第三章 「エルディナ」
空――まだ子供と言われていた時分の彼女にとって、それは単に深窓から見上げるだけの対象でしかなかった。
彼女は何不自由無い家庭に生まれた。
否……彼女が生を享けたのは、栄達と栄華――それ以外しか運命付けられない血脈。
彼女が生まれた国では、そうしたごく少数の人々のことを頂上階級と言う。
神と人とが共に在った遥かな昔に遡る国家の成立以来、代々を国家建設に身命を捧げ、相応――または過度の――対価を国家より与えられてきた一握りの階層。彼女の一族もまた国家の建設に何時とも知れぬ古来より深く関り、代を経るごとに名声と富貴を高めてきた。一族の当主たる彼女の父もまた例に漏れず、若くして国防軍の顕職に在り、彼女が生を享けるずっと前より、いずれは国防軍の将来を担う逸材と目されていた――事実、長じてその通りになった。
豪奢な邸宅とそれを囲むように広がる広大な敷地、自分に傅く三桁に上る召使、豪奢な天蓋に飾られ、絹のシーツに覆われた柔らかく暖かい寝台、厳選された素材を惜しげもなく使った美味な食事、将来の指導階層たるべく課される充実した英才教育、ほぼ連日連夜に及ぶ趣向を凝らした饗宴……欲するものと望むものは全て、生まれながらにして彼女の身の回りにあった――ただ一つ、人並みに暖かい、親愛に溢れた家庭を除いては。
彼女の誕生は、ごく普通の夫婦として当然のごとく、彼女の父と母に強く望まれたゆえのことではあったが、実は事情は単純なものではなかった。彼女の父と母は熱烈な恋愛の末に結ばれ、それは何の瑕疵も無く結実するものと思われた。だがそれは、将来を嘱望された名家の次期当主たる青年将校と、その邸に出入りする小間物屋の娘の恋愛――つまり、二人の間には歴然たる階級の差があり、それは古来より厳重なまでに社会の根底に根を下ろした階層制度の支配するこの国では、二人の恋愛そのもの以上に人々の耳目を惹き、あるいは親族の烈しい反駁となった。
そうした周囲の反対を押し切る形で父は母を娶り、日々の生活を共にすることとなってもなお、核心階層であるという母の出自は、物心両面に溢れていても閉鎖的な頂上階層での立ち位置に少なからぬ影を落とすこととなった。出自が違うという、傍目から見ればあまりに理不尽な理由から彼女の母は階層同士の集まりからは疎外され、あるいは露骨な隔意の対象となった。一方で、色仕掛けで名家の御曹司を誑かし、幸運の任せるがまま至高の地位を得た成り上がり者――頂上階級だけではなくその下々の人間ですら、彼女に好奇の、あるいは嫉妬の眼差しを何の躊躇いも無く向けたものだ。一度その世界に足を踏み入れた途端、彼女の母には夫たる父以外一人の味方もいなかった。
それでも母が父の家に入り、頂上階層として遇され、さらには彼女を産むまでに至ったのはやはり父の愛情と庇護によるものであったことを否定することはできない。それでも彼女を産み落とした後、心身に蓄積された労苦に耐えかねた母は、それからひと時も寝台から離れることは叶わなくなった。
物心ついたころから、彼女の母は病床にあった――だから、幼い時分の彼女にとって、母といえば寝台の上の女性という記憶しかない。
そしてそれ故に、父は娘たる彼女を一層に愛した。愛する妻が、すでに母としての役割を果たせずに一生を終えてしまうのではないか……という恐れを、娘たる彼女の前では口にしないまでも彼は持っていたのである。
父は確かに妻たる母を愛した。それでも彼は、将来に対して冷静であった。
冷静であるがゆえに、彼女の父は娘に頂上階級の一員として生きていく上で必要なことを、自身の目の届く範囲内で直に教え諭し、常に娘をそばに置いておこうと心がけた。何故かと言うに、彼は娘に淋しい思いをさせることを、心より恐れたからだ。
娘たる彼女もまた、そんな父の配慮を幼心に理解していた。
だから彼女は、現在に至るまで父を愛している。
生を享け六年が過ぎ、彼女は学校に上がった。
こと学歴に関し、頂上階級に属する人間は他の階層とは違う途を辿る。そのスタートラインこそ初等学校で同じだが、六年の初等学校、それに続く三年間の中等学校を経た後、頂上階級の子弟は完全に家庭より引き離され、全寮制の「学院」で二~四年を過ごし、国家の中枢を掌る「選ばれし者」たるに相応しい教養と学問とを養う。この時期に培われた同窓生間の人脈は、階層内の連携を一層堅固なものとし、それは政府中枢の人事や、この国の政策方針にも影響を与えるというわけで、そして晴れて卒業を迎えた19歳にして、頂上階級の子弟は政府及び国防軍中枢の高級幹部として人生のスタートラインを迎えることになるのだった。
彼女もまた、例外ではあり得なかった。
「リエターノ家の子」
頂上階級の子弟専用の女子初等学校に入学して間もない内に、彼女は自分の名を呼ばれる以上の頻度でその名で呼ばれ、同級の生徒の畏敬の念を集めることとなった。彼らの言う「下層社会」と同じく、頂上階級の間でも、富の多寡と政治的な影響力に基づく氏族間の力関係が人間同士のそれに微妙な影響を与えることがある。本来ならそうした柵から自由であるべき学校もまた、例外ではなくなっていた。
子供は純粋なるがゆえに露骨である。上位に位置する家系の子は自らの家系を傘に着て居丈高に振舞い、下位に位置する家系の子は上位の子に露骨なまでに卑屈に接する。そうして知らず知らずのうちに形成されたヒエラルキーにより、やがてはごく少数の上位家系の子を中心に、校内ではいくつかの派閥が作られることとなる。
頂上階級でも特に、家柄と歴代の実績において群を抜いた家に生を享けていた彼女は、他者に傅くという経験だけは経ずに済んだ。そして彼女はそうした子供同士の政治ごっこにはまったく無関心であり、それらからは超然としていた。そのようなものに関わっている暇などあろうはずがなかった。
何故かというに、彼女は彼女で、守らねばならないものがあったから――
その日――
迎えの高級乗用車のドアが完全に開ききらないうちに、彼女は車寄せから玄関のポーチへと駆け出していた。
指導階級の子弟として必修の学業のほか、放課後に当然のように課される稽古事を終えると、幼い彼女は一目散に広大な邸宅の一隅、そこに広がる母の病室に駆け込み、母とともに限られたひと時を過ごすのが常となっていた。暖かい木漏れ日に満たされた部屋で寝台の母に甘え、木漏れ日に負けず暖かく白い母の手に抱かれ、女神のような母の声を聞くのが彼女には大きな楽しみであり、生きるうえでの励みとなっていたのだ。
そして甘えたい盛りの彼女は、そんな一日が永遠に続くものと、この日もまた無邪気に信じていた。
母の部屋がある二階へ続く階段までは、邸宅に七つある居間を使わねばならない。逸る心の駆り立てるまま、いつものようにその傍を過ぎ去ろうとしたとき――
「――何を仰いますか母上!」
普段、日中は軍務で家を空けているはずの彼女の父の、色をなして祖母を責める声を、そのとき初めて彼女は聞いた。
祖母……とはいっても、幼い彼女は内心では父の母親たるその女性を、どうしても祖母として受け容れることはできなかった。それもそのはず、気位が高く、一貫して息子の結婚に反対してきた祖母は、初孫に当たるはずの彼女に一度として祖母らしく接したことは無かったのだ。祖母はまた、息子が結婚して母がこの家に入って来て以来、息子夫婦からは距離を置き、事あるごとに出身成分の違う嫁の至らなさを吹聴し、嫁を難詰しては母の心労を誘っているかのような風があった。
「――カルフ、これはあなたの為なのよ」
宥めるようにそう言い、祖母は続けた。
「――あの女ももう長くは無いわ。それに跡継ぎの問題もあるし、気持ちを切り替えることが必要だと思うの。だから、今のうちに新しい伴侶を探すべきよ」
……!
