終章 「戦のあと 新たなる空路」
――あの苛烈な夜間戦闘の翌日、リューディーランドを取り巻く空はそれまでの激戦が嘘のように静かに晴れ渡り、広漠たる雲々をその高みに飾っていた。
早朝からの三度にわたる偵察飛行。そのいずれの策敵線も、敵の艦影はおろか一機の機影すら見出すことが出来ず、それが当初は機動部隊司令部をかえって戸惑わせた。索敵はその日一日中、さらには翌日、その翌々日まで継続したが、その間発見らしい発見は一件も無く、一層機動部隊を困惑させる……つまり、レムリア艦隊がリューディーランドの周辺空域より完全に撤退したことをラジアネス軍が自覚するのに、まる三日という時間が必要だったのである。
――つまり、レムリア軍はリューディーランド攻略作戦を中止し、艦隊はその根拠地に帰還した。
――つまり、ラジアネス軍はリューディーランド防衛に成功した。
リューディーランド侵攻とそれに付随するラジアネス艦隊のさらなる捕捉殲滅――傍目から見れば、虫のいい程の一石二鳥――を期していたレムリア軍司令部にとって、虎の子というべき空母機動部隊の主力艦たるダルファロスが被雷し、損傷したのは晴天の霹靂だった。自軍の作戦方針に問題があったというより、彼らの言う「地上人」――ラジアネス艦隊――が弱体化したとはいえ、直もここまで戦うとは、彼らには思いも拠らなかったのである。それが前線の思惑とは何等関係ない処でレムリア艦隊司令部に作戦の中止を決断させ、機動部隊を撤退させた。
それ以前に――
レムリア本土にあって艦隊を統べる艦隊司令部の幕僚たちは、開戦以来競合者たる空戦士軍団の指揮下にあって、艦隊が死地に晒されることに不満を持っていた。艦隊は艦隊という組織の中で育てられ、栄達を果たした者によって動かされるべきであり、祖国レムリアの勝利もまた彼ら艦隊の手により切り開かれるべきであった。このような思考に対し航空戦力の管轄権を振り翳すのみならず、時には政治すら引き入れて全体の作戦に影響力を行使しようとする空戦士軍団は、艦隊からすればその行動を掣肘する障害であり、艦隊という純粋な武人の集団の価値観からすれば、理解し得ない異端者であった。
その不満が、リューディーランド戦の最中に爆発した。
空雷被弾の報が引鉄となった。艦隊司令部の幕僚たちは一致して作戦の中止を進言し、やがてはそれまで政府中枢の顔色を伺っていた観のある艦隊の将官たちをも中止に傾かせた。期せずして一致した艦隊の圧力を前にして、空戦士軍団の中枢ですら、作戦を継続する意思を失った――というより見失った。
「アレディカ戦役」でその過半を殲滅したとはいえ、ラジアネス艦隊には未だ余力があり、損耗を瞬時に埋め合わせる国力が存在することをレムリア艦隊も、そして空戦士軍団もまた十分に弁えていた。レムリア軍の戦力は決して多くはない上に予備戦力も少なく、長期戦による損耗を容易に補充できるほどの強大な工業基盤もまた持ってはいなかった。
――それが、彼らを艦隊保全策に奔らせた。さらには、その最後までリューディーランドに上陸させるべき地上部隊と、それらを運ぶべき輸送船団の都合が付かなかったことも作戦継続の足を引っ張った。
一方――
この作戦において「虎の子」たる機動部隊を与ったセルベラは、最後まで作戦中止に抵抗した。彼女が司令部に厳命された空域離脱予定時刻の限界たる夜間に至るまで索敵を継続し、さらには夜襲部隊まで仕立て上げ第001任務部隊の捕捉撃滅に拘ったのは彼女の敵空母撃沈への執念の表れでもあるとともに、実情を推し量ろうとしない司令部に対する無言の抵抗の意思の顕れでもあったのである。
