第四章 「猛き黒狼」
二機は絶妙の距離を取り、見渡す限りの蒼に染まった空間を一直線に駆け抜けている。
雄々しいばかりに拡げた銀翼をあるときは翻し、あるときは傾けつつ機影は蒼空を駆け上る。あたかも地上に存在する一切の桎梏を、嘲笑と共に睥睨せんとするかの様に二機は飛ぶ。その強大な銀翼の主たるジャグル‐ミトラは、まさしくこの空域一帯を支配する空の王であった。王国に踏み入る慮外者は、見渡す限りの雲界にはいなかった。
操縦席――
スロットルは未だ半分しか開かれていない。
それでもなお、この銀翼の強力なふたつの心臓は、重く巨大な機影をして、雲海を自在に駆けさせられるほどの力を、一分間に3000回転を超える絶え間ない鉄と炎の鼓動で与え続けている。鼓動の生む振動に、発動機のそれとは違う金属的な響きが共鳴するかのように重なり、それは耳に心地よい。希少な排気タービン過給機が強制的に薄い大気を吸込み、圧縮してエンジンに送り込むことで生まれる共鳴音であった。
ほぼ全周への視界を確保した、見晴らしのいい操縦席の前方に聳える白雲の頂に、思わず乗り手の目が細まる。
操縦桿を左右上下に傾ける度に帰ってくる、従順なまでの機体の反応に、乗り手はしばし酔う。
それでも――
『――隊長』
イヤホンに入ってくる列機の声には、今朝に慌しく飛び立ってもなお止まない躊躇いがあった。
「どうした、グーナ?」
そうは応じてみたものの、二機編隊の長たるタイン‐ドレッドソンには部下のレラン‐グーナ中尉の抱く懸念がわかっている。
『――本当に、宜しかったのですか? 勝手に予定を抜け出して……』
「俺が決めた予定じゃない。そんなものに何故従う必要がある?」
『――ですが……仮にも『頂上階級』ですよ? 分からず屋の基地司令はともかく、それより上の連中の心証を悪くすることにでもなれば……』
「しばらく実戦から遠ざかっているうちに、饒舌になったな。グーナ?」
『――……!?』
絶句と同時に、先行するタイン機の機影が唐突に掻き消える――|可変空戦フラップ《ヴァリアブレ‐フラッペ》を駆使した急上昇――慌てて振り返った背後に、一瞬の内に機位変換を終えた彼の長機はその精悍な機首を向け、その先端で今にもグーナ機の尻を突きそうな勢いだ。単なる訓練飛行の端々で見せる超絶的なまでの操縦技術の冴え。だがグーナはそれがタイン-ドレッドソンという男にとって、あたかも目前に留まった蝿を打つのにも似た、ふとした気紛れの為すものでしかないことを知っていた……だが常人が彼の真似をすれば、血流と三半規管が壊れて立ちどころに機位と意識を喪失する。常人離れした体力と均衡感覚の威力だ。
「前方見張り不良だ。グーナ」
『――ちぇっ……卑怯だなぁ』
そうぼやくと同時にグーナが覚えたのは、苦笑――隊長……まだイライラしてやがる。
事実……彼の上官は苛立ちを覚えていた。
その端緒は、先月までに遡る――
航天暦1867年7月――
かの「アレディカ戦役」以来、南大空洋はリューディーランド空域で繰り広げられたレムリア、ラジアネス両空母機動部隊の本格的激突は、航空部隊の戦力と練度に優越したレムリア艦隊の優勢のうちに進み、戦術的にはラジアネス軍空母「二隻撃沈」と、何ら申し分ない戦果を上げて作戦は終了した。
だが、戦術的な勝利の反面で、作戦全期間を通算した100名を越える熟練搭乗員の未帰還は、決して即座に――あるいは永久に――回復することのない損失として、勝利を得たはずのレムリア軍にとって冷厳なまでに突き付けられた悲壮な現実となった。そしてタイン自身は、その作戦期間中に見え隠れした恐るべき「何か」の存在に内心で戦慄し、次なる戦機においてその正体を探し出し、「排除」しようという意思を固めるに至ったのである。
レムリアの戦場、その陰に蠢き、そして飛ぶ「何か」――
現在、そのタインの懸念とでも言うべき戦慄は、作戦終了から少しの時間を置き、すでにこの戦線の空戦士たちにとっても共有されるべき話題となっていた。
地上人の中に、恐るべき凄腕の戦闘機乗りがいる!