絶句――その術を知らなかった彼女が、開け放たれた居間へと続くドアの陰で、初めてそれを覚えた瞬間だった。だが彼女が衝撃を覚えるには、まだ早すぎたのだ。
「――跡継ぎなら、エルディナがいます。あの子に相応しい婿を迎え入れればいい」
「――誰の種かわからない革新階層の子供なんて!……誰が婿に来るものですか! 母を他家の笑い者にする気なの?」
「――何たる暴言! たとえ母上であろうと看過できませぬ。同じ女性として、エイラと孫娘に対して恥をお覚えではございませぬか?」
「……!」
直後、祖母は声を上げて泣いた。息子の指摘に自身の狭量さを自覚し、発言を悔いたわけでは決してなかった。
「――お前は何ということを!……私と身分卑しきあの女を同じ目で見ていたなんて……それでもお前は誇りあるリエターノ家の当主ですか!?」
祖母の悲嘆に気圧されたのか、父は悄然として祖母を宥めるしかなかった。息子は、母に弱かった。現在となっては父の反駁が、娘には年端もいかぬ子供の反抗のそれにも聞こえる。
「――とにかく、そのようなことは私以外の人間の前では決して口に出しては下さいますな!」
あの女?……卑しき身分?……自分のいない場所で、今まさに愛する母と自分の存在が否定されようとしていることぐらい、彼女にはすぐにわかった。
そして彼女はこのとき初めて悟った――自分が生を享けた世界が、外面の華やかさの一方で、その実彼女自身にとってあまりに過酷で、恐ろしい場所であることに。恐ろしいと判った途端、幼い彼女にとって世界は監獄のように狭く、冷たい空間となった。
そして――
彼女がそのことと彼女の属する狭い社会の内に、大人たちによって暗黙のうちに形成されているルールを、幼心のうちに理解し始めたそのとき、母は死んだ。彼女が八歳のときだった。その穏やかな顔からはこれまでこのあまりに閉鎖的で、薄情さに満ちた世界で蓄積してきた苦しみなど一片も伺えない、眠るような死だった。
大切な人間を失った彼女の周囲に、ひとつの変化が訪れたのはそれから少し後のことだ。
母の喪が明けて間もない内に、満面の笑みを浮かべた祖母に付き添われるようにして家に来た一人の女性は、父の上司の娘にして彼女の家にも負けない程の頂上階級の名家の出であり、そして死んだ母に負けない位に美しい女性だった。
「――エルディナ、この女がお前の新しい母上だよ」
戸惑う彼女の肩を抱き、父は哀願するように語り掛けたものだ。
「――エルディナ……これはお前のためでもあるんだ。判ってくれるね?」
「――うん……」
彼女は頷くしかなかった。
だが……彼女には一目ではっきりとわかったのだ。その女性の彼女を見る目に自分に対する愛情も無ければ、興味すらも宿っていないことに。
そして――彼女の直感は正しかった。
愛情の対極は無関心であるという。
新しい母は、彼女の直感通り、義理の娘たる彼女を決して受け容れようとはしなかった。だが彼女に対し積極的に悪意を発露させるというわけでもなかった。むしろ彼女の継母にとって、その出自ゆえ彼女は悪意を抱くに値しない、矮小な存在に見えたのかもしれない。そして矮小な存在はえてして目障りな存在へと昇華し、その主体は対象をなるべく忌避しようとするようになる。
継母とその義理の娘が同じ屋根の下で暮らし始めて一月も経たないうちに、彼女は義理の母から表玄関から屋敷に入ることを禁じられ、裏口からそのまま子供部屋へ直行することを強いられるようになった。そこで待っていたのは勉学、あるいは稽古事という名の軟禁――「下賎な」核心階層の血を引く娘を、他の頂上階級のそれに遜色ない淑女に育て上げるという口実の下でそれは行われ、彼女は家庭の団欒、そして階級間の社交からは完全に隔離されたのであった。今日に至るまで、彼女が継母と口をきいたことは片手の指で数える位しかその記憶には無い。継母付きの召使を通じた言伝――それが、新しい母と娘との、リエターノ家における意思疎通の方法であった。そしてそのような日々は彼女が初等学校を出、「自らの意思」で寄宿制の中等学校へ進むまで続いた。
彼女はそれに沈黙とともに耐えた。
彼女自身のために――
死んだ母のために――
そして、愛する父のために――
――残された唯一の居場所たる子供部屋の、小さな窓から空の景色を見上げながら、彼女は耐え続けた。
何時しかその小さな胸に、知らず見上げる蒼穹への憧憬を宿しながら――
空――少女と呼ばれるに相応しい年頃を迎えた彼女にとって、それは単に見上げる対象ではなくなっていた。
初等学校に続く、寄宿学校への進学は彼女の意思だった。だがそこに希望とか将来への展望を見出したわけではない。少女と呼ばれるに達した彼女は、邸の外に自らの居場所を得んと苦悩した末に、広い邸から追われたかたちとなった。彼女には帰る家はあったが、そこに彼女の居場所は無いも同然であった。父の再婚の翌年に継母が身篭り、一族にとって待望の男子を産んだことが、家庭における彼女の居場所をさらに狭めることとなった。
おそらく一人を除き、自分の属する一族から完全に隔絶され、疎外されていることを彼女は知っていた。それを運命と受け容れながらも、堪えようの無いいたたまれなさから彼女は実家のある首都圏から遥か離れた高原の寄宿学校を選び、逃げるようにそこに身を寄せた。頂上階級としての栄達、一族への貢献を追及する選択肢など、とうの昔に捨てていた。一族の方でも、そのような彼女の決断に何ら反駁や疑念も示さなかった。あるいは体のいい厄介払いができた程度にしか思わなかったのかもしれない。
旅立ちの朝、頂上階級の人間らしからぬ身一つで学校の所在地へと向かう彼女を見送りに来たのは父一人だけであった。その最後まで彼女の父の親類は、彼女を同じ階級に属する一族として遇しようとはしなかったのである。だがそれはむしろ彼女にとって都合がよかった。おそらくは、彼女の唯一の理解者たる父にとっても――首都郊外。頂上階級専用の発着埠頭から飛行船に乗り込む間際、軍服姿の父は悲しげな表情もそのままに、黙って娘を抱いた。それが父が彼女だけにする最上の愛情表現であることを彼女は知っていた。そのような父がいるからこそ、その頃の彼女は世を嫉まなかった。
そして新しい居場所に足を踏み入れた彼女にとって、別れは新しい出会いの始まりともなった。
それはまさに、彼女の人生を決定付けた出会い!