もし、レムリア艦隊司令部にセルベラのように積極的な敵艦隊撃滅の意思があり、セルベラに作戦行動の継続を認可していれば、彼女は相応の結果を出したに違いない。つまりは――レムリア軍は「クロイツェル‐ガダラ」はもとより「ハンティントン」をも撃沈し、ラジアネス軍は、たった一戦で折角整備したばかりの正規空母を全て喪失するという最悪の事態を迎えたかもしれなかったのである。それは純粋な戦力喪失という表現で片付けられるものではなく、連邦制と大統領制とが並存する議会制民主主義国家たるラジアネスにおいて、政府に民主政の構成員たる国民の厭戦気運の高まりすら覚悟させねばならない恐れすらあった。
結果として――あるいは皮肉なことに――ラジアネス軍はレムリア軍に救われた形となった。
そして、レムリア軍はさらにもう一つ、重大な過誤を犯した。
『――我が軍の戦果 敵空母一隻撃沈 一隻撃破』
それが、戦況要約と共に彼女が艦隊司令部に送った報告の主文であった。結局、彼女は夜襲部隊の報告した戦果を信用しなかった。帰還した空戦士の報告から、ハンティントンを「撃沈」ではなく「撃破」と判断したのだ。決して結果論ではなく、この点彼女の判断は正確だった。
……だが、後方の艦隊司令部は付記された戦況要約からハンティントンを「撃沈」と判断した。彼らは現場指揮官ではなく、そのさらに下部に位置する実戦部隊側の報告に信を置いたことになる。だが、熟練搭乗員によるものとはいえ、敵の捕捉及び戦果判定の困難な夜間攻撃に昼間のような効果を期待するのは客観的に見てもあまりに楽天的な願望であった。レムリア軍司令部はそれを為した。この点司令部はセルベラの「消極的」判断を尊重するべきであった――後に、このときの過誤はその後のレムリア軍の作戦に重大な影響をもたらすことになる。
――後世、「リューディーランド空域会戦」と称されることになる一連の戦闘は、こうして終った。
――そして、戦局はゆっくりと、だが着実に動き始めていた。
――リューディーランドの空に平和が戻ったことを、誰もが知るところとなった翌日、ツルギ‐カズマは紙袋を手に艦尾へと歩を進めていた。
戦闘機による上空警戒や攻撃機による哨戒飛行は未だ続いてはいたものの、艦隊に身を置いているとは思えないほどの平安は、歩く内にも感じ取ることが出来た。乗員の顔からはいずれも緊張の色が消え去り、食堂では、気が早いことに何れ貰えるであろう上陸休暇の話に花を咲かせている者もまた増えていた。
艦内通路で、手術着を纏ったブフトル‐カラレス軍医長と行き会ったのは、そんな時のことだ。軍医を乗せていない他の艦から急性の虫垂炎患者が出、医療設備の整ったハンティントンに送られて来たらしく、おそらく今しがた手術を終えたところなのだろう。
カズマの姿を認め、カラレス軍医は黄ばんだ歯を見せて笑い掛けた。
「ようボーズ、英雄になった気分はどうだ?」
「変わらないですね……いつもと」
がはははは……と、軍医は笑った。
「英雄気取りでさぞ浮かれてるんじゃないかって、会ったら鼻っ柱でもへし折ってやるつもりだったが、実際はそうでもないようだな」
軍医は容赦がない。だがそのざっくばらんとした物言いが、快く聞こえるカズマだった。軍医は話題を変えた。
「……で、何処に行くんだ?」
「いや……ちょっと」
「その紙袋の中身は、ウイスキーと見た」
「…………」
カズマは苦笑し、押し黙る。軍医の顔に、疑問の色が宿った。
「お前、酒はダメなんじゃなかったか?」
「還って来ない人に、飲ませてあげようと思いまして……」
軍医の顔から一瞬明るさが消え、次には誠実な微笑となった。
「そうか……ああ、そうするといい」
艦尾――そこからは艦載機の着艦の様子を下方向から見ることは勿論、ハンティントンを取り巻き、あるいはそれに追随する各艦の隊列を、目を見張らんばかりの眺望を以て見渡すことが出来た。
