そのものに音を立ててカウンターに置かれるまで、カズマの耳と注意はずっとラジオの曲に惹き寄せされていた。
「――オイ知ってるか、この島にフラウ‐リンが来てるらしいぜ」
「――本当か? じゃあ劇場の方が騒がしいのはやっぱり……」
「――そうさ、明後日の夜には、この島は中部大空洋で一番騒がしくなるぞ」
「――じゃあ……やるのかリサイタル。楽しみだぜ!」
カウンターの若い兵士たちの弾んだ声が、新たにカズマの興味を惹いた。
フラウ‐リン……ラジオの唄声の主?
そのフラウ‐リンが、この島々の何処かにいる?
期せずして胸中の一角を占める感銘にも似た感慨に、アイスクリームを頬張りながらにカズマは襲われる。だがカウンターに腰を付けたまま、改めて劇場の方角を顧みたカズマの目が広場の雑踏の中に、頭一つ図抜けた背丈の見慣れた人影を見出したとき、彼は先刻の感銘を忘れて反射的に手を上げ、対象に向け声を弾ませていた。
「よぉ――――――っ! マリノ――――っ!」
「……!?」
距離を置いて交差する二人の視線――その一方の目が高潮した頬と瞳に滲む涙と共に、尋常ではない光を湛えていることを察した瞬間、ほぼ同時に彼女の怒りの理由を察したカズマの全身から一気に血の気が引いた。
「カズマァ――――――ッ!!」
満身を奮わせた怒号――それに戦慄を覚えたのはカズマだけではなかった。周囲の驚愕を他所に、尋常ならざる脚力に任せて突進するマリノ。アイスクリームの皿を抱えてカウンターから飛び上がるように駆け出すカズマ。
「コラカズマァー! 待てぇー!! コロスッコロスッ絶対コロしてやるぅ――――――っ!!」
「マリノごめぇーん!」
子供じみた追いかけっこは陸上でも始まり、島の将兵たちは嘲笑と苦笑と共に二人に目を奪われる。
夜が来た。
「……!!」
ワンルームの空間に開放され、漸くで本来の少女に戻った瞬間、フラウ‐リンは一人で使うには到底広過ぎるベッドの上にものすごい勢いで突っ伏した。
束縛に塗れた外――
自由に使える内――
自分は丁度サーカスの動物に似ている。
客を喜ばすべく見出されて調教され、外に出ることを許されるのはその調教と演技のときだけ――
それらが終わり自由に振舞うことを許されるのは、狭く暗い檻の中だけ――
――自分の日常は、まさにそれだと少女は思った。
――これほど、世の中に不条理なことは無い。少女はそうも思った。
そして――
「――新作の映画ね、スポンサーがキスシーン入れてくれって……」
「――へえ……誰が、誰とやるんだい? キス」
「――セシル‐ロイドと、うちのフラウよ」
「――そうか……フラウも幸せ者だな。ファーストキスがあんな男前だなんて……」
「――……!?」
司令部への表敬訪問を終えて慰問公演の会場下見に訪れ、そのまま一夜の宿を取ったマウリマウリ島の来訪者用宿泊所、そこで又聞きしたシンシアとコステロの会話は、清純を貫いてきた少女を文字通りの絶望へと駆り立てた。少女は、自分のこれまで守ってきたもの、自分にとって一番大切なものを捧げる相手すら、自分自身で選び決めることを許されないのだ……!