新しく足を踏み入れた寄宿学校の生活は決して束縛に溢れた、窮屈なものではなかった。もともと花嫁養成学校的な意味合いの強い、頂上階級から一部核心階級富裕層までを対象とする、上流階級専用としては、あまりに例外的なインターン型の自由な校風は、少女の段階に足を踏み入れたばかりの彼女を忽ちのうちに魅了した。久しぶりで――おそらくは生まれて初めて――自身の眼前に広がるに至った自由を彼女は満喫したのだ。「あのリエターノ家の子」という彼女の肩書きもまた、彼女の意図しないところで効果を発揮し、学校側でも首都から来た「深窓の令嬢」に、学業そして実生活の面で何ら干渉を加えることは無かったのであった。
躍動――
学業もそこそこに、定期試験に合格するだけの勉学をして中程度の成績を保ち、彼女はあとの余力をできる限りに、体を動かすことに注いだ。学校を取り巻く見渡す限りの濃緑の大地と銀色の雪山の連なりは、その彼女の意思と希望に見事なまでに合致していた。入学して三ヶ月ほどで、「手に負えないほど活発な、およそ花嫁候補に相応しからざる生徒」という評価が教員たちの間で定着したが、その評価にはおそらくは「手のかかるものの、憎めない問題児」に抱く苦笑にも似た微笑ましさが宿っていたかもしれない。校内の運動施設、周囲の高原、そして雪山を舞台とした馬術、登山、球技、スキー、スケート……それらに少女が一通り熱中し、そして飽きかけたある日のこと――
それは、彼女が寄宿学校での生活を始めて二年目の夏期休暇の、それもはじめに起こった。
駿馬は校舎を出てすぐに広がる森を、瞬く間に駆け抜ける。
駆け抜けた先から降り注ぐ暖かな日差しの中で、その早駆は一層に勢いを増す。
爽やかな風を胸に受け、彼女は手綱を握り締める。
夏――同級の女生徒は多くが帰郷し、閑散が校舎を漂う頃だ。校舎に残る生徒はあまりに少数、それも大抵が病気療養中か両親の仕事など家庭の事情で帰郷を断念した者ばかり。彼女もまた、その中にいた。彼女自身の意思から彼女は校舎に残り、たった一人の夏を迎えた。
愛馬はとっくに二つの丘を越え、乗り手の瞳は三つ目のなだらかな丘を捉えていた。
前方に広がる傾斜――それすらものともせず奔馬の速度はさらに上がり、少女を際限ない加速へと駆り立てる。
掛ける拍車、握り締める鞭――馬と、そして風と一体になれば、この世に存在する全ての頸木から解かれ、背中に翼を得て蒼空へ飛び上がっていけるかのような気がする。そこまでの過程を味わうのが、彼女にとっての乗馬の醍醐味だった。
それを何度も繰り返すうち、終にこの快感に飽きつつある自らを振り払うかのように、彼女は知らず馬の腰にさらに鞭を与え続ける。
そして少女の瞳には、容易に快感を味わえぬことによる焦燥すら宿りつつあった――
「……?」
丘の頂上に達した馬が、丘を乗り越えるように不意に現れた何者かを見出し嘶くのと、もしくは驚愕に飛び上がるのと、どちらが早かっただろうか?――そのような思考を巡らせる間も無くバランスを崩した少女は馬から振り落とされ、そして草に覆われた地面に叩き付けられた。
絶句――
華奢な躯を揺るがす強かな衝撃。
一瞬止まる呼吸。
何が起こったのかを、少女は量りかねる。
同時に、通り過ぎる一陣の風。
自然の風ではない?
地上を嘲笑うかのような高らかなエンジン音。
落馬の痛みを忘れ、呆然として少女は見上げる。
「……」
少女が仰いだ空――操縦席に陣取る、革の帽子を被った人間の頭すら見える低空。
その先で、丘の上すれすれを通り過ぎる影は、翼を持っていた。
空を仰ぎ、呆然とする少女の眼前を悠然と乗り越え、そして通り過ぎる機影――美しいと、自分の立場を忘れ少女は思う。
――それが、少女が自らの生きる途に空を見出した瞬間。
翌日、落馬の痛みもいえないまま、少女は地図帳で突き止めた周辺で唯一の飛行場へと足を運んだ。「国家郵政局管轄地」という色あせた看板を掲げるうらぶれた場所が、それであった。
周囲に巡らされた鉄条網はその所々が破れ、ただの芝生の、それも広大な空間がそれに囲まれていた。その横に住居とも事務所とも区別のつかないバラック造りの平屋が立っているだけの、飛行場と呼ぶにはあまりに粗末な場所。
旗竿のようにか細い柱に支えられた吹流しが折からの強風に今にも折れそうなほど撓っていたのが、彼女には印象的だった。
「……」
その片隅に機体を横たえる使い込まれた複葉機に、少女は思わず目を見張った。
木製のプロペラは太く、そして幅が広かった。それに負けず劣らず広い羽布張りの主翼は一枚、操縦席付近から幾重にも巡らされた張線が、飛行機と言うより凧という印象を少女に与えた。その下に、自転車の車輪を思わせる小さな主脚が、緑色の大地を心細げに踏みしめていた。胴体に描かれた機番号は、確かに先日に遭遇した翼と同じだった。
それが、飛行場の片隅に立ち尽くすばかりの少女を前進へと駆り立てる。
足を踏み入れた事務所で彼女を迎えたのは、くたびれた風貌も痛々しい、中年の男とその足元でだらしなく寝そべる大きな、毛むくじゃらの雑種犬だった。久しぶりの来客を、電報か荷物を運ぶ依頼人だと思ったのだろう。粗末な応接間に通され、お茶まで貰ったところで、彼女は自らの素性と飛行機のせいで落馬し、馬も傷ついた旨を告げた。話す間、犬はいつの間にか彼女の足元まで寄っていた。
「――珍しいな。うちのワーグネルが他人に構うなんて」
交渉はそれで決した。彼女から「やんごとなきお嬢様学校」を通じ訴追される代わりに、郵便飛行士は夏季休業の間、学校に内緒で一人の女生徒に飛行機の操縦を教えることになったのだ。だがそれは、彼にとって決して悪い話ではなかった。何せ一ヶ月契約で彼の五か月分の給与に匹敵する対価を、彼女から受け取ることになったのだから。入学してこの方毎月のように父が送ってくれる、辺鄙な土地には過分な額の生活費が、このとき役に立った。
――それに、後で判ったことだが、国防軍上がりの熟練した操縦士であり、飛行教官の資格をも持つ彼にとって、この「やんごとなき身分の少女」は、教えがいのある生徒であった。
始動――
交渉が成立した即日、晴れ渡った平原の飛行場に、軽快なエンジン音が響き渡る。
国防軍払い下げの初級練習機を改造した郵便輸送用の飛行機、その前席に陣取る操縦士の指示が伝声管を伝い後席に座る彼女の耳に響き渡る。
周囲の見張りを密にするように――
エンジンコントロールは小刻みに――
操舵は常に一歩先を読んで――常人なら習熟にまる一週間を要する操縦に必要な全ての動作を、彼女はわずか三日でやり遂げた。そして夏季休業も半ばを過ぎた二週間目で初めての単独飛行を経験した。ときに14歳だった。
空を飛ぶのは初めてではなかったが、飛行の全てが自分の手の内にあるというのはなんとも気分のいいものだ――単独飛行の途上、緩慢な左旋回に入れた郵便飛行機の操縦席の中で、ぶかぶかの飛行服に半ば顔を埋もれさせながら少女は思った。
飛行眼鏡とマフラーに覆われた顔に当たる涼風の感触は心地よい。
その心地よさは寄る辺を失った少女に、死んだ母の胸を連想させた。
だから歓喜こそは覚えてはいたが、何故か笑う気にはなれなかった。
止め処無く流れる涙が、顔に比して大きな飛行眼鏡のガラスを濡らし、少女の視界を狭めていく……
空には、わたしの求めてきたものがあった!――そのことに気付いたとき、少女は後悔する――
――母は、この空にいた……!
