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序章 「レンヴィル泊地」


 一帯を取り囲むかのような浮遊島の連なりを、その島で最も高い丘からは一望することが出来た。

 彼女は山の頂上に佇み、空域の風と島々の碧の営みに身を任せていた。

 彼女は見下ろす――大小の島々に取り囲まれた、広漠たる蒼穹に生まれた環を。


 かつて――今から30年近く前。

 その島々の織り成す環の一帯を、史上稀に見る大艦隊が埋め尽くしていた。

 それは現在の、静謐と雲海の碧の茂みに任せるままとなっている島々の情景からは、あまりに想像できない光景。

 かつて……島々はそれ自体が基地であった。


 かつて――それは戦争の時代。

 今は「諸島」という呼び方が一般的なこの島々が「泊地」と呼ばれ、各戦域より集結した大小の艦艇で埋まっていた時代。

 時代は、それまで単なる島々の集合体に過ぎなかったこの場所を、ラジアネス艦隊の一大拠点へと変えた。その位置と地形とが生み出した戦略的価値によって――


 小山の頂上――

 そこは、あの時代には島々の間を行き交う艦船を管制し、そして島々の周囲一帯へと警戒の目を注いでいたレーダーサイトが佇んでいた場所。

 彼女は、ただ無心にそこに立ち尽くす。

 現在ではそこも、単なるコンクリート製の土台と錆び付いた支柱とが僅かに残るのみだ。そして放棄されてすでに30年余り、その間殆ど人間の手の入らなくなった丘の頂上は、丈の高い草花の生い茂るままに任されている。


 それでも――

 空に浮かぶ島々は大気の純粋な香りを彼女の嗅覚へと運び、一層の感慨と高揚へと誘っていく。


「――先生?」

「……?」


 切れかけた息とともに背後より呼び掛けられ、先生と呼ばれた彼女は振り返った。眼鏡の薄いレンズを隔て、円らな水色の瞳が恐縮気味の一人の女生徒の姿を捉える。その態度から、見る者によっては現在の彼女の社会的地位を無言の内に察することができるかもしれない。


「みんなが呼んでますよ。ご飯の用意が出来たって。」

「……」

 彼女は微笑んだ。彼女自身、そろそろ40に手の届こうかという年齢ながら、その淑やかな笑顔に加え、薄手の開襟シャツとジーンズという快活そうな立ち居振る舞いからして、未だ20代の後半と言っても通用するかもしれない。それほど先生と呼ばれた女性は若々しく、清新な印象を接する者に与える。

そして微笑は、恐縮仕切りの女生徒から一瞬にして緊張を拭い去り、次の瞬間には微笑は、母親のような、溢れんばかりの笑顔となる。


「じゃあ、行きましょうか。」

「はい!」

 丘の麓へと下りる小道を、先生と呼ばれた女性は歩き出した。彼女の後を、覚束ない歩調で女性が追う。背後から見る女性の背筋は決して高くは無かったが、十分な鍛錬と節制を経た者のみに得られる均整の取れた体躯を軽快な服装の下に隠していることを悟らせた。事実それが、女生徒を始め先生と呼ばれる女性教師の持つクラスに属する学生たちには印象的であり、そして不可解だった。


 女性の歩調は存外に軽く、歩を進めるにつれ、彼女より一回り若いはずの女生徒には追従が苦痛になってくる。

「オユキ先生はなあ、もとは艦隊の戦闘機パイロットだったんだぜ」

 と、以前に同級生が訳知り顔で言っていたのを、女生徒は息を弾ませながらは思い出した。

「大学に入りなおす前は艦隊で空母に乗っててさ、数え切れないほどの戦闘任務に参加して、勲章も沢山貰ったんだって」

「そんな人が、どうしてうちの学校で歴史を教えてるの?」

「さあ……おれらが立ち入っちゃいけない事情でもあるのかもなァ……」


 元戦闘機パイロットの教師!……彼の言っていたことが事実なら、教師の挙動の軽さも納得が出来ようというものだった。そして入学以来、自分が運動不足気味であることをも、女生徒は痛感する。勉学に集中したいがために体育の単位取得を後回しにしたことが此処で響いている。今自分が歩いているのは下りなのに、この疲労といったら!――否、むしろ急な下りだからこそ、運動に馴れない身体には一層の疲労を誘う。

 

 不意に、前方を行く足が停まった。

 自身の足元に注意を向けていたがゆえそれに気付かず、つんのめる様に女生徒は女教師に触れた。そして急な下りに覚束ない足元から、女生徒の姿勢は崩れた。

「……!」

 次に気付いた時には、女生徒は教師の腕の中にあった。細い腕だったが、自分を抱える力の尋常ならざることを女生徒は肩と背中に感じた。困惑気味の女生徒の顔を覗き込み、女性はまた微笑んだ――慈母のごとき、優しき笑み。その笑顔に、一瞬奪われかける心――