そいつは混戦の中狙いを付けた獲物の背後に忍び寄り、必殺の一撃を浴びせるや一瞬にして敵を葬り去り、加速して再び混戦に溶け込んで何処かへ消えていく――そのような噂が空戦士たちの間で実しやかに囁かれ、むしろ緒戦で醸成された余裕を打ち消す緊迫感すら与えていた。そして腕に覚えのある連中の中には、タインとは別にその「小賢しい地上人」の姿を追い求め、討ち取ることで名を上げようという動きすら生まれていた……
だが、それすらタインには不満だった――あいつは俺の獲物だ。
この俺こそが、あいつと戦ってあいつを倒し、あいつの前に斃れた仲間の仇を取るべきなのだ。
外野風情が何を出すぎた真似をする?
これは俺の勝負であり、戦いなのだ!
――話を戻す。
その日の、最初の飛行に発つ間際、タインの忠実な整備兵たるレグエネン上級整備兵すら、その痘痕まみれの顔に懸念の色を浮かべたものだ。
「――いいんですかい。旦那?」
「俺がいいといったら、いいんだよ」
すでにタインが乗り込んだ操縦席へ通じる梯子を降りながら、レグエネンは言った。
「まあ、自分のような下っ端には関係ないことですがねぇ……」
「俺のような庶民上がりにも、関係ない」
完全に黄ばみ、所々が欠けた歯を見せ、下層民出身のレグエネンは笑った。心服する上官の巧みな切り返しに、心から同意を覚えたが故だ。
――再び、空。
名目は編隊飛行訓練を兼ねた機体の調整飛行。だが実際は、もはやこれ以上何の調整を経ずともジャグル‐ミトラはその持てる全力を何時でも発揮できるほどに完成され、熟成されている。こうして実際に操縦桿を握り、雲海を睥睨しつつ泳ぐかのように緩やかな旋回を繰り返すタイン自身が、それを判っている。
かつてタインは、部下の前でこう言ったことがある。
「――頂上階級だから、何だって言うんだ?」
「――……!」
唐突で、そして不遜な発言に、部下たち――それも、数々の戦闘を生き抜き、勝ち抜いてきた歴戦の勇士――の表情が一変するのを愉しむかのように眺め、タインは続けたものだ。
「――奴らだって眠たいときは眠るし、腹が減ったら食う、その気になったら勿論、女を抱くだろう。それに、弾丸が当たれば、死ぬ。俺たちと何の違いがある? 違うのは、生まれながらの肩書きだけ、それ以外は俺らと同じ人間だ。決して神とか天使じゃない」
その気になったら勿論、女を抱くだろう――その言葉の中に、彼の人生で最も痛切な悔悟に値する場面を反芻した瞬間、感情に任せるまま傾け、踏み込んだ操縦桿とフットバーは、ジャグル‐ミトラの機影を翻し、雲海への急降下に駆り立てる。
『――隊長!』
悲鳴にも似たグーナの声――
否――それは感情の赴いたが故の操作ではなかった。
『――グーナ、後方7空浬より三機!』
「え……?」
加速に震える操縦席で、反射的に振り向いた後背――グーナの眼力は、今しがた通過してきた団雲の連なりを背景としたその先に、招かれざる客の接近を感じ取る。
その間も、縮む距離――前方のタイン機が加速するのに合わせスロットルを開く。
だが……
距離が開かない!――絶句と共に感じた驚愕を、グーナは急旋回に転じた乗機を襲う加速度に、必死で耐えながらに押さえ込む。
『――グーナ、操縦に専念しろ。ミトラなら何とかなる』
「了解……!」
スロットルを全開にまで押し込んだのは、二機同時――
急降下に転じ、過回転間際の唸りを上げるプロペラ――
それでも――
「……!?」
再び顧み、覚える戦慄――
二機を追う三機は、すでにその獰猛な黒い機影を判別できるほどの至近にまで、距離を詰めていた。発動機出力と機重に任せた降下だと察した。
ゼーベ‐ギガか?――違う。
それにしてはあまりに長く、太い機首。
機首の下から両側にかけて覗く、飢えた獣の口を思わせる空気取入口。
主翼もまたゼーベ‐ギガのそれより長く、厚い。
その左右両下面からも、悪趣味なインテークが空虚を広げている。
そして――
何よりも単発機ながら双発機のこちらに余裕で追随できるほどの加速、より接近したことにより鮮明となった、黒と黄を基調にした派手な塗装が、その機体と乗り手たちの発する尋常ならざる鬼気を、嵩増しして二機に感じさせた。友軍機の筈だが、向けられる気迫と殺意が半端ではない。
そして――グーナは喝破する。
俺など、眼中にない――!?