――何故にもっと早く、わたしはこの素晴らしい世界に出会うことができなかったのか?
ときに14歳――
夏季休業が終わり、多くの女生徒が学校に戻るころには、少女は14歳にして正式に操縦資格も得、いっぱしの飛行機乗りになっていた――もちろん、学校にも父にも内緒のことであったが。
そして彼女には新しい日課が生まれた。再び始まった課業が終わると、彼女は一目散に愛馬を駆って郵便局の飛行場に走り、夕暮れになるまで郵便飛行機を乗り回す日々を送ったのだ。整備の終わった機体の試験飛行や、郵便物集配の手伝いと称し巡回飛行を続けているうちに技量はぐんぐん上がり、冬に入るころには、飛行場に勤務するどの操縦士も、操縦技量では彼女には及ばなくなった。ワーグネルという名の教官の愛犬が、飼い主ではなく彼女の方に靡くようになったのも、いっそう彼女の足を飛行場に向けさせることとなった。
――ある日の連絡飛行。
寒風――地上に比べ烈しく冷たいそれにも、すでに感覚は馴れた。
目と躯が、飛行機の速さと高度の変化に馴れて久しい。そして旧型の飛行機は、少女の操縦に対し時には容易に限界を見せるようになっていた。
だが空は、そこにいくら身を置いたとしても、闖入者に対し決して寛容ではないことを少女は知っていた。実際無理な操作が祟り危うく墜落しかけたことも、少女は何度か経験していたのだ。時に往路と復路とで余りに相違を見せる天候の変化もまた、やはり飛行に慣れない少女を戸惑わせ、ときに恐れさせた――それでも、戸惑い恐れながらも、少女はやがてそれに慣れた。
後席から前足と頭、そして長い舌を出し、ワーグネルはただ無心に地上に目を凝らしている。犬を同伴させるようになってすでに二週間――毛むくじゃらのこの大きな犬は、今では少女の飛行に欠かせない立派な相棒となっていた。
風防の無い、剥き出しのコックピットは、風と一体となり空を身近に感じるのに都合がいい。
空から見下ろす大地は碧く美しい。瞳を凝らすたび、改めてこの道を選んだことの正しさを噛み締めている自分がいる。
さらに素晴らしいことには、この木製の骨組みと羽布、後は僅かな鉄屑だけで出来た利器は、ちょっと大地を蹴り上げ、飛行するだけでこれまで彼女が知ろうと考えも及ばなかった世界を見せてくれる――それも広く、美しい世界を!
美しい島、美しい山、美しい川……そして、美しい町並み――馬や車ですら踏破に数日を要する距離を、飛行機はほんの数時間で飛び越えていく。すでに遠方の街との連絡飛行を何度か経験し、見慣れた飛行ルートを辿る少女の顔には余裕すら浮かんでいた。向かい風に対し舵を踏んで機を滑らせ、吹き降ろす風に身を任せ機速を稼ぐ――出力が低く、気流の動きに敏感な小型機を操る術を、少女は自分でも知らないうちにその身体で体得し、そして心から楽しんでいた。
その日も十分に空の旅を満喫し、学び舎へ戻った彼女は、自分でもわけの判らぬままに来客用の特別室に通され、そこでは険しい顔をした生活指導主任と、そして彼女にとって最愛の人物が待っていた。
「お父様……」
「エルディナ、何故言ってくれなかった?」
久しぶりで、それも望まぬ形で対面を果たした親娘――
学校のほうでも、不埒な課外活動に勤しむ不遜な女生徒の存在にうすうす気付きかけていた。そして名門校らしい「スマート」な調査の末、およそ指導階層の子女らしからぬ道楽に身をやつしている事実を突き止めたとき、学校の威厳を守るための、当然の対処に出たのだった。
だが……戒めの意図を期待されて娘と引き合わされた父親は、およそ学校側はおろか娘ですら予期しない反応を、彼の娘に切り出したのだ。
「飛行機の感触はどうだ?」
「……?」
「もっと新しい飛行機に乗りたくは無いか?」
理解者を得た喜びを満面に、少女は頷いた。
そして父親は、喜ぶ娘を、ただ静かな微笑と共に凝視し続けた。
その日以来、少女と空との係りは新たな一幕を開いた。
14歳――その年代にして初めて操縦桿を握った彼女は、それから二ヶ月が過ぎる頃には益々その技量を上げ、それは単なる経験の蓄積の結果のみでは到底表現し得ない空恐ろしさすら、老練な飛行士たちに感じさせるまでになっていた。
ある日の飛行――
初級練習機上がりの郵便連絡機は、父の助力により新調された全金属製の新型機に、すでにその装いを変えていた。
流線型の機体を、エンジンを始動するや疾風のような滑走へと誘う金属製プロペラは、それまで少女が慣れ親しんだ分厚く重い木製と違い、儚いまでに薄く軽快だったが、離陸用と巡航用の二段階に、手動でピッチ角を変更することができる。
滑走――
加速する一方、風防を開け放ったままのコックピットで、少女はそのたおやかな全身に風の抗いを受ける。
速度計を見ながら、徐々にピッチ変更レバーを引き、スロットルを開く。
ちょっとした家庭の敷地ほどの広さの主翼を持つ愛機は彼女の操作に素直に反応し、天を仰いでいた機首は徐々に下へ傾きつつ地平に接し、そして気流に乗った銀翼は、折り畳み式の主脚を軽々と浮き上がらせる。
その主脚の浮遊を、彼女はタイヤの空回りする振動で察する。
その機体の飛翔を、依然よりずっしりと手応えの増した操縦桿で、彼女は知る。
フラップを少し上げ――
ハンドルで主脚を引き上げ――
スロットルを全開にし――
ピッチ角を完全に大となし――
機首から先に天へと向かう愛機のコックピットで――
母を想い――
空に母を求めながら――
少女は完全にフラップを引き上げ――
浮上――空へと飛び上がる。
――それらすべてが、意識ではなく瑞々しい感性によって導かれた操作。
あの娘は、何かが違う――
あの娘は、此処で燻っているべき人間ではない――
あの娘は、何時かきっと――
銀翼を纏った少女の姿を地上より見上げながら、老いた飛行機乗りたちは語り合う。
空の男たちが、地上で一人の少女について彼らなりの未来を語り始めた頃――少女は、卒業を迎えた。
その少し前――
エルディナ、軍隊へお行き――少女に操縦を教えた飛行士は、少女の未来に関し、それを勧めた。
軍隊に行けば、好きなだけ飛行機に乗れる。それも、お前が想像するよりずっと疾く、猛い飛行機に――
私が想像するよりずっと疾く、猛い飛行機?――
疾く、猛い飛行機?――そんなものが、この世に存在するの?