セシル‐ロイド、そのダンディな容姿と甘い声ゆえ名優との評判こそ高いが、その一方で社交界や芸能界に数々の浮名を流し、同じ数の醜聞すらその後ろ暗い背後に引き摺る「遊び人」――たとえ演技とはいえ少女は、そんな男に唇を奪われた多くの女性の一人となろうとしている――
――少女には、それが厭だった。
――そして少女は、行動を決意した。
絶望の赴くままに少女はすでに日の落ちた外へ、人目を忍び抜け出した――
それは傍目から見れば決して、賢明とは言えぬ振る舞い――
満天を支配する星明りを吸い込んだ雲海は銀色に色づき始め、天海の楽園を淡い輝きで飾り立てていた。
未だ途絶えることを知らない喧騒は、一層にその大きさを増してはいたが、それは慰安区画の広がる島中心部から大きく離れた外を歩き続けるカズマには、今では全く無縁のものとなっていた。
本来なら立ち入り禁止となっているはずの空岸を、カズマは横手に雲海を見ながらに歩き続けていた。
雲海とほぼ同じ高度に島がある故か、星々は地上に在るとき以上の眩しさを以って空上の大地をその足元に照らし出していた。そして視線を転じたもう片方では、人工の光と、その只中に流れ込んだことに起因する開放感に支配された人間たちとが織り成すかりそめの饗宴が、時の流れを知らないかのように続いていた。
此処まで来れば大丈夫…安堵の一方で覚える彼方の饗宴への羨望が、カズマの若い胸を締め付けた。逃げ続けた結果として、彼は慰安の場から締め出された形となったのだ。暗がりに満ちた地面に腰を下ろし、カズマは今更のように弾む息を落ち着かせようと試みた。吹き出る汗が玉となって額や頬を不快な感覚とともに流れ、シャツやパンツもまた。飛行服の下で気持ち悪いくらいにぐっしょりと湿っていた。
自分をかくの如き境遇に追い遣ったマリノに、カズマは思いを巡らせた。彼女は今頃、まだ汗だくになってカズマの姿を追い続けているのかもしれない……否、確実にそうだろう。その執念深さたるや、見上げたものだとカズマは本気で思った。将来あいつとくっ付いた男は地獄を見るだろう……その思いと共に落ち着けた息をゆっくりと吐き出しながら、カズマは再び立ち上がりスラックスに付いた砂を払う――
「……?」
空岸線から一際高い岬が、立ち上がった先に見えた。
その切先に、星明りの下でカズマは見出す――か細く、儚げな影を。
そして目を凝らしたカズマの眼前で、影は完全な女性と思しき人影となった。
切先に佇む一つの影――
「……」
ことを察したカズマから一切の表情が消え、そしてカズマは意を決し岬へと足を早めた――速足が、すぐに駈足となった。
――その藍色の瞳を眼下全体に広がる雲海へ見開きながら、少女は岬を暗灰色の海原へ向かい歩き続けた。暗灰色の雲の海原、それこそが少女の17年の人生で、彼女が最後に目の当たりにすることになる光景だった。
そして少女は、自らの意思でその雲海の只中に抱かれようと思った――
――不思議と、怖いとは思わなかった。
――だが少女には、自分の行動が無性に悲しかった。
岬の切先へともう戻ることの無い一歩、また一歩を標しながら、少女は天を仰いだ。
そして潤む瞳を、星々の営みへと向け、少女は漠然と考えた。
なんで……こんな事になったんだろう?
なんで……わたし、死ななきゃいけないんだろう……?
バカだな……わたし。
これから死ぬのに……どうしてそんなこと考えなきゃいけないんだろう……?