やつらの目的は――隊長!?
前方を行くタイン機が、右に滑る。
グーナも同じく右へ――
タイン機が今度は左――
それに合わせ左に――
右――
左――
右――
左――
加速したタイン機がバンク――
翼端が機体より先に音速に達し、一気に噴出す水蒸気――
一瞬、遅れるグーナの反応――
グーナは苦渋する――追従ていけない!
隊長、何時の間にか本気になっている!
そしてやはり――
「……!」
グーナが空けた間隙に、捻じ込むようにして入り込んだ三機――
その後姿を、グーナは忌々しげに睨む。
あの三機の目的は、隊長だった!
そしてグーナの眼前で――
一機と三機は絡み合うようにして旋回を繰り返し――
雲海の犇めきの成す谷の奥底へと――
墜ちていく――
旋回と降下は操縦者に苦痛を与え、それが続く限り操縦者に拷問を加えられているかのごとき忍耐を強いる――
左スロットルを絞り――
右スロットルは全開のまま――
フットバーを小刻みに左に踏み――
操縦桿は左に傾けたまま――
均衡を崩壊させたエンジン出力と――
左に回転を刻むプロペラのトルクに任せ――ミトラは鋭く左に旋回る。
倍加する重力に奪われ、狭められゆく視界――
それでも――
タインは強靭な首の筋肉に任せるまま――
機上、垂直旋回の天井に映る黒い機影を睨み続ける。
毛細血管の幾筋かの切れる音がする。
「……! ……!」
加速に抗う短い呼吸が、徐々に意識を削る。
三分前からだ――タインは知っていた。
先刻より彼を付け狙い、追い続けている不審な機影の所在と正体を――
怒りと侮蔑――過去の経験から、機影の主に、タインはそれ以外の感情を持ち合わせてはいなかった。
だからこそ――
たとえ相手が自分より多勢であろうと――
彼はこの勝負に負けるつもりもなかったし――
負けてやろうとも思わなかった。
続く降下――
下界への距離の縮みを刻み続ける計器――
一旋回――
二旋回――
三旋回――
四旋回――
そして――
「アホ……!」
苦界の中にあっても、男の強靭な精神はなお冷静――
侮蔑を篭めた独白――
|可変フラップボタン《ヴァリアブレ-フラッペ》に伸びる指――
フラップダウン!――
時が止まったかのような、烈しい振動――
急減速の凄まじい反動――ハーネスが躰を締め付け、タインは歯を食いしばって耐える。
獲物の急減速にはぐらかされ、そして崩れる三機――
一瞬にして逆転する攻守――
だがタインは苦笑する。
急激に変化を刻み始める敵のプロペラの回転――逃げを打つ三機。
それを前に、スロットルを握る手が緩む。
『――隊長!』
背後からのグーナの声を省みることなく、タインは苦々しげに、すでに太い軌条を曳き雲海に向かう黒点と化した三機を睨み続けた。
「ハイエナどもが……やってくれるぜ」
帰還――
着陸――それに続く滑走の最中、駐機場の一角に例の三機がすでに機影を並べ、翼を休めているのを目にした瞬間、タインの不快感は更に込み上げる。
逃げ足の早いのは、昔からか――そう思い、タインは苦笑する。
「奴ら」はいつもそうだ。勝つためならばどんなことにでも手を染めるし、味方を犠牲にすることすら厭わない。
そして――一度弱みを見せた敵を、「奴ら」は徹底的に叩き、骨すら残さないくらいに喰らい尽くす。
だからこそ――「奴ら」は重宝されている。
「汚れ仕事専門」の独立部隊として――
まさに――ハイエナかハゲタカのような、忌まわしい連中。
その「奴ら」も、この戦線に来ている。
果たして――何のために?