私の知る普通の飛行機ではない、疾く、猛い飛行機――
疾く、猛い飛行機――
疾く、猛い飛行機――
疾く、猛い飛行機――翼を持つことのみに飽いた少女は、その言葉に導かれるまま、国防軍への入隊を志願した。
疾く、猛い飛行機――強い翼への渇望こそが、少女が父と同じ途を歩ませる切欠となった。
ときに未だ15歳――
少女が望むものを手に入れるのに、かつては彼女をあれほど哀しませた少女の生まれは、選ばれた系譜に連なる者の特権――または特例――として、およそ考えられ得る全ての助力を惜しまなかった。
旅たつ間際――
自分の人生に大きな指針を与えてくれた場所に礼と別れを告げに来た少女と、飛行士は草原の滑走路で対峙した。
「――行くのか?」
もはや老境に達した飛行士の言葉に、少女は頷いた。そして眼前の彼の傍で畏まるワーグネルに、寂しげに目を細めた。
そんな少女に、ワーグネルは鼻で啼き弱々しく応じた。
「――では、私はこれで……ワーグネル、元気でね」
「――……」
飛行士は、無言のまま傍らの愛犬を見下ろした。彼が見下ろすより先に、愛犬は彼をそれこそ悲しげに見上げていた。
飛行士は、言った。
「行けよ、ワーグネル」
犬が尻尾を振り、悲しげに鳴いた。それに飛行士は微かな手振りで彼の許を離れるよう促した。
「さあ、行け」
彼らの遣り取りを前に息を飲む少女を前に、犬は動き出した。そして何度も飛行士の方を振り返りながら、やがて少女の足元にじゃれ付くようにした。
「ワーグネル……!」
歓喜の赴くまま、少女は相棒を抱いた。息を弾ませるワーグネルとの抱擁から顔を上げた少女の眼前で、飛行士はすでに少女と犬に背を向けていた。
「ありがとう!」
飛行士が後ろ手に手を振った。それが彼らの別れの挨拶だった。
――その頃、地上人との戦争はすでに始まっていた。
果たして少女は、旅発った。
刻と場所は、移り変わる――
通路に満ちる喧騒――
俄かに慌しさを増した艦内の様子を、重要人物用に割り宛てられた士官室に居ながらでも、少女には十分に感じ取ることができた。
折りたたみ式のベッドの上で、何度も眠気から解き放たれない身体を、毛布に包まりながらに持て余す。温もりを宿した毛布と瑞々しい肉体との間に生じる摩擦は、瑞々しさをまどろみの中に弄ぶ少女に、一層に仮の寝床への執着をもたらすのだった。
やがて少女が、醒め行く意識の中に眠りへの執着を失おうとした瞬間――
布が破けるような電子音――それも連続した響き。
少女の肉体と意識は夢の世界から解き放たれ、そして少女は半裸の肢体に現実の顔を宿し艦内通信の受話器を取る。
「私です」
『――エルディナ様、まもなくタナトに入港致します。お支度を』
「わかりました」
艦橋の指揮シートに陣取る送話の主の改まった口調――それを煩わしく思うのにも、艦に乗り組んで間も無い間にも慣れた。受話器を戻し、視線を転じた寝台の外では、とっくに目を覚ました毛むくじゃらな大犬が、主人たる少女の目覚めを待っていた。
「よく眠れた? ワーグネル」
勢いのよい吠え声が、その返事だった。少女は白い歯を見せて笑い、身繕いをするべく寝台から形のいい素足を、直に床へと下ろすのだった。その姿には、上下とも薄手のシャツとパンツ以外に、少女は何もまとってはいなかった。
胸、腰、背ともに豊か過ぎず、広すぎず、高すぎずの絶妙の均整と曲線を持った肢体、未だあどけなさすら残した端正な、そして気高さすら漂う容貌をさらに彩るかのように大きく、美しいレムリア人特有の灰色の瞳、そして一方で収まりの悪い、くすんだ桃色の頭髪――そんな少女の容姿は、過分な睡眠により緩みきった肉体を引き締めるためのシャワーを求めていた。巨大戦艦ならともかく、一人で悠然とシャワーを浴びる場所と機会を求めることなど残念ながらこの巡洋艦ではまず無理だ。たとえ彼女が、「選ばれた人間」であったとしても――
シャワーを断念し、部屋の内壁に収まるよう寝台を畳んだ直後、部屋が急に広さを増したように感じ、少女は苦笑する。
それもそのはず、寝台を下ろせば、ただでさえ狭苦しいこの部屋はその三分の二がそれで埋まってしまう。それほどに狭い、少女の生家――そのような表現を使うことに、少女はそこを出奔同然で家を出たときから抵抗を感じている――の鳥小屋より狭い巡洋艦の士官室。だが少女が宛がわれたそこは、艦内でも特に恵まれた高級士官用の個室なのだ。
これは巡洋艦以下のレムリア艦の宿婀とでも言うべき通弊であった。レムリア艦隊最新鋭の高速巡洋艦たる「レーゲ‐ズファウラー」級の二番艦たる「レーゲ‐セラ」、新鋭艦たる彼女でも、設計の段階で航行時の空気抵抗を低減するべく艦体を絞り込み、コンパクト化し、そこに加え搭載機格納庫、兵装、機関などにスペースを割かれた結果として、必然的に他のレムリア艦と同じく乗員の居住環境を悪化させてしまっている。
「――我々が乗艦し艦艇を動かしているというより、艦艇という兵器の中に我々が住まわせてもらっているという錯覚さえ抱くときがあった」
と、同時期レムリア艦隊に徴兵され、駆逐艦から巡洋艦など複数種の艦艇を転戦しつつ乗り継いだ元レムリア軍兵士は、戦後の手記にそう記しているほどだから、居住環境の悪さは推して知るべしだろう。
私物入れと呼ぶには少し無理があるほど狭いロッカールームの扉を開け、少女はレムリア軍正式の士官用制服を取り出した。その襟には、少佐の階級章が鈍い輝きを放っていた。レムリア共和国では、少女のように頂上階級に生を享け、軍籍に入った者はそのスタートからして高級士官以上の待遇を受ける。それをごく自然の成り行きであり、揺るがぬことのないレムリアの仕組みであると捉えるのが受ける側の抱く感触であり、それは往々にして、下級者ひいては正当な順序で昇進した上級者に対する尊大な態度となって当人に現れる。
少女は入隊以来、表立って階級の劣る他者への優越感を発露したことはないが、飛行学校と教導航空団を共に過ごした同期が、特権意識故に隊内で起こした軋轢の数々を目の当たりにしている。その記憶が。少女をして「指導階層らしく」特権を行使することへの躊躇いを覚えさせていた。
瑞々しい身体の上に制服を纏うと、少女は舷窓を開けた。すでに夜を脱していることはわかったが、分厚い雲海に塞がれた外では、船旅を堪能する気も失せようというものだ。窓を閉め、手早く私物をまとめ、少女は大犬を促した。