艦舷に佇み、カズマは頭上一杯に広がる蒼穹、そして眼下一杯に広がる雲海に目を凝らす。彼は決して、勝利の余韻を噛み締めているわけではなかった。噛み締めることが出来よう筈もなかった。
艦舷を撫でる一陣の風……それはカズマの頬には冷たく、そして柔らかい。
揺れる黒髪をカズマは払わず、その瞳はひたすらに地平の彼方へと向けられていた。
艦隊は勝った。
だがその犠牲は決して大きくはなかった。
この世界の空は貪欲だ。ここでは空は、かつてカズマが生きていた世界の空以上に多くの人間の命を飲み込んでいる。この世界の空の戦争は、空に生き、空に死ぬことを期して生きてきたカズマの想像を越えて烈しく、それはカズマを未だに戸惑わせている。もしこの世に神という者がいるのなら、人間の背に翼を与えなかった理由がわかるような気がする。何故かというに、翼が人をより自信過剰にし、より好戦的にさせるからだ……だから人間は、自らの手で翼を造り上げるしかなかったのだ。
否……むしろ自らが造り出した翼を誇りたいがゆえに、人は空に戦いを求めるのかもしれない。
空よ……カズマは思った。
空よ……あなたは自分に居場所を与える代わりに、自分の身近な人間の命を次々と奪い、飽くことを知らないかのようだ。
空よ……あなたの美しい蒼は、多くの人間の生気を吸い取ることで、一層その蒼を増していくかのようだ。
空よ……自分は何時、気紛れなあなたの蒼の一部となるのですか?
空に散り、空の蒼の一部となった数多の面影――その中に本来艦隊やカズマとは何の関わりもなかった人間の面影を、ブランデーの瓶を胸にカズマは思い返した。
「中佐……」
その身を挺し、カズマを母艦に逃がしてくれたディクスン中佐の死を、カズマは昨日の夜の内に知らされた。戦闘中敵機と空中衝突し地上に叩き付けられた中佐は、重体の身を病院に収容された直後まで意識を持っていたが、その後は昏睡状態のまま二日後の夕刻に看護婦の妻に看取られ息を引き取った。その死に顔が穏やかだったという追伸が、唯一の救い……?
否……そんなはずはない。
カズマは思い返す。
――発進、明日に延ばせないか?
そう言っておいて、結局はカズマを送り出したとき、中佐は熟練したパイロットらしく何かを感じていたはずだ。
自分の未来に関わる何かを……自分は、どうしてそれを察してやれなかったのか?
どうしてそれを察することができず、中佐を生き長らえさせる努力を怠ったのか?
「…………」
不意に沸き起こる後悔に、カズマは目を瞑った。
後悔の急きたてるまま、カズマはブランデーの封を開き、最初はゆっくりと、やがては勢いをつけて瓶の中の美酒を空へと流し出した。艦外を流れる気流は琥珀色の飛沫を捉え、何処ともなく運び去っていく。
「ディクスン中佐……飲んでください」
呟くのと、声を詰らせるのと同時。
「……こんな上等なお酒、みんなには勿体無いですよ」
カズマの頬を、一筋の輝きが伝う――
――「それ」は突風の如く雲海を貫き、なおも上昇を続けていた。
『――40秒経過』
「――現在高度5800、なお上昇中」
『――47秒』
「――高度2000突破。エンジン、機体ともに異常なし。いいぞ!……いい感じだ」
『――54……57秒……一分経過!』
「――こちらXF、水平飛行に移る……こいつはすごいな、現計測高度9700だ」
イヤホンの向こう側で、誰かのどよめく声を、操縦士は聞いたように思った。操縦桿を傾けて徐々に機首上げ角度を落とし、それは離陸した当初と同じ水平飛行に入る。引き続いて「それ」は、水平飛行から螺旋状に旋回しながら上昇に移り、その精悍なフォルムを少しずつ、だが確実な歩みにも似た安定感を以て蒼空の高みへと駆け上っていく。