そして少女は再び歩き出――
「おい、何をやってるんだ?」
『……!?』
愕然――振り返った先には、少年が立っていた。
夜空の下ではあったが、呼びかけた相手が美しい女性、それも若い女性であることを、カズマは瞬時に悟った。そよぐ風にワンピースと豊かな髪を振り乱した少女が自分の呼び掛けに狼狽するのを察し、それでもなおカズマは一歩を踏み出した。
「なあ君、考え直して……」
「来ないで……!」
「……」
頭からの拒絶――それをものともせず、カズマは岬を少女の方向へ歩き続けた。
後退り――自分の拒絶と怒りが、歩み寄ってくる人影に対し無効であることを、フラウはその震える胸中に悟る。
そしてフラウの眼前で星明かりは、飛行服姿の青年の人影を照らし出し、少女は一瞬言葉を失う――
「来ないでって言ってるでしょ!?」
肩を怒らせ、その目に涙すら湛え、我を忘れてフラウは叫んだ。
だが、もはやカズマとは目と鼻の先だった。
そのとき――
「……!?」
意地に駆られた少女が、さらに後退りした先に、すでに地は無かった。
「キャアッ!」
足を滑らせた身体が沈むのと同時に、少女が自覚する終り――
「……」
――次に気付いたときには、少女の身体は握られた細腕一本を残し、宙にあった。
期せずして、その胸と歯の震えを少女は吊るされながらに感じていた。
途端に頭を擡げる、烈しい後悔――
同時に襲い来る、止め処ない恐れ――
それでも――
なおも未練がましく少女に宿る死への渇望――
「――大丈夫、助ける」
「え……?」
交差するカズマと見上げるフラウの瞳――カズマの眼光に気圧されたフラウの細腕を、カズマは有無も言わせずに掴み、そして引っ張り上げた。
それに抗いながらフラウは声を上げようとして、やめた――強い力で引っ張りつつ、自分を睨みつける青年の眼光の険しさ。そして青年の自分の腕を掴む掌の暖かさに、今更ながらに気付いて――
岬から離れた空岸まで来たところで、カズマは少女から手を離し、そしてフラウは足の力を失いその場にへたり込んだ。止め処無く流れ出す涙もそのままに、フラウは立ち尽くすカズマをキッと見上げ、震えた声を振り絞った。
「どうして……!?」
「君の目には、迷いがある」
「え……?」
カズマには一瞥で判った。
そしてカズマの言葉は、明らかに少女の機先を制した。
「迷いを抱えたまま死んじゃ、迷わずに死んだ連中に失礼だろう」
「あなたに!……何がわかるのよ……」
そう言って、フラウはそのまま両手で顔を覆い泣き崩れた。大人の女性と形容するにはあまりに華奢な肩を揺すらせて泣く少女を、カズマは暫く立ち尽くしたまま見下ろしていたが、やがて両膝を突き、フラウの顔を覗き込んだ。
カズマは、言った。
「ぼくには君のことは何もわからないけど、此処で君を死なせちゃいけないってことだけは、今わかった。だから……今ここで君を助けてよかった」
「え……?」
少女の慟哭が、止んだ。カズマはフラウの肩を叩き、そして微笑みかけた。
「……さあ、家に帰りなよ」
そう言い、カズマは立ち上がった。土を払いながら元来た道へと踵を返し始めたカズマを、フラウは呼び止めた。
「あなた……名前は?」
「名乗るほどの、人間じゃない」
フラウの眼前で、青年は苦笑した。それが今のフラウには、天使の微笑のように思えた。それにつられ、フラウもまた笑った。
「わたし……わたしの名前は――」
「……?」
「フラ――」
「フラ……?」
「カズマァ―――――っ!! そこかぁ―――――っ!!」
落雷のように遠方から聞こえた女性の怒声、直後にフラウの眼前で、飛行服姿の青年の表情から、余裕が消えるのをフラウは見た。
「いけねっ」
呆然とするフラウを他所に、慌てて駆け出す飛行服の青年を、フラウは呼び止めた。
「パイロットさん!?」
「……?」
「おやすみなさい。パイロットさん」
「ああ、おやすみ!」
肩越しに青年は頷き、そして次の瞬間には駆け出しながら夜の只中へと消えていった。
退き始めた層雲の向こう側から、少しずつ姿を現し始める星々の連なり――
気付いたときには、その星明かりの下に少女は既に在った――
その温かい星明りの下で――
少年の後姿を見送る自分の頬と胸が、柄にも無く高潮を覚えていることにフラウが気付いたのは、それからしばらく経った後のことであった。