「ワーグネル、おいで」
少女と犬は部屋を出、艦載機格納庫へと通じるラッタルを小刻みな歩調で駆け下りた。狭い乗員とすれ違うたび、肩や胸を触れ合わせる士官、下士官兵のいずれもが申し訳なさそう……という表現では到底追いつかないほどに恐縮し、あるいは萎縮して一礼する。それだけでも、この艦における彼女の位置の特殊さがわかる。少女は特別な存在だった。この艦の最上級者たる艦長のリシュー中佐にしてからか、一週間前に寄港した占領地で、愛犬と乗機、そしてレムリア南大空洋方面軍司令部の手になる前線赴任の命令書を引っさげてこの艦に乗り込んできた彼女の、ある意味旅行客にも似た振る舞いに、何ら掣肘を加えるべき権限を持っていない。
その格納庫に降り立った少女を、主翼を折り畳んだ愛機が待っていた。彼女の髪の色と同じく、ピンクに機体を染めたゼーベ‐ギガが少女の翼だった。
従来のゼーベ‐ギガに比べ、それ以外に目立った相違点といえば、ピンクのそれが通常型のバブルキャノピーではなく、その後半で胴体と一体化している点、そして垂直尾翼が若干増積している点である――「猫背」。それが、少女の愛機の通称であった。早くから空を飛ぶ乗り物に親しんだ結果として、少女は三舵の反応からエンジンコントロールに至るまで自分の意のままに動くゼーベ‐ギガの方を択んだのだ。その年齢に似合わぬ「玄人好み」を、少女は本土で彼女に戦闘技術を教えた教官たちに大いに珍しがられたものだった。
一方で少女の同期の多くが、愛機にギガの改良型――基地所属の空戦士は高機動型とも言っていた――たるゼーベ‐ギルスを択んだ。その高性能ゆえに、延長教育を終えてもなお長い期間の習熟が必要な機体だ。それを乗りこなせなくて、「女子供用戦闘機」ことゼーベ‐ラナに流れて落ち着く者も多い。そうして得た戦闘機操縦資格を、「頂上階級」の若者の大半は、以後を全く操縦技量を磨くことなく本土の軍司令部勤務で腐らせていく。前線に出て地上人を殺すのは下層に任せた。おれたちにとって戦闘機操縦資格は高級幹部として、レムリア社交界の一員としての「箔」のようなものであり、国に奉仕する手段ではない、というわけだ。そのような同期の態度の如何を、少女は未だ評価できずにいる。
少女は、前線に出る途を択んだ。高級士官候補生として軍籍に入ったときから、それしか考えていなかったと言ってもいい。
整備を終え、後は発進を待つばかりの愛機に口元を綻ばせ、少女は空戦士専用のロッカールームへと駆け戻った。そして再びキャットウォークに戻ったとき、少女は赤い上下繋ぎのレムリア軍飛行服に全身を包んでいた。
「リエターノ少佐!」
自分の姿を認め、一斉に背を正した整備員の敬礼に、少女もまた答礼――整備員への敬意は、女学校時代に培った。培う機会も無く、その必要も認めなかった飛行学校の同期たちの整備員に対する態度は、今でも思い出したくはない……それら不快な記憶を打ち消そうとして、少女は整備員の顔を見つめる。眼前に並ぶ整備員のひとりの顔が稚く、自分と同年代であることに気付く。少年がいる。そう思った。
胴体にワーグネルを乗せる。嬉々として点検孔から戦闘機の胴体に身を滑り込ませる大犬。彼女の忠実な大犬は、少女が軍隊に転じ、そして進出を果たした前線に近いこの空でもやはり、彼女の飛行に欠かせない相棒だ。少女も続いて愛機の操縦席に肢体を滑らせるや、あの少年整備兵がベルトを引き出しシートと少女の身体を固定する。それが終わったところで通電した無線機を使い、少女は艦橋を呼び出した。
『――こちら艦橋』
「私です」
『ハッ……!』
ただそれだけで、艦橋の空気が一変するのを少女は無線機の向こう側に聞く。
「私はこれより一足先にタナトへと向かいます。艦長以下の、これまでの厚遇、感謝します」
『――了解。直ちに発艦準備急がせます』
格納庫天井の発艦指揮所へ向かい、少女は指を振った。空戦士の側からの「発艦準備完了」のサインだった。直後に格納庫の発艦指示灯が赤に点り、それまで機に取り付いていた整備員がいっせいに安全圏へ散った。
轟音を上げ、滑り出す機体――少女の愛機を固定する滑走台が稼動し、続いてエレベーターがカタパルトへと少女と乗機を運んでいく。艦体下部、籠をぶら下げるように配された巨大なカタパルトは、「レーゲ‐ズファウラー」級の外見的な特徴だった。建造工数の低減と艦体の空気抵抗の減少を狙って取られた手法であったが、必然的に艦体に頭上が塞がれる。空戦士側の評判はあまり良くない。それは少女にしてもそうだった。機首の下で整備員が動いているのを翼縁越しに見る。射出に必要な射出固定索を架けているのだと察する。
エレベーターが振動と共に停まる。前方、開かれた矩形の空間が白銀の雲海を少女に魅せていた。空の蒼は見えないが、射出には支障ない天候だ。固定索取付を終えた整備員が機から離れ、少女に手信号で固定完了を告げる。
『――カタパルトへの固定完了。発動を許可する』
「了解、始動!」親指で、始動機を入れる――あっけ無いほどに覚醒の震えを発し、始動するエンジン。これまでの経験では、空冷の方がエンジンのかかりがいいように思える。そのようなことを考え、飛翔への回転を刻み始めたプロペラブレードを睨みながら、少女はペラピッチレバーを「大」の位置にセットする。エンジン回転が「暖気」出力で安定したのを見計らい、少女は眼下の整備員に二本指で首を切る仕草をして見せた。始動電動機がエンジンから外される。
飛び出す場所も、飛び出す先もまた空――そんな取り止めの無いことを考えながら、少女は主翼展張レバーを引いた。「猫背」の主翼展張機構は標準で自動だが、ギガの初期生産型は外部からの手動操作だったという。展張装置が組み込まれていない分軽量なわけで、戦闘機の性能において「軽さ」を重視した少女は最初の頃はこの初期生産型への搭乗を望んだものであった。ただし残存機材の老朽化故に、それは叶わぬ夢で終わったのであったが……
油圧の抜けるような音を発しつつ主翼が開ききるまでの短い間、少女はニーパッドに貼り付けた前線基地タナトの全容とその周辺空域とを記した空図を一瞥する。タナトまでは近い。地形を脳裏に叩き込んでおくだけで、空図にわざわざ経路線を引かずとも目指す飛行場までは行けるだろう。気を付けるべきは、自機が飛行艦の出入港専用航路に踏み込まないように、見張りを徹底することぐらいだろうか?