『――10000……20000……30000……30000フィート突破! まだまだ上がる!……いいね、素晴らしいよ』
「それ」は、単発航空機ならば一種の性能の壁となる30000フィートをいとも容易く突破し、再び地上を驚かせる。さらには搭載された排気タービン過給機は高度による空気の薄さを微塵も感じさせることなく、加速感、操縦性ともに中高度に在るのと同じ良好な感触を操縦者に与え、「それ」の高性能に酔わせるのだった。
その中――地上から、「それ」の蒼穹を駆け上る様を黙って見上げていた初老の男が、インカムに声を上げた。
「――お遊びは終わりだ。さっさと戻って来い。午後からまた乗せてやるから……」
『――了解、了解。こちらXF、帰還する』
――数分後、雲間から飛び出すように降りて来た機影に、地上で待つ全員の視線が集中する。クマンバチの大群を思わせる勢いのある爆音を轟かせ、飛行場上空を睥睨するように駆け抜ける「それ」は、一目すれば現用の主力艦上戦闘機ジーファイターに似ていた。
――だが、その加速にはジーファイターよりも勢いがあった。
――そして、その胴体はジーファイターよりも長く絞り込まれ、主翼は長く分厚い。
――さらには、その機首外径もまたジーファイターより一回り太く、その内部にジーファイターよりも強力な心臓を閉じ込めている事が容易に判った。
着陸コースに入るべく飛行場上空を一旋回――巨体の割に旋回半径はジーファイターよりもずっと小さく、そして旋回の速度は速かった。地上で様子を見守る試験飛行士の中には、「それ」の機動する姿に、これまで何度か試乗したレムリア軍の鹵獲戦闘機の姿を重ね合わせた者もいたかもしれない。
「――フラップダウン……ギアダウン……着陸……!」
教科書通りの着陸――その三点着陸に、危うげな要素など一片として見出すことは出来なかった。「それ」は絞ったエンジンの余韻を引き摺りながら滑走路のアスファルトを踏みしめ、その着陸した主脚で駐機場まで滑り込む。
そこで、「それ」――試作機名称XF‐107――はエンジンの営みを停める。
エンジンの停止を合図に、地上からその飛行を見守っていた技師や整備員、そして試験飛行士たちが続々とXF‐107の周囲に集り、それは程なくして試作機と、操縦席から降りたばかりの操縦士との周りで厚みのある一群を為した。
「君、ガム持ってるか?」
「ああ……」
「貸してくれ。後で返すから」
「離陸前も貸しましたよ」
「そいつも返すよ」
駐機場の外まで歩く途上、同僚はポケットを弄り、やがて一枚のチューインガムを取り出す。貰ったチューインガムを口に含むと、試験飛行士はやはり傍らを歩く初老の男――主任技師に言った。
「XFは最高の戦闘機だ……惚れたよ」
「そう言ってくれると在り難い。で、君の見立てたところ、弄る必要がある箇所はあるかね?」
そう聞かれ、彼は形のいい顎を捻るようにした。
「そうだな……横の安定がもっと欲しいところだ。垂直尾翼の面積を増やした方がいいだろう。あとは……馬力も欲しいな。今のままでもいいだろうが、現場が欲しいのはレムリアンと互角に戦える戦闘機じゃない。連中を圧倒できる戦闘機だ」
技師は頷いた。
「エンジンの点は我々も考慮している。XF‐107のエンジンは1600馬力だが、量産型では2000馬力を積む予定だ。その点は問題ない」
「じゃあ、大体解決だな」
操縦士は微笑み、試作機を省みた。彼の背後で、上空であれほどの機動性を発揮したXFは、今ではただその獰猛な肢体をアスファルトの揺篭に横たえるばかりだ。だがこいつは飛んでいる姿だけではなく、地上に脚を下ろしている姿もまた美しく力強い。