「すいません……!」

「あれを御覧なさい」

 と、微笑を浮べたまま、女性は上方へと顔を向けた。途端に見上げた丸眼鏡が降り注ぐ木洩れ日を吸い込み、淡い反射を放つ――


「あ……」

 生い茂る草木に覆われた航空機の機体。

 黄色い塗装の大分落ちた、尖った機首から覗く四枚のプロペラは全て後方に曲がっている。

 片方の主脚は折れ、傾いた方向の主翼はその大部分を地上に埋もれ完全に朽ち果てていた。

 剥がれた外板からは錆び付いた骨組みすら覗いていて、さらには開けっ放しになった整備用のハッチが、胴体と言わず主翼と言わず機体の各所に矩形の穴を開けていた。

 戦闘機だと女生徒は思った。航空史を専攻する者として、彼女は基本知識として大空洋戦争時の主要航空機の機影と諸元についての知識を持っていた。


「レムリアの戦闘機だと思うけど……」

 そこまで言って、少女は言を濁した。機首を明確に識別するのが難しいほどに、機体はあまりに風雨に晒されたままで時を過ごしてしまっている。


「……ゼーベ-ラナね。レムリア軍の主力戦闘機」

「……」

「プロペラが四枚。そして機首に機銃孔が付いていないでしょう?」

「……そうか」


 納得する少女の頭を、教師は笑顔を浮べたまま手で撫でるようにした。

「きっと……着陸に失敗したのね」

「いや……撃墜されたのよ」

 彼女は機体の一点を指差した。その先に弾痕と思しき孔の連なりを見出したとき、少女の顔に陰が宿る。


「こんなところに放っとかれて……可哀相」

「そうね……でも、それが戦争なの」

 そして二人は、再び林の中を歩き出す。

 歩くにつれ下りはなだらかになり、何処からか芳しいスパイスの方向が漂ってきた。

 日は、すでに雲海にその身の過半を沈めつつあった。

 


「先生ーッ! 出来ましたよぉ!」

 丘の麓では大鍋を囲み、ちょっとした歓声の渦が出来ていた。音頭を執る男子学生に、教師は眼鏡越しに意味ありげな視線を向ける。

「レシピどおりにちゃんと作った? ヘンなもの入れてないでしょうね?」

「勿論ですヨォ」

 女教師は傍らの女生徒に鍋を覗くよう促した。促されるまでもなくスパイスの香りに誘われるように駆け寄り、大鍋の中でグツグツと蠢く茶色いスープ状の煮物を見出したとき、女生徒はその好奇の瞳を一層に細める。

「これ何ですか……?」

 先輩格の女生徒が言った。

「サラはフィールドワーク初めてだったけ……これね、オユキゼミ名物のライスカレーだよ」

「ライスカレー?」

 疑問を深める女生徒を他所に、大鍋を掻き回していた男子学生がスープを小皿に執り、博士に差し出した。

「先生、どうぞ」

 軽く頷くと、女教師はスープを口に運んだ。スパイスの香りとスープの味をゆっくりと堪能し、彼女は満足気に頷く。

「よろしい。上出来よ」

 期せずして起こる満面の笑み。それが夕食の始まりを告げる合図だった。


 かつてはレンヴィル泊地と呼ばれ、その港内に数多のラジアネス軍艦艇で埋められていたであろう島々の一つであるファッショル島もまた、当時は艦載機を駐機させ、補充機を集積するための航空基地が置かれ、最盛期には常時200機の補充機が銀翼を並べていたという。

 ――だが現在では、小山の上のレーダーサイトを始め、島内の主建造物は全て撤去されるかまたは放置され、飛行場跡地ではひび割れたアスファルトも痛々しい二本の主滑走路と六本の誘導路とがその姿を平地の上に広漠と横たえるばかりである。レンヴィル諸島のみならず、「大空洋戦争」の終結によりそれまで重要な戦略拠点だった場所が、一気にその価値を失い放棄に任せられるのは枚挙に暇が無い。


 航天暦1667年創立、過去三名のラジアネス大統領を始め多くの政治家、企業家、研究者を輩出してきたラジアネスの名門、マイケル-ミドルトン-パブリックスクール(MMPS)の航空開拓史教室、通称「オユキゼミ」に属する学生たちにとって、今回で通算三度目となるフィールドワークは、夏季休校を利用し今から40年以上前の「大空洋戦争」の史跡を廻り実地研究を行うことにその主眼を持っている。


 女教師はゼミの学生たちのみならず、彼女の講義を取る全ての学生たちから「オユキ」というファーストネームで呼ばれていた。もちろん本名はあるのだがこちらの方が語感がよく、彼女自身もまたこの学校に身を置くはるか以前から手紙や自己紹介の端々にファーストネームを使っていたし、それに学生たちと彼女との間柄は、格式を要しない程に親密であった。事実MMPSに数ある歴史学教室の中でも「オユキゼミ」は毎年志望者がずば抜けて多く、受講者の列に名を連ねるのは難しい。


 サラ-レトヴィングという名の、若干14歳で飛び級入学を果たし、紆余曲折の末「オユキゼミ」に身を置くことになった新入生にとって、炊き上げた白米の上に熱いスープをかけた「ライスカレー」は奇異であり、また新鮮でもあった。