翼下に寄った整備員が、操縦席の少女に黒板を掲げて見せた。外の気温と風向、そして風速――黒板に書かれたそれら数値に従い、少女はカウルフラップの開閉を加減する。フラップは全開にするまでもない。低い外気温がらして、潤滑油冷却器を動かす必要はないだろう……計算し、思考しつつ少女は飛翔に必要な操作を終えた。開け放ったままの操縦席に入り込む気化燃料と、排気ガスの臭いが濃くなってきたことを察し、少女は酸素供給機の供給量を増した。風防は射出まで閉めたくはなかった。
『――ポート-セラよりフラウ-アインへ、発艦を許可する』
スロットル全開――発艦の許可は、艦上からの発艦準備の全てが終了したことを意味する。
フルフェイスのヘルメットの中で、少女は眦を決する――
「フラウ-アイン。エルディナ-リステール-リエターノ、行きます!」
直後、少女の銀翼は衝撃を桃色の余韻に変え、エルディナは母艦のカタパルトから朝方の虚空へと弾き出される――
射出時の烈しい加速には、誰もがすぐに馴れる。だが問題はその後だ。
自分が何処に在り、何処へ向かうのかまったく判然としない感覚――経験に乏しい操縦士は、一度カタパルトにより撃ち出されるや、姿勢回復までの僅かならぬ間をそのような感覚に苛まれる。
気流の所作か、落ち葉のように機が左右に揺すられるのを体感する。怖いとは思わなかった。徐々に高度を落としながらも、水平儀の針を中央に戻すべく慎重に操作を続ける――体感で500程高度を下げたかと思われるところで取り戻した水平姿勢を体感しつつ、フラップをじわりと上昇し続ける水平速度に比例するかのように上げる。フラップが完全に上がったときには、エルディナの愛機の速度計は、母艦と同高度での水平飛行に必要なだけの速度を確保していることを示している。
次!――考えるまでも無く手を伸ばすトリムスイッチ。
トリムダイヤルを動かして昇降舵の応答を少しずつ変える――ゆっくりと、かつ自然と引き上げる機首――あとは少しずつ高度を上げ、タナトまでまっすぐに飛べばよい。
上昇――母艦はすでに、遥か眼下。
十分な高度に達し、スロットルと混合気比を絞った操縦席から、少女は彼女と愛機をここまで送り届けてくれた母艦に、上空の一旋回で報いた。旋回を終えた直後に瞬く艦橋の一点。発光信号が「武運を祈る」と空の少女に語りかけていた。
「……?」周囲の空にいるのが、自分と母艦だけではないことに少女が気付いたのは、そのときだった。
「あ……」
軽い驚愕――闖入者は雲の断崖から浮き上がった四機編隊のゼーベ‐ラナの機影となり、編隊は見事な運動で少女に接近すると、そのまま減速しつつ接近を続け、少女を囲むように編隊へと引き込んだ。少女の生来からの出自と現在の地位は、少女に気ままな空の旅をさせるには、あまりに障害であり過ぎた。
『――フラウ-アイン、こちらデュッセル02小隊、基地司令の命によりエルディナ様を到着まで護衛させていただきます』
「要りません。離れなさい」
と、少女は突き放すように言った。おそらく戦闘経験だけは彼女より豊富であろう小隊長を困惑させることは承知の上で――
『――これは基地司令のご指示であります』
「結構です。離れなさい」
『……』
一機と四機の間、機番号や部隊標識すら識別できるほどの距離が、一斉に開いた。だが向うに司令部から与えられた任務を放棄する意思はないようだ。距離を置きつつも、もし本当に敵機が出てくればいつでも彼女と連中の間に割って入れる位の位置に四機は占位している。向こうは離れない。それでも――
「フフ……」
自分の反抗が成功したのを実感し、少女はヘルメットの中で微笑する。
そして少女は、前線基地の全容をその銀翼の下に見る――
基地の名は、タナトと言った。
レムリア艦隊前線基地タナト――
元来、その空域には島は無かった。
無いということはつまり、他所から島を引っ張ってきたのである。
それも多数――
今世紀に入り爆発的に拡大した空路開拓事業の課程で、空路上に多数点在する小規模な浮遊島は、安全な航行を行う上で、危険きわまる障害物として大きな問題となっていた。航天暦1835年の例を挙げれば、この年だけでも優に320隻を超える船舶がそうした浮遊島に衝突、あるいは座礁し、それらに乗り込んだ約12000名もの人命とともに失われている。空路を行く多くの船乗りにとって、何時針路上で出くわすかわからない浮遊島は、高層雲と針路喪失と同じく重大な脅威の一つであった。
こうした「空難事故」で、その凄惨さと劇的な顛末によって人々に広く知られるものに、翌航天暦1836年に起こった「タイタニック事件」というものがある。航天暦1835年に当時最先端の造船技術を結集して就工した豪華客船「タイタニック」は、その当時から設備や内装、客室サービスの豪奢なることで世間の注目を一身に浚った。そして翌年の4月10日、2214名の乗員乗客を乗せ彼女は北大西空横断の処女航海に臨んだのだ。
悲劇は、その四日後に訪れた。
4月14日の午前0時15分、上を航行中の「タイタニック」は、折からの暗夜でその視界を遮られ、見張り員が針路上に立ち塞がる浮遊島を発見したときには、すでに回避不能なまでにその距離は狭められていた。
衝突――その直後、島の岩盤により側面を損傷した「タイタニック」は裂傷の拡大から前後二つに巨体を割り、そのまま高度を落とし下方の洋上へと着水した。衝突とそれに続く墜落、そして北大西空下の冷たい氷海により1423名の人名が失われ、それは空路開拓史史上最悪の空難事故として現在に至るまで記憶されることとなったのである。
「タイタニック事件」後、それまで空路開拓に対し従属的、あるいは付属的な位置付けを為されてきた空路啓開事業は、痛切なまでの事件の反省から一層の徹底と充実を迫られることとなった。具体的には、空路上に数多存在し安全な航行の妨げになると見做された小規模な浮遊島はその悉くが爆破されるか、あるいは比較的閑静な空域まで牽引され、そこに「集積」されるようになったのである。つまり、天空世界に進出した人々は、要らない島を「棄てる」ようになったのだ。
そのようにして生まれた小島の集積場所を、人々は「島の墓場」と呼んだ。
命名者の故郷たる土地の言葉でやはり「墓場」を意味するタナトもまた、実は「タイタニック事件」後に天空世界各所に数多設定され、そのまま放置された島の集積空域の一つであった。それを現在、この空域まで侵攻したレムリア軍が接収し、人口の島嶼帯を利用した艦隊の有力な根拠地へと造り変えた――
――さながら、空に浮かんだ巌の渦。
緩降下に転じ、機種を提げた途端、少女の瞳は薄い雲を貫きそれを捉えた。
「……!」
圧倒的な威容と量感――少女はしばし、それに呑まれる。
浮遊島の含有するフラゴノウム鉱石の共鳴波、そして小島間に敷設された鋲鎖により、泊地としてのタナトは上空よりこれを俯瞰すれば、基地司令部の置かれている中心部より渦状に大小計328に及ぶ中小の「棄てられた」島々が拡散し形成されていることがわかる。島々の渦は半径34空浬四方に及び、直径68空浬のこの空間の中に艦艇の収容、修理施設、将兵の休養、療養施設、そして作戦機用の基地が巧妙に配され、レムリア艦隊の作戦行動を後方から支えているのだった。
特異な全容から、レムリア軍の将兵はそこを「薔薇の園」と呼び、ラジアネス軍もまた後にそこを「ローズクッキー」と言うコードネームで呼ぶことになるが、それはこの時点から少し後のことである。
そして今、基地は至近の将来に迫った大作戦を前に空前の活況を呈している――機上にある少女からしても、基地の様子がそう見えた。
基地上空を飛行する戦闘機、攻撃機、偵察機は本土の基地よりもその数が多く、その密度の濃さにも関わらず往来もまた一切の無駄が無い。それが先刻まで自由な飛行に身を任せてきた少女には緊張を誘う。