試験飛行の報告を纏めるため、飛行場に隣接する事務所にオープントップの地上車を走らせている中、車を運転していた技師がパイロットに言った。
「艦隊が、レムリア軍のリューディーランド侵攻を食い止めたそうだ」
「そうか……吉報じゃないか」
胸に風を受け、ガムを噛みながら、操縦士は広大な試験用飛行場へと向き直った。彼の視線の先で、鹵獲され、ラジアネス軍の標識を塗られたレムリア軍のゼーベ‐ラナが一機、整備を受けている。その向かい側に、つい先刻まで彼が搭乗していたXF‐107の増加試作機の列線――それらだけでも、優に一個飛行隊を編成できる程の数に膨れ上がっている。さらには技師の報告を受け、最終的な改良を加えた先行量産機で試験飛行中隊を編成する計画もすでに持ち上がっていた。
「レムリアンは追い払ったが、こちらも空母一隻喪失さ、万事万々歳とはいかんようだ」
「フゥーン……」
遠方で起こっている戦闘のことなど、何の関心も示さないかのように操縦士は黙々とガムを噛み続けていた。彼の様子を横目で見遣り、技師は軽い失望にも似た眼差しで前方に向き直る。
「……ところで、その艦隊だが、空母ハンティントンから撃墜王が出たそうな」
「そりゃあ……戦えば撃墜すやつも出るだろう。撃墜されるやつはもっと多いだろうが」
「公認で二十機かな……そうだ、二十機は墜としたそうだ。突然の英雄の出現に、艦隊の上層部はおおわらわさ。さぞいい宣伝材料になるだろうな」
「じゃあ、XF‐107に乗せればもっと撃墜すだろうな」
「それはそうだろうが、そいつにあれが回ってくるのは、まだまだ先のことだろうさ……」
車は土煙を上げ、事務所に隣接する駐車場に差し掛かろうとしていた。
ハンティントンは速度を落とし、遠方から接近しつつある巨船を待ち受ける体勢をとっていた。
巨船――分類上は軍艦であるはずなのにフネと形容したくなるほど、その艦からは戦闘艦としての雰囲気を感じ取ることは出来なかった。油槽船そのままの巨体の、艦首から背負い式に配された二基の単装砲が辛うじて艦の類別を主張しているのみだ。
「マザー‐アンド‐カントリー」というのが、その艦の名であった。
「マザー‐アンド‐カントリー」は、ハンティントンと同じく有事の際の急造艦艇整備計画「バレンタイン‐プラン」により、既存の油槽船を改造し就役したラジアネス軍初の艦隊随伴型補給艦の内一隻である。その全長、全幅ともにさすがにハンティントンには引けを取るものの、「マザー‐アンド‐カントリー」は大きさだけならば巡洋艦を優に越える威容を誇っていた。
「艦隊随伴型補給艦」とは、「アレディカ戦役」において遠征艦隊が長期の作戦行動を余儀なくされ、燃料弾薬の欠乏に苦しんだ経験から構想され建造された新型の艦種であった。この新艦種は作戦行動の際、艦隊に随伴して戦闘空域に進出し、必要に応じて空域上で迅速な補給作業を行うことができるようになっている。戦闘空域上での補給拠点の形成は艦隊の作戦行動範囲及び一回の作戦行動期間の伸長を可能にし、従来を遠く離れた母港との連携により成り立ってきた補給面、移動面での負担を軽減することにも繋がるというわけであった。
それはこれからを広大な各地の空洋で戦うことを強いられることになったラジアネス艦隊にとって、再び攻勢に転ずるであろうレムリア軍に対する大きなアドヴァンテージとなり得るはずだった。そして「マザー‐アンド‐カントリー」はその就役と同時に、戦闘が終息したリューディーランド方面に派遣され、戦いを終えたハンティントンを新たな任務に就かせるべく、今や一隻のみとなったラジアネス軍正規空母の作戦行動を支援する役割を担うこととなるであろう。