不意に浮かんだ疑念を、その思索で漠然と弄んだままに駐機場までミトラを滑走させた。そこでエンジンを止めたタインの方へ駆け寄ってきたのは、レグエネンではなかった。その瞬間、タインの脳裏で何かが震えた。
「しまった……!」
「隊長―っ! 少佐どのぉーっ!」
若い整備兵の切迫した表情が、タインを有無も言わせずに操縦席から飛び降りさせた。ヘルメットを拭って押し付けるように整備兵に渡し、タインは険しい視線を彼に向ける。
「何があった?」
「とにかく、来てください!」
歩を早めた先は、掩滞壕の隅を利用した搭乗員の溜り場。同じく機から飛び降りたグーナもまた整備兵を引き連れ、早足で彼の後を追う。だが……そこへ行くまでもなく、タインは薄暗い中で足元に倒れる人影を見出し、言葉を失う。
「レグエネン!」
抱き起こそうとして、タインは止めた。
ここよりずっと奥に屯する、およそタインの感性とは相容れない空気と気配を感じ取ったから――
そのタインの直感は、正しかった。
「ヘヘヘヘヘ……」
「ヒヒヒヒヒ……」
「ククククク……」
およそ空に生きる者として相応しからぬ邪念の篭った三つの哂い――タインはそれの発せられた奥へ目を細め、口を開いた。
「やはりお前らか……弱い者虐めしかできん誇り高きレムリア民族の恥晒しが」
「……」
哂いが消え、次の瞬間にはその場の空気を震わすかのごとき殺気が漂い出した。常人ならば確実に怖気を奮いその場から逃げ出そうと試みるであろう極陰性の気迫から、タインは明らかに超然としていた。
ゆっくりとタインは膝を折り、レグエネンを抱き起こした。タインの腕の中で、彼の忠実な整備兵は度重なる無慈悲な殴打の末に顔中を醜く晴らし、切れた口元からは、未だに血が赤く細い流れを為していた。
「旦那ぁ……!」
呻く様なレグエネンの声を、タインはゆっくりと頭を振って止めた。
そこに、前からの猫なで声――
「挨拶代わりよ……空の上での挨拶はどうやらお前さんのお気に召さなかったようだからなぁ」
「ああ……とんだご挨拶だったぜ」
前にいる連中と目を合わせようともせず、タインは言った。
「……で、先月からタナトにいたのか?」
三人は、また笑った。三人の長と思しき真ん中の男が、言った。
「……タイン-ドレッドソン少佐殿に置かれては、相変わらずご慧眼の持ち主とお見受けいたしますなぁ」
「貴様ら死肉に集る野犬どもには似合わん言葉だ。聞いているこちらが恥ずかしくなる」
「何ぃ……!」
三人のうちの右側、短躯かつ細身の男が怒りを言葉にして搾り出す。それを宥めるかのように、左側に立つ屈強な長身の男が口を開いた。
「タインちゃんよぉ、俺たちゃマブダチだろ? それなのにお前さんがあんまりにツンツンしてるから、俺たちゃ仕方なくその豚と遊ばなきゃいけなくなっちまったんじゃない?」
「……」
「基地が同じになったことだしさぁ、仲良くやろうぜタインちゃん……ちょうど目的も同じことだし」
「何……?」
勘に触れる言葉を前に、眼つきを一層に怒らせたタインに口を開いたのは、真ん中の男だった。
「悪く思うな。こいつらは心から悦んでいる。久しぶりで『獲物』を与えられたことにな」
「まさか……」
「……その、まさかさ」
男は言葉を貯め、そして切り出した。
「……セルベラ隊長は、お前さんだけじゃあ役不足だとよ。」
タインの絶句を前に、三人は一斉に笑った。だが絶句も一瞬、三人を表情の消えた目で睨みながら、タインは言った。
「お前らに、はたして奴が撃墜せるかな? 黒狼三人衆」
「我ら黒狼三人衆の前に広がるは、殺戮の空……だ。タイン‐ドレッドソン」
男たちの豪語――それが回顧するのも憚られるほどの数多の凄惨な事実に基づいていることを、知らない者はこの場にはいない。