下方に視線を転じれば、入港あるいは哨戒、偵察、補給、特殊任務……考えうるあらゆる任務を帯びて基地を出入りする巡洋艦、駆逐艦、仮装偵察艦、Tボート、そして輸送船、連絡艇の影、また影――今まさに自分は前線に在るという緊張感が、少女の操縦桿を握る手を、芯から震わせてしまう。
「あ……!」
交差――
自分の至近に、少女がそれを見出したのは一瞬の間――
雲海を背景に、両翼からそれぞれ一条の太い軌条を曳く、大鷲のような双発機の機影が二つ――
ジャグル‐ミトラだと、少女は直感した――本土の訓練航空団で評価試験用のそれを見たことがある。本国にいた頃、少女にも乗機をこれにするよう話が来ていたこともある。上流階層の幹部でも滅多に搭乗れない――いや、搭乗りこなせない――高性能機。だが一目で少女はミトラを嫌った。自分には大き過ぎる――まるで好みの服を択ぶかのような感覚で、あの時の少女は破格の双発戦闘機を拒否した。
だが此処を飛んでいるのは、明らかに戦闘用だろう。
ならば、よほどの名手が乗り込んでいるに違いない。
それを感じる間にも、二機は水蒸気の線を延ばしながら見る見る遠ざかり、やがては彼女の飛んで来た彼方へと消えた――
『――フラウ‐アイン……フラウ‐アイン? こちらタナト第二管制室、飛行場へ誘導します。交信周波帯を3に切り替えてください。間も無く飛行場』
「……フラウ‐アイン了解!」
ミトラの乗り手――航路を交差した何者か――の発する迫力に、若い感性が圧倒されるあまりに奪われていた交信への注意を漸くに取り戻し、少女は無線機の周波数切替ダイヤルを合わせた。目を凝らした眼前には、あたかも群島の集まりの間に、それも交差状に太い橋を架けたかのような飛行場が、その危うげな矩形を横たえていた。飛行場そのものの様子をさらに詳細に捉えるには、未だ距離があった。
まさに、浮かぶ飛行場――それを思った瞬間、あたかも自分の作った冗談に自分で笑うかのような愉快さに襲われる。
「こちらフラウ-アイン、飛行場を視認した。間も無く着陸態勢――」
『――タナト第二了解。基地へようこそエルディナ様。基地司令部一同、エルディナ様をお待ち兼ねでいらっしゃいます』
「……!」
何処まで行っても逃れることのできない慇懃な応対――
それに対し、少女はその端正な表情を曇らせる。
着陸――
狭い母艦に、あたかもその只中に突っ込むのにも似た、着艦時のような緊張感を持たずに、何の制約もない地面に機を滑り込ませるのは気持ちがいい。車輪ゴムのアスファルトを擦る音を聞きながら、少女は着陸寸前に一旦開いたスロットルをゆっくりと閉じ、フットバーを傾ける。ゼーベ‐ギガは踏み込みに対しスムーズに反応し、少女を飛行場指揮所に隣接する駐機場へと運ぶ。
エンジンカット――操縦席から不意に振動が消えるのと同時に、少女は指揮所の方へ視線を転じた。
「……」
居並ぶ幕僚たちの列。それが自分を出迎えに訪れた人々であることを、ベルトをすでに解いた少女はキャノピーを空けた直後に自覚する。
「タナトへようこそ。エルディナ様」
「……」
手を差し出す整備士官を無視し、少女は腰を上げた。コックピットから主翼の上、続いて滑走路上に飛び降りる。声を掛けるタイミングを失し、困惑気味の整備士官を尻目に、少女は胴体の点検孔を開けた。ワーグネルが待ちかねていたように少女に飛び付き、そして少女はワーグネルをあやす様に地面へと下ろすのだった。その様を遠巻きに、そして神妙に無数の視線に気付く。このとき初めて、少女はヘルメットを脱いだ。
深呼吸――そして吐息。
すでに空は吸い込まれるように鮮やかな碧色に染まり、拘束を解かれ撓った桃色の頭髪が、その空の下で汗を発散させ、若い女の芳香を振り撒いた。
「ワーグネル、おいで」
犬を促し、振り返った先では、彼女よりは社会経験も軍職経験もずっと豊富なはずの人々が、「頂上階級」の少女一人を迎えるために、少女を見守るかのように列を為し立ち尽くしている。いくら不可侵の立場にあるとはいえ、少女には彼らの心象を悪くしないように振舞う必要があった。
彼らの前に進み出、一定の距離まで近づいたとき、制服の上に軍用コートを纏った中年男が、恭しげに進み出た。
その襟には大佐の階級章――だが、先に敬礼したのは彼の方だった。
「エルディナ様には、この最果ての戦線までご足労戴き、小官には無上の喜びを感ずるものであります」
「……」
瞳に捉えた慇懃な笑みを、少女は造られた、不自然なそれと看破する。このような輩に掛けるべき声を、少女は知らないし知ろうとも思わなかった。ただ目配せで、案内するよう大佐に促すだけだ。一言も声を出さず、顎をしゃくる少女の前で、男の笑みは消え、その代わりに浮かんだ気まずそうな表情をそのままに、大佐は彼女を待つ幕僚、各級指揮官の方向へ少女を先導した。
「……敬礼!」
居並ぶ佐官、尉官たちの敬礼を横目に受けながら歩くうち、少女の足は一人の女性士官の前で止まる。
「あなたが、ブルガスカ司令ですね?」
「ハッ……!」
「ブルガスカ司令」と呼ばれた女性士官は、少女よりずっと高い背を正し、少女を見下ろすようにした。目深に被った軍帽から覗く鷲のような眼光、息を呑むほどの美貌ながら、一切の感情を宿していない顔立ち――彼女と目を合わせた瞬間、少女は一瞥でそれら全てを感じ取り、内心で気圧される。
「あなたの勇名は、レムリア本国でも聞き及んでいます。先月の戦闘で、ラジアネスの空母二隻を葬ったとか……」
「恐縮です」
ただそれだけを、司令は言った。その言葉の響きにすら、軍人でありながら争いと殺し合いの両方に対して無知な少女を、芯から怯ませる何かが含まれていた。この場でただ一人の女性指揮官を前に、これ以上掛けるべき言葉を見つけられず、かと言って会話を閉ざし先へ進むタイミングすら見出せず、少女はブルガスカ司令との会話を後悔し、そして口籠る――
だが――
「おい、指揮官が一人、足りんようだが……」
「……?」
困惑したような基地幹部の声……それこそが少女を困惑から救った。
「あやつはいい。秩序に背を向けるのを、無上の歓びと考えているような男だ」
突き放すように、静謐を滲ませた声を上げたのは、ブルガスカ司令だった。それに対し、ことの詳細を知らされた男性の基地司令は、苛立たしげに基地警備隊の指揮官を怒鳴りつける。
「折角召集をかけたのに!……やつは何処に行ったんだ!?」
「少佐殿の専属整備兵によると、急に地上にいるのが嫌になったとか言い出して、部下を連れ今しがた飛行訓練に出たそうですが……」
「あの馬鹿者め! いずれ我が隊から放り出して、練習機しか操縦できぬようにさせてやる!」
例の如く、感情に乏しい視線で、声を荒げる基地司令を見つめるセルベラ-ティルト-ブルガスカを、少女は呼んだ。
「ブルガスカ大佐?」
「は……」
「誰なの?」
「タイン‐ドレッドソン少佐です」
「ああ……あの……」
記憶の糸を数秒で手繰り寄せ、少女は内心で驚く。「撃墜王タイン‐ザ‐キッド」ことタイン-ドレッドソンの名を知らないレムリア戦闘機軍団の一員など、この天空世界にいるはずが無かった。上流階層の出身として、「下々の風聞」にはどちらかといえば無関心なエルディナですら、それは例外ではない。押しも押されぬレムリア戦闘機軍団最強の撃墜王――その彼が、今この戦線にいる?
セルベラが、言った。
「彼の名も、ご存知で?」
「何でもレムリア、いや世界で最高の戦闘機乗りと聞いています」
「……ですが、それだけの存在です」
「……?」
「用務がありますので、これで御免」
用は済んだとばかりに踵を返すセルベラの長身を、少女は沈黙の内に見送った。それと入れ替わるかのように歩み寄ってきた基地司令が、揉み手同然の卑屈な態度で少女に聞いた。
「エルディナ様、宿舎の用意はできて御座います。ご案内いたしましょう」
「自分で行きます。職務に戻りなさい」
目も合わせないまま、少女は司令に言い放った。
歩き出した少女から数歩の距離を置き、ワーグネルは小走りに後を追う。
そして少女は鼻白む彼を尻目に、連絡艇の待つ埠頭へと歩く。
最果ての戦線に、自分の居場所を求めて――