ハンティントンに併走する補給艦「マザー‐アンド‐カントリー」、雲海を割り、息の合ったダンスのペアのように並ぶ両艦の間に速力と姿勢、そして間隔の均衡が生まれた瞬間を、接近前から甲板上で待機していた両艦の甲板員たちは見逃さなかった。
甲板からけたたましく鳴り響く警笛の連なり、乾いた音を立て、補給艦の軽砲からロープがハンティントン甲板に投げ上げられる。それを待っていたハンティントンの乗員がロープを拾い上げ、アタッチメントに固定する。作業の進捗を手旗信号で確認しあい、そのロープを基軸に延びた給油用ドローグがその尖端からハンティントンの給油口に突っ込み、衝突にも似た振動を立てて止まった。艦の燃料と航空燃料の両方を同時に給油する能力を「マザー‐アンド‐カントリー」は持っていた。また、弾薬や補給物資の積み込みも、艦上に搭載されたクレーンを通じ給油作業と並行して行われる。
そしてこのとき、補給艦はその本来の任務たる補給作業と並行しもう一つ重要な任務を課せられていた。「クロイツェル‐ガダラ」の生き残りの乗員と、その他の負傷者を自艦に移乗させ、いち早く後方の艦隊泊地 レンヴィルへと向かわせるという任務である。補給艦はその任務上、実戦艦よりも医療設備及び休養設備が充実しているから、その任務に関しても適任と思われた。
生残ったハンティントンとリューディーランドの空に散ったクロイツェル-ガダラ――明暗を分かつ形となった両艦の艦長は、ハンティントン艦橋で敬礼を交わした。それは別れの敬礼だった。
「艦隊大佐、ネイサン‐グロス、これより離艦致します」
「ご苦労様でした大佐。我々も追ってレンヴィルへ向かいます。またお会いしましょう」
生き残りの乗員を引き連れ、補給艦へと向かうグロス大佐の一行を、ラム中佐は複雑さを篭めた眼差しで見詰めるしかなかった。乗るべき艦、戦うべき艦を失った一行……一歩間違えれば、現在の大佐の位置に彼自身が納まっていたのかもしれなかった。戦闘に絶対というものは存在しない。これより先、ハンティントンが今後の戦闘を生き残り戦い抜ける確証もまた存在しないのだ。
ハンティントン艦上――
補給用に続き両艦の間に渡された人員輸送用のハイラインに固定されたエドウィン‐“スピン”‐コルテ少尉が、見送りのバートランドに哀愁にも似た眼差しを浮べた。意識こそはっきりとしていたものの、脚と頭を覆う包帯は未だに分厚く痛々しい。
「隊長……無念ですよ。後方で療養なんて……」
「罰当たりなこと言うんじゃない」
バートランドは叱り付けるように言った。
「……いいかロム、病院じゃあ暖かい毛布、糊の利いたシーツ、甘いアイスクリームにふわふわのオムレツ、それにいいケツした看護婦がお前を待っているんだぞ。できるもんなら俺が替わりたいくらいだぜ」
コルテは笑った。苦々しさと清清しさの混じった、青年らしいはにかんだ笑みだった。バートランドとキニーが交互に若者の頭をクシャクシャに撫で、オービルマンが補給艦の甲板に向け合図を送る。移送準備完了の合図だった。彼等三人に見送られ、コルテを載せたカートが勢い良く滑り出し、それは瞬く間に併走する補給艦に到達し収容される。負傷者の中でも特に重傷者や、高級指揮官は、カートを使い迅速に移送されることとなっていた。見方を変えれば、補給作業と並行しこの種の収容が可能になったのも、リューディーランドの空域一帯から敵艦隊が消え去り、付近の航路に安寧が戻ったからに他ならない。そういう意味でも、機動部隊はリューディーランドを守りきることに成功したのだ。
――同じく、ハイラインにより移送されるグロス艦長の姿を見届けながら、ヴァルシクール中将は言った。
「……彼らの仕事は終った。あとは我々が仕事を為す番だ」
「……無事に艦を持って還ることができればいいのですが」
と、ラム中佐は力なく言った。