「オユキ先生の家の特製料理なの。オユキ先生が子供のとき、先生のお父さんがよく作ってくれたんだって」

 と、先輩格の学生がサラに教えてくれた。

「へぇー……オユキ先生のお父さんって、コックさんですか?」

「……サラは知らないの? 先生のお父さんも戦闘機パイロットだったんだぜ。しかも大空洋戦争の経験者(ベテラン)さ」

「……!」

 軽い驚愕とともに、サラは彼女の教師に目を向けた。焚き火を囲んだ車座の一角で、オユキと呼ばれる彼女たちの先生は、ただ黙々とライスカレーをかっこんでいる。

 そして、目を凝らした遠方――滑走の端で翼を休めるずんぐりとした機体。

 パラソル式の、羽布張りの主翼に上部配置のレシプロエンジン。そして合板張りの胴体――かつては艦隊で活躍し、スクラップとして民間に払い下げられたPC-7連絡機をフィールドワークにあたって彼女自らの手でレストアし、さらに操縦までして学生の移動用に供しているあたり、やはり先生は只者ではないようにサラならずとも思われた。

 

 ――そして、島々に完全な夜が訪れた。

 焚き火の周りで広がっていた乱痴気騒ぎがすっかり鳴りを潜めて久しい。名門校の学生とはいえ、故さえあれば思いっきりに羽目を外すのは一般の若者と何等変わり映えしない。眠気の誘うままにテントに戻った者もいたが、すっかり炎の衰えた焚き火の周りで騒ぎ疲れ、地面に身を横たえる者。恋仲にある学生と連れたって夜の林に身を隠したまま戻って来ない者……学生の数だけ、違う夜の過ごし方があったところで、それを咎め立てる女教師ではなかった。彼らは若いが、一面では大人でもあるのだから――

 

 風が、夜の匂いを運んできた。

 アスファルトの大地に佇んだまま、サラは一人で星々の支配する天球に見入っていた。学生とはいえ未だ無垢なまでの幼さの残るサラに、興味を持つ男子学生などこの場にはいなかった。


「あら、未だ寝ていないの?」

 振り向いた先では、木々の間に器用に掛けられたハンモックに身を横たえた女教師が、静かな笑みを投掛けていた。その手には分厚い学術書。遮るものの無い星明りの下で本を読めるほど浮遊島の高度は高く、雲高は低い。

「……」

「眠れないのね?」

 ハンモックからの問い掛けに、サラは頷く。

「星が……綺麗ですね」

「だから、眠らないの?」


 サラは頷いた。はにかみがちに――

教師の口元が、微笑に歪んだ。

「ここには自然が残ってるし、雲もそんなに上まで来ない。それに蚊や蝿もいないの……何故だか判る?」

「さあ……」

「昔、基地にするとき、空から大量に殺虫剤を撒いたから……それっきり、悪い虫は寄り付かなくなっちゃったというわけ」

「……そうだったんですか」

 サラは納得する。道理で、熱帯に付き物の羽虫すら姿を見せないわけであった。


「あのう……」

「ん?」

「先生のお父さんも、戦闘機パイロットだったんですか?」

「そう……私の父は――」

 ――喉にまで出かかった言葉を、女教師は胸の奥に飲み込んだ。

「……私の父はね、ここにいたことがあるのよ」

「戦争の話とか……やっぱりお聞きになったんですか?」

「あなたはどう?」

「わたしのお祖父ちゃんも、昔ここに来たことがあるって……」

「ふうん……どの部隊にいたのかしら? 空母ハンティントン? それとも司令部?」

「……それが、私のお祖父ちゃんも……パイロットだったんです。レムリア軍の……」

 その瞬間、先生の水色の瞳に、新たな、柔らかな光が宿ったようにサラには思われた。

「サラさん、立派なお祖父様がいらっしゃるのね」

「そんな……立派だなんて」

 そのとき、鮮やかなまでの挙作で、教師はハンモックから飛び降りた。地面に足を下ろし、夜空を仰ぎながら彼女はサラの傍らに歩み寄る。

「私の父と同じように、あなたのお祖父様も歴史の生き証人よ。あの時代に何処にいて、何をしていようが変わりはないわ」

「はい……」


 一陣の風――生暖かいそれに女教師の豊かな髪の毛が煽られ、同じくシャツの襟が僅かに捲れ上がる。

「そう……40年も前、私の父は確かにここにいた。私の父は――」


 艦隊の撃墜王だった――その言葉を、オユキと呼ばれる女性は、再び胸の奥に飲み込んだ。



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― 新着の感想 ―
[気になる点]  今更ながらですが、この話の冒頭では    〉かつて――今から30年近く前。   その島々の織り成す環の一帯を、史上稀に見る大艦隊が埋め尽くしていた。  と、あるのに。  オユキの…
[一言] 更新ありがとね 愛してる
[一言] 最近読み直したばかりだったので更新に驚きました。 楽しみです
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