「君の腕なら大丈夫、本官が保証するよ……まあ、本官の保証は宛てにはならんが」
「では、宛てにしないことにしましょう」
二人が同時に笑顔を浮べたそのとき、甲板からの報告が給油作業の終了を告げた――
レムリア艦隊前線基地タナト――
『――国防部発表 レムリア軍南大空洋方面機動部隊は、リューディーランド浮遊島近傍空域において地上人の航空艦隊を捕捉、これを完膚なきまでに撃滅せり―……―我が方の戦果、空母「ハンティントン」撃沈、空母「クロイツェル‐ガダラ」撃沈、戦艦「アミダール」大破、敵機二百十機を撃墜破―……―我が方の損害、極めて軽微――』
偉大なる母国のラジオ放送は、遠きに在ってそれに接する身であっては、まるで陽炎の様に儚く聞こえた。
セルベラ‐ティルト‐ブルガスカが基地を空けている間の実質的な留守居役たる基地司令は、その執務室に接見した三人の人影を前に、内心で圧倒されていた。三人の着任が夜だったこともある上に、作戦開始に伴い灯火管制の敷かれた基地内。薄暗い部屋では陰になって三人の表情の詳細は判別できなかったが、常人離れした体躯と風格が無言の内に決して頑健とはいえぬ基地司令の精神を萎縮させ、形ばかりの歓迎の言葉を揮わせる――
「……で、誰を殺るんですかい?」
司令の早口を遮ったのは、三人の内中央に位置する男の、嘲弄するような口調だった。そして彼の非礼な態度に気付く様子もなく、気圧された司令は話題を変える。
「我々の戦線で少し面倒事が持ち上がってな。ブルガスカ司令が貴公らの手を借りたいと言っておられる」
男達は、一斉に低い声で笑った。男臭い、だが下賎な笑みだった。笑みがそれの似合わぬ三人の鬼気迫る様子を、いっそうに引き立たせる。心から笑うには彼らはあまりに多くを破壊し、多くの人間を殺し過ぎている。
中央の男が言った。
「セルベラ隊長直々の御指名とあっては、無下にするわけにもいきませんな……」
「……それに、ここの戦線にはタイン‐ドレッドソンもいるぜ?」と、右端の背の高い大男の影。
「ほう……あいつの面を見るのは久しぶりだぜ。さぞかし俺たちを楽しませてくれるだろうよ?」
と、左端の細身、かつ長髪の男。
頬を紅潮させ、司令は口を開いた。今更ながら、彼らの傍若無人な物言いに憤慨したかのようであった。
「とにかく、詳細は追って知らせる。セルベラ司令の帰還を待て。言っておくが――」
語を次ぎ、三人の人影に眼を細めて司令は言葉を搾り出す――
「――くれぐれも、ここで面倒は起こすなよ。黒狼三人衆」
乗機を失ったカズマに、再び搭乗の機会が巡ってきたのは、給油作業が終わり、さらにそれから二時間が経ったときのことだった。
「操縦が出来ないのは退屈だろうと思ってな……」
と、カズマを飛行隊の隊長室に呼んだバートランドは言い、意味ありげな笑みを浮べる。
「……一戦、やってみるか?」
「隊長と……?」
バートランドは頷いた。
「ロートルと腕の鈍った若造だ。丁度いい組合せだろ?」
意外な展開だった。隊長直々に稽古を付けてくれるとは……そして事実、艦内に足を付けていることにも倦み始めた頃。
ロッカールームで救命衣を纏い、縛帯を結わえながらバートランドは聞く。
「お前、俺らが食堂で騒いでるときにスウィートハート大尉殿の部屋で一晩過ごしたって、本当か?」
「さあ……」
「どうだった?」
「どうだったって……何がです?」
「戦果さ……戦果」
「目覚めたときには、もう部屋に戻ってたんで、何してたのか判らないですよ」
バートランドは笑った。
「下戸ってのは、便利なもんだ。そういう言い訳ができるからな」
「いや……本当ですってば」
唐突に込上げるはにかみ――それを隠し終わるまでには、装具を纏めたカズマはすでに飛行甲板に足を踏み入れている。そして彼の横で歩を進めるバートランドの胸には、歩くにつれ何時の間にか感銘にも似た感情が宿っていた。
こいつ……何時の間にか様になっている。
それは、撃墜王の風格。
それは、歴戦の勇士の風格。
それは、言い尽くしようの無い頼もしさ――
こいつと一緒に飛べば、どんな時でも生残れるような気がする――そう思えるだけの風格。
「やあ坊や、隊長と訓練かい?」
と、カズマに声をかけてきたのは、今しがた哨戒飛行を終え帰還してきたばかりのキニー大尉だった。救命衣を解く手、爽やかな笑顔もそのままに、大尉は続ける。
「気を付けろよ、隊長は反則ばっかりやることで有名なんだ。だからみんな敬遠してる」
「こらジャック、ボーズに余計なこと吹き込むんじゃない」
「自分はアドバイスをしただけですよ」
ベテラン組同士の滑稽な遣り取りを、カズマは面歯がゆい表情もそのままに見守るばかりだ。
さらに歩く中、これから上空警戒飛行に臨むバクルの姿を認め、カズマは歩を緩めた。集ってきた戦闘機搭乗員たちを前に、模型の飛行機を使い身振りを交えレムリア軍の戦法を解説する彼の姿――バクルが既に、艦隊戦闘機隊の一員として迎えられ、皆の信頼を集めていることをカズマは悟った。そのバクルの顔が上がり、彼の目が不意にカズマの目と合った。
沸き起こる微笑と微笑の交差――二人には、もはやそれだけで十分だった。
「…………!」
自らに宛がわれたジーファイターを見上げ、カズマは瞠目する。操縦席に描かれた二十個のレムリア軍機撃墜マーク。そして主翼の根元に佇みカズマを待っていたマリノの頬には、塗料の痕。一目で全てを悟り、カズマは苦笑した。
「塗ってくれなくともいいのに……どうせ借り物なんだし」
「でも、墜としたのは事実でしょ?」
と、マリノは言った。薄笑いを浮べながら。
「アンタ只でさえ冴えないんだから、どうせなら飛行機だけでも格好付けとかなきゃと思ってね……感謝しなさいよ」
「誰に?」
「あたしに決まってんでしょうがっ!」
軽口の応酬を経て操縦席に腰を沈めるのも、何時もの風景だ。
発艦――飛行甲板を蹴るや否や、ブレーキを踏んで車輪の回転を殺し、その後で主脚とフラップを畳み込む。
開放したままの風防を閉めるのは一番後――数日振りで飛び出した空は、柔らかな風を以てカズマを迎えてくれた。
それを感じていたくて、カズマは暫く風防を閉じずに上昇する。
今更のように思うがジーファイターの視界はいい。頭を廻らせる度に、空は千変万化な風景をカズマの前に見せてくれる。城郭のように立ち上る雲。歩いていけそうなくらいの平坦さを以て広がる雲。人間の営みとともにそれらを睥睨する蒼穹――
そして、カズマの掌中に抱かれるもうひとつの蒼穹――腕環は透き通るような青空の下で、一層輝きを増しているように思われた。
二機は併走し、列機の機を引くバンクに応じ覗き込んだ操縦席ではバートランドが空の一点を指差している。飛ぶ方向を指し示しているのだ。伝えるべきことを伝え、ゆっくりと先行するバートランド機に続いて旋回に入ったとき、カズマはあることに気付き思わず微笑んだ。
そうだ……この感触だ。
ヒュイックで一時失っていた感触の正体にカズマが気付き、そして今再び味わったとき、カズマは一人の面影を思い浮かべた。
そうか――整備が違うんだ。
マリノに感謝しなくちゃ――機首は遠方へと向かう。
やがては層雲の連なりが二人を孤高なまでに取り巻くのみ――
遥か前方に出たバートランド機が、バンクを振った。格闘戦訓練開始の合図!
溢れる闘志。
明日への希望。
空に在るという開放感。
それらを一遍にぶつけるかのようにカズマはスロットルを叩き、銀翼を翻して向かっていく――




